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国語力の基本ー素読の効用 2

国語力をつけることが、子供さんたちの「学ぶ」力を大きく伸ばしていく、ということにお母さん方が「氣」付いて頂くと、子供さんたちの学ぶべき道が見えて来るのではないでしょうか。

幼児さんや小学生をお持ちのお母様方が、自らの学びの来歴を考えられると、幼少期に何をすべきであったかが、ご理解できると思います。お母さん方の母上も悩みながら、子育てをされていた筈です。

年を経て振り返ると、ああすれば良かった、こうすれば良かった、というのが人生でもあります。

さて、「国語力の基本ー素読の効用」の続きです。

「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「脳科学が示す素読の効用~なぜ子供は素読に夢中になるのか?」(http://blog.jog-net.jp/202008/article_2.html)からの引用とご紹介です。

■5.「一人一人の目がかがやき」

 3,4歳になると、「聞く、話す」から「読む」段階に進みます。その際に使われる伝統的な教育方法が「素読(そどく)」です。

 素読とは「言葉(文章や文、単語)を、意味の理解を伴うことなくその字面を追って、あるいはお手本となる発話者の発音通りに声を出して読むこと」です。冒頭の石井式の漢字カードもこの一種です。「意味の理解を伴うことなく」という点が肝心で、文字を見ながら、意味が分かろうが分かるまいが構わずに、先生の発音を真似て発声します。

 ドイツ文学者の安達忠夫・埼玉大学名誉教授は自宅の近所の子供たちを集めて、寺子屋を始めた時の経験をこう書かれています。
__________
 子どもたちは受け身で楽しむより、いっしょに唱えたり、積極的にかるた遊びをしたりするのが大好きです。試みに、わたしの国語体験の原点ともいうべき「いろは」も教えてみました。
 一人一人の目がかがやき、愉快そうに笑っている子もいます。数週間平仮名だけの音楽をたっぷり楽しんだあと、こんどはいきなり、漢字まじりの「いろは歌」です。最初、子どもたちはいぶかしげな表情を見せましたが、わたしが唱えていくと、打てば響くような反応がかえってきました。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

・・・当塾でも、武漢ウィルスが収束するまでは、自粛中ですが。

「素読」「音読」は、夏の蝉と同じ様に、塾生の誰かが、大きな声で読みだすと、それに呼応して誰かが大きな声で読み始めます。すると、不思議なもので、あちこちで、ミーン、ミーンとセミが泣くかの如く、唱和し始めます。

声を大きく出すと、何故か元気になるのも不思議です。

■6.意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている

「意味不明のことばなのに、子供たちはなぜ、あんなに生き生き反応するのか?」

この疑問を科学的に追求すべく、安達教授は、脳科学を専門とする東北大学の川嶋隆太教授と共同研究を始めます。

 川嶋教授は、「意味のある文章」を黙読している時と、「意味のない文章」を黙読している時の脳活動を比較しました。「意味のない」とは、一つの文章の文字をランダムに並び替えて、「み日地千実比道に湯て口原区は」などとしたものです。

 両者の脳活動はほとんど同じでした。これは意味が分かっても、分からなくとも、脳は同じように活動する、ということです。ただ右半球の頭頂葉、書かれた文字の意味の理解をする機能をもっていますが、ここは意味のない文章を読んだ場合の方が活発に動いていました。ランダムに並んだ文字から、なんとか意味を読み取ろう、と努力しているのでしょう。

 意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている、ということは、素読によって脳が活発に動き、発達する、という事でしょう。したがって脳を育てるために、素読は効果的だということです。

 しかも、意味を問わない分、どんな難しい文章でも、たくさん音読できますから、子供たちは大量の語彙を吸収することができます。しかも、皆で一緒にリズミカルに声を出すという主体的な動きで、模倣と繰り返しの好きな子供たちは楽しみながら、言葉を学ぶことができるのです。

