‘ 羅針塾 ’ の投稿記事一覧

作文修行中・・・

長崎市五島町にある
幼児教室・学習塾 羅針塾です。

小学生は読書感想文での作文修行中。
毎日毎日、
あ〜でもない。
こ〜でもない。
筆は進まない。そんな時間です。

けれど、スカッとかける塾生さんもいます。
何に差があるのですか。
あの子はできるから・・・。
では、ありません。
何度も何度も読んで
苦労して、苦労して
言葉を紡ぎ出した時間があります。

塾生さん一人一人の視点。
一人一人の個性。
これらにつながるキーワードを
上手く繋げていくのが文章修行。
どんな言葉が生まれるか。
どんな視点で書いてくるか。
楽しみにしています。

「ハキハキ!元気!賢い子」

一回書くことが出来ると
次年度からは楽になります
なんとなく、コツを掴めるのです。
この積み重ねが
感想文、意見作文、小論文へと
繋がっていきます。

沢山の言葉を使えるようになるために
日々、語彙力をつける。
国語力を高める学びを行なっています。
一人一人が考えをまとめ表現力を磨きます。
自分自身の言葉で伝えるために。
賢い子になるための修行です。

posted by at 15:54  | 学習塾・幼児教育

幼児さんの夏期講習と成長

長崎市五島町にある
幼児教室・学習塾 羅針塾です。
夏期講習も後半戦。
幼児さんの学びも段々と
小学校受験に向けて
実践になってきています。

できない・・・・と
オドオドとして泣いたり、ダンマリと
していたことも
「間違えてもいいから、頑張る」と
前向きに取り組むようになってきました。
これが!いい兆候。
頑張ろう。となってくると
一段、一段登っていた階段を
一気に駆け上がっていきます。
「あっ!そうだ」
「こうだったんだ。」と
理解できるようになっていきます。

小学校受験の取り組みは
ただただ、やればいい。
ただ物を使って取り組めばいい。
ではありません。

何故そうなるのか。
どうして、そう考えたのか。
相手に伝えられるように
ならなければいけません。

年中さん達も
自宅で一所懸命取り組んでいた結果が
よく出ています。
年長さんに負けないように
取り組んでいます。

「ハキハキ!元気!賢い子」

こんなこともできるようになったんですね。
自宅でも毎日一緒に取り組みました。と
お話ししてくださいます。
これがこのまま幼児さんの
成長として現れています。

今年の夏期講習では
お母様方の頑張りが
そのまま反映されています。
家族一丸となって取り組んでくださる
幼児さんの学び。
賢い子になるための基本基礎だと
思います。

美味しいお菓子を
ありがとうございました。
みんなで仲良く頂きました。
感謝申し上げます。

 

 

 

posted by at 15:57  | 学習塾・幼児教育

作文で「書く」力をつけることが出来るのか?

国語力を身に付け「書く」力をつけることは、結論から言いますと、現在の学校教育では一朝一夕にはできそうも有りません。

現在の子供さんたちが最初に原稿用紙に向かうのは、小学校に就学した一年生時。

教科書を音読するにも、訥々としか読めない。それなのに、いきなり夏休みに課題図書などを指定し、読書感想文を書きなさい、という宿題です。

一学期の学校の国語の時間に、平仮名やカタカナと若干の漢字を学んだ段階で、いきなり読書感想文という「作文」を課す、という先生方の神経(?)がそもそも理解不能です。例えると、自転車に乗った経験がない子供に、補助輪もつけていない自転車に乗って、買い物のお使いに出すようなものです。

文章修行のイロハのイも学校では教えずに、丸投げで夏休みの宿題とされては、各家庭のお母さん方は作文を子供さんに書かせるのに四苦八苦です。稀に、学校から「作文の書き方」という一枚のプリントがあったりするのはお笑いです。何故なら、そのプリントの文言を読んでも、通り一遍の一般論でしかなく、それで書かせることが出来るとは思えない代物だからです。

