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子供の自立の一歩 羅針塾学習塾では?

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室
羅針塾学習塾です。

入園式・入学式が終わり
元気に通園通学していますか。
羅針塾学習塾の新入園生・新入学生は
とっても楽しそうですよ。

年長さんのお母様から
「園内遠足で、お母様から離れきれず
泣く年少生さんが沢山と・・しかし
羅針塾学習塾の塾生さんはしっかりしていますね。」と
お褒めの言葉をいただきました。

今年度も
羅針塾学習塾から様々な幼稚園・小学校に
新しく通っています。

新しい場所
新しい人に
甘えることなく
一人一人の持ち味を生かして
日々楽しく生活しているようです。

「先生!お友達できたよ。」

「先生!新しい先生の名前はね。」

「先生!今日のお弁当・給食はね。」

いろんなことを教えてくれます。
なぜ?羅針塾学習塾の塾生さんたちは
新しい場所でも明るく!楽しそうなの?
疑問に思いませんか。

どんなに幼い幼児さんでも
母と子がベッタリでも
羅針塾学習塾にご縁を頂いたら
しっかりとご理解をいただき
いい意味で
いいタイミングで子離れ・親離れしていきます。

子離れができていないなあ~

パパママは甘~~~~~い。

しかし、分かっていないわけではない
一つ一つのキッカケで
ひとつづつです。
お父様、お母様が
子供のためを思えばこそ。

ひとつのことが出来るようになると
だんだんと出来るようになります。

挨拶一つ。
話し方一つ。

鍛えていく結果は学年、学校トップになります。
この結果が毎年度
一番の御縁をいただける証拠なのです。

自立の一歩は
最初の一歩
「ハキハキ!元気!賢い子」
可能性豊かな未来のために。
いかなる場所でも
いかなる環境でも
考え、判断し、表現できるように
羅針塾学習塾は一人一人の塾生に
向き合っています。

 
(可愛いでしょ。番犬が欲しい!という塾長のために寝ている犬を(笑)塾生さんが抱えています。)
posted by at 15:22  | 学習塾・幼児教育

教科書に載らない歴史上の人物 22 神武天皇

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達に国語力をつけるためにも歴史の素養を身につける事と連動させていきたいと考えています。

先にご紹介していました「少年日本史」(平泉澄著)。
現在学校で用いられているどの歴史教科書よりも格調高く日本の國史を紐解かれています。
所謂、名調子です。
平泉澄先生のような方に講義をして戴くと、誰でも歴史に興味を持つのではないかと思います。

そこで、昭和四十五年に出版された「少年日本史」(平泉澄著)から「神武天皇」の項を引用してご紹介します。
(尚、長文ですが名調子を味わっていただきたく、そのまま引用いたします。)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

 神武天皇

「日本」と云う國家を建設し、日本民族の中心となって、その團結を固め、其の理想をかかげ、其の方向を決定した英雄は、一體誰であったか、と云う問題になります。
それは神武天皇であります。

 神武天皇と云いますと、皆さんは、非常に縁遠いお方のように感じるかも知れません。
ところが事實は、全く反對なのです。
 皆さん、皆さんの姓名を考えてください。
姓と名とを分けて、姓だけを、苗字と云います。
皆さんの苗字は、何と云いますか。
山田ですか。木田ですか。小島ですか。
村上、夏目、手塚、飯沼、依田、多田、小國、山縣、清水、田尻、浅野、土岐、船木、石川、この中のどれかではありませんか。
佐竹、武田、小笠原、秋山、南部、里見、新田、大館、今川、畠山、細川、この中にありませんか。
是等は源氏ですよ。
しかも清和源氏と云って、清和天皇から出ているのです。
そしてその清和天皇は、神武天皇の御血統を受け継がれたお方であり、神武天皇を第一代として、第五十六代の天皇でおありになるのですから、上にあげた苗字の人々は、近くは清和天皇、遠くは神武天皇を御先祖としているのです。

