‘ 羅針塾 ’ の投稿記事一覧

間違いを見つけ成長する。

幼児教室・学習塾 羅針塾
幼児さんが取り組む問題を
見ていました。
ん?何かがおかしい。
けれど、先生からは指摘はしません。
気付くのを待ちます。
どこで気付くかな。

これをしてもダメ。
あれをしてもダメ。
諦めずに取り組み一言。

「先生、おかしいです。
思ったようにならないです。」と
良い言葉が出てきました。

間違いに気付く。
とても大事な事です。
色々取り組んでいるときに
様々な考えをします。
この時に賢くなっています。

沢山間違えていいよ。
けれど諦めずに頑張ろうね。と
声かけをします。

様々な取り組みも
幼児さんにとっては楽しみの一部
面白がって取り組んでいきます。

「ハキハキ!元気!賢い子」

小学生が熟語の意味を調べていました。
熟語の読みがおかしい。
指摘し、正しい読みでの熟語・意味
誤った読みでの熟語・意味
なるほどね〜と感心する塾生さん。
間違いではあるけれど結局は二つの
熟語を学んだことになります。

間違いをプラスに捉えそして
成長していく。
賢い子になるために。
羅針塾では前向きに
学べるように一人一人に
向き合っています。

posted by at 14:05  | 学習塾・幼児教育

勉強が優先か、習い事が優先か

幼児教室・学習塾 羅針塾の
塾生さん達も様々な習い事に取り組んでいます。
水泳やピアノ、英会話など
実に様々な習い事で
え〜こんな習い事もあるの?
え〜すごいね〜。と感心します。

先生達はお母様達に
「体に負担のないように。
オーバーワークにならないように。
ごろごろの時間は大事ですよ。」と
伝えています。

ほぼ、一週間習い事で
休日も出掛けたりすると
肝心の勉強は取り組めません。
授業中ボーッとなってしまいます。

本来、
何を一所懸命しないといけないのか。

無闇に色々と取り組ませると
何も身に付かない。と
なってしまいます。

「ハキハキ!元気!賢い子」

習い事も取り組むなら
身につけて楽しんでほしい。
一生の友になればと考えます。
沢山の中からではなく
何か良いものを選んで欲しいと
考えます。

お問い合わせの方は殆ど
「他の習い事があるので
一週間の内、この日しかありません。」
とご要望があります。
ご要望通りにお受けしますが
お母様達にはオーバーワークだと
賢くなりませんよ。と
お伝えします。

今、何が大事なのかを
考えてほしい。
賢くする為には
ゆっくりと休養し心身ともに
体を休め
ゴロゴロとする時間が
必要です。脳も活性化します。

賢い子にする為に
勉強が優先か。
習い事が優先か。
どちらも
質の高い学びにしてもらえたらと
考えます。

子供の日の差し入れ「柏餅」
やったー!ありがとうございます。
感謝申し上げます。

 

 

posted by at 18:31  | 学習塾・幼児教育

学ぶことを苦にしないために

学習塾・幼児教室 羅針塾
勉強は嫌いだ!どの子も言います。
しかし、やらないと自分がやりたいことが
将来できなくなる。
これを理解している子は
先に集中して取り組もう!
その後は好きなことをやろうと
考えています。

「日々のルーティーンって大事ですね。
羅針塾で幼児期から学んだ成果が
小学生になってよく出ています。
家に帰ると直ぐに、机に向かって
取り組みます。感謝ですね。」
と、お母様の言葉。

メリハリは必要だと思います。
勉強はダラダラする事ではありません。
やるべきことを先に取り組む。
これが大事です。

「ハキハキ!元気!賢い子」

やるべき事を先に取り組んだら
好きなだけ、好きな事をやりなさい。
といつも声かけをします。
だからこそ、家で取り組むときも
しっかりと集中してできるようです。

やった!できた!終わった!が
実感できるようになると
逃げ回り、嫌いだ!嫌いだ!が
なくなり賢い子へと成長していきます。


今日は子供の日。
羅針塾も子供の日の飾り付けです。

posted by at 11:29  | 学習塾・幼児教育

教科書に乗らない歴史上の事実 6 百姓一揆2

長崎市の幼児教室・学習塾の羅針塾では、自発的に学ぶ力をつけることを主眼としています。親から「勉強しなさい」と言われてするのではなく、自ら進んで学ぶ姿勢を身につける。