・・・何故か、人も蝉も賑やかで大きな声には、反応し活性化する、みたいな研究ですね。

■7.意味を問わない幼年期、意味を考え始める少年期

「意味を問わない」という点が、近代教育に慣れた我々から見ると、理解しにくい点です。

「意味も分からずに論語の文章を音読できるようになって、何になるのか」と考えてしまいます。

 脳の成長過程では、二つの臨界期があります。3歳までに脳の7~8割ができあがって、聞いたり話したりできるようになります。この幼年期では、模倣と繰り返しが大好きで、意味を考えることなく、言葉のリズムや響きのみでも楽しめます。ですから、幼年期に楽しみながら、大量の言葉を音と文字の図形だけでも吸収しておくことができるのです。

 8~10才を超えた少年期になると、意味を知りたい思いが顕在化してきます。この時期になると、幼年期の素読の時に潜在的記憶の中に蓄積されていた語彙の意味が分かると、ハッとするのです。

 たとえば、『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という一節の意味を知っている人はほとんどいないでしょう。意味も分からずに、ただ歌っているのは、ちょうど素読と同じです。

 さざれ石とは、石灰質角礫岩と呼ばれる石の一種で、小石が長い年月の間に、セメントで固めたように、互いにくっついて、やがて大きな巌(いわお)となります。まさに一人ひとりの国民が連帯して、大きな「和の国」となっている日本の象徴です。

 幼年期には意味も分からずに歌っていた歌詞が、何年かして、こういう意味だと知ったときに、「そうだったのか」という感動とともに、より深く心に刻まれるのです。

 このように、幼年期に素読で大量の語彙をその響きとともに、潜在記憶に蓄えておき、少年期以降に自分が出会った際に体験的に意味を理解して、その言葉を我が物とする、というプロセスは、脳の発達のプロセスから言っても、きわめて合理的なやり方なのです。

・・・この感覚は、「国歌」を斉唱するたびに子供時分の筆者も感じていました。

『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という箇所は、「さざれ石の岩」「大人となりて」という風に思いながら、長い間歌っていました。

それが、長じて「細石『さざれ)石」の実物を、長崎県千々石町の橘神社で見、謂れを理解した事で長年の疑問が氷解しました。

■8.「意味が分かる」ということの意味

 我々は「意味が分かる」という事の意味を考え直さなければなりません。

たとえば、小学生に「情けは人のためならず」の意味を説いて、「人に情けをかけることは、自分のためにもなるんだ」と一応の理解をさせることはできるでしょう。

しかし、小学生では「ふ~ん」と聞いても、頭の中で意味を知的に理解したというだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。

 その後、中学生くらいになって、電車の中でお年寄りに席を譲ったら、お礼を言われて、自分自身が爽やかな思いをし、「あ、これも情けは人のためならずだな」と素読で習った事を思い出したら、どうでしょう。

それまでの理知的な理解に対して、実感の籠もった深い理解に達します。物事の意味とは、体験の積み重ねを通じて、理解が深まっていくものです。

 とすれば、はじめから言葉の意味を説明して、小中学生の段階で「分かった」と思い込ませてしまうよりも、その時はまだ分からない事として、その後の人生で徐々に自分なりに感じ、考えながら、意味の理解を深めていく、という方が、深い学問につながります。

 こう考えると、現代教育で、就学前はあまり「聞く」「話す」の機会を与えず、入学するといきなり、抽象的なひらがなから「読み」「書き」、「意味」まで一気に教える、というのは、いかにも人間の成長過程を無視した「押しつけ」教育に見えます。

だから、小学校の教室では、冒頭に紹介した保育園ほど子供たちは活き活きしていないのでしょう。

 3才までは家庭で母親や祖母などから、たっぷり語りかけ、読み聞かせをしてもらって脳を育て、3才以降は素読を中心に、先生の読みを模倣しながら、なるべく多くの言葉の音とリズムをくり返し潜在記憶に蓄える。8~10才からは、勉強と人生経験を積んで、それらの言葉の意味の体験的理解を深めていく。

