国語・算数(数学)・理科・社会・英語の主要科目の中で、最も重要な科目は何でしょうか?
学力向上の決め手は何か、を不断に考え実践している幼児教育・学習塾の羅針塾では、国語力の向上を何より重視しています。
さて、すべての勉強の基本は「国語力」にあるという考えを披瀝している記事が目に留まりましたので、引用してご紹介いたします。
「東大卒の異彩・山口真由が考える『国算理社』で一番重要な科目」(信州大学特任准教授・米国ニューヨーク州弁護士)https://president.jp/articles/-/44235kから。
みなさんは、勉強ができる人というのはいったいどんな人だと思いますか?
地頭がいい人? それとも、長時間机に向かう根性がある人でしょうか?
わたしの答えは明確です。それは、「自分の勉強法」を確立している人です。
勉強とは、新しい知識を得て、それを理解していくことです。そして、このプロセスを短時間かつ効果的に行うための方法が「勉強法」。つまり、勉強ができる人とは、自分にとって最適な方法をわかっていて、それにしたがって進んでいける人のことなのです。
勉強法といっても、なにか特殊なノウハウを覚えるわけではありません。自分にとっていちばん「楽」で、余計なことを考えずに続けていける方法、それが自分に合った勉強法です。
・・・とても分かりやすい指摘です。 勉強法も「十人十色」です。
突き詰めると「自分の勉強法」を築くことができれば、勉強の成果を出せるようになる、ということです。
勉強は「才能」ではなく「回数」
わたしが、読むことを軸にした勉強法を推奨すると、「もともと文章の要旨を掴む才能があるのでは?」といわれることがあります。
でもわたしは、「文章に意味さえあれば、どんなに難解でも、誰もが必ず理解できる」と考えています。
なぜそう言い切れるのか?
それは、どれだけ難しいと感じる文章でも、10回、20回と繰り返し読むことで、必ず要旨を見つけ出せるからです。
もちろん、難解な専門用語が多い文章の場合は、何度読んでも理解できないかもしれません。その場合は、専門用語の一つひとつをていねいに説明している別の基本書を先に読めば、やがて文意を理解することができるでしょう。
つまり、才能ではなく「回数」の問題なのです。
難解な文章をあっさり理解するような人がいても、そこには、これまで文章を相当程度読んできた経験によるちがいがあるだけです。すぐに理解できる人は、おそらく背景知識を得るための膨大な読書を積み重ねてきたのでしょう。
・・・上述の具体例は「読書百遍義自ら見る*」(「読書百遍意自ずから通ず」)の諺に通じます。
* 読書百遍(ひゃっぺん)義(義)自(おの)ずから見(あらわ)るとは、どんなに難しい書物であっても、繰り返し読むうちに意味が自然とわかるようになるものだということ。
魏の学者董遇が、弟子入りを申し込んだ者に対して言った「読書千遍、其の義自ら見る」から(出典:『三国志』魏志-董遇・裴松之注)。
多くの本を読めばよいというものではなく、良い書物を熟読することに意味があるという乱読を戒める意味を含む。
Repeated reading makes the meaning clear. くり返し読めば意味がはっきりしてくるものだ。
すべての勉強の基本は「国語力」にある
わたしは、すべての勉強の基本は「国語力」にあると考えています。ここでの国語力は、インプットのための「読解力」と、アウトプットのための「表現力」を指します。
とりわけ読解力は、すべての勉強における最重要要素です。
なぜ、読解力があるといいのでしょうか?
その理由は、文章を読んだときに、次のことを明確に掴めるからです。
・書いた人はなにがいいたいのか?
・なにが問われているのか?
個人的な経験では、大学受験はもとより、司法試験やロー・スクールの試験でも、国語力が結果を大きく左右すると感じました。
(中略)
国語力を上げる方法は、これに尽きます。
ていねいに読む。
コツは、本当にこれだけです。
国語力が低い人は、自分でも気づかないうちに文章を読み飛ばしたり、自分の思い込みで勝手に意味を補ったりして、解答が著者(出題者)の意図から離れていく場合がとても多いのです。
わたしは、国語力を上げるために特別な教育を受けたわけではなく、ただ人よりも多く本や教科書をていねいに読み続けただけです。そうして国語力に偏重したことでハーバードまで行けたと、わたしは本当に思っているのです。
・・・筆者もこの考え方には大賛成です。
国語に限らず、どの科目であれ「ていねいに読む」ことができない人の場合、読み違えやケアレス・ミスが多いのは事実です。
羅針塾では、幼児期から丁寧に読むこと、つまり句読点や語句のまとまりなどにも意識して、普段からしっかり「音読」することを心がけています。