「僕の家の苗字は、違うんだ」と云うのですか。それでは何といいますか。
村岡ですか。三浦ですか。畠山ですか。相馬、梶原、北條、名越、金澤、伊勢、杉原、和田、千葉、この中のどれかですか。
是等は桓武平氏と云って、元は桓武天皇から出ているのです。
そしてその桓武天皇は、神武天皇の直系、第五十代に當たられるのです。

 また是等とは別に、近藤とか、進藤とか、武藤とか、尾藤とか、呼ばれる家があります。
佐藤や、加藤、後藤、齋藤になると、一層多いでしょう。
それらの家は、林や、冨樫、武田、河合、稲津、結城、松田、佐野、波多野などと同じく、先祖をさかのぼる時は、左大臣藤原魚名から出ています。
魚名は今より千二百年ばかり前の人ですが、魚名の祖父は不比等、不比等の父は大織冠藤原鎌足、その鎌足が天智天皇の重臣であった事は云うまでもなく、
もっとさかのぼれば、太古から皇室の重臣あって、神武天皇にお仕えした天種子命(あまのたねこのみこと)から出ているのです。
して見れば、齋藤も後藤も、その外、上にあげた家々は、神武天皇の重臣として、建國の大業をお助けした英傑の子孫である事、明らかでしょう。

 今から百七、八十年前の事ですが、寛政四年に、柴野栗山と云う學者が、神武天皇の御陵(天皇の御墓を御陵と云います)へお参りして、その痛ましい荒れ果てようを見て悲しみ、泣きながら詩を作りました。

 遺陵、わづかに路人に問いて求む、
 半死の古松、半畝(はんぼ)の丘、
 聖神ありて帝統を開きたまはずんば、
 誰か品庶をして夷流を脱せしめん、
中頃を少し省きますが、最後には、
 百代の本枝、かず億ならず、
 誰か能く此の處に一たび頭をめぐらす、

 と結んであります。

 意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、ようやくの事でお参り出来たが、来てみると、小さな丘の上に、枯れかかった松が一本立っているだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導して、そして『日本』という國家を建設して下さらなかったならば、日本民族はいつまでもバラバラと分散して、低級な生活から脱出することが出来なかったであろうから、神武天皇は我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千数百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の数は、幾億人と云う多数にのぼっている、卽ち、神武天皇は我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかえりみる人が無いと云うのは何と悲しいことでは無いか」と云うのです。

 この栗山と云う學者は、讃岐(香川縣)から出て幕府に用いられ、學問教育の方針を立て直した、優れた人物ですが、神武天皇に対しましての感激も流石に見事であります。

「百代の本枝、かず億ならず」と詠まれたのを、逆に説明して見ると、皆さんには、父と母と、親が二人あリましょう、その父にも親が二人、母にも親が二人ありますから、あなたの祖父、祖母は四人でしょう、その一代前になれば八人でしょう、そのまた一代前に溯れば十六人でしょう、も一つ前は三十二人、その前六十四人、一代平均三十年として、あなたから二百年ばかり前には、あなたの先祖は六十四人ばかりになるでしょう、二百年でそれですから、二千年さかのぼる時は、大變な数に上る事が分かりましょう。
 しかもそれはあなた一人でなく、お友達の誰も彼も皆同様なのです。

 して見れば日本民族、この島國に居住して幾千年、いつの間にか皆親類になり、親戚になっていて、いわゆる血が續いている間柄だと分かりましょう。
そして其の大きな血族團體の中心、いわば本家が皇室であり、その皇室の御先祖として、國家建設の大業をなしとげられたのが第一代神武天皇でおいでになるのです。
その神武天皇のご恩を忘れ、御陵をかえりみる者も無いのを嘆いたのですから、栗山は正しい知識と、素直なる感情を持っていたと云わなければなりません。