 これが江戸時代までの我が国の子育ての方法でした。

それは脳の成長過程に適した、合理的な教育方法だったのです。

脳の成長過程に合っているからこそ、漢字カードや素読に子供たちは夢中になるのです。日本中の子供たちが、こういう風に活き活きと国語を学んで欲しいものです。

読者の皆さんが小さなお子さんをお持ちでしたら、ぜひ語り聞かせ、読み聞かせを十二分にしてあげて下さい。

保育園幼稚園に入る年頃なら、ぜひ近所で石井式や素読を実施している処を探してみて下さい。定年後に時間の余裕ができた方々なら、自ら寺子屋を開いてはいかがでしょうか。

 江戸時代の教育は、こうして家庭や寺子屋が担っていました。

そうして育てられた人々が、明治日本の世界史に残る躍進を実現したのです。

 

・・・当塾でも、なかなか簡単ではありませんが、同じ思いで日々塾生の成長を願いながら、「素読」、「音読」を繰り返しています。

posted by at 18:52  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語力の基本ー素読の効用 1

国語力の必要性は、口を酸っぱくしても言い続けなければなりません。読めども読めず、言えども言えず、という子供さんを、無くすことが教育の基本です。詰まり、説明してごらん、と言うと言葉が出てこない様では、しっかり教育できていないことになります。

読んでいる文言の意味を本当に理解していると、自分なりの言葉で説明できるものです。話していても、その意味合いを理解していないと、別の言葉で置き換えることは出来ません。

大人の世界でも、伝えるべきことを人に理解して貰うには様々な工夫が入ります。これは、一朝一夕に身に付けることは出来ませんから、幼い頃から様々な言い回しを親や身近な人の言葉を聞き習わして覚えていくものです。

さて、当ブログで再々「素読」の効用を説いていますが、「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「脳科学が示す素読の効用~なぜ子供は素読に夢中になるのか?」(http://blog.jog-net.jp/202008/article_2.html)を掲載されていますので、引用してご紹介します。

(前略)

■2.言語を扱う前頭前野は3歳までに急激に発達する

 最近の脳科学では、この現象を解明する研究がなされつつあります。人間の脳で言語を扱う前頭前野は3歳までに急激に発達することが分かっています。そして、語彙力などを司る側頭葉や頭頂葉などの神経細胞は、その後も成長を続けます。したがって3,4歳で、たくさんの漢字を遊びながら覚えるのは、脳の発達過程にきわめて合致した方法なのです。

 それに比べれば、6歳で小学校に入ってから、ようやく字を教え、それも抽象的で難しいひらがなから教えるというのは、子供の成長過程をまったく無視した教育方法です。「就学前に漢字など教えるのは不可能」「やさしいひらがなから教えるべき」「小学校時代にたくさんの漢字を詰め込むのはかわいそう」などというのは、非科学的な思い込みです。

 近年の脳科学の急速な発達は、こうした現代の国語教育の思い込みが正しいのかどうか、科学的に明らかにしつつあります。その最前線を覗いてみましょう。

・・・筆者も常々考える、幼児教育と小学校教育の「断裂」が、表音文字の「平仮名」から始まる国語教育です。小学校1年生の全員が漢字など知らない筈だとの前提で、「平仮名」の読みと書きを一(いち)から始める「愚」です。

最悪なのは、「姓名」を漢字で書ける児童にまで、平仮名で名前を書くことを教師が強制することです。小学校の常用漢字に無い漢字を使わせたくない文部科学省の指示なのか、姓名を大切に扱うべきであるのに、正しい漢字を用いさせていない現実があります。これも誤った平等主義(漢字が読めない子供に合わせようとする)の一つと言えます。

■3.胎児乳児は母親の語りかけを音楽のように楽しむ

 こどもの成長過程に沿って、脳の発達と言葉の習得の関係を見ていきましょう。

 母親のお腹の中にいる胎児が、すでに母親の声を聞いていることは、科学的に証明されています。それによると、胎児は母親の次のような語り口に、快感反応を示すそうです。

1)高めの声に反応する。母親の声がより赤ちゃんに近づくせいだと考えられている。
2)声の抑揚が豊かで、音楽的な語り方。
3)同じことばのくりかえし。
4)やりとりの間が大切で、間が空きすぎたり、つまりすぎたりすると不快反応を示す。

