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国語力と「鉛筆の握り方」

幼児教育・学習塾の羅針塾では、小学校受験を経て順調に力を付けつつある小学校一年生の日々の学びの中で、「鉛筆の握り方」は常に注意を喚起しています。

羅針塾では小学校受験時期を過ぎると、片仮名から始まり、漢字、平仮名と文字を書く訓練をします。鉛筆の持ち方、左手の添え方、机に座る姿勢など、日本人なら当然出来て当たり前のことを、しっかり身に付ける様にしています。

正しい食事の作法と、正しい学びの作法は、「姿勢」や箸や鉛筆の「持ち方」から始まります。

偶然、それに関連した新聞記事を発見。

西日本新聞の「『センセー、肩が凝るとよ』どこかおかしい・・・・この鉛筆の握り方」(https://news.yahoo.co.jp/articles/633e7c9149c49813372fd106917613d5f608c417

から引用してご紹介します。

 そもそも、なぜ、鉛筆は正しく握らなければならないのか。  

正しく握れば、疲れず、速く、長時間書くことが可能になる。授業にも集中できるし、板書をノートに書き写すのも苦にならなくなって、学力向上にもつながる。

「それとは逆に、根気が続かず、漢字練習をやりたがらない子は、鉛筆の握り方が悪い子に多いんです」(福田教諭)  

だから小学校では入学後すぐ、ひらがなを書き始める時期に、正しい鉛筆の握り方を指導する。毎時間、声掛けをしながら、正しい握り方を意識させ、定着させるわけだ。

 「姿勢や筆記具の握り方を正しくし、文字の形に注意しながら、丁寧に書くこと」。低学年の「書写」について、文部科学省の学習指導要領は、そう定めている。  

現実はどうか。

入学以前に、我流の悪い握り方が癖になっている子もいる。福田教諭の観察では、周囲の大人も正しい握り方をしている方が少数派。書き順も含め、児童が強く影響されている様子がうかがえた。

 教育現場でより重きを置かれるのは、例えば国語なら、児童の鉛筆の握り方がどうかより、文字を覚えているか否かの方だ。ベテラン教諭は「鉛筆を持つ姿勢とか、テストに反映されないものの指導は、どうしても後回し」と言う。

指を曲げる筋肉は首や胸回りと、指を伸ばす筋肉は背筋とも連動する。「肩凝りの要因には、変な握り方や崩れた姿勢による筋肉の異様な緊張もある」。

村田さんの指摘を受けた福田教諭が、あらためて児童の様子を観察すると、鉛筆を正しく握れない子どもには、きちんと着座していないという明白な特徴があった。

教員や保育士、研究者などで組織する「子どものからだと心・連絡会議」(議長=野井真吾日本体育大教授)がまとめた2019年版白書によると、養護教諭が最近増えたと実感する、子どもの体に関する変調のうち、「首・肩の凝り」は中学生で68%に上る。  

鉛筆の握り方や姿勢が原因だと断定はできないが、中学生になって突然そうなったわけではなく、鉛筆の握り方に表れるような、生活習慣の積み重ねの結果と考えるべきではないか。

 幼い頃についた癖はなかなか直らない。だが、指導する側に「鉛筆の握り方は一生もの」という問題意識がなければ、目の前で進行している事象の怖さは見えない。  

「教師もまた、最初にひらがなを教える時は、鉛筆の握り方や姿勢について声掛けするが、それ以降は、ほかに教えるべきことに意識が向き、目配りが減る傾向にある」。長年の経験から、そう考えた福田教諭。学校ぐるみでこの問題に取り組もうと、仲間たちに提案をした-。

 

・・・正しい鉛筆の持ち方が出来ていないと、中学校・高校、さらに大学へ進学する際に、授業や講義の筆記に支障が出てきます。顕著なのは、大学の講義です。基本的に、講義を受ける側のレベルを斟酌することなく、教授の講義は長時間続きますから、早く正確にノートに筆記しなければなりません。

