長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室は、理解ある親御さんと一所懸命取り組む子どもさんたちによって成り立っています。
その根本には、
日本人の長い歴史の中で、親から子へ、子から孫へと家系の中で連綿として受け継がれるものがあります。
家訓は代々その家に伝わる教えや戒めです。
母親が子に幼いときから教え諭す。
この繰り返しがあって私たちの人格が形成されます。
母の教えと教訓歌 3 西行法師
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母から「氏より育ち」という言葉もよく聞かされたものの一つです。
これは「人間や人格を形成するときに大事なのは、家柄よりも育つ環境や教育である」という意です。
英語でも同じような意味合いの表現があります。
It is breeding and not birth that makes a man.
=人を形成するのは育ちであって生まれ(氏)ではない。
さらに、時代を超えて詠まれ、今も心を打つのが西行法師の歌です。
「姿こそ 深山育ちの 木なりとも 心を花に なさばなりなん」
「姿かたちは深山(みやま)、山奥で育った(素朴、武骨な)木であったとしても、心は美しい花のようになろうと思えばなることができる。」
人が生きていく上で大事なものは心であり、氏や育ちや外見ではない、と西行法師は歌に詠んだわけですね。
西行法師は現代人から見ると波乱万丈の人、文武両道の人。
西行法師とは
西行法師とは
祖先を辿れば藤原鎌足という、言わば名家で裕福な武家の出自。
俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、出家後、僧侶。
歌人でもある。
後鳥羽上皇の北面武士(ほくめんのぶし:現在の京都御所北側を警護する任務)であり、その同僚に平清盛がいるという。
歴史好きには、湧く湧くするような歴史上の縁。
吉川英治著「平家物語」に平清盛と佐藤 義清の出会いと別れが活写されています(飽くまでも歴史小説ではありますが)。
(・・・因みに、吉川英治著「平家物語」を小学校から音読することをお勧めします!)
宮中周辺では、頻繁に歌会が開かれ佐藤 義清の歌は高く評価されています。
『後鳥羽院御口伝』に
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」
とあるほど、後鳥羽上皇も評価していたといいます。
しかし、
世の無常を感じたとの理由で、妻子と別れ二十三歳で出家。諸国放浪の旅に出る。
地位や名声を捨て、山里の庵に独居し、放浪先で己と向き合う。
悟りを開かんと、求道の旅に生きる。
それを全うせんと、執着を断ち切るかのような逸話があります。
出家の際に、佐藤 義清の衣の裾に取りついて泣く我が子(四歳)を縁側から蹴落として家を捨てた、と。
この出家に際して以下の句を詠んだといわれます。
「惜しむとて 惜しまれぬべき 此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
歌人としての本領は、
『新古今和歌集』に数多く掲載され、自身の和歌集『山家集』にも発揮されます。
西行の辞世の句は、櫻を愛し月も愛でた後世にも評価の高い、
「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」
(山家集)
「ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 」
(続古今和歌集)
です。
「願わくば釈迦の命日である二月十五日(陰暦)頃、春の満開の櫻の下で逝きたいものだ」との意。
この歌は生前に詠み、まさにその歌の通り陰暦二月十六日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれています。
・・・日本人の心情を揺さぶるような感性を歌に託す。
これほど素晴らしい日本の伝統や文化を後世を担う子供達に伝えていかなければなりませんね。
「姿こそ 深山育ちの 木なりとも 心を花に なさばなりなん」