その為には、人の話を素直に聞く。良いと思うことは直ぐ実行する。

学ぶことは、自律的に訓練する事でも有りますから、幼い時からの繰り返しが何より大事となります。

さて、国柄探訪: 「百姓一揆は「革命を目指した階級闘争」ではなかった」(国際派日本人養成講座)http://blog.jog-net.jp/202105/article_1.htmlからの続きです。

■5.一揆は百姓たちの交渉カード

「農民は天下の御百姓」とは単なるスローガンではなく、実際の幕府の統治の根幹にあった考え方のようです。その発端として徳川家康は慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられると、最初の法令として「郷村法令」を出しました。

 藩の行政に不正があったら、幕府の代官や奉行所ヘ届けた上で直目安(家康への直接の訴状)を出してよい。しかし、幕府代官の不正については、そうした届け出無しに直接、直目安を出して良いとして、農民に藩や幕府代官の不正を訴える権利を認めたものです。

 実際に、幕府は「百姓成立」の義務を全うしない藩主に対しては、厳しく処分していました。たとえば、会津藩四十万石を治めていた加藤明成が、年貢率の引き上げ、無地高(土地がないのに石高だけある)の押しつけなどで百姓を苦しめていたところに、寛永19(1642)年の凶作が襲いました。

 二千人の百姓たちが一斉に「田畑を捨て、妻子を連れ、隣国に奔ること大水流のごとく」逃散を始めました。その状況が隣国から幕府に注進され、加藤氏は翌年に改易(領地没収)されました。

 幕府がこのように厳しい態度をとっていたので、藩主にとってみれば、領内の百姓に一揆を起こされたら、それは「百姓成立」の責務を全うしていない証拠と疑われる恐れがありました。そこで、冒頭の佐渡の例にも見られるように、極力、穏便に済ませようとしたのです。

 こうして見ると、江戸時代の領主は好きなように百姓を搾取できる権力者などではありませんでした。百姓たちは「百姓成立は領主の責任」という幕府の統治原則を盾にして、一揆で領主を不正や暴政を牽制・抗議する対抗カードを持っていたのです。

・・・因みに

寛永14(1637)年の「島原の乱」は、江戸幕府の存立を脅かしたものですが、これも「百姓一揆説」と「キリシタン一揆説」があります。

「百姓一揆説」:島原領主・松倉重政の子勝家の代になると、圧政が強化され、米、麦以外にナスビ、キュウリの実の数までしらべ年貢を課す。屋根税、囲炉裏税、畳税、子が生まれると頭税、葬式を出すと穴税、壁に吊った棚に税など。 数年前から続いていた異常気象と飢饉の影響で、乱勃発の引き金は代官・林兵左衛門 が百姓に殺されたことに始まります。

しかし、幕府は島原の乱を「キリシタン一揆」と断定します。

■6.仁政エネルギーはどこから来たのか?

「百姓成立」を見事に果たして「美政」であると、幕府から三度も表彰されたのが、米沢藩でした。藩主の上杉家は藩内の経済開発に努め、天明の大飢饉で平年の二割ほどに米作が落ち込んでも、備蓄米を活用して死者を一人も出さず、他藩からの難民も救いました。[JOG(130)]

 その「美政」の基礎を築いた第9代藩主・上杉鷹山(ようざん)は家訓として「伝国の辞」を残し、その一節に「国家人民の為に立(たて)たる君にて」と記しています。君主は国家人民のために尽くすのが責務であるという、まさに仁政イデオロギーを語った言葉です。

 この言葉から思い起こされるのは、神武天皇の建国宣言とも言うべき、「恭(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おおみたから)を鎭(しず)むべし」(謹んで皇位につき、大切な人民を安んじよう)」という言葉です。人民を「大御宝(おおみたから)」とし、その人民が安寧に暮らせるようにするために皇位に就くと言われているのです。

 上杉鷹山が語っている家訓は、神武天皇の建国宣言と同じ思想だと言ってもよいでしょう。しかし、両者は二千年ほども離れています。両者の精神はどこかで繋がっているのでしょうか。