いつの時代になっても、素早くメモを取るというのは筆記が一番です。

その為の、一番基礎になるのが「鉛筆の正しい握り方」です。

【鉛筆の正しい握り方】

(1)鉛筆を親指と人さし指でつかみ、中指で支える

(2)鉛筆の軸に人さし指を沿わせるように持つ

(3)人さし指は折り過ぎず、親指よりやや先に出る

(4)鉛筆の角度は横から見て約30度、前から見て外側に約20度傾ける。

posted by at 21:46  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

学力向上の秘訣

幼児教室・学習塾の羅針塾では、塾生の学力向上の要諦(ようてい:物事の肝心なところ)は、お母さんの力にあると常々申し上げています。

当然といえば当然ですが、

第一に子供さんと日々接する機会が一番多い訳ですから、その親子の会話に緒(いとぐち:物事の手掛かり、切っ掛け、端緒)があります。つまり、子供さんの語彙力をつける機会が毎日の会話にあるからです。

幼児期・少年少女期に応じて、言葉の使い分けを適宜教えていくと、その積み重ねは膨大なものとなっていきます。

例えば、同じ音でも以下の様に様々な漢字との組み合わせによって、意味合いも用い方も異なります。

あう・・・会う、合う、逢う、遭う、遇う

あがる・・・上がる、揚る、挙がる、騰る

あく・・・開く、空く、飽く、明く

また、感情を表す形容詞(嬉しい)でも、同じ意味合いの表現が多彩にあります。

はしゃぐ、喜ぶ、満足、浮かれる、気を良くする、心が弾む、胸を躍らせる、胸をときめかせる、など。

第二に、子供さんの健康状態、気分を一番把握していますので、適宜手綱を引いたり緩めたりすることが出来ます。学ぶ機会は生活の様々な場面にある訳ですから、買い物や散歩の時にも、質問したり、興味を持たせたりすることで、考えるヒントも与えられます。

例えば、看板に書いてある漢字を聞いてみたり、買い物の計算や、商品の表示を見て生産地や流通の仕組みを考えさせることもできます。

つまり、経験を通して思考力をつける機会が町中に溢れています。

第三に、日常生活の中で新聞やインターネットの記事・話題などを引用して、未知のものへの興味を持たせることが出来ます。また、お母さん方の友人知人との会話の中にも、言葉や敬語の用い方など、子供さんに学ばせるヒントがあります。

 

 

・・・机について教科書や問題集を解くだけが「学び」ではありません。「聞く」「話す」ことから始まりです。「三つ子の魂百まで」という様に、三歳前後から脳の働きは飛躍的に上がります。母と子の言葉のキャッチ・ボールは繰り返すほど上手になります。お母さんの投げるボールは、当初は胸元の受けやすい所へ投げ、上手くなるにつれ高いボールや低いボールを投げることで、足腰も強くなっていきます。

posted by at 13:01  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

読書感想文と作文

夏休み最終盤に差し掛かり、子供さん達は宿題に追われている頃です。

親御さんの悩みの種は、読書感想文。小学校の夏休みの定番です。

先のブログに、作文で「書く」力をつけることが出来るのか?https://rashinjyuku.com/wp/post-category/schoolmaster/でも述べました。

が、読書感想文の最大の課題は、「課題図書」にあると考えます。親御さん方からすると、「課題図書」とある以上は、この中から一冊を選び、書かなければならない、という強迫観念に囚われてしまいがちです。

羅針塾では、「課題図書」を読んだ塾生が、なかなか書けない、書きづらいという場合には、さっさと「課題図書」に挑戦するのをやめて、塾生が感動する本を見つける様に勧めます。

何故なら、「課題図書」を読んで筆が止まる塾生に問うと、感動したり、心が動くところがない、と応えるからです。

つまり、国語力の芽生える頃に、感動したり、心が動くところがない「課題図書」を繰り返し読んでも、筆が進まないのは当然です。

筆者も、塾生が書こうとする「課題図書」を必ず読みます。すると、塾生が書けない理由が判明します。今風な優しい言葉が、つらつらと並び、平板な日常生活を描いたものが殆どです。

この傾向は教科書も同様です。

世の中には、古今東西を問わず、子供達に厳しい現実があることを教えていかなければ、例えば、災害や事故、疫病、戦争に対処できる心構えはできません。

多くの小学生は、平和で平凡な生活がいつまでも続かない、というのを肌感覚で感じています。ひょっとすると、日本の長い歴史の中で営々と繋いできた御先祖様が、見たり、聞いたり、経験して来たことが、子供達のDNAに記憶されているのではないかと、と思えます(いつの日かDNAの解析が証明するときが来るのではないでしょうか)。

