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努力の大切さをどう説くか。

幼児教室・学習塾の羅針塾では、夏休み期間に普段できないことをしっかり学びます。

例えば、漢字の練習。

意味を調べ、書き順を正しく、偏や旁(つくり)、訓読み・音読みに気をつけて、繰り返して練習をします。

そして、熟語や諺(ことわざ)もあわせて学びます。

国語力の基礎となる語彙(ごい)は、漢字が基本です。漢字は、表音文字であるとともに、表意文字でもあります。一見すると複雑ですが、漢字をマスターすると、様々な表現をできる様になります。

従って、小学校の頃に努力して漢字力をつけると、国語力を大きく向上させることができます。

その「努力」をすることの大事さを伝える戦前の修身の教科書から一節を引用します。

「ヨイコドモ」下(小学校2年生)(昭和16年2月発行)

「ヨイコドモ」下  六、ヤナギニ蛙

六、ヤナギニ蛙

昔 ヲノノタウフウト イフ 人ガ アリマシタ。

小サイ 時カラ ジノ ケイコヲ シテ ヰマシタガ、思フヤウニ

ウマク カケナイノデ、ヤメテシマハウカト 思ヒマシタ。

アル雨ノ日ニ、タウフウガ、庭ニ オリテ 池ノソバヲ 見ルト、

一ピキノ蛙ガ、シダレヤナギノ枝ニ、トビツカウト シテ ヰマシタ。

トンデハ 落チ、トンデハ 落チ、何ベンモ 何ベンモ 

クリカエシテ ヰマス、

トウトウ ヤナギノ 枝ニ トビツキマシタ。

タウフウハ コレヲ 見テ、コンキヨクスレバ、

何ゴトモ デキナイ コトハ ナイト 氣ガ ツキマシタ。

タウフウハ、ソレカラ イッシンニ

ジ ヲ ナラヒマシタ。

ズンズン ウマク ナッテ、ナダカイ カキテト

ナリマシタ。

小野道風(おのの とうふう)平安時代中期の貴族。能書家(能筆:文字を書くのが上手なこと)。醍醐天皇から冷泉天皇まで四代の天皇に仕え、中務省に所属し宮中の文書を書くことを仕事とした。唐風な書体から脱して、和様書道の基礎を築いた人。小野道風・藤原佐理・藤原行成を「三蹟」(さんせき:平安中期の三人の能書家、またはその筆跡)と称される。

 

・・・努力をし続けることの大事さを、分かり易い例えで当時の小学校2年生に伝えています(現在の八十四〜八十六歳ぐらいの年齢に成られる世代でしょうか)。

戦前の修身や国語の教科書は、正しい日本語を用い、綴り方(書き方、読み方と並ぶ国語教育の一分科。現在の作文。)の練習にもなる様な文章が多いので、大いに参考になります。

 

 

 

 

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センスは論理的思考 で磨かれる

幼児教室・学習塾の羅針塾では、学年に応じた「作文」に塾生を挑戦させています。夏休みの長期休暇中は文章修行には最適。普段から「作文」をする機会をなかなか取れないのが、現状の学校教育です。

成人に近づくに従って、文章修行を自力でしなければなりませんが、その基礎となる「作文」は、小学校低学年からしておかなければならない、とても大事な国語教育です。

さて、

メルマガで配信される軍事・インテリジェンス専門メルマガのインテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)氏の『武器になる「状況判断力」』から。→

https://www.mag2.com/m/0000049253

「論理的思考法(スキル)の向上が創造的思考法(センス)を活性化し、その相乗効果で状況判断力が高まる」

・・・が興味深い話でしたから、少し長い記述ですが引用してご紹介します。

▼状況判断力はスキルかセンスか?