・・・何にしても、江戸時代に発生した百姓一揆は1430件あるということですから、そのそれぞれに多くの人々の営みを善政で導くことが出来ていれば、起こり得なかった事ではあります。

いつの時代も国の平和と繁栄を保つには、多大な工夫と努力が必要です。その意味でも、我が国や世界の歴史を学び続ける必要があります。

posted by at 08:40  | 塾長ブログ

教科書に乗らない歴史上の事実 6 百姓一揆1

幼児教室・学習塾の長崎市五島町にある羅針塾では、人として学ぶ必要のあることは年齢・学年を問わず話したり、教えたりしていきます。そして賢明な子供さんほど、自分以外の塾生と先生との会話も聞いていて、自主的な家庭学習に実践しています。

さて、久しぶりの歴史関連のお話です。

国柄探訪: 「百姓一揆は「革命を目指した階級闘争」ではなかった」(国際派日本人養成講座)http://blog.jog-net.jp/202105/article_1.htmlからのご紹介と引用です。

■1.「戦後の日本史研究者の願望」

 近年の歴史学は、江戸時代の文書の実証的な研究などで、我々が学校で教わった百姓一揆とはずいぶん違った姿を描いています。

 東京書籍版の中学歴史教科書では江戸時代の一揆について次のように記述していました。

__________
 18世紀になると、農村では多くの村が団結して、領主に年貢の軽減や不正を働く代官の交代などを要求する百姓一揆を起こし、大名の城下に押し寄せることもありました。[東書]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この記述からは、領主は農民に過重な年貢を課し、代官は不正を働いて農民をさらに搾取していた。その搾取と戦ったのが、農民の百姓一揆であった、という歴史観が、中学生の頭の中に刷り込まれます。現象としては事実を記述しているのですが、捉え方が一面的です。最近の歴史書を読むと、次のような指摘が目を引きます。

__________
 前近代の一揆が『階級闘争』であるという主張は、事実に基づくものではなく、戦後の日本史研究者の願望によるものである。つまり、そう信じたかった、というだけの話なのである。[呉座勇一・国際日本文化研究センター助教『一揆の原理』2012]

 かつては、百姓一揆を研究すれば、いつかは、歴史のなかで革命を希求してきた変革主体としての『人民』に出会えるはずだという思いが、人々を研究にかき立てた。しかし、それは幻想に過ぎないことが明らかになった。[若尾政希・一橋大学大学院教授『百姓一揆』2018]

 江戸時代を世界に例をみないきびしい近世封建社会として独立させることに研究のエネルギーをそそいでしまった。そのため、生産社会の変化の実態をほとんど視野に入れることができなかった。[田中圭一・筑波大学教授『百姓の江戸時代』2000]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 百姓一揆が「革命のための階級闘争」であったという歴史観は、「戦後の日本史研究者の願望」にすぎなかった、というなんとも強烈な指摘です。そして東書の記述は、まだその「願望」が教科書の中には生き残っているようです。本稿では、最近の実証的な歴史研究が百姓一揆をどのように描き出しているのかを見ておきましょう。

・・・筆者も小・中・高校と「日本史」を学ぶ際に、必ず教科書の江戸の百姓一揆の項目を読む度に腑に落ちないものが有りました。その時の疑念を晴らす説明が記されています。

■2.代官所を廃止させ、奉行をクビにした一揆

 田中圭一教授の『百姓の江戸時代』では、佐渡における一揆の具体例を、当時の文章を引用しながら紹介しています。その一つとして、1760年代に起きた「明和の一揆」を見ておきましょう。明和3(1766)年7月、佐渡は大洪水に見舞われました。その年、低地にある3つの村から奉行所に嘆願書が出されました。

 年貢米を代官所に収めたところ、米俵の縄・俵が粗末で受け取れないと拒否された。縄・瓦を取り替えて治めたところ、今度は米の質が悪いということで戻された。そこで悪米を一粒一粒選んで取りさり、納め直したところ、