 それでは神武天皇は何處においでになり、何をなさったのかと云いますと、初めは日向(宮崎縣)においでになりましたが、日本國中、いくつにも分かれて相争っているのを御覧になり、之を統一して立派な國家としなければならぬと御決心になり、兵をひきいて船出し給い、宇佐(大分縣)、岡田の宮(福岡縣)、タケリの宮(又はエの宮、廣島縣)、高島の宮(岡山縣)等を經て浪速(大阪府)へ入り、河内から生駒山を越えて大和(奈良縣)へ入ろうとされた時に、頑強な敵の抵抗にあって、天皇の御兄(おんあに)五瀬命(いつせのみこと)は重傷を負われました。

 そこで天皇は、「我は日の神の子孫でありながら、日に向かって戦ったから、天罰を蒙ったに違ない、神をうやまい、日の神の御光を背に負うて戦うならば、必ず敵を亡ぼす事が出来るであろう。」とお考えになり、方向をかえて大阪湾を南へ下り、紀伊(和歌山縣)へお入りになった。重症の五瀬命は、ここでおかくれになったので、竈山に葬られた。天皇は進んで熊野へお入りになったが、山険しくて行くべき道なく、困り切って居られたところ、夢のお告げがあって、天照大神より八咫烏(やたがらす)を案内者としてつかわされた。後の大伴氏の先祖である日臣命(ひのおみのみこと)が兵をひきいて八咫烏のあとについて進み、宇陀(奈良縣)へ入った。天皇宇陀の高倉山のいただきにお登りになって、四方の状況を御覧になると、あちらにも、こちらにも、八十梟師(やそたける)が居って、天皇に抵抗している。國見岳の上にも居れば、磯城(しき)にも居る。葛城には赤銅(あかがねの)八十梟師がいる。
「八十」と云うのは、「数多くの」の意味、「梟師」は「勇敢なる人」の事ですから、何處(どこ)にも彼處(かしこ)にも、勇敢な人が澤山居って、それが皆互いに争って居り、そして今、天皇に抵抗したのでしょう。

 天皇は次第に之を平定して進まれ、最後に長髄彦(ながすねひこ)と對戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破る事ができず、官軍は苦戦に陥りました。その時、一天俄にかきくもり、氷雨が降ってきた中に、金色(こがねいろ)の不思議な鵄(とび)が飛んで来て、天皇の御手に持って居られた弓の弭(ゆはず;弓の先端)にとまりました。その鵄の光、電光の如くに強く輝いたので、賊兵は目がくらんで戦う事が出来なくなった。
長髄彦の所には、もとは天皇と同族である饒速日命(にぎはやひのみこと)が来て居られましたが、長髄彦の頑迷であって、どうしても教化に應じないのを見て、之を殺して帰順せられました。是が後世の物部氏の先祖で、子孫は長く武を以って國の守護(まもり)を擔當(たんとう)したのです。

 やがて方々の八十梟師、皆平定したので、天皇は橿原宮(かしわらのみや)に於いて御卽位式をあげられました。
古くは其の御徳を讃えて、「畝傍(うねび)の橿原に、底磐根(そこついはね)に宮柱(みやはしら)太しき立て、高天原に千木高(ちぎたか)知りて、はつくに知らす天皇(すめらみこと)」と申し上げましたが、御名は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、後に神武天皇と申し上げる事になったのです。

 話は簡単に、いわば一瀉千里(いっしゃせんり)で進みましたが、是は大變な大事業であって、容易な苦難では無かったに相違ありません。
日本書紀によれば、日向を御出發になってより、大和の平定まで、六年かかったとあり、古事記では、途中の御滞在御準備だけで、十五年、従って全體では、十七、八年かかった事になります。

 國家建設という事は、このように重大な、そして苦難の多い大業です。
近い例を、アメリカ合衆國にとれば、その獨立宣言は、西暦一七七六年でしたが、その後ワシントン(Washington)は随分の苦戦に陥り、それを踏越え踏越えて、遂に獨立の承認をかち得たのが、一七八三年、この間八年かかっています。