ビジネスの世界では「スキル」か「センス」かという議論があります。戦略・戦術、インテリジェンスを語る際にも同様の議論があり、ここでは「アート」か「サイエンス」かという喩えがよく用いられます。
スキルはサイエンス、センスはアートに相当します。思考法については論理的思考法と創造的思考法(直観)がありますが、前者はスキルで後者はセンスに該当します。

スキルは分解して数値化・具体化できます。たとえば、学力はスキルなので算数、国語、社会などに分類でき、英語はTOEICで何点といったように数値化できます。しかし、服装センスや人間性などは数値化・具体化できません。大衆を魅了する、異性にモテするのは総合的なセンスがあるというほかありません。

このような両者の違いから、スキルは後天的であって養成が可能とされています。企業などがKPI(重要業績評価指標)などを用いて、社員の能力を分解・評価し、それぞれの指標を定めて人材育成を行なうのはスキルの養成です。一方、センスは先天的なもの、総合的なものであり、センスを養成する確率的な方法はないと一般的によく言われています。

経営者には一般的にスキルよりもセンスが重要であり、社員はスキルが重要とされます。そして、しばしば養成が困難であるセンスを養成することが論じられます。

▼状況判断力を分解する

では、状況判断力はセンスかスキルのどちらに属するのでしょうか?

まず状況判断が統率や指揮の要素であるという視点から考察してみましょう。

統率は統御と指揮に分かれます。

統御は組織内の各個人にやる気を起こさせる心理工作であり、指揮官の個性、人格などが影響することが大きいのでセンスです。これには形になった養成法がありません。

一方の指揮は、状況判断、決心、命令、監督などに分類できす。

また、米陸軍などがマニュアル化した状況判断のアプローチは、敵の可能行動と我の行動方針を掛け合わせて、賭けゲームの理論を適用して行なう論理的思考法です。

だから、指揮は統御との対比ではスキルです。

そして指揮の一要素である状況判断もスキルと言えそうです。だからか、軍隊では戦術教育などを活用して、状況判断が必要な場面を想定し、それを学生に付与して、時間内に判断と決断を行なわせ、それに基づく計画や命令の作成などの訓練を通して状況判断能力や指揮能力を訓練します。

・・・令和3年で大東亜戦争後(昭和20年)76年経過しますが、

日本の大学教育で、軍事に関わる戦争論や戦略・戦術論の講義を行うところはないのが現状です。企業内での人材教育や企業の経営理論には、軍事分野で議論される様な様々な理論を活用しています。日本の大学の教育界は、世界の標準からすると、所謂教育の「ガラパゴス化*」とも言える状況です。

*ガラパゴス化:日本の教育が国際標準からかけ離れている現状をガラパゴス諸島の動物などの生態系に擬(なぞら)えること。

▼状況判断にもセンスが重要

しかしながら、状況判断にセンスの要素がないわけでありません。状況判断に必要な情報の収集や分析だけをとっても「情報センス」との言葉があるようにセンスが必要不可欠です。

また、実際には過去の多くの名将は、戦略眼あるいは洞察力ともいえる瞬間的な状況判断力で苦難を乗り越えてきました。このような瞬間的な洞察力や判断力をフランス語で「クードゥイユ(Coupd’oeil)」と言います。

ジョミニ中将は「どんなに優れた戦略計画を作れる将軍でも、クードゥイユがなければ戦場で敵を目の前にしたとき、自身の戦術理論を適用することはできない」(松村劭『勝つための状況判断学』)と述べています。クードゥイユとは第六感、まさしくセンスなのです。

第六感であるクードゥイユが養成できるかどうかについては意見の相違があります。

ナポレオンは、この才は神から与えられた先天的なものと考えていたようですが、クラウゼヴィッツは、「この才は、先天的に決まるものではなく、経験と教育の積み重ねによって得られるもの」と述べています。

▼ハドソン川の奇跡とは

さて、センスはまったく養成できないのでしょうか? そもそもセンスとは何でしょうか?
高度な状況判断を必要とする職業といえば、真っ先に挙げられるのはパイロットではないでしょうか。

坂井優基『機長の判断力』(2009年5月)の中で、2009年1月のチェスリー・サレンバーガー機長が行った「ハドソン川の奇跡」について書かれています。これは2016年に映画化されましたので鑑賞された方もいるかと思います。
坂井氏の著書は「ハドソン川の奇跡」が起きたわずか4か月後に出版されたました。同事件が本書の刊行の流れを決定づけたと言えますが、坂井氏は常々、サレンバーガー機長と同じような修練を積んでいたから、このような著書を短期間に書き上げることができたのだと考えます。
以下は同著からの抜粋です。

 

米国MSNBCの事故後の速報画面から

 