__________
御蔵奉行の谷田又四郎様は俵を開いて米を御蔵の土庭に引き開けてしまわれた。それはいかにも無慈悲な仕打ちである。この上は江戸表に出向いて幕府に直訴をさせてもらいたい。[田中、p180]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 佐渡は幕府の直轄領でしたが、通常の奉行所の他に、代官所が設けられていました。幕閣の一部に、奉行所が百姓と妥協しがちなので、年貢の賦課・徴収をもっと厳しくすべしという意見があり、幕府の勘定奉行所の直轄機関として設置されたのです。現代で言えば通常行政を行う県庁の他に、国直轄の徴税機関が設けられたようなものです。

 代官所の長の谷田は、「幕府を甘く見るな」と見せしめのために、非情な行為を行なったのでした。百姓たちは、自分たちが汗水垂らして作った米を土庭にばらまくという谷田の「無慈悲な仕打ち」に怒り、江戸に直訴したいと奉行所に訴えたのです。もちろん直訴は許されませんでした。

 百姓たちの怒りは治まりません。その年の10月の終わりに村々に回状が回りました。来たる11月4日六ツ時(午前6時)から、佐渡国中の男子15歳以上50歳までのものは代官所に向かい、谷田の屋敷と代官所の建物を打ち壊そう、というのです。武具(刀、槍、脇差し)の所持は固く禁じ、うちこわしの対象は谷田の屋敷と代官所の建物に絞っていました。

 5日には150人ほどの農民が代官所近くの寺の境内に集まり始めました。奉行所の役人がやって来て、彼らに説得を続けます。6日には農民たちはポツポツと帰っていきました。何が話し合われたかは文書には残っていませんが、その後の幕府の処置を見れば、農民たちの要求が大方聞き入れられたことが窺われます。

 奉行所は明和4年の年貢については、翌5年3月まで延納を認めました。明和7年、奉行谷田又四郎は江戸に召し替えされ、代官所も廃止されました。同じ年、一揆の責任者として、訴状を作成した寺の住職一人のみが斬罪に処せられました。百姓は罪を問われなかったのは、奉行所も事を荒立てたくなかったからです。

 

所謂(いわゆる)「士・農・工・商」の厳しい身分差別があった・・・というところから、教科書が記載されているので、江戸期の人々は武士以外は抑圧されていた、というステレオタイプ(stereotype:ものの見方・態度や文章などが型にはまって固定的であること)の記述がされています。

多くの歴史嫌いの子供や大人達が、「日本史」に興味を持てないのは、我が国の正しい歴史や人々の息遣いを感じることが出来ないからでも有ります。現在の自分達に繋がるご先祖様の生き様が描かれて初めて、興味や学ぶ意欲が出てくるものです。

■3.「百姓成立」は領主の責任

 この一つの逸話から、百姓たちがどのような思いで一揆を起こそうとしたのかが窺えます。それは決して「幕府の圧政を革命で覆そう」ということではありませんでした。百姓たちが怒ったのは、谷田の「無慈悲な仕打ち」であり、それが正され、奉行所の思いやりのある政治すなわち「仁政」が復活すれば、それで納得して引き下がったのです。

 当時の幕府も藩も百姓も、あるべき政治については一つの合意したかたちがありました。領主は百姓の生活が成り立つ(当時の言葉で「百姓成立」)よう保障する責務があり、百姓はそれに応えて年貢を「皆済」(すべて納めること)する義務があるという、双務的なかたちでした。これを現代の歴史学者は「仁政イデオロギー」と呼んでいます。

 現代の政府が国民の生活を守り、国民は税金を納めるというかたちと本質的には同じです。「百姓成立」とは現代の基本的人権に通じる考えなのです。

 そして幕府や藩が、腐敗や失政によって「百姓成立」の責務を果たさない場合には、百姓は一揆によって抗議し、その原因が取り除かれれば満足して一揆を止める。そういう体制内の抗議だからこそ百姓一揆は武器を持って人命を損なうことを固く禁じ、打ちこわしの対象を明確にしていたのです。

 江戸時代に発生した百姓一揆は1430件[若尾、960]。そのうち一揆が竹槍で役人を殺害した事例はわずか一件にすぎません[呉座、231] 鍬や鋤は暴動のためではなく、「百姓のシンボル」であり、「自分たちが百姓身分を逸脱していない」というアピールであったと考えられています。

・・・百姓一揆 2へ続きます。

posted by at 16:32  | 塾長ブログ
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