 また支那大陸に建設せられた國家、昔から數多くある中で、最も強力であって、且つ永續したものは、漢ですが、その初代の皇帝は、名を劉邦(りゅうほう)といいました。
その劉邦が兵をあげてから秦を亡ぼすまでに足掛け四年かかり、秦が亡びても項羽(こうう)という競争者が出て来たので、その項羽との戦いに足掛け五年かかり、前と合わせて八年の間、非常な苦労をして、ついに皇帝のくらいに着き、漢という國家をつくりあげたのでした。
殊(こと)に項羽という人は「力、山を抜き、氣、世を蓋(おほ)ふ」と、自分でも自任していたほどの英雄でしたから、此の人との戦いは、容易なことでは無かったに違いありません。

 今、神武天皇が、到る處に割據している八十梟師を、或いは討ち滅ぼし、或いは心服させて、日本民族統一の大業を成しとげられた事は、その大理想に向って一途に進み、いかなる苦難にも決して二の足を踏まれなかった英邁豪壮の御精神による事として、後世之に感激して、御諡(おんおくりな)を神武天皇と申し上げる事になったのです。
 

日本の歴史が世界に類のない連綿とした国体を保ち得たのは、世界史的に見ると奇跡ともいえるものです。
将来を担う子供達に、日本の素晴らしい歴史をしっかりと学んで欲しいと考えます。

posted by at 16:07  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 20 神武天皇

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達に国語力をつけるためにも歴史の素養を身につける事と連動させていきたいと考えています。

先にご紹介していました「少年日本史」(平泉澄著)。
現在学校で用いられているどの歴史教科書よりも格調高く日本の國史を紐解かれています。
所謂、名調子です。
平泉澄先生のような方に講義をして戴くと、誰でも歴史に興味を持つのではないかと思います。

そこで、昭和四十五年に出版された「少年日本史」(平泉澄著)から「神武天皇」の項を引用してご紹介します。
(尚、長文ですが名調子を味わっていただきたく、そのまま引用いたします。)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

 

 神武天皇

「日本」と云う國家を建設し、日本民族の中心となって、その團結を固め、其の理想をかかげ、其の方向を決定した英雄は、一體誰であったか、と云う問題になります。
それは神武天皇であります。

 神武天皇と云いますと、皆さんは、非常に縁遠いお方のように感じるかも知れません。
ところが事實は、全く反對なのです。
 皆さん、皆さんの姓名を考えてください。
姓と名とを分けて、姓だけを、苗字と云います。
皆さんの苗字は、何と云いますか。
山田ですか。木田ですか。小島ですか。
村上、夏目、手塚、飯沼、依田、多田、小國、山縣、清水、田尻、浅野、土岐、船木、石川、この中のどれかではありませんか。
佐竹、武田、小笠原、秋山、南部、里見、新田、大館、今川、畠山、細川、この中にありませんか。
是等は源氏ですよ。
しかも清和源氏と云って、清和天皇から出ているのです。
そしてその清和天皇は、神武天皇の御血統を受け継がれたお方であり、神武天皇を第一代として、第五十六代の天皇でおありになるのですから、上にあげた苗字の人々は、近くは清和天皇、遠くは神武天皇を御先祖としているのです。

「僕の家の苗字は、違うんだ」と云うのですか。それでは何といいますか。
村岡ですか。三浦ですか。畠山ですか。相馬、梶原、北條、名越、金澤、伊勢、杉原、和田、千葉、この中のどれかですか。
是等は桓武平氏と云って、元は桓武天皇から出ているのです。
そしてその桓武天皇は、神武天皇の直系、第五十代に當たられるのです。