それに比べ、我が国の歴史を振り返ると、漢籍の素養を身につけたり、和歌を嗜む(たしなむ)ことで幼児期から少しずつ、読む力から書く力へと学ばせるシステムが出来上がっていたように筆者は考えます。

例えば、「和歌」です。

和歌をわかりやすく紹介されているブログ「令和和歌所」(https://wakadokoro.com)からの引用です。

和歌は元来「大和歌(やまとうた)」といい、古来から歌い継がれてきた日本独自の韻文です。
なかでも知られているのが「五・七・五・七・七」いわゆる「三十一文字(みそあまりひともじ)」の短歌形式の和歌だと思いますが、奈良時代に編まれた日本最古の歌集「万葉集」には「五・七」の繰り返しいかんで「長歌」「旋頭歌」といった異なる形式の和歌も存在しました(後世には「俳句」や「都々逸」といった形式も生まれます)。しかしそれが平安時代の初代勅撰和歌集「古今和歌集」の頃には短歌形式が圧倒的主流となり、今私たちがよく知る姿に整います。

ちなみに「五・七」の音節を好んだのは日本人だけではありません。中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠(*)によって発展していったのです。

(*)朗詠(ろうえい:詩歌を声高らかに歌うこと

少し漢詩に触れましたが、和歌は漢詩と比較することで特徴が際立ってきます。実のところ和歌と漢詩は違うところだらけなのです。
和歌は韻文(*)でありながら韻(ライム)(*)を踏みません、極端にいえば三十一文字に収まってさえいれば歌であるのです。しかし漢詩は違います、偶数句の末字で必ず韻を踏みますし、平仄(*)も整えなければなりません。まずこの違いをどう考えるか?

(*)韻文(いんぶん:(漢詩・賦など)韻を踏んだ文。(詩や和歌、俳句など)韻律を整えた文。

(*)韻(いん:詩文で、同一もしくは類似の響きを持つ言葉を、一定の間隔或は一定の位置に並べること)。

(*)平仄(ひょうそく:つじつま、順序)

私は和歌に規律が少ないのは、誰でも詠むことが出来るようにおのずとそうなったのだと思います。漢詩(唐詩)人の主役は科挙試験に及第した博識の文人たちがほとんど、精緻を極めた詩文で自らを主張したのです。

一方の和歌、万葉集をみればわかりますが天皇から果ては乞食まであらゆる人間が歌を詠んでいます。つまり和歌とは、折々の遊宴などに際してみんなで即興的に詠み歌い楽しむもの、まさに「和歌」であったのです。

あいにく平安時代の主な歌集には宮廷貴族の歌しか残っていませんが、それをみても天皇から下級官人まで男女へだてなく歌を詠み、宮廷の慶弔から歌合せそして恋のひめごとまで、公私を問わずコミュニケーションの主流をなしていたことがわかります。

漢詩(唐詩)についていえば女性詩人はほとんど名が残っていませんから、和歌とは紀貫之がいうとおり万人にとっての「歌」であったのです。

花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける
(古今和歌集 仮名序)

さて、和歌に規律が少ないとはいえ、しだいに和歌は和歌たらしめる修辞というものが発展していきました。掛詞(*)や縁語(*)といった技法です。これを駆使することで平安歌人たちは和歌を文学にまで高めたのです。それは翻って和歌に知性が宿ったということです、ここでようやく和歌は漢詩に引けを取らない教養となりました。

(*)掛詞(かけことば:一つの言葉に二つ以上の意味を持たせた修辞法の一つ)

(*)縁語(えんご:一つの言葉に意味上縁のある言葉を使って面白味を出す修辞法)

・・・上記(古今和歌集 仮名序)の「花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける」は、
「鶯であれ、蛙であれ、生とし生けるものすべては、歌を詠まないであろうか(いや、詠むであろう)」、というくらい誰しもが親しむことが出来るというのです。