「2009年1月15日、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立ったUSエアウェイズの旅客機1549便が両方のエンジンに鳥を吸い込みました。
……エンジンの中心部に吸い込まれた鳥がエンジンの内部を壊し、その結果、両方のエンジンとも推力をなくしてしまいました。チェスリー・サレンバーガー機長は、両方のエンジンが故障したことを知ると、直ちにハドソン川に降りることを決意して実行しました。それによって乗客・乗員155名全員の命が助かりました。この事故では機長の決断と行動が大勢の人の命を救いました。どれ一つを間違えても大事故になった可能性があります。……まず何が一番素晴らしかったのかというと、離陸した元の空港に戻ろうとしなかったことです。機体も乗客も両方無事着陸させたいというのは、パイロットにとって本能のようなものです。川に降りると決断した時点で、機体の無事は切り捨てなければなりません。
もし、このときに機長が離陸した空港に戻ろうとしていたら、途中で墜落して、乗客・乗員の命が助からなかったのみならず、燃料をたくさん積んだジェット機が地上に激突して、地上にいるたくさんの人も犠牲になったに違いありません。また、機長は着水場所にイーストリバーではなくハドソン川を選びました。……イーストリバーにはたくさんの橋がかかっており、もしイーストリバーを選んでいたら、橋に激突した可能性があります。さらに操縦方法の問題もあります。……着水時の速度も問題です。
……これだけの判断をしながら機長は飛行機を止める場所までも選んでいました。

このようなケースの際は、船が近くにたくさんいる場所に止めることが素早く救助してもらう鉄則です。今回はまさにフェリーがたくさんいるフェリー乗り場のそばに着水させています。……機長は全員の脱出を確認してから機内を二度見て回り、いちばん最後に自分が脱出しました。……これからどんなことが言えるのでしょうか。

いちばん重要なのはよく準備した者だけが生き残るということです。グライダーの操縦を練習し、心理学の勉強をし、NSTB(NationalTransportation SafetyBoard、国家運輸安全委員会)のセミナーに参加し、日ごろから様々な状況を考えて、頭の中でシュミレーションしていたからこそできた技ではないかと思います。

もう一つ重要なのは、切り捨てるという決断も必要ということです。もし飛行機も乗客も両方救いたいと思えば、結果的に全てを失っていたはずです。……」

 

▼センスであっても養成はできる部分はある

この記事は「優れた状況判断は平素からの地道な修練の賜物である」ことを如実に物語っています。ただし、機長の優れた状況判断は論理的アプローチにより手順を追って行われたというよりも、咄嗟の総合的な判断であったとみられます。つまり、機長はクードゥイユあるいはセンスを発揮して状況判断を行ない、危機を脱し、乗客の命を救いました。
ここで注目すべきは、機長は常日頃から、身体を鍛え、グライダーのライセンスを取得し、起こり得る危機を想定し、危機が現実となった時に何を判断すべきかをイメージトレーニングしていたという点です。

すなわち、常日頃からスキルを磨いていたからこそ、咄嗟のセンスが発揮できたのです。
物事や環境に対するすべての状況判断は論理的思考と創造的思考の併用よると言っても過言ではありません。「結局はセンスが大切」といって、一見小難しい論理的アプローチを一蹴し、感覚や直観だけに頼より物事を処理するではなく、意識して一定の論理的思考法や技法を取り入れることが、一部であるかもしれないがセンスを磨くと考えます。
すなわち、論理的思考法(スキル)の向上が創造的思考法(センス)を活性化し、その相乗効果で状況判断力が高まると考えます。ここに軍隊式「状況判断力」の意義があると考えます。

・・・軍隊式「状況判断力」なんて、日本の教育界では先ずタブー(taboo:言及したり、行ってはいけないこと)です。しかし、文科省の進めんとする小・中学校の「思考力・判断力・表現力等の育成」には、現実の世界で活用できるレベルにつながる様な基礎教育でなければ、単なるお題目となりかねません。その為には、現実の社会で起きた事例を、ケース・スタディ(事例研究)として活用することが肝要です。

posted by at 16:33  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

小学校英単語700〜800語ー中学進学時に覚えていることが前提

幼児教室・学習塾の羅針塾では、「暗記しなければならない」ではなくて、「暗記するのが当たり前」になる様に塾生を指導しています。

つまり、音読を徹底するとともに、筆記することに日常的に取り組みながら、進度・理解に応じて、自然と暗記できる様になって欲しいと考えています。特に、漢字・英単語の暗記は学力向上の要と考えるからです。