 また是等とは別に、近藤とか、進藤とか、武藤とか、尾藤とか、呼ばれる家があります。
佐藤や、加藤、後藤、齋藤になると、一層多いでしょう。
それらの家は、林や、冨樫、武田、河合、稲津、結城、松田、佐野、波多野などと同じく、先祖をさかのぼる時は、左大臣藤原魚名から出ています。
魚名は今より千二百年ばかり前の人ですが、魚名の祖父は不比等、不比等の父は大織冠藤原鎌足、その鎌足が天智天皇の重臣であった事は云うまでもなく、
もっとさかのぼれば、太古から皇室の重臣あって、神武天皇にお仕えした天種子命(あまのたねこのみこと)から出ているのです。
して見れば、齋藤も後藤も、その外、上にあげた家々は、神武天皇の重臣として、建國の大業をお助けした英傑の子孫である事、明らかでしょう。

 今から百七、八十年前の事ですが、寛政四年に、柴野栗山と云う學者が、神武天皇の御陵(天皇の御墓を御陵と云います)へお参りして、その痛ましい荒れ果てようを見て悲しみ、泣きながら詩を作りました。

 遺陵、わづかに路人に問いて求む、
 半死の古松、半畝(はんぼ)の丘、
 聖神ありて帝統を開きたまはずんば、
 誰か品庶をして夷流を脱せしめん、
中頃を少し省きますが、最後には、
 百代の本枝、かず億ならず、
 誰か能く此の處に一たび頭をめぐらす、

 と結んであります。

 意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、ようやくの事でお参り出来たが、来てみると、小さな丘の上に、枯れかかった松が一本立っているだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導して、そして『日本』という國家を建設して下さらなかったならば、日本民族はいつまでもバラバラと分散して、低級な生活から脱出することが出来なかったであろうから、神武天皇は我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千数百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の数は、幾億人と云う多数にのぼっている、卽ち、神武天皇は我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかえりみる人が無いと云うのは何と悲しいことでは無いか」と云うのです。

 この栗山と云う學者は、讃岐(香川縣)から出て幕府に用いられ、學問教育の方針を立て直した、優れた人物ですが、神武天皇に対しましての感激も流石に見事であります。

「百代の本枝、かず億ならず」と詠まれたのを、逆に説明して見ると、皆さんには、父と母と、親が二人あリましょう、その父にも親が二人、母にも親が二人ありますから、あなたの祖父、祖母は四人でしょう、その一代前になれば八人でしょう、そのまた一代前に溯れば十六人でしょう、も一つ前は三十二人、その前六十四人、一代平均三十年として、あなたから二百年ばかり前には、あなたの先祖は六十四人ばかりになるでしょう、二百年でそれですから、二千年さかのぼる時は、大變な数に上る事が分かりましょう。
 しかもそれはあなた一人でなく、お友達の誰も彼も皆同様なのです。

 して見れば日本民族、この島國に居住して幾千年、いつの間にか皆親類になり、親戚になっていて、いわゆる血が續いている間柄だと分かりましょう。
そして其の大きな血族團體の中心、いわば本家が皇室であり、その皇室の御先祖として、國家建設の大業をなしとげられたのが第一代神武天皇でおいでになるのです。
その神武天皇のご恩を忘れ、御陵をかえりみる者も無いのを嘆いたのですから、栗山は正しい知識と、素直なる感情を持っていたと云わなければなりません。

 それでは神武天皇は何處においでになり、何をなさったのかと云いますと、初めは日向(宮崎縣)においでになりましたが、日本國中、いくつにも分かれて相争っているのを御覧になり、之を統一して立派な國家としなければならぬと御決心になり、兵をひきいて船出し給い、宇佐(大分縣)、岡田の宮(福岡縣)、タケリの宮(又はエの宮、廣島縣)、高島の宮(岡山縣)等を經て浪速(大阪府)へ入り、河内から生駒山を越えて大和(奈良縣)へ入ろうとされた時に、頑強な敵の抵抗にあって、天皇の御兄(おんあに)五瀬命(いつせのみこと)は重傷を負われました。

