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『大学』を素読する15

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、日々の学びの中で語彙を増やす為、「漢字検定」に向けて漢字熟語の意味を辞書で調べてノートに記していきます。

さて、『大学』を素読する15です。

康浩(こうこう 浩の氵を言偏)に曰わく、惟(こ)れ命(めい)常に于(おい)てせずと、善なれば即(すなわ)ち之を得、不善なれば即(すなわ)ち之を失うを道(い)う。

楚書(そしょ)に曰わく、楚國(そこく)は「以て寶(たから)と為す無く、惟(ただ)善以(もっ)て寶(たから)と為すと。

舅犯(きゅうはん)曰わく、亡人(ぼうじん)以(もっ)て寶(たから)と為す無く仁親(じんしん)以(もっ)て寶(たから)と為すと。

(現代語訳) 康浩(こうこう 浩の氵を言偏)に「天命はいつもその人の上にあるとは限らない」とあるのは、善は積み重ねて徳が高くなれば天命は自然に授けられるが、遂に悪行を積み重ねて徳が亡くなると意に反して天命を失うと言うことを言ったものである。

楚書(今の国語の中の楚語)に楚国には特に誇るほどの宝は無いが唯一の宝としているのは善行を積む優れた家臣である。

舅犯(晋の文公の母方の伯父)が文公を戒めて「我々亡命中の者には、宝とすべきものは何もない。ただ親の死に仁の道を以て対することを宝とする」と言っている。

秦誓(しんせい)に曰わく、若(も)し一个(いっか)の臣(しん)有らんに斷斷(だんだん)として他技(たぎ)無く、其の心休休(きゅうきゅう)として、其れ容るる有るが如し。人の技(ぎ)有る、己(おのれ)之(こ)れ有るが若く、人の彦聖(げんせい)なる其の心之を好みし、啻(ただ)に其の口より出ずるが如きのみならず、寔(まこと)に能く之を容(い)流。以(もっ)て能(よ)く我が子孫黎民(れいみん)を保んぜん。尚(こいねが)わくば亦(また)利あらん哉(かな)。

人の技(ぎ)有る。媢疾(ぼうしつ)して以(もっ)て之を惡(にく)み、人の彦聖(げんせい)なる、之に違(たが)いて通(つう)ぜざらしむ。寔(まこと)に容るる能(あた)わず、以(もっ)て我が子孫黎民(れいみん)を保んずる能(あた)わず。亦(また)ここに殆(あやう)い哉(かな)と。

(現代語訳) 秦誓(書経周書の篇)に、ここに一人の重臣がある。生真面目ではあるが特に秀でた才能があるわけではないが、その心はおおらかで、全てのものを包み込むようである。人の秀れた才能のあるのを見て、自分があるように喜び、人が大変立派だという評判があると、それを心からよいとして、単に口先で褒めるだけでなく、本心からこれを受け入れる。こうして我が子孫万民を保んずるであろう。まことに心から利があるように願うばかりである。

それとは逆に、人の才能のあるのを悪み、人が秀れて評判が良いのを見て世に通じないようにする。このように本心から包み込むことができない。これでは子孫万民を保んずることはできない。なんと危ういことだなとある。

・・・「善は積み重ねて徳が高くなれば天命は自然に授けられるが、遂に悪行を積み重ねて徳が亡くなると意に反して天命を失う」の例は、所謂(いわゆる)『善因善果 悪因悪果』とも言われます。善行の勧めは四書(大学・中庸・論語・孟子)の中にさまざまな表現と共に繰り返し述べられています。

また、日本の『実語教』にも、「己が身を達せんと欲せば、先ず他人を達しめよ』とあります。「利己ではなく利他」の心を持つことが、結局最後は我が身に返ってくる、と。

 

posted by at 19:26  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する14

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、日々の会話の中でも正しい言葉遣いで話すことを奨励しています。その為にも正しい国語文法を学ぶことが大事です。

さて、『大学』を素読する14です。

詩に云わく、樂只(らくし)の君子は民の父母と。民の好む所之(これ)を好み、民の惡(にく)む所之(これ)を惡(にく)む。此(これ)を之(これ)民の父母と謂(い)う。

詩に云わく、節(せつ)たる彼(か)の南山、維(こ)れ石(いし)巗巗(がんがん)たり。赫赫(かくかく)たる師尹(しいん)、民具(とも)に爾(なんじ)を瞻(み)ると。國(くに)を有(たも)つ者は以て愼(つつし)まざる可(べ)からず。辟(へき)すれば即ち天下の僇(りく)となる。

詩に云わく、殷(いん)の未(いま)だ師(もろもろ)を喪(うしな)わず、克(よ)く上帝(じょうてい)に配す。儀(よろ)しく殷(いん)に監(かんが)みるべし。峻命(しゅんめい)易(やす)からずと。衆を得(う)れば即(すなわ)ち國を得(え)、衆を失えば即(すなわ)ち國を失うを道(い)う。

是(こ)の故に君子は先ず徳を慎む。徳有れば此れ人有り。人有れば此れ土(ど)有り。土(ど)有れば此れ財(ざい)有り。財(ざい)有れば此れ用(よう)有り。

徳は本(もと)なり。財は末なり。

本を外(そと)にして末を内にすれば、民を爭(あらそ)わしめて奪うことを施(ほどこ)す。

是(こ)の故に財(ざい)聚(あつま)れば則(すなわ)ち民(たみ)散じ、財(ざい)散ずれば則(すなわ)民(たみ)聚(あつ)まる。

是(こ)の故に言悖(もと)りて出ずる者は、亦(また)悖(もと)りて入る。貨(か)悖(もと)りて入る者は、亦(また)悖(もと)りて出(い)ず。

(現代語訳)

○詩経(南山有台篇)に、「ゆったりとして楽しげな君主は民の父母」とあるが、民の好む所を好み、民の悪む所を共に悪む。このように民と好悪を共にする君主を民の父母というのである。

○詩経(小雅節南山篇)に、「そそり立つ高いあの南山は、石がいかめしく積み重なって、天下の総ての人が仰ぎ見るように、週の太師である尹氏という人は、地位が優れて高く、民は目を睜(みは)って彼を仰ぎ見詰めている」とある。国を有(たも)つ君主は慎まねばならない。私利我欲に片寄ってわがままになると、身は弑(しい)せられ国は亡されて、大きなはずかしめを受けることになる。

○詩経(大雅文王篇)に、「殷(いん)は善政を施してまた人望を失わず上帝(天)と並んで天子の位にいたが、紂(ちゅう)に至り暴政を施して人望を失い、遂に天位を失ってしまった。そこで殷の変遷を見て、自らを顧みる鑑(かがみ)とせよ。天の大命はそうやすやすと降るものではない」とある。これは衆望(しゅうぼう)を得れば国を得、衆望を失えば国を失うことをいうのである。

○そこで君主は先ず徳を積んで慎む。そうしてそのその高徳の君主をしたって自(おのずか)ら四方から集まってくる。人が集まって来れば、土地が拓ける。土地が拓けると財物が多く生産されるようになる。財物が多く生産されれば、そこからいろいろな働きが活発に起こってくるわけである。

○要するに徳が本で財は末である。

○本である徳をおろそかにして、末である財を重んずれば、遂には民を争わせて奪い合うことを勧めることになるのである。

○そこで税を厳しく取り立てて、国に財が集まりすぎると、民衆は生活が苦しくなって他国へ去って行くようになる。逆に財を活用して民衆の幸福をはかれば、その風を聞いて他国からもどんどん集まってくるようになる。

○これと同じく道理に反した無茶な言葉を吐くとその仕返しとして暴言が返って来る。また財も無理をし入れたものは、やがて意に反して出て行くものだ。

・・・・・「徳が本で財は末である」「税を厳しく取り立てて、国に財が集まりすぎると、民衆は生活が苦しくなって他国へ去って行くようになる」などは、日本の「(経済成長しない)失われた30年」と重なります。税の国民負担率がほぼ50%にもなり、江戸時代の税負担よりも大きくなると、一揆が起きてもおかしくありません。更に、今年の米不足騒動は、大正時代の「米騒動」に匹敵します。

因みに、寛永14(1637)年の島原の乱は、島原藩主松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てが原因です。松倉勝家は、乱平定後一揆を招いた責任を問われ改易処分となり、後に斬首。江戸期に大名が切腹ではなく斬首とされたのはこの件のみです。

 

posted by at 17:19  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する13

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、塾生は先ず5分間目を閉じて正座をします。心を落ち着けて、これから学ぶことについて平穏に臨む態勢をつくる為です。

さて、『大学』を素読する13です。

所謂(いわゆる)天下を平らかにするには、其の國を治むるに在りとは、上老(かみろう)を老として民(たみ)孝に興(おこ)り、上(かみ)長を長として民(たみ)弟(てい)に興(おこ)り、上(かみ)孤(こ)を恤(あわれ)みて民(たみ)倍(そむ)かず。是(ここ)を以(もっ)て君子に絜矩(けつく)の道有るなり。

(現代語訳) 「天下を平らかにするには、其の國を治むるに在り」とあるのは、君主が老人を老人として心から大切にすると、民は自ら自分の親に孝養を励むようになる。君主が年長者を年長者として大事にすると、民は自ら兄や姉に率直に従うようになる。君主が孤児(みなしご)を憐れんでよく面倒を見ると、民は心から従うようになる。そこで君主には君主としてのよるべき尺度(基準)となる道があるわけである。

上(かみ)に悪(にく)む所を以て下(しも)を使う母(なか)れ。下(しも)に悪(にく)む所を以て上に事(つか)うる母(なか)れ。前に悪(にく)む所を以て後に先(さき)んずる母(なか)れ。後ろに悪(にく)む所を以て前に従う母(なか)れ。右に悪(にく)む所を以て左に交わる母(なか)れ。左に悪(にく)む所を以て右に交わる母(なか)れ。此(これ)を之(こ)れ絜矩(けつく)の道と謂う。

(現代語訳) 上位に対して嫌だと思うことを以て下位の者を使ってはならない。下位に対して嫌だと思うことを以て上位に事えてはならない。前に対して嫌だと思うことを後ろに移してはならない。後ろに対して嫌だと思うことを以て前に移してはならない。右に対して嫌だと思うことを以て左に交わってはならない。左に対して嫌だと思うことを以て右に交わってはならない。これを人間交際の尺度(基準)と謂うわけである。

・・・上段の「天下を平らかにするには、其の國を治むるに在り」として君主としてのよるべき尺度(基準)を説いているくだりは、古代の政治も現代の政治も同様である筈です。しかしながら、現代の日本の政治指導者に、古典の素養があるとは思えないのが現状です。政治家を志す以上、聖賢の古典をしっかり心に刻み付けて、国民の為に尽力するのが当然であるべきです。

posted by at 18:47  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する12

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。「素読」をするには、基本的に正座と腹式呼吸が必須です。腹式呼吸は口から呼気(こき:口から肺の空気を出す)をし、吸気は鼻からします。その際、肺を膨らませないでお腹を膨らませます。つまり、肺を動かさず、お腹が上下動します。

さて、『大学』を素読するシリーズは12回目です。

詩に云わく、桃の夭夭(ようよう)たる、其の葉蓁蓁(しんしん)たり。之(こ)の子于(ここ)に歸(とつ)ぐ、其の家人に宜(よろ)しと。其の家人に宜(よろ)しくして后(のち)、以(もっ)て國人(こくじん)を教(おし)うべし。

詩に云わく、兄に宜(よろ)しく弟に宜しと。兄に宜(よろ)しく弟に宜しくして后(のち)、以(もっ)て國人(こくじん)を教(おし)う可(べ)し。

詩に云わく、其の儀(ぎ)忒(たが)わず、是(こ)の四國(しこく)を正すと。其の父子兄弟と為りて、法(のっと)るに足りて后(のち)、民(たみ)之に法(のっと)るなり。

此(これ)を國を治むるには、其の家を齊(ととの)うるに在りと謂う。

(現代語訳) 詩経(周南桃夭編)に、桃の花が美しく咲き、その葉がみずみずしく茂っているように、教養豊かに成長した娘が嫁いで行き、その家人とよく調和するとある。このように婚家の人々と和やかに調和して後に、その国の人を教えることができるわけである。

詩経(小雅蓼蕭編)に、兄に宜しく弟に宜しとある。家の中の日常生活に於いて、君主がその地位に誇らず、兄弟が和やかに睦み合う姿が、兄弟の道を無言で国人に教えることになるわけである。

詩経(曹風鳲鳩編)に、君子の行為が人の道に叶って、自ら四方の国を正すとある。これは君主が家の中でよい父子、兄弟となって後に民がこれを手本とするようになるのである。

これを国を治むるには、その家を齊(ととの)うるに在りと謂うわけである。

・・・君主たるものは、国を収めるに、先ず自らの家庭を齊えることが基本である、と。古今東西を問わず、君主の地位にあるものは、全て同様であることは、さまざまな歴史を紐解くとよく分かります。

翻って、各個々人も同様に考えると、まず家庭ありき。安定して家族仲良くあることが全ての基本です。

posted by at 18:19  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

どんな職業についても国語力は必須です。

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。「素読」をするには、基本的に正座と腹式呼吸が必須です。正座は腰を立てる(立腰:りつよう)姿勢として最適です。

さて、President Onlineのブログ記事が目に入りましたので、引用してご紹介します。

「営業しか就職先がない」有象無象の私文大学は必要なのか・・・「高卒は恥ずかしい」という親が目を背けている

「スキルのない仕事」を大勢で奪い合っているhttps://president.jp/articles/-/92027

かなり大学受験の実態を抉る記事ですが、世の中の子供さんを持つ親御さん達は、子供さんのことを考えたら真剣に考えておくべきことと言えます。

「BF」大学は本当に必要なのか

いわゆる「Fランク大学」とは、大手予備校の偏差値が35未満の大学、または「ボーダーフリー大学(BF大学)」と呼ばれる大学を指す。つまり、基本的に名前を書けば誰でも入れる大学のことだ。

授業は中学・高校で習ったことの復習から始まり、テストでは基礎的な語句の穴埋めテストや算数の計算問題といった義務教育のおさらいをさせている学校も少なくないという。

少子化が進んでいるにもかかわらず、こうした大学は近年みるみる数を増やしている。文部科学省の「学校基本調査」によると、1990年時点では507校だった四年制大学は、2025年現在ではなんと813校https://eic.obunsha.co.jp/file/educational_info/2024/1022.pdfにまで数を増やした。

・・・Fランク、BFランク大学を受験する理由は、単に「4年生大学」卒という肩書きを欲しいからと考えられます。

長い間、幼児、小学生、中学生、高校生の学びとそれに繋がる成績を観ていると、正しい(?)学び方をいつから始めたかがわかります。

上記のようなランクの大学を偏差値35未満の成績で受験せざるを得ない実態は、幼児期から「正しい国語教育」を受けていないからであると断言できます。

「ホワイトカラーもどき」の末路

事務職大余り時代のいまでさえ、Fランク大学卒業者が職にありつくのは難しいことではない。

ただ、早期から専門領域を絞り、工業高校や専門学校へ進学した人と比較すると、その後の人生は芳しくないように見受けられる。

私の出身である愛知県豊田市では、公立の小中でそれなりの成績をとっていた人でも、積極的に豊田高専やトヨタ工業学園に進学していた。彼らは大学卒ではないが10代のうちから実践的な技能を身につけ、トヨタ自動車やデンソーといった一流企業に就職する人も少なくない。県内の私大文系に進学した他の同級生たちと比較しても、確実にいい暮らしをしている。

反対に、Fラン大卒「ホワイトカラーもどき」組の“予後”は厳しい。中学時代に後の専門職組と同程度の成績をとっていた人の中にも、Fラン大への進学者は少なくない。彼ら(特に文系)は4年間のモラトリアム期間を謳歌し、何のスキルも持たないまま地元の中小企業の営業職(ウォーターサーバー、不動産が多い。いずれも過酷なノルマを課される)に就くことになる。

やはり早期から専門性を身につける方向に舵を切った人のほうが、その後の人生は安定し充実している印象だ。

・・・元々、正しい学び方を身に付けると、賢くなりそうな子供さん達はたくさん居ますが、その後の成長を阻害するものがスポーツ系、音楽、ダンス、英会話などの習い事を幼児期からしている場合です。幼児期は、正しい言葉を習い、語彙力を増やしながら、所謂「コミニケーション能力」を身に付ける最重要な時期です。そこを起点に、正しい国語力を身につけていくことが、小学校以降の「正しい学び」に繋がっていくからです。

posted by at 14:42  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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