然るに、現在の教育界の風潮は、かっての大学の受験地獄と言われた暗記中心の勉強を忌避し、小学校で暗記することを習慣づけることをしません。

例えば、小学校英語の覚えておくべき単語数は700〜800語。これを4.5.6年生の数年間、週2時間の学習で身につけなければならない、とされています。ところが、実際の教育現場では、会話中心の授業に終始し、子供さん達には、何を習ったのかを再現できない様な状況が起きています。

問題の根は、深い。

日本の子供達にとっては、英語のアルファベットを習いローマ字を習得し(但し、ヘボン式ではない)、それから英単語を覚えていく、というのが従来のプロセスです。

ところが、

現在の文科省は、「児童生徒に身に付けさせたい情報活用能力」として

文字入力に関しては,学習指導要領解説の「国語編」に4年から3年生にローマ字の指導が変更になった理由として「コンピュータを使う機会が増え」と書かれていることからも,3年生からローマ字による正しい指使いでの文字入力(タッチタイプ)の指導を行うものとする。https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/056/shiryo/attach/1249670.htm

として、コンピュータのキーボード上でローマ字を書くことを奨励しています。

これでは、英語を手書きですることなく学ばせようという愚策を実践させようとしている、と断言出来ます。

覚えるべきときに、手を用いて繰り返すことで、英単語を習得するのが本来の在り方です。

況(いわ)んや、英語はアルファベット26文字の組み合わせですから、呪文の様に言いながらスペルを覚えていかざるを得ません。

よく言われるネィティブ(native)の発音通りで綴ると、正しいスペルは日本人は書けません。

 

笑い話ですが、

筆者の大学受験時代に学んだ先生のお話です。

ある英語の先生が研修旅行でアメリカに行ったとき、ニューヨーク駅の切符売り場で汽車の切符を買おうとしました。目的地の「フィラデルフィア」と英語教師らしく発音すると、何回言っても通じないので困ってしまわれたそうです。後ろには切符を買う人がたくさん並んで居る。気は急くが通じない。

ご本人曰く、最後に痺れを切らして、

「古道具屋(フル ドウグヤ)!!」

と叫んだら、

「 O.K.  Philadelphia」

と切符をくれたそうです。・・・因みに、不謹慎ですがこの先生の英文法の授業で今も唯一覚えている英語の話です。

 

・・・話は脱線しましたが、

正しい英単語や英文は、愚直に発音しながら、筆記体で書くことです。

覚えるまで!!!

 

結局、

五歳前後から飛躍的に記憶力が伸びる小学校三年生(十歳頃)迄に、所謂「読み・書き・算盤」の基本をシッカリ身につけることが出来れば、無理なく学力の向上を図ることが出来ます。英語も同様です。

また、英語に限らず、フランス語、スペイン語、ドイツ語など、語学を身につけるには、読み・書きを覚えるまで繰り返すことにつきます。

小学校受験の利点 暗記力の向上

幼児教育・学習教室の羅針塾では、「記憶力は三歳がピーク」(https://rashinjyuku.com/wp/post-1958/)というブログを先に掲載していますが、幼児期から通塾し、小学校受験を経た子供さんの学力向上が順調なことを痛感しております。

その一つの例として、年中(五歳児)から通塾し始めて、小学校受験を経た小学校一年生。右脳(機械的記銘能力)と左脳(論理的記銘能力)が交差する頃に近づく時期ですが、見事に長文を暗唱できる様になりました。音声動画は下記をクリックしてください。

 https://drive.google.com/file/d/10hBUbe_KIrz1XVWum_-O3U1SgkO2Xo6d/view?usp=drivesdk

 

「二宮翁夜話」(二宮尊徳の門人・福住正兄が、師の身辺で暮らした4年間に書き留めた《如是我聞録》を整理し、尊徳の言行を記した書。二宮尊徳の自然、人生、歴史観ならびに報徳思想を、平易に私心を交えず伝えた書。)の中の最初の夜話1です。

因みに、暗記した文章は以下の分量です( A4のプリントに19行)。

二宮翁夜話

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医学を志す人の為の戒め 教科書に載らない歴史上の人物 28 緒方洪庵4 