 以上の反応は、生まれた後の乳児も同じです。声の抑揚、繰り返し、間というと、胎児乳児は母親の言葉を一種の音楽のように楽しんでいるようです。母親の語りかけや子守歌を楽しむことが言葉を学ぶ出発点です。そして、言葉は意味よりも、まず音楽としてリズムやテンポ、抑揚が大切なのです。

 たとえば、おむつを取り替える際にも、無言でやってしまうのではなく、「さあ~、おむつを取り替えましたよ。気持ちよくなったでしょう」などと母親が愛情を込めて話す。そういう語りかけを乳幼児は聞いて、快感を覚えるのです。

 そして、驚くべきことに、赤ちゃんでも母親の語りかけを真似しようとするらしいのです。考えて見れば、幼児が言葉を覚えるのも、たとえば母親が父親を「パパ」と呼んでいるのを真似する、という模倣プロセスから始まります。それと同じで、赤ちゃんも模倣を通じて、言葉を学んでいきます。

・・・母子は、誕生前も誕生後も、肌を離しても「不即不離(ふそくふり:二つのものの関係が深すぎもせず、離れ過ぎもせずという関係)」です。ある意味、全人格的なものまで子供に移し替えることが出来る関係です。それだけ、子供さんにとって、母親の存在は決定的に大きいものです。

■4.母親の読み聞かせで、子供の脳が活発に働く

 語りかけと同様の効果をもたらすのが、読み聞かせです。母親、あるいは祖父母など、近しい大人が絵本などを子供に読んで聞かせる活動です。MRI(磁気共鳴画像診断装置)は、ドーナツの形をした大きな装置で、その穴に人の頭部を入れると、脳のどの部分が活性化しているのか、画像で見る事ができます。

 母親が読み聞かせをしているビデオを見た子供の脳では、側頭葉と大脳辺縁系に活発な活動が観測されました。側頭葉は特に「聞く」ことに関係する部位です。また大脳辺縁系は感情や記憶に関わります。この事から、子供は読み聞かせを一生懸命に聞き、それを喜び、記憶しようとする事が判ります。

 また読み聞かせをしている母親の脳も調べると、一人で音読をしている時よりも前頭葉の中心付近が強く活動している事が判っています。この部分は相手のことを考える機能を司っています。つまり、読み聞かせの最中は、母親は子供のことを思いやり、子供はそれに耳を傾け、喜び、記憶しようとしているのです。

 読み聞かせの際に、子供の知らない言葉が出てきても、無理に教え込む必要はありません。言葉のリズムを繰り返し聞いて、楽しんでいるうちに、徐々に意味が分かってきます。それが子供が言葉を身につけるもっとも自然なプロセスです。

 興味深いのは、読み聞かせと言っても、スマホの読み聞かせアプリや朗読CDなどでは、その効果は半減してしまう事です。あくまで親しい大人が、心をこめて読み聞かせることが大事だそうです。

 また、乳幼児にテレビを見せることは、よくないようです。テレビ画面を見ている時には、前頭前野の血流がはっきり低下する事がしばしば起きます。映像は大きな情報量を一気に伝えるだけに、それに圧倒されて、前頭前野を使ってじっくり考える時間を奪われ、条件反射的、短絡的な反応だけ身についてしまう危険があると言われています。

 生後から3歳にかけての乳幼児期に、脳は急速に発達しますが、言葉を身につけるのに最も大切なのは、親子のコミュニケーションなのです。そして、読み聞かせは親子の極めて良質なコミュニケーションであり、子供の心が安定し、親への信頼と愛着が増し、その結果、親の子育てストレスがぐっと軽くなる、と言われています。

・・・「スマホの読み聞かせアプリや朗読CD、乳幼児にテレビを見せること」などは、多くの家庭で普段にしていることでしょう。

しかし、これを毎日続けると、お母さん方の思いとは異なり、「条件反射的、短絡的な反応だけ身についてしまう危険」があり、思春期に所謂「切れやすい」少年・少女になる可能性すらあります。

