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医学部に入るためには、どの小学校を選ぶと良いか-1

幼児教室・学習塾の羅針塾では、「医学部に入るためには、どの小学校を選ぶと良いか。」という直截(ちょくせつ:回りくどくないこと、はっきりとずばり言うこと)な物言いで、教育相談に来られる親御さんはほとんどいません。

しかし、小学校受験の相談に来られる方の何割かは、「できれば」という遠慮がちな問いかけから、「是非に」という問いまで、お話をしている中でその意思を表明されます。

大学医学部への受験までには、小学校6年、中学校3年、高等学校3年の12年があります。

その期間の中で、どの時期に最重点をおくか。

管見(かんけん)では、

小学校6年間を如何に有効活用すべきか、に掛かっていると考えます。実は、正にその為にも、小学校就学前の幼児期の教育が最重要です。つまり、就学前の3年(3歳から6歳位)の間に、正しい語彙力を身につけさせる必要があります。

その上で、小学校6年間に更に語彙力を増やし続け、少なくとも小学校6年時に、高校卒業程度の語彙力をつける。これが要諦です。

何故、語彙力をしっかりつけるべきか。

言うまでもなく、論理的な会話、読解、発言、記述など、全て正しい語彙力がなければ成り立ちません。所謂、Communication(コミュニケーション:伝達、伝える)能力は、相手の言わんとするところを理解し、相手にわかりやすく伝える力のことです。これは、会話であれ、文書であれ同様です。

語彙力を付け続けていく中で、小学校履修科目レベルは、常に最上位の成績を取ることが可能になります。例えると、医学部を目指す大学受験の高校3年生レベルの語彙力があれば、小学校6年間のすべての科目の問題は、容易に解けるが如し、だからです。

この考えは、医学部に限らず、最難関の大学を目指す場合も同様です。

何より、幼児期3年プラス小学校6年の9年間に、語彙力を増やしつつしっかりと読書の質と量を高めていくことは、「学ぶ」力と「志」を自然な流れで身につけていくことが出来ます。

多くの偉人や著名人は、小学校6年(12〜13歳頃)までに、立志(りっし:志を立てること。生きる上での目標を立て、それを成し遂げようとすること)する例が多いのは、成人なみの語彙力を身につけているからこそです。

翻(ひるがえ)って、

従来からの受験に対する考え方では、小学校受験、中学校受験、高校受験、大学受験のそれぞれで、受験する本人の尻を誰かが叩く例が数多く見られます。受験前の模擬試験の偏差値から判断しての評価で、馬車馬の様に勉強をしなければならない。その結果、偏差値などの成績評価だけで、受験校を決めさせられ、本当に何を学びたいかを自問自答できないまま、中学、高校、大学校へ進むと、入学することが目的となってしまい、所謂「燃え尽き症候群」となる例があります。

ところが、

小学校卒業までに、自律的・自立的に学ぶ姿勢を身につけていれば、中学校・高校と模擬試験の成績に一喜一憂せずに、自らが必要とする学力を如何につけるかを、自ら実行していくことが出来ます。そして、将来の目標の為に選択した学校ならば、少々の困難や障害は、自ら乗り越えていく術を身に付けながら克服出来ます。

 

自律的・自立的な「学び」か、他律的・依存的な「勉強」かの分かれ道は、幼児期からの「学び」にあると考えます。

posted by at 17:06  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語力と「鉛筆の握り方」

幼児教育・学習塾の羅針塾では、小学校受験を経て順調に力を付けつつある小学校一年生の日々の学びの中で、「鉛筆の握り方」は常に注意を喚起しています。

羅針塾では小学校受験時期を過ぎると、片仮名から始まり、漢字、平仮名と文字を書く訓練をします。鉛筆の持ち方、左手の添え方、机に座る姿勢など、日本人なら当然出来て当たり前のことを、しっかり身に付ける様にしています。