父や母が、また祖父や祖母など身近な人々が日頃から、歌を詠み習わしていれば、幼子であっても、自然と和歌の素養を身につけてきたことでしょう。

和歌を通じて、言葉を覚え、自然や季節の移ろい、人の情感などを、繰り返し朗詠することで、身に付ける素養は、現在の国語教育に欠落したもののように思えるのは筆者だけでしょうか。

これは漢詩の朗詠も同様です。

中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠によって発展していったのです。

漢詩は大学の詩吟部や一般の詩吟の会などに、詠み継がれていますが、幼児期や小学生などに朗詠(または音読でも)させるのは大きな効果があると思います。

そのような言葉に親しみ、人の心や自然を詠み込むことを不断(ふだん:絶え間ないこと)に続けていれば、結果として、自らの言葉を紡いで文章を連ねること(「作文」)が出来るのではないでしょうか。

 

posted by at 00:02  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

考えることを学ぶ

長崎市五島町にある幼児教室・学習塾 羅針塾です。
長崎の明日は精霊流し。
この頃になると花火の音や
精霊船を作っているところが見られるのですが、
コロナの影響で少ない様な気がします。

今日も塾生さんたちが
一所懸命に自分自身の課題と向き合っています。
作文が出来上がりそう!
難しい算数が解けた!
しっかりと読める様になってきた!
と、夏期講習も後半になると
色々とできることが増えてきました。
初めは、どの塾生さんも一筋縄とはいかず
ウ〜ン。。ウ〜ン。。と頭を抱えていました。

「何」が分からないのか
「何」ができないのか

「何が」の糸口が見つかるまでしっかりと考える。
考える為にやるべきことを準備する。
一つ一つの作業を丁寧に取り組みます。
これは、幼児さんでも小学生でも同じです。

ただただ、解くのではなく
解けるようになるために基本に戻り
理解し分からないことを考えます。

「ハキハキ!元気!賢い子」

幼児さんに
これはどう?と聞くと
一所懸命考えます。
見方を変えたり、手を動かしたり
前、どんなことをしたっけ。と
見返したり。

やり方を聞く前に色々と考え試してみる。
失敗を恐れずに取り組む。
伝える。
考えながら、やりとりをすることで
賢くなっていきます。

小学生も同様です。
必ず基本に戻り、確認する。
何故?どこが?を明確にする。
いろいろな方法を試してみても
理解ができない時に質問をする。

考える学びに取り組むことによって
「自分自身で学ぶ」ことを習得しています。

自立・自律をするために
自ら考え、自ら行動する。
賢い子は日々考え工夫しています。

美味しいお菓子を頂きました。
ありがとうございます。

posted by at 15:02  | 学習塾・幼児教育

国語力の基本ー素読の効用 2

国語力をつけることが、子供さんたちの「学ぶ」力を大きく伸ばしていく、ということにお母さん方が「氣」付いて頂くと、子供さんたちの学ぶべき道が見えて来るのではないでしょうか。

幼児さんや小学生をお持ちのお母様方が、自らの学びの来歴を考えられると、幼少期に何をすべきであったかが、ご理解できると思います。お母さん方の母上も悩みながら、子育てをされていた筈です。

年を経て振り返ると、ああすれば良かった、こうすれば良かった、というのが人生でもあります。

さて、「国語力の基本ー素読の効用」の続きです。

「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「脳科学が示す素読の効用~なぜ子供は素読に夢中になるのか?」(http://blog.jog-net.jp/202008/article_2.html)からの引用とご紹介です。

■5.「一人一人の目がかがやき」

 3,4歳になると、「聞く、話す」から「読む」段階に進みます。その際に使われる伝統的な教育方法が「素読(そどく)」です。

 素読とは「言葉(文章や文、単語)を、意味の理解を伴うことなくその字面を追って、あるいはお手本となる発話者の発音通りに声を出して読むこと」です。冒頭の石井式の漢字カードもこの一種です。「意味の理解を伴うことなく」という点が肝心で、文字を見ながら、意味が分かろうが分かるまいが構わずに、先生の発音を真似て発声します。