国語力を教育の根本に据える幼児教室・学習塾の羅針塾では、「学ぶ」ことの意義を幼なくても意識するように心掛けています。

近代医学の礎をつくった緒方洪庵は、数多(あまた:多くの)の人材を育てました。

その教えの一端を示すのが以下のドイツの医学者フーフェラントの医学書の抄訳(しょうやく:原文の一部を翻訳すること)です。

現在及び将来、医学の道を志す日本の若者に、是非一読し、その意を汲んで精進して欲しいものです。また、この緒方洪庵の抄訳は医学に限らず、様々な分野で活躍するプロフェッショナルな社会人となる為の基本をも示していると考えます。

江戸時代までの教育を受けた俊英(才能の優れていること)な先人達に共通する語彙力、漢籍に通じた漢字力など、現在の教育では及びもつきません。義務教育で用いる漢字を制限するような国語教育では、古典を理解する力などつきようがありません。

読解力をつけるには、まず正しい漢字熟語などをしっかり小学生の時に身につけることが早道です。

 

「扶氏経験遺訓」大阪大学H.P(https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku/achievements.html)より引用

 

扶氏医戒之略」緒方洪庵抄訳

一、 人の為(ため)に生活して己のため生活せざるを医業の本髄(ほんずい)とす 安逸(あんいつ)を思はず名利(みょうり)を顧(かえり)みず唯(ただ)己(おのれ)をすてて人を救はん事を希(ねが)ふべし。 人の生命を保全し人の疾病(しっぺい)を複治(ふくち)し人の患苦(かんく)を寛解(かんかい)するの外、他事(たじ)あるものに非ず。

(筆者訳 :漢字熟語の意味合いを理解しやすくするために括弧書きを付しています)

一、人の為に生活して己の為に生活しないことを医業(医者としての仕事)の本随(元の元、模範)とする。安逸(気楽にのんびりと楽しむこと)を思わず、名利(名誉と利益)を顧みず(気遣わず、心配せず)、唯(ただ:ひたすら)己を捨てて人を救おうと希う(強く望む)べきである。人の生命を保全し(人の安全を保ち)て、人の疾病(病気、疾患)を複治(治療して回復すること)し、人の患苦(疾患の苦しみ)を寛解(病気の症状が軽減、またはほぼ消失すること)すること以外のなにものではない。

二、 病者に対しては唯病者を見るべし、貴賎貧富(きせんひんぷ)を顧りみること勿(なか)れ。 一握(いちあく)の黄金(こがね)を以(もって)貧士(ひんし)双眼(そうがん)の感涙(かんるい)に比(ひ)するに何ものぞ、深く之(これ)を思うべし。

二、病者(病気にかかっている人)に対しては唯(ただ:ひたすら)病者を見るべきである。貴賎貧富(身分の高い低い、貧しいか豊かか)を顧みる(気遣い、心配する)ことをしてはいけない。一握りの黄金と貧しき人の両目から溢れる感激の涙を比べることがあってはならない。深くこのことを思うべきである。

 

三、 其(その)術を行うに当っては病者を以って正鵠(せいこく)とすべし。決して弓矢となすこと勿(なか)れ、固執(こしゅう)に僻(へき)せず、漫験(まんし)を好まず、謹慎して眇看(びょうかん)細密(さいみつ)ならんことを思うべし。

三、その医術を行うに当たっては、病者(病気にかかっている人)を正鵠(狙いどころ、的の中心)とすべきである。決して、弓矢(的を射るための方法・手段)としてはならない。固執(考え・態度を簡単に変えないこと)に僻(偏る、片寄ること)せず、漫験(目的なく、気ままに、試す、調べること)を好まないで、謹慎(言動を反省し、行いを正すこと)して眇看(目を細めて、良く看護すること)細密(細かな点まで行き届いていること)でありたい、と思うべきである。

 

四、 学術を研精(けんせい)するの外(ほか)、言行に意を用いて病者に信任せられん事を求むべし。然(しか)れども時様(じよう)の服飾を用い詭誕(きたん)の奇説を唱(とな)へて、聞達(ぶんたつ)を求むるは大(おお)いに恥じるところなり。

四、学術(専門性の高い学問)を研精(細かに研究すること)する以外に、言行(言葉と行い)に意(こころ、思い)を用いて病者(病気にかかっている人)に信任(信用し、任せること)されようと努めるべきである。然れども(そうであっても)、時様(その時の流行の風俗)の服飾(衣服と装身具)を用い、詭誕(実なき言葉、空言、嘘)の奇説(奇妙な説)を唱えて(主張する、提唱する)、聞達(立身出世すること)を求めるのは大いに恥とすべきである。