そう仮定すると、歴史に基づいたり、事実に基づく話の方が、子供達の心を打つことが分かります。

フィクション(作者の想像力で作られた物語、創作、作り話)よりもノンフィクション(虚構によらず事実に基づく伝記・記録文学など)が、心を揺り動かす様です。

なかなか筆が進まない塾生が、ノンフィクションを何回も何回も読んでいると、心の内から少しずつ言いたい言葉が出て来ます。その言葉や文章が出てくると、作文の形が見えて来ます。

そこに至るまで、何回も何回も繰り返し読み、何回も何回も書き直していきます。そうすると、自分自身で書き上げ切る様になってきます。

そうすると、その経験が表現するための語彙力を増やし、国語力を上げ、文章を書ける様になってきます。

その時を「待つ」ことが、親御さんの度量です。

親御さんが「期日までに仕上げさせなければならない」と考えると、つい「こう書けば」とか、「こう思うよ」という親御さんの作文になってしまいます。

これでは、いつまで経っても「作文」を書けない、「作文」が苦手な子供を作ってしまうことになります。

羅針塾の作文指導は「啐啄の機*」まで辛抱強く待つことで、塾生の力を発揮させていきたいと考えています。

*( 卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がつつくことを「」といい、それに合わせて親鳥が外から殻をつつくのを「」という。 雛鳥と親鳥が、内側と外側からつつくタイミングが一致することで、殻が破れて中から雛鳥が生まれ出てくる。「 碧巌録」の言葉。)

年長さんのオリジナル作品(A4の紙に展開図を描き、巧みにハサミを用いて立体的に組み立てたオートバイ)

 

posted by at 00:34  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

作文で「書く」力をつけることが出来るのか?

国語力を身に付け「書く」力をつけることは、結論から言いますと、現在の学校教育では一朝一夕にはできそうも有りません。

現在の子供さんたちが最初に原稿用紙に向かうのは、小学校に就学した一年生時。

教科書を音読するにも、訥々としか読めない。それなのに、いきなり夏休みに課題図書などを指定し、読書感想文を書きなさい、という宿題です。

一学期の学校の国語の時間に、平仮名やカタカナと若干の漢字を学んだ段階で、いきなり読書感想文という「作文」を課す、という先生方の神経(?)がそもそも理解不能です。例えると、自転車に乗った経験がない子供に、補助輪もつけていない自転車に乗って、買い物のお使いに出すようなものです。

文章修行のイロハのイも学校では教えずに、丸投げで夏休みの宿題とされては、各家庭のお母さん方は作文を子供さんに書かせるのに四苦八苦です。稀に、学校から「作文の書き方」という一枚のプリントがあったりするのはお笑いです。何故なら、そのプリントの文言を読んでも、通り一遍の一般論でしかなく、それで書かせることが出来るとは思えない代物だからです。

それに比べ、我が国の歴史を振り返ると、漢籍の素養を身につけたり、和歌を嗜む(たしなむ)ことで幼児期から少しずつ、読む力から書く力へと学ばせるシステムが出来上がっていたように筆者は考えます。

例えば、「和歌」です。

和歌をわかりやすく紹介されているブログ「令和和歌所」(https://wakadokoro.com)からの引用です。

和歌は元来「大和歌(やまとうた)」といい、古来から歌い継がれてきた日本独自の韻文です。
なかでも知られているのが「五・七・五・七・七」いわゆる「三十一文字(みそあまりひともじ)」の短歌形式の和歌だと思いますが、奈良時代に編まれた日本最古の歌集「万葉集」には「五・七」の繰り返しいかんで「長歌」「旋頭歌」といった異なる形式の和歌も存在しました(後世には「俳句」や「都々逸」といった形式も生まれます)。しかしそれが平安時代の初代勅撰和歌集「古今和歌集」の頃には短歌形式が圧倒的主流となり、今私たちがよく知る姿に整います。

ちなみに「五・七」の音節を好んだのは日本人だけではありません。中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠(*)によって発展していったのです。

(*)朗詠(ろうえい:詩歌を声高らかに歌うこと

少し漢詩に触れましたが、和歌は漢詩と比較することで特徴が際立ってきます。実のところ和歌と漢詩は違うところだらけなのです。
和歌は韻文(*)でありながら韻(ライム)(*)を踏みません、極端にいえば三十一文字に収まってさえいれば歌であるのです。しかし漢詩は違います、偶数句の末字で必ず韻を踏みますし、平仄(*)も整えなければなりません。まずこの違いをどう考えるか?