 ドイツ文学者の安達忠夫・埼玉大学名誉教授は自宅の近所の子供たちを集めて、寺子屋を始めた時の経験をこう書かれています。
__________
 子どもたちは受け身で楽しむより、いっしょに唱えたり、積極的にかるた遊びをしたりするのが大好きです。試みに、わたしの国語体験の原点ともいうべき「いろは」も教えてみました。
 一人一人の目がかがやき、愉快そうに笑っている子もいます。数週間平仮名だけの音楽をたっぷり楽しんだあと、こんどはいきなり、漢字まじりの「いろは歌」です。最初、子どもたちはいぶかしげな表情を見せましたが、わたしが唱えていくと、打てば響くような反応がかえってきました。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

・・・当塾でも、武漢ウィルスが収束するまでは、自粛中ですが。

「素読」「音読」は、夏の蝉と同じ様に、塾生の誰かが、大きな声で読みだすと、それに呼応して誰かが大きな声で読み始めます。すると、不思議なもので、あちこちで、ミーン、ミーンとセミが泣くかの如く、唱和し始めます。

声を大きく出すと、何故か元気になるのも不思議です。

■6.意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている

「意味不明のことばなのに、子供たちはなぜ、あんなに生き生き反応するのか?」

この疑問を科学的に追求すべく、安達教授は、脳科学を専門とする東北大学の川嶋隆太教授と共同研究を始めます。

 川嶋教授は、「意味のある文章」を黙読している時と、「意味のない文章」を黙読している時の脳活動を比較しました。「意味のない」とは、一つの文章の文字をランダムに並び替えて、「み日地千実比道に湯て口原区は」などとしたものです。

 両者の脳活動はほとんど同じでした。これは意味が分かっても、分からなくとも、脳は同じように活動する、ということです。ただ右半球の頭頂葉、書かれた文字の意味の理解をする機能をもっていますが、ここは意味のない文章を読んだ場合の方が活発に動いていました。ランダムに並んだ文字から、なんとか意味を読み取ろう、と努力しているのでしょう。

 意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている、ということは、素読によって脳が活発に動き、発達する、という事でしょう。したがって脳を育てるために、素読は効果的だということです。

 しかも、意味を問わない分、どんな難しい文章でも、たくさん音読できますから、子供たちは大量の語彙を吸収することができます。しかも、皆で一緒にリズミカルに声を出すという主体的な動きで、模倣と繰り返しの好きな子供たちは楽しみながら、言葉を学ぶことができるのです。

・・・何故か、人も蝉も賑やかで大きな声には、反応し活性化する、みたいな研究ですね。

■7.意味を問わない幼年期、意味を考え始める少年期

「意味を問わない」という点が、近代教育に慣れた我々から見ると、理解しにくい点です。

「意味も分からずに論語の文章を音読できるようになって、何になるのか」と考えてしまいます。

 脳の成長過程では、二つの臨界期があります。3歳までに脳の7~8割ができあがって、聞いたり話したりできるようになります。この幼年期では、模倣と繰り返しが大好きで、意味を考えることなく、言葉のリズムや響きのみでも楽しめます。ですから、幼年期に楽しみながら、大量の言葉を音と文字の図形だけでも吸収しておくことができるのです。

 8~10才を超えた少年期になると、意味を知りたい思いが顕在化してきます。この時期になると、幼年期の素読の時に潜在的記憶の中に蓄積されていた語彙の意味が分かると、ハッとするのです。

 たとえば、『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という一節の意味を知っている人はほとんどいないでしょう。意味も分からずに、ただ歌っているのは、ちょうど素読と同じです。

 さざれ石とは、石灰質角礫岩と呼ばれる石の一種で、小石が長い年月の間に、セメントで固めたように、互いにくっついて、やがて大きな巌(いわお)となります。まさに一人ひとりの国民が連帯して、大きな「和の国」となっている日本の象徴です。

