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新帝陛下の御歌から

令和へ御代替りする十連休は、各地で様々な催しもあったようで、令和の明るい響きと共に、日本人の心を温かくしてくれたようです。

さて、新帝陛下の御即位を寿ぐ、「国際派日本人講座」(http://blog.jog-net.jp/201905/article_1.html)の記事が、素晴らしい視点から記されているので引用してご紹介します。

新帝陛下の直向(ひたむ)きなる眼差(まなざ)し

■1.「殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知らないのでは」

 新帝陛下が即位された。国内外からの慶びの声が寄せられた令和の明るいスタートを寿(ことほ)ぎたい。ただ、我が国の多くのマスメディアは、皇太子殿下時代の御事績をほとんど報道してこなかったので、陛下がどんな方なのか、あまり知られていない。

 たとえば、人類の直面する最も深刻な課題は水問題だが、陛下は水問題に関する国際会議の名誉総裁を務められたり、数々の基調講演をされている事をどれだけの国民が知っているだろうか。

 世界水会議のロイック・フォーション会長は、「皇太子殿下のご存在は、水の分野におけるオム・デタ (Homme d’Etat) だ」と述べている。日本語に訳せば「元首」であろう。天皇が日本国民の統合の象徴であるように、陛下は水問題に取り組む人々の連帯の象徴となられている。

 日本のあるジャーナリストが、海外の水問題の専門家に「海外での殿下の評価はどうか」と質問したところ、「どうしてそんな質問をされるのか。それは愚問というものだ。殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知らないのでは」と、やり込められる場面があった。

 国民が新帝陛下のお人柄を知れば、陛下を国民統合の中心として力を合わせ、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という「令和」の理想の実現に向かう事ができる。そのための恰好の書籍が発行された。小柳左門(さもん)氏(公益社団法人・国民文化研究会参与)による『皇太子殿下のお歌を仰ぐ』である。

■2.「我学問の道ははじまる」

 この本では陛下の22歳の頃からの歌会始めなどでの御歌、合計42首を紹介し、短歌の素人にもよく分かるように簡潔・懇切な解説が添えられている。たとえば、陛下が水問題に取り組まれるようになったきっかけは、次の御歌から窺える。

 道 平成十年(一九九八) 御年三十七歳
一本の杭(くい)に記されし道の名に我学問の道ははじまる

 この御歌について、小柳氏はこう解説されている。

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 皇太子殿下は、前記の『テムズとともに』のご著書の中で、初等科の低学年のときに赤坂御用地の散策中に「奥州街道」と書かれた標識を見つけ、鎌倉時代そこに街道が通っていたことを知って本当に興奮した、と記しておられます。
 そのころから「道」についてたいへんご興味を持つようになられ、母君と一緒に芭蕉の『奥の細道』を読破されたそうです。・・・
ご著書には「私にとつて、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていた」と述べておられます。
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 小学校低学年の頃の道へのご関心から、大学時代には水上交通のご研究に入られ、そこから水問題へと、陛下の学問は広がっていった。小柳氏は、陛下のご姿勢について、こう記されている。

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その感動や興味を持続し、これを核としてさらに広く深く求めようと努めておられる皇太子殿下の誠実な学問への姿勢に、あらためて尊敬の念を覚えます。

■3.「潮(しお)乗りこえし舟人偲ぶ」

 陛下は学習院大学文学部史学科在学中、中世瀬戸内海の水運の研究をされた。その一環であろう、広島県尾道から愛媛県今治あたりまで、瀬戸内海を堰き止めるように島々が連なる中の鼻栗(はなぐり)の瀬戸にお立ち寄り、次の御歌を詠まれた。

橋 昭和五十七年(一九八二)年、御年二十一歳
鼻栗の瀬戸にかかりし橋望み潮(しお)乗りこえし舟人(ふなびと)偲(しの)ぶ

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 鼻栗の瀬戸は、瀬戸内海の大三島と伯方島の間の約三百五十メートルの海峡で、潮の流れが速く瀬戸内海国立公園の白眉とも言われています。
現在でこそ、”瀬戸内しまなみ海道”唯一のアーチ橋である大三島橋が架かっていますが、激しい潮流が渦をまき、さらに進路が急カーブを描く瀬戸は、かつての船の航行にとつては最大の難所のひとつでした。ましてや奈良時代(八世紀)以前の昔から重要な航路であった瀬戸を、人力の舟で渡るのは至難の業であつたでしょう。・・・
 鼻栗の瀬戸はたんなる風光明媚の対象ではなく、長い歴史の間にはおそらく多くの舟人がこの瀬戸で遭難したことでしょう。今ではその上に立派な橋が架けられています。殿下はその幸を思いつつ、かつての人々の労苦を胸のうちに偲んでおられるのです。
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 鼻栗の瀬戸の潮流は約7ノットというから時速13キロほど。我々の歩行スピードの2、3倍である。そのスピードで進路が直角に曲がっている難所を「潮乗りこえし」と表現され、水運に携わった「かつての人々の労苦」を偲ばれているのである。