正しい食事の作法と、正しい学びの作法は、「姿勢」や箸や鉛筆の「持ち方」から始まります。

偶然、それに関連した新聞記事を発見。

西日本新聞の「『センセー、肩が凝るとよ』どこかおかしい・・・・この鉛筆の握り方」(https://news.yahoo.co.jp/articles/633e7c9149c49813372fd106917613d5f608c417

から引用してご紹介します。

 そもそも、なぜ、鉛筆は正しく握らなければならないのか。  

正しく握れば、疲れず、速く、長時間書くことが可能になる。授業にも集中できるし、板書をノートに書き写すのも苦にならなくなって、学力向上にもつながる。

「それとは逆に、根気が続かず、漢字練習をやりたがらない子は、鉛筆の握り方が悪い子に多いんです」(福田教諭)  

だから小学校では入学後すぐ、ひらがなを書き始める時期に、正しい鉛筆の握り方を指導する。毎時間、声掛けをしながら、正しい握り方を意識させ、定着させるわけだ。

 「姿勢や筆記具の握り方を正しくし、文字の形に注意しながら、丁寧に書くこと」。低学年の「書写」について、文部科学省の学習指導要領は、そう定めている。  

現実はどうか。

入学以前に、我流の悪い握り方が癖になっている子もいる。福田教諭の観察では、周囲の大人も正しい握り方をしている方が少数派。書き順も含め、児童が強く影響されている様子がうかがえた。

 教育現場でより重きを置かれるのは、例えば国語なら、児童の鉛筆の握り方がどうかより、文字を覚えているか否かの方だ。ベテラン教諭は「鉛筆を持つ姿勢とか、テストに反映されないものの指導は、どうしても後回し」と言う。

指を曲げる筋肉は首や胸回りと、指を伸ばす筋肉は背筋とも連動する。「肩凝りの要因には、変な握り方や崩れた姿勢による筋肉の異様な緊張もある」。

村田さんの指摘を受けた福田教諭が、あらためて児童の様子を観察すると、鉛筆を正しく握れない子どもには、きちんと着座していないという明白な特徴があった。

教員や保育士、研究者などで組織する「子どものからだと心・連絡会議」(議長=野井真吾日本体育大教授)がまとめた2019年版白書によると、養護教諭が最近増えたと実感する、子どもの体に関する変調のうち、「首・肩の凝り」は中学生で68%に上る。  

鉛筆の握り方や姿勢が原因だと断定はできないが、中学生になって突然そうなったわけではなく、鉛筆の握り方に表れるような、生活習慣の積み重ねの結果と考えるべきではないか。

 幼い頃についた癖はなかなか直らない。だが、指導する側に「鉛筆の握り方は一生もの」という問題意識がなければ、目の前で進行している事象の怖さは見えない。  

「教師もまた、最初にひらがなを教える時は、鉛筆の握り方や姿勢について声掛けするが、それ以降は、ほかに教えるべきことに意識が向き、目配りが減る傾向にある」。長年の経験から、そう考えた福田教諭。学校ぐるみでこの問題に取り組もうと、仲間たちに提案をした-。

 

・・・正しい鉛筆の持ち方が出来ていないと、中学校・高校、さらに大学へ進学する際に、授業や講義の筆記に支障が出てきます。顕著なのは、大学の講義です。基本的に、講義を受ける側のレベルを斟酌することなく、教授の講義は長時間続きますから、早く正確にノートに筆記しなければなりません。

いつの時代になっても、素早くメモを取るというのは筆記が一番です。

その為の、一番基礎になるのが「鉛筆の正しい握り方」です。

【鉛筆の正しい握り方】

(1)鉛筆を親指と人さし指でつかみ、中指で支える

(2)鉛筆の軸に人さし指を沿わせるように持つ

(3)人さし指は折り過ぎず、親指よりやや先に出る

(4)鉛筆の角度は横から見て約30度、前から見て外側に約20度傾ける。

posted by at 21:46  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

学力向上の秘訣

幼児教室・学習塾の羅針塾では、塾生の学力向上の要諦(ようてい:物事の肝心なところ)は、お母さんの力にあると常々申し上げています。

当然といえば当然ですが、

第一に子供さんと日々接する機会が一番多い訳ですから、その親子の会話に緒(いとぐち:物事の手掛かり、切っ掛け、端緒)があります。つまり、子供さんの語彙力をつける機会が毎日の会話にあるからです。