 

五、 病者を訪(と)ふは粗漏(そろう)の数診(すうしん)に足を労(ろう)せんよりは、寧(むし)ろ一診(いっしん)に心を労して細密ならんことを要(よう)す。然(しか)れども自(みず)から尊大(そんだい)にして屡々(しばしば)診察するを欲(ほっ)せざるは甚(はなはだ)悪(にく)むべきなり。

五、病者(病気にかかっている人)を訪う(訪問する)ことは粗漏(物事の扱いがいい加減で、手落ちのあること)の数診(数回の診察)に足を労する(足を運ぶ)よりは、寧ろ(どちらかと言えば、いっそ)一診(一度の診察)に心を労して(こころ、気持ちをはたらかせて)、細密(細かな点まで行き届いていること)であることを要する。然れども(そうであっても)、自ら尊大(威張って、いかにも偉そうな態度を取ること)にして、屡々(しばしば)診察することを望まないことは甚だしく悪むべき(あってはならないこと)である。

 

六、 不治(ふじ)の病者も仍(よっ)て其(その)患苦(かんく)を寛解(かんかい)し、其生命(せいめい)を保全(ほぜん)せんことを求むるは医の職務なり。棄(すて)て顧(かえ)りみざるは人道(じんどう)に反(はん)す。たとひ救う事能(あたは)ざるも、之を慰(い)するは仁術(じんじゅつ)なり。片時(かたとき)も其(その)命を延(のべ)んことを思うべし。決して其(その)死を告(つぐ)るべからず。言語容姿皆(みな)意(い)を用(もち)いて之(これ)を悟(さと)らしむること勿(なか)れ。

六、不治の病者(治る見込みのない病人)も、仍(よっ)て(それゆえ、そのために)その患苦(患いの苦しみ)を寛解(病気の症状が軽減、またはほぼ消失すること)し、その生命を保全(安全であることを保つ)しようと努めることは医者の職務である。棄てて(関係を断ち)顧みないことは人道(人として守るべき道)に反することである。たとえ救うことが出来なくとも、これ(不治の病者)を慰する(慰める)ことは仁術(最高の徳である仁(思いやり、慈しみ)ある術(技、技能)である。片時(ほんのわずかな時間、一瞬)もその命を延べん(先へ延ばすこと)ことを思うべきである。決してその死を告げてはならない。言語容姿(言葉や姿かたち)のすべて意(心の働き、気持ち)を用いてこれ(死)を悟らせることがあってはならない。

 

七、 病者の費用少なからんことを思ふべし。命を与(あた)ふるも命を繋(つな)ぐ資(もと)を奪(うば)はば亦(また)何の益かあらん。貧民に於ては茲(ここ)に甚酌(しんしゃく)なくんばあらず。

七、病者(病気にかかっている人)の費用(病を治すための金銭)は、少ないであろうことを配慮しなければならない。命を与えても(救っても)、命を繋ぐ(生き続ける)資(もとで、財産)を奪ってしまえば、亦(また、やはり)何の利益が有るだろうか。貧民(貧しい人)においては(の場合には)茲(ここに)斟酌(相手の事情・心情に心配りをすること)がなければならない。

 

八、 世間に対しては衆人(しゅうじん)の好意を得(え)んことを要(よう)すべし。学術卓絶(たくぜつ)すとも、言行(げんこう)厳格(げんかく)なりとも、斉民(さいみん)の信(しん)を得(え)ざれば之(これ)を施(ほどこ)すところなし。又周(あまね)く俗情(ぞくじょう)に通(つう)ぜざるべからず。殊(こと)に医は人の身命(しんめい)を委托(いたく)し赤裸(せきら)を露呈(ろてい)し最蜜(さいみつ)の禁秘(きんぴ)をもひも啓(ひら)き、最辱(さいじょく)の懺悔(ざんげ)をも告(つ)げざることは能(あたは)ざる所なり。常に篤実(とくじつ)温厚(おんこう)を旨(むね)として多言(たごん)ならず、沈黙(ちんもく)ならんことを主(しゅ)とすべし。博徒(ばくと)、酒客(しゅかく)、好色(こうしょく)、貧利(どんり)の名(な)からんことは素(もと)より論をまたず。