(*)韻文(いんぶん:(漢詩・賦など)韻を踏んだ文。(詩や和歌、俳句など)韻律を整えた文。

(*)韻(いん:詩文で、同一もしくは類似の響きを持つ言葉を、一定の間隔或は一定の位置に並べること)。

(*)平仄(ひょうそく:つじつま、順序)

私は和歌に規律が少ないのは、誰でも詠むことが出来るようにおのずとそうなったのだと思います。漢詩(唐詩)人の主役は科挙試験に及第した博識の文人たちがほとんど、精緻を極めた詩文で自らを主張したのです。

一方の和歌、万葉集をみればわかりますが天皇から果ては乞食まであらゆる人間が歌を詠んでいます。つまり和歌とは、折々の遊宴などに際してみんなで即興的に詠み歌い楽しむもの、まさに「和歌」であったのです。

あいにく平安時代の主な歌集には宮廷貴族の歌しか残っていませんが、それをみても天皇から下級官人まで男女へだてなく歌を詠み、宮廷の慶弔から歌合せそして恋のひめごとまで、公私を問わずコミュニケーションの主流をなしていたことがわかります。

漢詩(唐詩)についていえば女性詩人はほとんど名が残っていませんから、和歌とは紀貫之がいうとおり万人にとっての「歌」であったのです。

花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける
(古今和歌集 仮名序)

さて、和歌に規律が少ないとはいえ、しだいに和歌は和歌たらしめる修辞というものが発展していきました。掛詞(*)や縁語(*)といった技法です。これを駆使することで平安歌人たちは和歌を文学にまで高めたのです。それは翻って和歌に知性が宿ったということです、ここでようやく和歌は漢詩に引けを取らない教養となりました。

(*)掛詞(かけことば:一つの言葉に二つ以上の意味を持たせた修辞法の一つ)

(*)縁語(えんご:一つの言葉に意味上縁のある言葉を使って面白味を出す修辞法)

・・・上記(古今和歌集 仮名序)の「花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける」は、
「鶯であれ、蛙であれ、生とし生けるものすべては、歌を詠まないであろうか(いや、詠むであろう)」、というくらい誰しもが親しむことが出来るというのです。

父や母が、また祖父や祖母など身近な人々が日頃から、歌を詠み習わしていれば、幼子であっても、自然と和歌の素養を身につけてきたことでしょう。

和歌を通じて、言葉を覚え、自然や季節の移ろい、人の情感などを、繰り返し朗詠することで、身に付ける素養は、現在の国語教育に欠落したもののように思えるのは筆者だけでしょうか。

これは漢詩の朗詠も同様です。

中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠によって発展していったのです。

漢詩は大学の詩吟部や一般の詩吟の会などに、詠み継がれていますが、幼児期や小学生などに朗詠(または音読でも)させるのは大きな効果があると思います。

そのような言葉に親しみ、人の心や自然を詠み込むことを不断(ふだん:絶え間ないこと)に続けていれば、結果として、自らの言葉を紡いで文章を連ねること(「作文」)が出来るのではないでしょうか。

 

posted by at 00:02  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語力の基本ー素読の効用 2

国語力をつけることが、子供さんたちの「学ぶ」力を大きく伸ばしていく、ということにお母さん方が「氣」付いて頂くと、子供さんたちの学ぶべき道が見えて来るのではないでしょうか。

幼児さんや小学生をお持ちのお母様方が、自らの学びの来歴を考えられると、幼少期に何をすべきであったかが、ご理解できると思います。お母さん方の母上も悩みながら、子育てをされていた筈です。