 そこで天皇は、「我は日の神の子孫でありながら、日に向かって戦ったから、天罰を蒙ったに違ない、神をうやまい、日の神の御光を背に負うて戦うならば、必ず敵を亡ぼす事が出来るであろう。」とお考えになり、方向をかえて大阪湾を南へ下り、紀伊(和歌山縣)へお入りになった。重症の五瀬命は、ここでおかくれになったので、竈山に葬られた。天皇は進んで熊野へお入りになったが、山険しくて行くべき道なく、困り切って居られたところ、夢のお告げがあって、天照大神より八咫烏(やたがらす)を案内者としてつかわされた。後の大伴氏の先祖である日臣命(ひのおみのみこと)が兵をひきいて八咫烏のあとについて進み、宇陀(奈良縣)へ入った。天皇宇陀の高倉山のいただきにお登りになって、四方の状況を御覧になると、あちらにも、こちらにも、八十梟師(やそたける)が居って、天皇に抵抗している。國見岳の上にも居れば、磯城(しき)にも居る。葛城には赤銅(あかがねの)八十梟師がいる。
「八十」と云うのは、「数多くの」の意味、「梟師」は「勇敢なる人」の事ですから、何處(どこ)にも彼處(かしこ)にも、勇敢な人が澤山居って、それが皆互いに争って居り、そして今、天皇に抵抗したのでしょう。

 天皇は次第に之を平定して進まれ、最後に長髄彦(ながすねひこ)と對戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破る事ができず、官軍は苦戦に陥りました。その時、一天俄にかきくもり、氷雨が降ってきた中に、金色(こがねいろ)の不思議な鵄(とび)が飛んで来て、天皇の御手に持って居られた弓の弭(ゆはず;弓の先端)にとまりました。その鵄の光、電光の如くに強く輝いたので、賊兵は目がくらんで戦う事が出来なくなった。
長髄彦の所には、もとは天皇と同族である饒速日命(にぎはやひのみこと)が来て居られましたが、長髄彦の頑迷であって、どうしても教化に應じないのを見て、之を殺して帰順せられました。是が後世の物部氏の先祖で、子孫は長く武を以って國の守護(まもり)を擔當(たんとう)したのです。

 やがて方々の八十梟師、皆平定したので、天皇は橿原宮(かしわらのみや)に於いて御卽位式をあげられました。
古くは其の御徳を讃えて、「畝傍(うねび)の橿原に、底磐根(そこついはね)に宮柱(みやはしら)太しき立て、高天原に千木高(ちぎたか)知りて、はつくに知らす天皇(すめらみこと)」と申し上げましたが、御名は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、後に神武天皇と申し上げる事になったのです。

 話は簡単に、いわば一瀉千里(いっしゃせんり)で進みましたが、是は大變な大事業であって、容易な苦難では無かったに相違ありません。
日本書紀によれば、日向を御出發になってより、大和の平定まで、六年かかったとあり、古事記では、途中の御滞在御準備だけで、十五年、従って全體では、十七、八年かかった事になります。

 國家建設という事は、このように重大な、そして苦難の多い大業です。
近い例を、アメリカ合衆國にとれば、その獨立宣言は、西暦一七七六年でしたが、その後ワシントン(Washington)は随分の苦戦に陥り、それを踏越え踏越えて、遂に獨立の承認をかち得たのが、一七八三年、この間八年かかっています。

 また支那大陸に建設せられた國家、昔から數多くある中で、最も強力であって、且つ永續したものは、漢ですが、その初代の皇帝は、名を劉邦(りゅうほう)といいました。
その劉邦が兵をあげてから秦を亡ぼすまでに足掛け四年かかり、秦が亡びても項羽(こうう)という競争者が出て来たので、その項羽との戦いに足掛け五年かかり、前と合わせて八年の間、非常な苦労をして、ついに皇帝のくらいに着き、漢という國家をつくりあげたのでした。
殊(こと)に項羽という人は「力、山を抜き、氣、世を蓋(おほ)ふ」と、自分でも自任していたほどの英雄でしたから、此の人との戦いは、容易なことでは無かったに違いありません。

