日本の素晴らしさを伝える 2

日本の素晴らしさを伝える1「上皇上皇后両陛下と硫黄島の英霊たち」からの続きをご紹介します。

上皇陛下・上皇后陛下行幸啓  硫黄島

 

■6.硫黄島での慰霊の御製・お歌

 平成の時代には様々な災害に見舞われましたが、上皇上皇后両陛下は、そのたびに被災地を訪問され、被災者たちを慰問され、救援者たちを励まされてきました。まさに共同体の絆を強めることで、大御宝である被災者たちの安寧を祈られてきたのです。

 それと同時に、両陛下が戦災地を廻られる慰霊の旅を続けてこられたことは、縦軸の共同体の絆を強めることであり、縦軸と横軸の一対をなす祈りでした。

 平成6(1994)年2月、両陛下は硫黄島に行幸されました。徒歩半日ほどで一回りできる小島を、大戦末期に2万余の日本軍将兵は36日間も持ちこたえました。米軍は死傷者2万6千近い大損害を受け、米国内では実質的な敗戦ではないか、との一大論争が巻き起こりました。こんな小さな島を奪うのに2万6千余もの犠牲を出していては、日本の本土決戦となったら、どうなるのか、と。

 この戦いの直後に、強硬に日本の無条件降伏を主張していたルーズベルト大統領が急死し、ポツダム宣言が提示されて、ようやく日本の有条件降伏への道が開かれたのです。[JOG(191)]

 硫黄島の地で、両陛下は次の慰霊の御製を詠まれました。

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇陛下)

 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ(皇后陛下)

 硫黄島にはいまだ1万3千柱の遺骨が地下に眠っています。英霊たちは一日わずか500ミリリットルの水しか与えられずに、40度、50度となる火山島の地下で壕を掘り続けたのです。

 

・・・硫黄島(いおうとう)の戦いBattle of Iwo Jima)昭和二十年(1945)2月19日〜3月26日は、大東亜戦争末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日米間で行われた激戦です。当時の天皇陛下の慰霊の御製は、日本陸軍13,586名、海軍7,347名の必死の戦いに臨んだ将兵へ向けられたものです。

 

■7.お声をとり戻された皇后陛下、天に昇る無数の火柱

 実は、このご訪問の前年10月20日、皇后陛下は突然倒れられ、以来、お声を失われていました。医師の所見としては「何らかの強い悲しみを受けたことで一時的に言葉を発せられない症状が出たのではないか」ということでした。当時、週刊誌などが「皇后陛下バッシング」を盛んに行っていた事が原因であったのは、誰の目にも明らかでした。

 ですから、その4ヶ月後に硫黄島に着かれた時も、皇后陛下は言葉を失われたままだったのです。ところが、硫黄島での参拝を終えられると、突然、東京都遺族連合会の石井金守会長に「ご遺族の方たちは、みなさん元気でお過ごしですか」と声をかけられたのです。

 硫黄島の遺骨収集に参加し、両陛下ご訪問時の様子を自衛官から聞いた窪山忠成氏が次のような手記を残されています。
__________
 平成六年、天皇陛下が皇后陛下とともに硫黄島に慰霊におこしになられた。その際、両陛下は島内の「鎮魂の丘」にお立ち寄りになられ、硫黄島の戦いで亡くなられた方々に祈りを捧げられた。

 それまで硫黄島では、頻繁に『霊障』のようなものが起きていて、『おーい」と言う声が聞こえたり、ドアを叩く音が聞こえたり、廊下を歩く音が聞こえたりと、それがあまりにも多いので、隊員達は困っていたという。ところが、陛下が硫黄島を御訪問され、皇后陛下とともに祈りを捧げられたその夜、無数の多くの『火柱のようなもの』が天に登っていくのが見えたそうである。[祖國と青年]
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 この記事を書かれた鈴木由充氏に「霊」の話をしてくれた硫黄島駐在の自衛官は、最後にポツリとこう語ったそうです。
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 でもね、平成6年に天皇皇后両陛下が硫黄島に来られたことがあったでしょう。そのときに霊がピタッと出なくなったって言うんですよね・・・[祖國と青年]
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■8.「姿なきあまたの御霊(みたま)国護るらむ」

 鈴木氏は以上の一連の出来事について、こう記しています。
__________
 無数の火柱が天に登っていく--それは、祖国のために精根込めて戦い、人知れず散っていったその労苦を両陛下にお認めいただいたことによって昇天した「御霊」の姿であったに違いない。そして、硫黄島の地から解き放たれた彼らは、これからは護国の英霊として「海陸のいづへを知らず」この国を護って下さることだろう。

 そう思うと、皇后陛下がお声を失われたのも、焼けつくような喉の渇きに耐え続け、ただひとすくいの水を願った将兵の苦しみを受け止めるために、神々が与えられた試錬だったのではなかったかとさえ思われてくる。その後、硫黄島で御霊との邂逅(かいこう)を果たされた皇后陛下はお声を取り戻され、御霊は昇天した。[祖國と青年]
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「海陸のいづへを知らず」とは、平成9(1997)年に発表された「終戦記念日」と題された皇后陛下の次のお歌です。

海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御霊(みたま)国護るらむ

 姿なき無数の御霊が、海陸を問わず、我が国を護ってくれているだろう、という御思いです。そのように先祖の霊が見守ってくれているなら、その気持ちを受け継いで、我々も子孫のために、しっかりと国を護らなければなりません。

 社会の中で互いに励まし支えあう横の絆と、先祖の護りに感謝しつつ子孫のために尽くす縦の絆とで、大和心は織りなされています。一人でも多くの日本国民がこの大和心に目覚めることで、国民が互いに「処を得て」大御宝として大切にしあう「仕合わせ」の国に近づきます。それが神武天皇が目指された「真の日本」なのです。

 

・・・魂や霊の存在を感じざるを得ない感動的な逸話です。

縄文時代(さらにそれ以前)から連綿と続く日本。幾多もの自然災害や危難を乗り越えてきた日本人の祖先達の生き抜く力があったからこそ、現在の日本人にその力を繋いできていると考えれば、これからの日本の未来を引き継いでいく子供達も希望や活力が湧いてくることでしょう。

 

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