我が国の古来営々と繋いできた「祖母から母へ、母から子へ」、という言わば「手作り」の子育てが一番理にかなっている証左です。

posted by at 22:10  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

小学校受験は自立・自律のための一つのステップ

国語力を高めることを基本とする幼児教室・学習塾の羅針塾では、毎年、長崎大学教育学部附属小学校や私立小学校受験を目指す子供さんの指導もしています。小学校受験は幼児さんたちが「自立・自律」するための第一のステップです。

多くの親御さん方の入塾目的は、当然ですが殆どが「合格」さえできればいい、ということです。

しかし、実際に小学校受験を経て合格してしまうと、お母様達は

「私自身が考えさせられることが多い経験でした。親子で日々の生活から見直し、共に学んだ時間でした。また、子供の躾について改めて考え直すことができた時間でもありました。」

と話してくださいます。

合格するまでには山あり谷あり。

問題ができればいい。

言われた通りにすればいい。

・・・ではありません。

何故、そうなのか。何を身に付けなければいけないのか。

そして、何より大事なことは、小学校・中学校・高校・大学・社会人へと繋がる道のりのスタート・ラインに立ち、用意・ドンと走り出した時に、(全国的な)先頭グループに立つ力をつけておくことです。

学び出す切っ掛けが「小学校受験」でしかありません。

つまり、「学ぶ」習慣付けを「受験」することでつける。そして、これを継続することに尽きます。

当初の目標の小学校に合格しても、そこでお母さん方が合格したことに満足し、あれだけ子供も頑張ったのだからと、学校任せにしていては、学力が伸びることはありません。

筆者の見るところ、

実は長崎県内だけでみても、国立・公立・私立の小学校・中学校で学習内容や指導力・熱意などに明らかに差が有ります。

学校間に教育指導力のばらつきが無いようにと文部科学省の学習指導要領は作られていますが、これは全国的な最低レベルの一つの物差しでしかありません。

47都道府県レベルで考えると、長崎県は関東圏、関西圏からすると所謂「最果て」の地方です。長崎県内でトップレベルといっても、全国レベルではなかなか太刀打ち出来る訳ではないのが現実です。

詰まり、長崎県で一番であっても、全国では如何?・・・これは、明治期以降変わらない現実です。

そこで、全国的にも太刀打ちできる力を幼児期からつけていくことが必要になります。

それが、「語彙力」とそれを活かすことが出来る「国語力」です。

 

 

posted by at 20:04  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「ゆとり教育」「A・L」「主体的、対話的で深い学習」

国語力を高めることを基本とする長崎市五島町の羅針塾では、塾生の成長を見守りつつ、各人に応じた学びを進めています。小学生以上の塾生は、日々の学校で何を学んできているかも、常に確認しつつ更なる向上を目指します。

今冬の武漢ウィルスの日本上陸以降、教育界はその対応に大童(おおわらわ)です。罹患(りかん)を避けるための休校要請を受け、学校は授業時間の確保に苦労しているのが現状です。

その最中に、「百人の会ML」(http://100prs.info)から送られてきた記事に共感を覚えました。これを引用してご紹介します。

川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

51、ゆとり教育の亡霊「アクティブラーニング」(拡散希望)

 アクティブラーニングという言葉をご存じでしょうか。今全国の小・中・高校で行われている欧米発の授業形態の一つです。
骨子は・・・教師から教えてもらう「受動的な学習」ではなく、子供自らが進んで学習する「能動的な学習」ということです。
さすがは言葉遊びが好きな教育界、聞くほどに期待に胸が膨らみます。

多くの国民も「受け身ではなく子供が進んで勉強するというのはいいことだ」と思うでしょう。

確かにこの授業は子供の体験学習やグループ・ディスカッション、そして子供達が意見を述べ合いながら授業を進めるのですから、教室も活気があります。

しかしその雰囲気とは裏腹に、多くの子供にとっては「活動あって学びなし」の自由時間になっていることが多いのです。
賑やかな授業と学力がつく授業とは違うのです。

そして最も重要なこと、それは学習効率が悪過ぎることです。
教師主導でやれば短い時間で済むのに、この方法ではその数倍もの時間と教師の労力が必要です。
まさに労多くして功少なし、の典型です。