八、世間(世の中、世の人々)に対しては衆人(多くの人、大勢)の好意を得ることが必要である。学術(専門性の高い学問)が卓絶(他に比較するものがないほどに優れていること)していても、言行(言葉と行い)厳格(怠慢、誤魔化しが一切ない厳しい態度)であっても、斉民(人々を苦しみから救うこと)の信(信用、信頼)を得なければ、これ(医術)を施すところがない。また、周く(隅々まで、漏れなく)俗情(世間の事情や人情)に通じなければならない。殊に(とりわけ、特別)、医術は人の身命(身体と命)を委托(委ねる、任せる)し、赤裸(丸裸、包み隠しのないこと)を露呈(あからさまになること)し、最密(最も秘密であること)の禁秘(禁制された秘密)をもひも啓き(あける、広げる)、最辱(最も恥ずかしいこと)の懺悔(告白し、悔い改めること)をも告げないでいられないところである。常に、篤実(情に篤く誠実であること)・温厚(人柄が穏やかで、温かみがあること)を旨(主とする、中心とすること)として、多言ならず(口数が多くなく)、沈黙ならん(物静かであるべき)ことを主(もっぱらであること)とするべきである。博徒(博打うち)、酒客(酒を飲むひと)、好色(異性に対して淫らな気持ちを抱くこと)、貪利(利をむさぼること)の無いようにすることは素より(元々、元来)論を俟たない(ことさら論ずるまでもない)。

 

九、 同業の人に対しては之(これ)を敬(けい)し之(これ)を賞(しょう)すべし。たとひ然(しか)ること能(あたは)ざるも勉(つと)めて忍(しの)ばんことを要すべし。決して他医(たい)を議(ぎ)するなかれ。人の短(たん)をいふは聖賢(せいけん)の明戒(めいかい)なり。彼が過(あやま)ちを拳(あ)るは小人(しょうじん)の凶徳(きょうとく)なり。人は唯(ただ)一朝(いっちょう)の過(あやま)ちを議せられて己(おの)れ生涯の徳を損(そん)す。其(その)損失(そんしつ)如何(いかん)ぞや。各医(かくい)自家(じか)の流(りゅう)有(あり)て、又(また)自得(じとく)の法(ほう)あり。慢(みだ)りに之(これ)を論(ろん)すべからず。老医は尊重(けいちょう)すべし。少輩(しょうはい)は愛賞(あいしょう)すべし。人若(も)し前医(ぜんい)の得失(とくしつ)を問(と)ふことあらば勉(つと)めて之を得(とく)に帰(き)すべし。其(その)冶法(ちほう)の当否(とうひ)は現症(げんしょう)を認(みと)めざるは辞(じ)すべし。

九、同業の人(医者)に対しては、これを敬し(敬い)これを賞す(褒め称える)べきである。例え、然る(そうである)ことが出来ないとしても,勉めて(可能な限り、できるだけ)忍ばん(我慢する、堪える)ことを要す(必要とする)べし。決して他の医者を議する(意見を述べ合う、審議する)ことなかれ(してはならない)。人の短(欠点、短所)を言うことは聖賢(聖人と賢人)の明戒(明らかな戒め、訓戒)である。彼が過ち(他の医者の過ち)を拳る(具体的に示す)ことは、小人(器量の少ない、人徳の無い人)の凶徳(性質が悪い、おそろしい品性・人格)である。人は唯(わずかな、ほんの)一朝(ある時)の過ち(過失)を議せられて(意見を言われ、審議されて)、己の(自分自身の)生涯(人生)の徳を損す(損なう、傷つける)。其の損失は如何ぞや(どんなであろうか)。各医(それぞれの医者)は自家の流(自らの流派、流儀)が有り、また自得の法(自分の力で会得した方法)がある。慢りに(あなどって)これを論じてはならない。老医(老人の医者)は尊重(尊いものとして重んずること)すべきである。小輩(経験の少ないとも輩・ともがら)は、愛賞(愛しんで褒めること)すべきである。人が若し(仮に)、前医(先に診察した医者)の得失(成功と失敗)を問うことがあれば、努めて(できるだけ)これ(前医)を得に帰すべし(有利に結論づけるべきである)。その治法(治療の仕方、方法)の当否(正しいか、正しくないか)は現症(現在の症状)が認められない限りは辞すべき(断る、辞退すべき)である。

 