年を経て振り返ると、ああすれば良かった、こうすれば良かった、というのが人生でもあります。

さて、「国語力の基本ー素読の効用」の続きです。

「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「脳科学が示す素読の効用~なぜ子供は素読に夢中になるのか?」(http://blog.jog-net.jp/202008/article_2.html)からの引用とご紹介です。

■5.「一人一人の目がかがやき」

 3,4歳になると、「聞く、話す」から「読む」段階に進みます。その際に使われる伝統的な教育方法が「素読(そどく)」です。

 素読とは「言葉(文章や文、単語)を、意味の理解を伴うことなくその字面を追って、あるいはお手本となる発話者の発音通りに声を出して読むこと」です。冒頭の石井式の漢字カードもこの一種です。「意味の理解を伴うことなく」という点が肝心で、文字を見ながら、意味が分かろうが分かるまいが構わずに、先生の発音を真似て発声します。

 ドイツ文学者の安達忠夫・埼玉大学名誉教授は自宅の近所の子供たちを集めて、寺子屋を始めた時の経験をこう書かれています。
__________
 子どもたちは受け身で楽しむより、いっしょに唱えたり、積極的にかるた遊びをしたりするのが大好きです。試みに、わたしの国語体験の原点ともいうべき「いろは」も教えてみました。
 一人一人の目がかがやき、愉快そうに笑っている子もいます。数週間平仮名だけの音楽をたっぷり楽しんだあと、こんどはいきなり、漢字まじりの「いろは歌」です。最初、子どもたちはいぶかしげな表情を見せましたが、わたしが唱えていくと、打てば響くような反応がかえってきました。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

・・・当塾でも、武漢ウィルスが収束するまでは、自粛中ですが。

「素読」「音読」は、夏の蝉と同じ様に、塾生の誰かが、大きな声で読みだすと、それに呼応して誰かが大きな声で読み始めます。すると、不思議なもので、あちこちで、ミーン、ミーンとセミが泣くかの如く、唱和し始めます。

声を大きく出すと、何故か元気になるのも不思議です。

■6.意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている

「意味不明のことばなのに、子供たちはなぜ、あんなに生き生き反応するのか?」

この疑問を科学的に追求すべく、安達教授は、脳科学を専門とする東北大学の川嶋隆太教授と共同研究を始めます。

 川嶋教授は、「意味のある文章」を黙読している時と、「意味のない文章」を黙読している時の脳活動を比較しました。「意味のない」とは、一つの文章の文字をランダムに並び替えて、「み日地千実比道に湯て口原区は」などとしたものです。

 両者の脳活動はほとんど同じでした。これは意味が分かっても、分からなくとも、脳は同じように活動する、ということです。ただ右半球の頭頂葉、書かれた文字の意味の理解をする機能をもっていますが、ここは意味のない文章を読んだ場合の方が活発に動いていました。ランダムに並んだ文字から、なんとか意味を読み取ろう、と努力しているのでしょう。

 意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている、ということは、素読によって脳が活発に動き、発達する、という事でしょう。したがって脳を育てるために、素読は効果的だということです。

 しかも、意味を問わない分、どんな難しい文章でも、たくさん音読できますから、子供たちは大量の語彙を吸収することができます。しかも、皆で一緒にリズミカルに声を出すという主体的な動きで、模倣と繰り返しの好きな子供たちは楽しみながら、言葉を学ぶことができるのです。

・・・何故か、人も蝉も賑やかで大きな声には、反応し活性化する、みたいな研究ですね。

■7.意味を問わない幼年期、意味を考え始める少年期

「意味を問わない」という点が、近代教育に慣れた我々から見ると、理解しにくい点です。

「意味も分からずに論語の文章を音読できるようになって、何になるのか」と考えてしまいます。

 脳の成長過程では、二つの臨界期があります。3歳までに脳の7~8割ができあがって、聞いたり話したりできるようになります。この幼年期では、模倣と繰り返しが大好きで、意味を考えることなく、言葉のリズムや響きのみでも楽しめます。ですから、幼年期に楽しみながら、大量の言葉を音と文字の図形だけでも吸収しておくことができるのです。

 8~10才を超えた少年期になると、意味を知りたい思いが顕在化してきます。この時期になると、幼年期の素読の時に潜在的記憶の中に蓄積されていた語彙の意味が分かると、ハッとするのです。