 コロナ肺炎による臨時休業で、学習の遅れを取り戻そうと必死になっている現在、教育界はこのような形の授業ではなく、
従来の授業スタイルの良さを見直し、学習効率を上げる必要があるのではありませんか。

 そもそもアクティブラーニングは大学の授業(一方的な講義形式の授業)を改革しようとしたのが始まりです。
それを文科省が軽率にも小・中学校教育に取り入れたのです。

 新しい学習指導要領では「アクティブラーニング」の言葉は消えましたが、
「主体的、対話的で深い学習」と言い方を変えて生き残っています。

私は断言します。
アクティブラーニングでは子供に学力はつきません。
 アクティブラーニングと聞けば、多くの人はこれまでになかった新しい教育のように思うかも知れませんが、実は「ゆとり教育」の焼き直しに過ぎないのです。

さらに言えば、教育界はこれと同じ失敗を過去に三度もくり返しているのです。
 一度目は大正時代です。大正デモクラシーの風に乗せられて教育が欧米化したことがありました。
日本の伝統的な教育法が時代遅れとされ、子供の主体性を尊重する欧米教育がよしとされたのです。
結果、子供の学力が深刻なほどに低下しました。

二度目は戦後GHQの統治下でアメリカ式の教育が取り入れられた時期です。
これも子供の主体性を重視した教育だったのですが、やはり深刻な学力低下に見舞われました。
主権回復後、政府は直ちに従来の教科中心のカリキュラムに戻しました。

そして三度目が「ゆとり教育」です。これによって、またまた子供の学力が低下しました。

現在、文科省は「ゆとり教育」から学力充実へと舵を切った、と言うことになっていますが、実は「ゆとり教育」はまだ終わっていません。
「アクティブラーニング」はその亡霊なのです。教育界は何度失敗すれば気がすむのでしょう。

 

・・・正に、正論(道理に適った主張)!  と、思います。

文部科学省の改革という名の、改悪に等しい所業のように思います。小・中・高校の教科書を手に取ると実感しますが、文章が一見易しく(しかし漢字かな交じりの言葉が混在し)絵や写真を多用し、何より教科書の厚みが無い。力の無い(読解力の無い)子供にも分かるようにとの無用の配慮がそうさせているのでしょう。

「ゆとり教育」→「アクティブラーニング」→「主体的、対話的で深い学習」へと経るごとに、学力を低下させている実態を多くの親御さん方はご存知有りません。

羅針塾では、子供さん達のご縁のある学校の授業内容を確認しつつ、漢字教育を基礎に国語力を強化し、読解力、作文力、表現力を身に付けるように指導しています。

年齢を問わず、全ての教科を学ぶ前提としての語彙力・読解力を身につけること。これが最優先です。

posted by at 19:19  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

学びの癖をつける

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、小学校就学前後の子供さんをお持ちのお母様方から、「厳しく育てること」と「伸び伸び育てること」についてのお尋ねがあります。

躾(しつけ)や教育に関し、ご自分の方針が揺らぐことがあるのは、誰しも経験があります。

基本的に、「厳しく育てる(しつける)こと」と「伸び伸び育てること」は、二項対立(*)的な関係にはありません。

(*二項対立=論理学で、二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。また、概念をそのように二分すること。内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋など。二分法。)

一個の人としての人格形成に必要な常識・礼儀・作法は、日本人として身に付けておかなければなりません。これが出来ていないと、「お里が知れる」「親の顔が見たい」「非常識」と大人になってから、暗に批判されかねません。

芸能,芸道、武芸、武道,などにおいて,技芸上の典型として,また規範,規則として尊重されるものに、「型(かた)」があります。いわゆる名人の域に達する人と言えども、初学者の時は厳しく「型(かた)」を覚え込まなければならず、出来るまで厳しく叱責されます。

一方、

「子どもの本性を尊重して、自由で自然な成長を促すことが教育の根本である」、というジャン・ジャック・ルソーの『エミール』で著された考え方もあります。また、これを支持する我が国の教育者もいます。