幼児期・少年少女期に応じて、言葉の使い分けを適宜教えていくと、その積み重ねは膨大なものとなっていきます。

例えば、同じ音でも以下の様に様々な漢字との組み合わせによって、意味合いも用い方も異なります。

あう・・・会う、合う、逢う、遭う、遇う

あがる・・・上がる、揚る、挙がる、騰る

あく・・・開く、空く、飽く、明く

また、感情を表す形容詞(嬉しい)でも、同じ意味合いの表現が多彩にあります。

はしゃぐ、喜ぶ、満足、浮かれる、気を良くする、心が弾む、胸を躍らせる、胸をときめかせる、など。

第二に、子供さんの健康状態、気分を一番把握していますので、適宜手綱を引いたり緩めたりすることが出来ます。学ぶ機会は生活の様々な場面にある訳ですから、買い物や散歩の時にも、質問したり、興味を持たせたりすることで、考えるヒントも与えられます。

例えば、看板に書いてある漢字を聞いてみたり、買い物の計算や、商品の表示を見て生産地や流通の仕組みを考えさせることもできます。

つまり、経験を通して思考力をつける機会が町中に溢れています。

第三に、日常生活の中で新聞やインターネットの記事・話題などを引用して、未知のものへの興味を持たせることが出来ます。また、お母さん方の友人知人との会話の中にも、言葉や敬語の用い方など、子供さんに学ばせるヒントがあります。

 

 

・・・机について教科書や問題集を解くだけが「学び」ではありません。「聞く」「話す」ことから始まりです。「三つ子の魂百まで」という様に、三歳前後から脳の働きは飛躍的に上がります。母と子の言葉のキャッチ・ボールは繰り返すほど上手になります。お母さんの投げるボールは、当初は胸元の受けやすい所へ投げ、上手くなるにつれ高いボールや低いボールを投げることで、足腰も強くなっていきます。

posted by at 13:01  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

読書感想文と作文

夏休み最終盤に差し掛かり、子供さん達は宿題に追われている頃です。

親御さんの悩みの種は、読書感想文。小学校の夏休みの定番です。

先のブログに、作文で「書く」力をつけることが出来るのか?https://rashinjyuku.com/wp/post-category/schoolmaster/でも述べました。

が、読書感想文の最大の課題は、「課題図書」にあると考えます。親御さん方からすると、「課題図書」とある以上は、この中から一冊を選び、書かなければならない、という強迫観念に囚われてしまいがちです。

羅針塾では、「課題図書」を読んだ塾生が、なかなか書けない、書きづらいという場合には、さっさと「課題図書」に挑戦するのをやめて、塾生が感動する本を見つける様に勧めます。

何故なら、「課題図書」を読んで筆が止まる塾生に問うと、感動したり、心が動くところがない、と応えるからです。

つまり、国語力の芽生える頃に、感動したり、心が動くところがない「課題図書」を繰り返し読んでも、筆が進まないのは当然です。

筆者も、塾生が書こうとする「課題図書」を必ず読みます。すると、塾生が書けない理由が判明します。今風な優しい言葉が、つらつらと並び、平板な日常生活を描いたものが殆どです。

この傾向は教科書も同様です。

世の中には、古今東西を問わず、子供達に厳しい現実があることを教えていかなければ、例えば、災害や事故、疫病、戦争に対処できる心構えはできません。

多くの小学生は、平和で平凡な生活がいつまでも続かない、というのを肌感覚で感じています。ひょっとすると、日本の長い歴史の中で営々と繋いできた御先祖様が、見たり、聞いたり、経験して来たことが、子供達のDNAに記憶されているのではないかと、と思えます(いつの日かDNAの解析が証明するときが来るのではないでしょうか)。