十、 毎日夜間(やかん)に方(あた)って更(さら)に昼間(ひるま)の接病(せつびょう)を再考(さいこう)し、詳(つまび)らかに筆記するを課定(かてい)とすべし。積(つ)んで一書(いっしょ)を成(な)せば、自己の為にも病者(びょうしゃ)のためにも広大(こうだい)の脾益(はいえき)あり。

十、毎日、夜間に方って(向けて)更に(あらためて)昼間の接病(診察の様子)を再考し(もう一度考え直し)、詳らかに(詳しく、細かい点まで明らかに)筆記することを課定(問い試みて定めること)とするべきである。積んで(長い期間をかけて、次第に積んだり高めたりすること)一書(一冊の書物)を成せば(作り上げれば)、自己の為にも病者(病気にかかっている人)の為にも、広大(広く大きいこと)な脾益(利益となる、役に立つこと)がある。

 

十一、治療(ちりょう)の商議は会同(かいどう)少なからんことを要す。多きも三人に過(す)ぐべからず。殊(こと)によく其(その)人を選ぶべし。只管(しかん)病者(びょうしゃ)の安全を意として、他事(たじ)を顧かえりみず、決して争議の及(およ)ぶ事勿(なか)れ。

十一、治療の商議(相談すること、協議)は会同(会議のために人々が集まること、会合)を少なくすることが必要です。多きも(多くても)三人以上にならないようにすべきである。殊に(更に、加えて)よくその人を選ぶべきである。只管(ひたすら、一途に)病者(病気にかかっている人)の安全を意として(心掛けて)、他事(その人の関係ないこと)を顧みず(気遣わず、心配しないで)、決して争議(互いに意見を主張しあって、争うこと)に及ぶ(達する)ことをしてはならない。

 

十二、病者曽(かつ)て依託(いたく)せる医を舎(す)て窃(せつ)に他医(たい)に商(はか)ることありとも、漫(みだ)りに従(したが)うべからず。先(ま)づ其(その)医に告げて其その説を聞くにあらざれば従事(じゅうじ)すること勿(なか)れ。然(しか)りといへども、實(じつ)に其誤冶(ごち)なることを知て、之(これ)を外視(がいし)するは亦(また)医の任(にん)にあらず。殊(こと)に老険(ろうけん)の病(やまい)にあっては遅疑(ちぎ)することある勿(なか)れ。

十二、病者(病気にかかっている人)が、曽(かって、以前)依託(頼んで、任せてやってもらうこと)をしていた医者を舎て(捨てて、離れて)窃に(ひそかに)他の医者に商る(相談する)ことがあっても、慢りに(思慮なく、無分別に)従うべきではない。先づ(まず)、その医者に告げて、その説(説明、意見)を聞くことがなければ、従事(治療)するべきではない。然りといへども(そうであったとしても)、實(実際)に其誤冶(その診察、治療の誤り)であることを知て(知った以上は)、之(このこと)を外視(捨てておくこと、問題にしないこと)することは、亦(やはり)医師としての任(果たすべき役目)ではない。殊に(とりわけ、特別に)、老険(年老いて、険しい、危険な)の病にあっては、遅疑(疑い迷って、躊躇(ためら)って)することはあってはならない。

 

上件十二章は扶(ふ)氏医訓(いくん)巻末に附(ふ)する所の所戒(しょかい)の大要を抄譯(しょうやく)せるなり、書して二三子(にさんし)に示し亦(また)以て自警(じけい)を云爾(いふのみ)

安政 丁巳(ひのとみ) 春正月     公裁誌

上件(上に掲げた)十二章は、扶氏(フーフェラント氏)の医訓(いくん)巻末に附(ふ)する所の所戒(戒め、訓戒)の大要(要点、あらまし)を抄譯(抜書きをして訳したもの)である。

扶氏・・・ドイツの医者“フーフェラント”のこと、イェナとゲッティンゲン大学に学び、生都ヴァイマルで医業に従い、ゲーテやシラーの診察も行なった。イェナ大学教授、国王の侍医兼医学校長、公衆病院最高医、ベルリン大学の教授、ジェンナの方法を用いて天然痘の予防に努力し、チフスの撲滅にも力を尽くし、また統計学にも功績がある。主著の内科書「エンケリドーメディカム」は、実際編を緒方洪庵が訳し、「扶氏経験遺訓」として出版され、広く読まれた。(1762~1836)

 

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