■4.「若人の影ゆれ映るテムズの水に」

 その後、陛下は昭和58(1983)年から60(1985)年にかけて、オックスフォード大学に留学して、テムズ川の水運史について研究された。その際のご経験を詠まれたのが、次の御歌である。

 水 昭和六十一年(一九八六) 御年二十五歳
オール手に艇(てい)競ひ行く若人の影ゆれ映るテムズの水に

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 殿下が留学された英国のオックスフォード大学のボート部は強豪として有名ですが、毎年春になると、同じく英国のケンブリッジ大学との定期戦がテムズ川で行なわれてにぎわうとのことです。・・・
 殿下は一九八四年(昭和五十九)の三月のレースを船上から観戦されましたが、「川岸は見物人で埋め尽くされ、三十分にも及ぶレースのあいだ、歓声は途切れることがなかった」と、その盛況ぶりを書いておられます。・・・
 若人たちがボートを競っていっせいにオールを漕いでぐんぐんと進んでいく。
 テムズ川の水面に、その影が映って揺れている。テムズ川は一世紀半の時を超えて、伝統の競技の影を映し続けてきた、そのことも偲ばれるようなお歌です。
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 静かな川面には滑るように進むボートの波紋が広がっていたであろう。その波紋の上に「若人の影ゆれ映るテムズの水に」と表現された。情景が鮮やかに浮かんでくる。水と人々の関わり合いの歴史の一コマである。

■5.「ヒマラヤの峰姿耀(かがよ)ふ」

 陛下は、昭和六十二(1987)年3月にネパール、ブータン、インドの各国を親善訪問された。その時にヒマラヤの峰をのぞむ湖畔の宿に泊まられ、その情景をこう詠まれた。

 晴 平成二年(一九九0) 御年二十九歳
朝もやの晴れ上がりゆく湖にヒマラヤの峰姿耀(かがよ)ふ

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 これから春を迎えようとして高原の宿はまだ寒い時期だったと思われますが、起床してのぞまれる湖に朝もやがかかり、陽が昇るとともに「もや」は晴れゆき、湖面に映るヒマラヤの峰がこまやかにきらめき揺れている。ヒマラヤには雪が降り積もり、その姿は雄大でさぞ美しかったことでしょう。
 あるがままに描写されていますが、その確かな表現によって情景が目に浮かぶようです。山を愛される殿下にとって、朝もやが晴れて山の峰にかかった雲もなく、素晴らしい朝を迎えることは大きなおよろこびであったにちがいありません。
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 この旅で回られたネパールでは、ヒマラヤの展望台として知られるサランコットの丘付近で多くの女性や子供たちが水瓶を持って行列をつくっている光景の写真を撮られた。この時の写真を示されながら、第一回アジア・太平洋水サミットの記念講演ではこう述べられた。

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「水くみをするのにいったいどのくらいの時間が掛かるのだろうか。女性や子どもが多いな。本当に大変だな」と素朴な感想を抱いたことを記憶しています。
 その後、開発途上国では多くの女性が水を得るための家事労働から解放されずに地位向上を阻まれており、子供が水くみに時間を取られて学校へ行けないという現実があることを知りました。また、地球温暖化問題の多くが、水循環への影響を通じて、生態系や人間社会に多大な影響を及ぼすことも知りました。
このようにして、私は、水が、従来自分が研究してきた水運だけでなく、水供給や洪水対策、更には環境、衛生、教育など様々な面で人間の社会と生活と密接につながっているのだという認識を持ち、関心を深めていったのです。
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 ヒマラヤの展望台で美しい景色を眺められながらも、女性や子供たちが水くみをする光景を見過ごさず、その苦労を偲ばれる。陛下の水問題へのご関心は、こうした人々の苦労を偲ばれる所から始まっていった。

■6.「まっすぐな祈り」

 陛下は平成5(1993)年に雅子様とご成婚になり、翌年11月に、初めてお二人でご一緒にサウジアラビアをご訪問された。その時に、おそろいで砂漠をお歩きになり、足下に咲く草花を見つけられた。その時の御歌が以下である。

生 平成二十一年(二〇〇九) 御年四十八歳
水もなきアラビアの砂漠に生え出でし草花の生命たくましきかな

__________
 皇太子殿下は、ご研究を通して水の大切さを熟知しておられます。まったく水もないような砂漠の原に、小さな草花が咲いている。それは殿下にとって大きな驚きでした。どんな環境の中でも生きていこうとしている草花がある、そのたくましい生命の力に、感銘を受けられたのです。
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 この御歌が発表されたのが、サウジアラビアへの旅から15年も経った平成21(2009)年の歌会始であった。皇后陛下はその数年前からご体調不良が続き、この歌会始めも欠席されていた。そこで陛下はなぜ15年も前の御歌を発表されたのか。『皇太子殿下−−皇位継承者としてのご覚悟』(明成社)の著者の一人、鈴木由充氏はこう書いている。