そう仮定すると、歴史に基づいたり、事実に基づく話の方が、子供達の心を打つことが分かります。

フィクション(作者の想像力で作られた物語、創作、作り話)よりもノンフィクション(虚構によらず事実に基づく伝記・記録文学など)が、心を揺り動かす様です。

なかなか筆が進まない塾生が、ノンフィクションを何回も何回も読んでいると、心の内から少しずつ言いたい言葉が出て来ます。その言葉や文章が出てくると、作文の形が見えて来ます。

そこに至るまで、何回も何回も繰り返し読み、何回も何回も書き直していきます。そうすると、自分自身で書き上げ切る様になってきます。

そうすると、その経験が表現するための語彙力を増やし、国語力を上げ、文章を書ける様になってきます。

その時を「待つ」ことが、親御さんの度量です。

親御さんが「期日までに仕上げさせなければならない」と考えると、つい「こう書けば」とか、「こう思うよ」という親御さんの作文になってしまいます。

これでは、いつまで経っても「作文」を書けない、「作文」が苦手な子供を作ってしまうことになります。

羅針塾の作文指導は「啐啄の機*」まで辛抱強く待つことで、塾生の力を発揮させていきたいと考えています。

*( 卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がつつくことを「」といい、それに合わせて親鳥が外から殻をつつくのを「」という。 雛鳥と親鳥が、内側と外側からつつくタイミングが一致することで、殻が破れて中から雛鳥が生まれ出てくる。「 碧巌録」の言葉。)

年長さんのオリジナル作品(A4の紙に展開図を描き、巧みにハサミを用いて立体的に組み立てたオートバイ)

 

posted by at 00:34  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

作文で「書く」力をつけることが出来るのか?

国語力を身に付け「書く」力をつけることは、結論から言いますと、現在の学校教育では一朝一夕にはできそうも有りません。

現在の子供さんたちが最初に原稿用紙に向かうのは、小学校に就学した一年生時。

教科書を音読するにも、訥々としか読めない。それなのに、いきなり夏休みに課題図書などを指定し、読書感想文を書きなさい、という宿題です。

一学期の学校の国語の時間に、平仮名やカタカナと若干の漢字を学んだ段階で、いきなり読書感想文という「作文」を課す、という先生方の神経(?)がそもそも理解不能です。例えると、自転車に乗った経験がない子供に、補助輪もつけていない自転車に乗って、買い物のお使いに出すようなものです。

文章修行のイロハのイも学校では教えずに、丸投げで夏休みの宿題とされては、各家庭のお母さん方は作文を子供さんに書かせるのに四苦八苦です。稀に、学校から「作文の書き方」という一枚のプリントがあったりするのはお笑いです。何故なら、そのプリントの文言を読んでも、通り一遍の一般論でしかなく、それで書かせることが出来るとは思えない代物だからです。

それに比べ、我が国の歴史を振り返ると、漢籍の素養を身につけたり、和歌を嗜む(たしなむ)ことで幼児期から少しずつ、読む力から書く力へと学ばせるシステムが出来上がっていたように筆者は考えます。

例えば、「和歌」です。

和歌をわかりやすく紹介されているブログ「令和和歌所」(https://wakadokoro.com)からの引用です。

和歌は元来「大和歌(やまとうた)」といい、古来から歌い継がれてきた日本独自の韻文です。
なかでも知られているのが「五・七・五・七・七」いわゆる「三十一文字(みそあまりひともじ)」の短歌形式の和歌だと思いますが、奈良時代に編まれた日本最古の歌集「万葉集」には「五・七」の繰り返しいかんで「長歌」「旋頭歌」といった異なる形式の和歌も存在しました(後世には「俳句」や「都々逸」といった形式も生まれます)。しかしそれが平安時代の初代勅撰和歌集「古今和歌集」の頃には短歌形式が圧倒的主流となり、今私たちがよく知る姿に整います。