 たとえば、『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という一節の意味を知っている人はほとんどいないでしょう。意味も分からずに、ただ歌っているのは、ちょうど素読と同じです。

 さざれ石とは、石灰質角礫岩と呼ばれる石の一種で、小石が長い年月の間に、セメントで固めたように、互いにくっついて、やがて大きな巌(いわお)となります。まさに一人ひとりの国民が連帯して、大きな「和の国」となっている日本の象徴です。

 幼年期には意味も分からずに歌っていた歌詞が、何年かして、こういう意味だと知ったときに、「そうだったのか」という感動とともに、より深く心に刻まれるのです。

 このように、幼年期に素読で大量の語彙をその響きとともに、潜在記憶に蓄えておき、少年期以降に自分が出会った際に体験的に意味を理解して、その言葉を我が物とする、というプロセスは、脳の発達のプロセスから言っても、きわめて合理的なやり方なのです。

・・・この感覚は、「国歌」を斉唱するたびに子供時分の筆者も感じていました。

『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という箇所は、「さざれ石の岩」「大人となりて」という風に思いながら、長い間歌っていました。

それが、長じて「細石『さざれ)石」の実物を、長崎県千々石町の橘神社で見、謂れを理解した事で長年の疑問が氷解しました。

■8.「意味が分かる」ということの意味

 我々は「意味が分かる」という事の意味を考え直さなければなりません。

たとえば、小学生に「情けは人のためならず」の意味を説いて、「人に情けをかけることは、自分のためにもなるんだ」と一応の理解をさせることはできるでしょう。

しかし、小学生では「ふ~ん」と聞いても、頭の中で意味を知的に理解したというだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。

 その後、中学生くらいになって、電車の中でお年寄りに席を譲ったら、お礼を言われて、自分自身が爽やかな思いをし、「あ、これも情けは人のためならずだな」と素読で習った事を思い出したら、どうでしょう。

それまでの理知的な理解に対して、実感の籠もった深い理解に達します。物事の意味とは、体験の積み重ねを通じて、理解が深まっていくものです。

 とすれば、はじめから言葉の意味を説明して、小中学生の段階で「分かった」と思い込ませてしまうよりも、その時はまだ分からない事として、その後の人生で徐々に自分なりに感じ、考えながら、意味の理解を深めていく、という方が、深い学問につながります。

 こう考えると、現代教育で、就学前はあまり「聞く」「話す」の機会を与えず、入学するといきなり、抽象的なひらがなから「読み」「書き」、「意味」まで一気に教える、というのは、いかにも人間の成長過程を無視した「押しつけ」教育に見えます。

だから、小学校の教室では、冒頭に紹介した保育園ほど子供たちは活き活きしていないのでしょう。

 3才までは家庭で母親や祖母などから、たっぷり語りかけ、読み聞かせをしてもらって脳を育て、3才以降は素読を中心に、先生の読みを模倣しながら、なるべく多くの言葉の音とリズムをくり返し潜在記憶に蓄える。8~10才からは、勉強と人生経験を積んで、それらの言葉の意味の体験的理解を深めていく。

 これが江戸時代までの我が国の子育ての方法でした。

それは脳の成長過程に適した、合理的な教育方法だったのです。

脳の成長過程に合っているからこそ、漢字カードや素読に子供たちは夢中になるのです。日本中の子供たちが、こういう風に活き活きと国語を学んで欲しいものです。

読者の皆さんが小さなお子さんをお持ちでしたら、ぜひ語り聞かせ、読み聞かせを十二分にしてあげて下さい。

保育園幼稚園に入る年頃なら、ぜひ近所で石井式や素読を実施している処を探してみて下さい。定年後に時間の余裕ができた方々なら、自ら寺子屋を開いてはいかがでしょうか。

 江戸時代の教育は、こうして家庭や寺子屋が担っていました。

そうして育てられた人々が、明治日本の世界史に残る躍進を実現したのです。

 

・・・当塾でも、なかなか簡単ではありませんが、同じ思いで日々塾生の成長を願いながら、「素読」、「音読」を繰り返しています。

posted by at 18:52  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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