『エミール』は教育理論の古典となっていますが、酷薄非情な父親が高邁な子育て論を書いた偽善の書とも言われています。何故なら、ルソーは自分が作った5人の子供をすべて孤児院に棄てているからです。

さて、

「厳しく育てる(しつける)こと」と「伸び伸び育てること」の矛盾しない一つの例として、「日本の礼儀作法」〜宮家の教え〜(竹田恒泰著 マガジンハウス出版)p.11~から引用してご紹介します。

名前を大切にすること

父も厳しかったが、それに増して厳しかったのは父方の祖父母だった。私は小学校二年生から三年生にかけての約一年間、家の事情で高輪の祖父母の家に預けられていた。そこで習ったのは、礼の仕方、箸の上げ下げ、風呂の入り方、服の畳み方、神前での作法、玄関では靴を揃えること、そして、我慢すること・・・。大切なことは頭ではなく体で覚えさせられた。三十年近く前に教わったことが自然と身についているのは、幼少期の躾のお陰だろう。今の私の立ち居振る舞いは、子供じぶんに既に決定されていたように思える。

この一年間は、私の人生の中で、最も厳しい躾を受けた時期だったと思う。祖父母とも普段は優しく接してくれたが、決して贅沢(ぜいたく)はさせてもらえなかったし、我儘(わがまま)は一つも聞いてもらえなかった。そして、私が何か間違いを起こすと、祖父の雷が落ちて、小学生だった私はその度に震え上がって泣いた。テレビを見ている祖父の視線を遮って怒鳴られたことは何度もあった。

忘れもしない、ある晩のことである。私は食堂の大きな机に着いて、祖父の前で学校の宿題をしていた。私が提出する宿題に、自分の名前を汚い字で殴り書きするのを目にした祖父は、平手を机に叩きつけて立ち上がり、宿題の紙をずたずたに破り捨てて、耳を擘(つんざ)くほどの大声で怒鳴った。

「自分の名前を粗末にするな!」

祖父の突然の剣幕に恐れおののく幼い私をよそに、祖父は自分の部屋に行ってしまった。すると、それを見ていた祖母が、わなわなと震える私に優しく声をかけてくれたのだった。「ぐすん、ぐすん」と泣く私に、字が汚いから怒られたのではなく、名前を粗末にしたから怒られたということを教えられた。そして「竹田」というのは明治天皇から賜ったもので、「恒泰(つねやす)」という名は祖父がつけてくれたことを初めて聞かされた。

(中略)

祖父は「自分に誇りを持て、家に誇りを持て、先祖に誇りを持て、そして皇室と日本に誇りを持て」と言いたかったのだと思う。

(中略)

社会人になってから、大切にすべきは、自分の名ばかりではないことを知った。人には必ず名前があって、それぞれに思いが込められている。だから、人様の名前を書き間違えたり言い間違えたりすることはあってはならないことであり、名前は丁重に扱わねばならないことがわかった。手紙の宛名を丁寧に書くのも同じである。

以来、私は自分の名前を粗末に書いたことは一度もない。もしあの時、祖父の怒りに触れていなければ、あのまま、名前を大切にしない大人になっていたことだろう。怒鳴られずに、宿題のプリントを破り捨てられずに、ただ優しい言葉だけで説明されても、きっと骨身に染みることはなかったと思う。

・・・最近の風潮として、「叱る」べき時に、躊躇なく叱るのではなく、説明して判らせようとする親御さんもおられるようです。考え方は様々ありますが、時や所、場合に関わらず、「叱るべき」ときには「為らぬものは、為らぬ」と叱る親や祖父母など周りの大人の気概は必要です。

怒鳴られずに、宿題のプリントを破り捨てられずに、ただ優しい言葉だけで説明されても、きっと骨身に染みることはなかった」と、大人になっても感謝出来る人に、日本の子供さん達にはなって欲しいものです。

人としての有り様(ありよう:有るべき姿、理想的なあり方)を、躾や作法を通して身に付けることが、「学び」の癖をつけることにも繋がります。

 

 

posted by at 18:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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