 今、神武天皇が、到る處に割據している八十梟師を、或いは討ち滅ぼし、或いは心服させて、日本民族統一の大業を成しとげられた事は、その大理想に向って一途に進み、いかなる苦難にも決して二の足を踏まれなかった英邁豪壮の御精神による事として、後世之に感激して、御諡(おんおくりな)を神武天皇と申し上げる事になったのです。

日本の歴史が世界に類のない連綿とした国体を保ち得たのは、世界史的に見ると奇跡ともいえるものです。
将来を担う子供達に、日本の素晴らしい歴史をしっかりと学んで欲しいと考えます。

posted by at 16:07  | 塾長ブログ

どこまで子供に手をかけるか

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室
羅針塾学習塾です。
可愛い子供のために
どこまで手をかけるか。
考えることです。
行き過ぎると構いすぎ、甘えになります。
甘やかしていいじゃない。小さいから
低学年だから。
しかし、よく考えてみてください。
社会、世の中は我慢することが多い。
自分の思い通りにならないことが多いのです。

この「我慢すること」
「我を抑えること」ができるようになれば
立派に成長していきます。

甘えさせる
厳しくさせる
これができるのは
お母様のみ。
子供達は厳しいくらいで丁度いい。

厳しい中に楽しさを見つけていきます。
周りをよく観れるようにもなります。
自己判断もできるようになっていきます。

「ハキハキ!元気!賢い子」
どんな困難でも、状況でも
冷静に対応出来る愛情豊かな人を育てていきたい。
そう考えて一人一人の可能性を引き出してあげたいと
考えています。

(本当に久しぶりの母とのランチ。至福の時間!
最後のデザートまで完食。あ~お腹いっぱいです。)
posted by at 15:20  | 学習塾・幼児教育

お母様の気配り、心配り

長崎市五島町の学習塾・幼児教室
羅針塾学習塾です。
新学年が始まり
授業参観、保護者会等々
あることと思います。
新しい学級通信も沢山頂いているのでは
ないでしょうか?
新学年の担任の先生の
「想い」は伝わっていますか?
授業一つ。
プリント一つ。
一行の返事一つ。

どのような想いで一年を過ごそうとしているか。
学校の先生方の姿勢一つで
この一年の成長は左右されます。
だって、!!!
一日の大半を
幼稚園、学校という場で
過ごすわけですから。

だからこそ、
ご自宅でのフォローは
とても大切。
教科書、ノートの使い方
宿題の出し方
何より、子供達の情緒。

羅針塾学習塾では
一年を通して
子供達の最初の一声
最初の顔色をとても大切にしています。

一人一人としっかり向き合う以上
この心のバランスは見逃せません。

今日は頑張らせる。
今日は程々に。

受験生であっても
心が不安定な時は
「勉学」に向き合えません。

どんなに頑張っても
ひょい!!!!!と成果が出ないのも
勉強の難しさ。
心豊かに、穏やかに、楽しかった
さあ!!頑張るよっ。ではないと
成績は伸びません。

お母様は最大の安らぎの場所であり
ハッパをかけるパワーの場所。
一つ一つしっかりと汲み取って
もらいたいものだと考えています。

どんな時でも最大の味方は
母親です。
どんな時も信じ
どんな困難も子供のためならです。
一つ一つのサインを見逃さないように
他のお母様たちに振り回されることなく
研ぎ澄ましてくださいね。

賢い子を育てるために。
お母様の第六感は大切なのです。

「ハキハキ!元気!賢い子」
可能性豊かな子供達の学びは
心身ともに豊かであることが一番です。

posted by at 15:19  | 学習塾・幼児教育
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