 幼年期には意味も分からずに歌っていた歌詞が、何年かして、こういう意味だと知ったときに、「そうだったのか」という感動とともに、より深く心に刻まれるのです。

 このように、幼年期に素読で大量の語彙をその響きとともに、潜在記憶に蓄えておき、少年期以降に自分が出会った際に体験的に意味を理解して、その言葉を我が物とする、というプロセスは、脳の発達のプロセスから言っても、きわめて合理的なやり方なのです。

・・・この感覚は、「国歌」を斉唱するたびに子供時分の筆者も感じていました。

『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という箇所は、「さざれ石の岩」「大人となりて」という風に思いながら、長い間歌っていました。

それが、長じて「細石『さざれ)石」の実物を、長崎県千々石町の橘神社で見、謂れを理解した事で長年の疑問が氷解しました。

■8.「意味が分かる」ということの意味

 我々は「意味が分かる」という事の意味を考え直さなければなりません。

たとえば、小学生に「情けは人のためならず」の意味を説いて、「人に情けをかけることは、自分のためにもなるんだ」と一応の理解をさせることはできるでしょう。

しかし、小学生では「ふ~ん」と聞いても、頭の中で意味を知的に理解したというだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。

 その後、中学生くらいになって、電車の中でお年寄りに席を譲ったら、お礼を言われて、自分自身が爽やかな思いをし、「あ、これも情けは人のためならずだな」と素読で習った事を思い出したら、どうでしょう。

それまでの理知的な理解に対して、実感の籠もった深い理解に達します。物事の意味とは、体験の積み重ねを通じて、理解が深まっていくものです。

 とすれば、はじめから言葉の意味を説明して、小中学生の段階で「分かった」と思い込ませてしまうよりも、その時はまだ分からない事として、その後の人生で徐々に自分なりに感じ、考えながら、意味の理解を深めていく、という方が、深い学問につながります。

 こう考えると、現代教育で、就学前はあまり「聞く」「話す」の機会を与えず、入学するといきなり、抽象的なひらがなから「読み」「書き」、「意味」まで一気に教える、というのは、いかにも人間の成長過程を無視した「押しつけ」教育に見えます。

だから、小学校の教室では、冒頭に紹介した保育園ほど子供たちは活き活きしていないのでしょう。

 3才までは家庭で母親や祖母などから、たっぷり語りかけ、読み聞かせをしてもらって脳を育て、3才以降は素読を中心に、先生の読みを模倣しながら、なるべく多くの言葉の音とリズムをくり返し潜在記憶に蓄える。8~10才からは、勉強と人生経験を積んで、それらの言葉の意味の体験的理解を深めていく。

 これが江戸時代までの我が国の子育ての方法でした。

それは脳の成長過程に適した、合理的な教育方法だったのです。

脳の成長過程に合っているからこそ、漢字カードや素読に子供たちは夢中になるのです。日本中の子供たちが、こういう風に活き活きと国語を学んで欲しいものです。

読者の皆さんが小さなお子さんをお持ちでしたら、ぜひ語り聞かせ、読み聞かせを十二分にしてあげて下さい。

保育園幼稚園に入る年頃なら、ぜひ近所で石井式や素読を実施している処を探してみて下さい。定年後に時間の余裕ができた方々なら、自ら寺子屋を開いてはいかがでしょうか。

 江戸時代の教育は、こうして家庭や寺子屋が担っていました。

そうして育てられた人々が、明治日本の世界史に残る躍進を実現したのです。

 

・・・当塾でも、なかなか簡単ではありませんが、同じ思いで日々塾生の成長を願いながら、「素読」、「音読」を繰り返しています。

posted by at 18:52  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
さらに記事を表示する

月別アーカイブ

長崎|羅針塾学習塾トップページ

羅針塾 SNS

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter
PAGE TOP

新着ブログ

  1. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  2. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  3. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  4. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  5. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…

月別アーカイブ

羅針塾 SNS

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter