‘ 国語力ブログ ’ カテゴリー

小学校受験は自立・自律のための一つのステップ

国語力を高めることを基本とする幼児教室・学習塾の羅針塾では、毎年、長崎大学教育学部附属小学校や私立小学校受験を目指す子供さんの指導もしています。小学校受験は幼児さんたちが「自立・自律」するための第一のステップです。

多くの親御さん方の入塾目的は、当然ですが殆どが「合格」さえできればいい、ということです。

しかし、実際に小学校受験を経て合格してしまうと、お母様達は

「私自身が考えさせられることが多い経験でした。親子で日々の生活から見直し、共に学んだ時間でした。また、子供の躾について改めて考え直すことができた時間でもありました。」

と話してくださいます。

合格するまでには山あり谷あり。

問題ができればいい。

言われた通りにすればいい。

・・・ではありません。

何故、そうなのか。何を身に付けなければいけないのか。

そして、何より大事なことは、小学校・中学校・高校・大学・社会人へと繋がる道のりのスタート・ラインに立ち、用意・ドンと走り出した時に、(全国的な)先頭グループに立つ力をつけておくことです。

学び出す切っ掛けが「小学校受験」でしかありません。

つまり、「学ぶ」習慣付けを「受験」することでつける。そして、これを継続することに尽きます。

当初の目標の小学校に合格しても、そこでお母さん方が合格したことに満足し、あれだけ子供も頑張ったのだからと、学校任せにしていては、学力が伸びることはありません。

筆者の見るところ、

実は長崎県内だけでみても、国立・公立・私立の小学校・中学校で学習内容や指導力・熱意などに明らかに差が有ります。

学校間に教育指導力のばらつきが無いようにと文部科学省の学習指導要領は作られていますが、これは全国的な最低レベルの一つの物差しでしかありません。

47都道府県レベルで考えると、長崎県は関東圏、関西圏からすると所謂「最果て」の地方です。長崎県内でトップレベルといっても、全国レベルではなかなか太刀打ち出来る訳ではないのが現実です。

詰まり、長崎県で一番であっても、全国では如何?・・・これは、明治期以降変わらない現実です。

そこで、全国的にも太刀打ちできる力を幼児期からつけていくことが必要になります。

それが、「語彙力」とそれを活かすことが出来る「国語力」です。

 

 

posted by at 20:04  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「ゆとり教育」「A・L」「主体的、対話的で深い学習」

国語力を高めることを基本とする長崎市五島町の羅針塾では、塾生の成長を見守りつつ、各人に応じた学びを進めています。小学生以上の塾生は、日々の学校で何を学んできているかも、常に確認しつつ更なる向上を目指します。

今冬の武漢ウィルスの日本上陸以降、教育界はその対応に大童(おおわらわ)です。罹患(りかん)を避けるための休校要請を受け、学校は授業時間の確保に苦労しているのが現状です。

その最中に、「百人の会ML」(http://100prs.info)から送られてきた記事に共感を覚えました。これを引用してご紹介します。

川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

51、ゆとり教育の亡霊「アクティブラーニング」(拡散希望)

 アクティブラーニングという言葉をご存じでしょうか。今全国の小・中・高校で行われている欧米発の授業形態の一つです。
骨子は・・・教師から教えてもらう「受動的な学習」ではなく、子供自らが進んで学習する「能動的な学習」ということです。
さすがは言葉遊びが好きな教育界、聞くほどに期待に胸が膨らみます。

多くの国民も「受け身ではなく子供が進んで勉強するというのはいいことだ」と思うでしょう。

確かにこの授業は子供の体験学習やグループ・ディスカッション、そして子供達が意見を述べ合いながら授業を進めるのですから、教室も活気があります。

しかしその雰囲気とは裏腹に、多くの子供にとっては「活動あって学びなし」の自由時間になっていることが多いのです。
賑やかな授業と学力がつく授業とは違うのです。

そして最も重要なこと、それは学習効率が悪過ぎることです。
教師主導でやれば短い時間で済むのに、この方法ではその数倍もの時間と教師の労力が必要です。
まさに労多くして功少なし、の典型です。

 コロナ肺炎による臨時休業で、学習の遅れを取り戻そうと必死になっている現在、教育界はこのような形の授業ではなく、
従来の授業スタイルの良さを見直し、学習効率を上げる必要があるのではありませんか。

 そもそもアクティブラーニングは大学の授業(一方的な講義形式の授業)を改革しようとしたのが始まりです。
それを文科省が軽率にも小・中学校教育に取り入れたのです。

 新しい学習指導要領では「アクティブラーニング」の言葉は消えましたが、
「主体的、対話的で深い学習」と言い方を変えて生き残っています。

私は断言します。
アクティブラーニングでは子供に学力はつきません。
 アクティブラーニングと聞けば、多くの人はこれまでになかった新しい教育のように思うかも知れませんが、実は「ゆとり教育」の焼き直しに過ぎないのです。

さらに言えば、教育界はこれと同じ失敗を過去に三度もくり返しているのです。
 一度目は大正時代です。大正デモクラシーの風に乗せられて教育が欧米化したことがありました。
日本の伝統的な教育法が時代遅れとされ、子供の主体性を尊重する欧米教育がよしとされたのです。
結果、子供の学力が深刻なほどに低下しました。

二度目は戦後GHQの統治下でアメリカ式の教育が取り入れられた時期です。
これも子供の主体性を重視した教育だったのですが、やはり深刻な学力低下に見舞われました。
主権回復後、政府は直ちに従来の教科中心のカリキュラムに戻しました。

そして三度目が「ゆとり教育」です。これによって、またまた子供の学力が低下しました。

現在、文科省は「ゆとり教育」から学力充実へと舵を切った、と言うことになっていますが、実は「ゆとり教育」はまだ終わっていません。
「アクティブラーニング」はその亡霊なのです。教育界は何度失敗すれば気がすむのでしょう。

 

・・・正に、正論(道理に適った主張)!  と、思います。

文部科学省の改革という名の、改悪に等しい所業のように思います。小・中・高校の教科書を手に取ると実感しますが、文章が一見易しく(しかし漢字かな交じりの言葉が混在し)絵や写真を多用し、何より教科書の厚みが無い。力の無い(読解力の無い)子供にも分かるようにとの無用の配慮がそうさせているのでしょう。

「ゆとり教育」→「アクティブラーニング」→「主体的、対話的で深い学習」へと経るごとに、学力を低下させている実態を多くの親御さん方はご存知有りません。

羅針塾では、子供さん達のご縁のある学校の授業内容を確認しつつ、漢字教育を基礎に国語力を強化し、読解力、作文力、表現力を身に付けるように指導しています。

年齢を問わず、全ての教科を学ぶ前提としての語彙力・読解力を身につけること。これが最優先です。

posted by at 19:19  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

学びの癖をつける

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、小学校就学前後の子供さんをお持ちのお母様方から、「厳しく育てること」と「伸び伸び育てること」についてのお尋ねがあります。

躾(しつけ)や教育に関し、ご自分の方針が揺らぐことがあるのは、誰しも経験があります。

基本的に、「厳しく育てる(しつける)こと」と「伸び伸び育てること」は、二項対立(*)的な関係にはありません。

(*二項対立=論理学で、二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。また、概念をそのように二分すること。内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋など。二分法。)

一個の人としての人格形成に必要な常識・礼儀・作法は、日本人として身に付けておかなければなりません。これが出来ていないと、「お里が知れる」「親の顔が見たい」「非常識」と大人になってから、暗に批判されかねません。

芸能,芸道、武芸、武道,などにおいて,技芸上の典型として,また規範,規則として尊重されるものに、「型(かた)」があります。いわゆる名人の域に達する人と言えども、初学者の時は厳しく「型(かた)」を覚え込まなければならず、出来るまで厳しく叱責されます。

一方、

「子どもの本性を尊重して、自由で自然な成長を促すことが教育の根本である」、というジャン・ジャック・ルソーの『エミール』で著された考え方もあります。また、これを支持する我が国の教育者もいます。

『エミール』は教育理論の古典となっていますが、酷薄非情な父親が高邁な子育て論を書いた偽善の書とも言われています。何故なら、ルソーは自分が作った5人の子供をすべて孤児院に棄てているからです。

さて、

「厳しく育てる(しつける)こと」と「伸び伸び育てること」の矛盾しない一つの例として、「日本の礼儀作法」〜宮家の教え〜(竹田恒泰著 マガジンハウス出版)p.11~から引用してご紹介します。

名前を大切にすること

父も厳しかったが、それに増して厳しかったのは父方の祖父母だった。私は小学校二年生から三年生にかけての約一年間、家の事情で高輪の祖父母の家に預けられていた。そこで習ったのは、礼の仕方、箸の上げ下げ、風呂の入り方、服の畳み方、神前での作法、玄関では靴を揃えること、そして、我慢すること・・・。大切なことは頭ではなく体で覚えさせられた。三十年近く前に教わったことが自然と身についているのは、幼少期の躾のお陰だろう。今の私の立ち居振る舞いは、子供じぶんに既に決定されていたように思える。

この一年間は、私の人生の中で、最も厳しい躾を受けた時期だったと思う。祖父母とも普段は優しく接してくれたが、決して贅沢(ぜいたく)はさせてもらえなかったし、我儘(わがまま)は一つも聞いてもらえなかった。そして、私が何か間違いを起こすと、祖父の雷が落ちて、小学生だった私はその度に震え上がって泣いた。テレビを見ている祖父の視線を遮って怒鳴られたことは何度もあった。

忘れもしない、ある晩のことである。私は食堂の大きな机に着いて、祖父の前で学校の宿題をしていた。私が提出する宿題に、自分の名前を汚い字で殴り書きするのを目にした祖父は、平手を机に叩きつけて立ち上がり、宿題の紙をずたずたに破り捨てて、耳を擘(つんざ)くほどの大声で怒鳴った。

「自分の名前を粗末にするな!」

祖父の突然の剣幕に恐れおののく幼い私をよそに、祖父は自分の部屋に行ってしまった。すると、それを見ていた祖母が、わなわなと震える私に優しく声をかけてくれたのだった。「ぐすん、ぐすん」と泣く私に、字が汚いから怒られたのではなく、名前を粗末にしたから怒られたということを教えられた。そして「竹田」というのは明治天皇から賜ったもので、「恒泰(つねやす)」という名は祖父がつけてくれたことを初めて聞かされた。

(中略)

祖父は「自分に誇りを持て、家に誇りを持て、先祖に誇りを持て、そして皇室と日本に誇りを持て」と言いたかったのだと思う。

(中略)

社会人になってから、大切にすべきは、自分の名ばかりではないことを知った。人には必ず名前があって、それぞれに思いが込められている。だから、人様の名前を書き間違えたり言い間違えたりすることはあってはならないことであり、名前は丁重に扱わねばならないことがわかった。手紙の宛名を丁寧に書くのも同じである。

以来、私は自分の名前を粗末に書いたことは一度もない。もしあの時、祖父の怒りに触れていなければ、あのまま、名前を大切にしない大人になっていたことだろう。怒鳴られずに、宿題のプリントを破り捨てられずに、ただ優しい言葉だけで説明されても、きっと骨身に染みることはなかったと思う。

・・・最近の風潮として、「叱る」べき時に、躊躇なく叱るのではなく、説明して判らせようとする親御さんもおられるようです。考え方は様々ありますが、時や所、場合に関わらず、「叱るべき」ときには「為らぬものは、為らぬ」と叱る親や祖父母など周りの大人の気概は必要です。

怒鳴られずに、宿題のプリントを破り捨てられずに、ただ優しい言葉だけで説明されても、きっと骨身に染みることはなかった」と、大人になっても感謝出来る人に、日本の子供さん達にはなって欲しいものです。

人としての有り様(ありよう:有るべき姿、理想的なあり方)を、躾や作法を通して身に付けることが、「学び」の癖をつけることにも繋がります。

 

 

posted by at 18:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

なぜ国語教育が必要か。

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、『学び』の大前提として「国語教育」に力をいれています。

若いお母さん方の中には、英語教育を早く始めると、native(出生地の、自国の、その国に生まれた固有の)の発音が身につくから、これからの時代には必須である、と勘違いをされている例があります。

英語の早期教育の功罪はともかく、母語である日本語が大事であることは誰しも認めることでしょう。

その「大事」さの中身は、一般に日本語の会話、漢字の読み書きや意味合いを指している様です。我が国に住んでいれば、放っていても会話や発音、漢字の意味合いは年を経ると分かる様になります。ある意味、子供さんに会話力があれば、親御さん方が改めて「国語」を学ぶ意味合いや重要性に気付かず、「教科としての国語」に力を入れようとは考えません。

筆者自身が学んできた経緯を振り返ってみても、小・中学校と国語(現代国語)指導の良き教材とそれを活用する先生に学んだ記憶がありません。従って、国語(現代国語)の試験対策は、時間も手間もかけていませんでした。ところが、高校以上へ進学後に、自ら「国語」力の無さに気付かされることになりました。

自らの反省に立つと、現代国語の学びの浅さを補ってくれたのが、「古文」や「漢文」です。

「古文」は漢字仮名混じりなどで書かれていますが、読んでみても分かった様な分からない様な・・・また、「漢文」は漢字のみで綴られています。

つまり、読んで理解するにはしっかりと古典文法や漢文の文法を学ばない限りは、「古文」や「漢文」は理解不能なのです。「古文」・「漢文」の大部(たいぶ:ページ数の多い書物)の参考書をしっかり読み込んでいくことによって、古典・漢文が理解できる様になると、結果として現代国語の理解が進む様になりました。

そこに気付いて、改めて「国語(現代国語)」の文法や熟語などの意味合いをしっかり理解していくと、納得がいく様な結果が出せる様になりました。

 

日本人として母語である国語をしっかり学ぶことは、外国語の習得にも大いに役立ちます。英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語等々の外国語も、しっかりと理解するには文法が極めて大事ですし、文法は日本語で書かれています。同様に、幸いにも多くの外国語の文献は日本語に翻訳されているので、日本語の読解力があれば、学術的な文献も読むことができます。

2018年2月6日に当ブログのページに取り上げた(https://rashinjyuku.com/wp/post-1084/)「国家の品格」の著者藤原正彦氏(お茶の水女子大学名誉教授)は、「子供の勉強で大事なものは一に国語、二に国語、三・四がなくて五に算数」と述べられています。

つまり、数学者である藤原正彦氏が、「算数より国語が大事」と言っておられる訳は、「算数や数学は、論理立ててものごとを考える力を養うことには役立つが、日本人としての繊細で深い感性を養うには国語教育が欠かせない」からです。

話は変わって、

17歳の高校生棋士、藤井聡太新棋聖は、AI (人工知能)との共存期における棋士の可能性を問われて「将棋界の盤上の物語の価値は不変」と答えたそうです。

この「将棋界の盤上の物語の価値は不変」という言葉を、若干17歳の高校生が語れるのは、相当な分量の語彙と、それを用いることが出来る「国語力」が無いと語ることは出来ません。

次から次へと、日本の若者が各界で活躍しています。その代表格に、中卒の、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士、九段、芝野虎丸(しばの とらまる)氏がいます。

2020年6月26日最年少で名人、王座、十段の3冠を達成。インタビューの中で、将棋の藤井聡太七段(当時)に言及し、「年も近い。藤井さんのダブルタイトル(棋聖、王位)挑戦のニュースは励みになった。自分も負けていられない。」と答えています。そして、同年7月16日、藤井聡太七段が史上最年少で棋聖のタイトルを獲得した際には、ツイッターで「藤井先生、おめでとうございます」と祝意を述べたそうです。

参照:柴野虎丸名人会見(https://www.youtube.com/watch?v=gJmxcUEJIBU

これだけのコメントを語れる若者が存在する以上、日本の未来は明るいと思います。

何故か、日本の伝統的な将棋、囲碁の世界から若者のスーパー・スターが現れることが、ヒントの様です。改めて、親御さん方が古典や伝統的な世界を渉猟(広い範囲を探し求めること。沢山の書物をあさり読むこと)すると、子供さん達をより良き方向に導くことが出来ると考えます。

 

 

posted by at 22:12  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

パンデミックと源氏物語2

長崎市五島町の幼児教育・学習塾の羅針塾では、幼児さんを子育て中のお母さん方からの質問も受け付けています。言葉が出始める前後から、急に玩具や絵本などが家の中に増え始める時期と重なります。

絵本も国内並びに海外の翻訳ものなど多種多様です。玩具も所謂(いはゆる)知育玩具からキャラクターものまで百花繚乱。

何気なく購入したり、頂いたりしたものまで数えると、結構な量になります。

本や玩具は、年齢や知力に応じ「断捨離*」する必要があります。

*断捨離(だんしゃり)・・・沖正弘が提唱したヨガの思想。断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

  • 断:入ってくるいらない物を断つ。
  • 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
  • 離:物への執着から離れる。

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは異なるものとされている。(wikipediaより)

元気なハバネラの小さな花

 

さて、源氏物語についての「加瀬英明のコラム」「パンデミックは奇貨となるだろうか」http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgiからの引用です。

さまざまな香り――薫香が、もう1つ物語の進行を取りしきっている。名香に、梅花香、侍従、黒方(くろぼう)、荷(か)葉(よう)、薫衣(くのえ)香、百歩香などという名がつけられているが、おそらく6、70種類の薫香が舞台回しのように出てくる。

香りはくらしに密着していた。屋内にくゆらしただけでなく、袖や、紙、扇に香りをたきしめた。それも、自分なりの芳しい香りを工夫して、四季にあわせて調合した。

今日の日本では、クラブのホステスや、名流婦人が、不粋なことに1年を通して同じ西洋香水をつけているのには、辟易させられる。大量生産された安いガラス瓶に、はいっている。

源氏の世界では自分だけの香の壺を、四季にあわせてもっていた。

香りは清めであり、人々ははかない香りに感傷を託して、宇宙の静寂を感じた。

西洋の香水は、今日、日本の家庭に普及している除臭剤とかわりがないが、源氏の世界の香りは、優美なものだった。

自然は静かだが、人間は煩さすぎる

「匂」という字は、もとの中国にない。日本でつくった国字だ。よい香りがたつことだけを意味していない。

日本刀の小乱れした刃紋も「匂う」と表現するが、美しく輝いていることをいう。「朝陽に匂う山桜哉(かな)」という句がよく知られているが、山桜が朝の光をいっぱいに受けて、輝いているという意味である。

『源氏物語』のなかで、女性が「匂ひやか」というと、美しいことを表している。

桜の花は馨らない。光源氏が桜の花が美しいのに、香りがないことを慨嘆している(若菜)。

香を賞(めで)るというが、香りと静けさは1つのものだ。心を落着かせて集中しないと、身心を香りにゆだねることができない。

ゆとりがなければ、香を賞でることができない。香を嗅ぐことによって、ゆとりが生まれた。人生に間をはかることが、大切なのだ。

世間で“引きこもり疲れ”とか、“自粛疲れ”という言葉が流行っているが、自分を取り戻すよい機会だろう。

 

・・・なかなか蘊蓄(うんちく:深く研究して身につけた知識)のあるお話しです。源氏物語の中に流れる日本民族の感性の一端が紹介されています。殊更貴族階級だけのものではなく、大和言葉は広く一般の人々も同じ様に理解し用いていたことから、日本人独自の「感性」は連綿と現在まで繋がっています。

但し、現在の良くも悪くも「洋風化(グローバル化)」した風潮の中で、日本人の歴史・伝統・文化を踏まえた教えや習い事などを家庭でさせることができていれば、これからも日本人の「感性」は伝えていけることでしょう。

幼児教育の一環として、所謂、「道」のつく習い事(香道、書道、茶道、華道など)を幼い時から継続することはお勧めです。今ある小学校以上の学校での学びは基本ではありますが、子供さんの家庭や家系の伝統に基づく習い事は、人間形成に大きく関わり、その人となりの根幹を基礎付けます。

posted by at 15:00  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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