ちなみに「五・七」の音節を好んだのは日本人だけではありません。中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠(*)によって発展していったのです。

(*)朗詠(ろうえい:詩歌を声高らかに歌うこと

少し漢詩に触れましたが、和歌は漢詩と比較することで特徴が際立ってきます。実のところ和歌と漢詩は違うところだらけなのです。
和歌は韻文(*)でありながら韻(ライム)(*)を踏みません、極端にいえば三十一文字に収まってさえいれば歌であるのです。しかし漢詩は違います、偶数句の末字で必ず韻を踏みますし、平仄(*)も整えなければなりません。まずこの違いをどう考えるか?

(*)韻文(いんぶん:(漢詩・賦など)韻を踏んだ文。(詩や和歌、俳句など)韻律を整えた文。

(*)韻(いん:詩文で、同一もしくは類似の響きを持つ言葉を、一定の間隔或は一定の位置に並べること)。

(*)平仄(ひょうそく:つじつま、順序)

私は和歌に規律が少ないのは、誰でも詠むことが出来るようにおのずとそうなったのだと思います。漢詩(唐詩)人の主役は科挙試験に及第した博識の文人たちがほとんど、精緻を極めた詩文で自らを主張したのです。

一方の和歌、万葉集をみればわかりますが天皇から果ては乞食まであらゆる人間が歌を詠んでいます。つまり和歌とは、折々の遊宴などに際してみんなで即興的に詠み歌い楽しむもの、まさに「和歌」であったのです。

あいにく平安時代の主な歌集には宮廷貴族の歌しか残っていませんが、それをみても天皇から下級官人まで男女へだてなく歌を詠み、宮廷の慶弔から歌合せそして恋のひめごとまで、公私を問わずコミュニケーションの主流をなしていたことがわかります。

漢詩(唐詩)についていえば女性詩人はほとんど名が残っていませんから、和歌とは紀貫之がいうとおり万人にとっての「歌」であったのです。

花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける
(古今和歌集 仮名序)

さて、和歌に規律が少ないとはいえ、しだいに和歌は和歌たらしめる修辞というものが発展していきました。掛詞(*)や縁語(*)といった技法です。これを駆使することで平安歌人たちは和歌を文学にまで高めたのです。それは翻って和歌に知性が宿ったということです、ここでようやく和歌は漢詩に引けを取らない教養となりました。

(*)掛詞(かけことば:一つの言葉に二つ以上の意味を持たせた修辞法の一つ)

(*)縁語(えんご:一つの言葉に意味上縁のある言葉を使って面白味を出す修辞法)

・・・上記(古今和歌集 仮名序)の「花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける」は、
「鶯であれ、蛙であれ、生とし生けるものすべては、歌を詠まないであろうか(いや、詠むであろう)」、というくらい誰しもが親しむことが出来るというのです。

父や母が、また祖父や祖母など身近な人々が日頃から、歌を詠み習わしていれば、幼子であっても、自然と和歌の素養を身につけてきたことでしょう。

和歌を通じて、言葉を覚え、自然や季節の移ろい、人の情感などを、繰り返し朗詠することで、身に付ける素養は、現在の国語教育に欠落したもののように思えるのは筆者だけでしょうか。

これは漢詩の朗詠も同様です。

中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠によって発展していったのです。

漢詩は大学の詩吟部や一般の詩吟の会などに、詠み継がれていますが、幼児期や小学生などに朗詠(または音読でも)させるのは大きな効果があると思います。

そのような言葉に親しみ、人の心や自然を詠み込むことを不断(ふだん:絶え間ないこと)に続けていれば、結果として、自らの言葉を紡いで文章を連ねること(「作文」)が出来るのではないでしょうか。

 

posted by at 00:02  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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