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 それはサウジアラビアが妃殿下とともにご訪問になり、妃殿下とともにご覧になった国だったからという以外に私は答えを見つけることができない。そう考えると、このお歌も、どんな逆境にあっても必ず妃殿下のご回復を信じておられる、殿下のまっすぐな祈りが託されているように感じられ、新たな感動が湧いてきた。・・・
 とはいえ、殿下のお歌には、私的な感傷に浸るような響きは微塵もない。あくまでも、ご公務のひとコマを公人として切り出すことに徹しておられる。
 それは、テレビに映し出された皇太子殿下の、まっすぐに前を見つめ続けられる御眼のひたむきさそのままであった。

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■7.「人々の唱ふ復興の歌」

 平成25(2013)年6月、陛下はスペインを訪問された。その際に、コリオ・デル・リオ市のビセンテ・ネイラ小学校の玄関ホールに出迎えた人々が、東日本大震災からの復興を願ってつくられた日本の合唱曲「花は咲く」を歌って、殿下をお迎えした。

人 平成二十八年(二〇一六) 御年五十五歳
スペインの小さき町に響きたる人々の唱ふ復興の歌

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 異国の地で、震災にあつた自国の人々をなぐさめる歌を耳にされたということが、どれほどありがたいことか。殿下は深く感動されて、「花は咲く」を聞かれたことでしょう。そしてまた、このことを知った東北の人たちが、スペインの人々にどれほど感謝と親しみの心を感じたことでしょうか。
 震災からの復興を願うスペインの人々の歌声は、殿下のお歌を通して、きつと東北の人々の心にも届いたにちがいありません。
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 この年の歌会始には、皇后陛下も震災からの復興のお歌を詠まれた。

ふるさとの復興願ひて語りあふ若人たちのまなざしは澄む

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 前年の平成二十七年(二〇一五)の十月、皇太子同妃両殿下は、福島県に二年ぶりに行啓され、東日本大震災からの復興の様子をご覧になりました。
 そのおりに、地域の復興と、社会への貢献のために創立された「ふたば未来学園高等学校」をご訪間になりました。その際に生徒たちと直接お会いになり、お話をされましたが、生徒の真摯なまなざしに感じて、このお歌をお詠みになったということです。
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■8.陛下の直向きな眼差し

 5月1日の即位後朝見の儀でお言葉を述べられた新帝陛下は、皇太子殿下の頃とは別人のような風格を感じさせた。「この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします」と述べられた御覚悟が容貌にも現れたのだろう。

 しかし、そのまっすぐな眼差しは皇太子時代と変わりはなかった。その直向(ひたむ)きさは、ここにご紹介した御歌からも窺えるように、陛下の幼い頃からの生き方そのものだからだろう。

 令和の時代に我が国は安全保障、災害対策、少子高齢化など多くの課題に向き合っていかなければならないが、我々国民も陛下に習って、「真摯なまなざし」で力を合わせていくべきだ。それが「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という「令和」の理想を実現していく道である。

・・・含蓄のある素晴らしい記事です。

新帝陛下のご幼少の頃から、所謂「帝王学」としての学びは様々にあることと推察します。それに加えて、何よりも「初等科の低学年のときに赤坂御用地の散策中に『奥州街道』と書かれた標識を見つけ、鎌倉時代そこに街道が通っていたことを知って本当に興奮した」と仰られるように、感動する感性も学ぶ意欲に必須です。

翻って、一般の教育にも取り入れるべき学びは、短歌などの和歌です。このような新帝陛下のお歌を機縁に各ご家庭で、ご両親が易しく内容や成り立ちなどを子供さん達に説明してあげると良いのではないでしょうか。そして、季節に合わせ自然の情景などを、最初は拙くとも日々練習する機会を設けていくと、国語力も感性も弥増していくことでしょう。

 

posted by at 12:56  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

漢字を覚える能力は年ごとに低下する

御代替りまで後五日となり、歴史の新しい一頁が捲(めく)られていきます。平成を振り返ると様々なことがあったことが分かります。

さて、 石井勲先生の「漢字興国論」第一章 早くからの漢字教育は子供の能力を大きく伸ばす――私の漢字教育実践記――に、「漢字を覚える能力は年ごとに低下する」という項が有ります。引用しながらご紹介します。

私は、昭和 35 年に担任した一年生を、卒業するまで 6 年間に亘って 担任しました。私はこの子供たちにも「社会で漢字表記をしてゐる言葉 は総て漢字で表記し、決してかな書きしない」といふ石井方式の基本原 則に従って指導しましたから、1 年生が一番数多くの漢字を学習し、学 年が進むにつれてその数が減って行きました。

6 年生の学習漢字は、1 年生の時の 3 分の 1 にも足りない程なのに、 その習得に苦しんでゐました。同じ子供たちを 6 年間通して指導してみ て、漢字を覚える能力は 1 年生の時が最も高く、その能力は年ごとに低下して行くことをはっきりと観て取りました。

丁度その頃、大脳生理学で有名な時実利彦先生とお話をする機会 があり、この話を申上げた所、「丸暗記する能力は、生後の 3 年間が最 も高くて、三歳を過ぎたら低下する一方だと言へると思ひます。だから、 漢字の学習においてもさういふ結果になるのは、私も当然だと思ひま す」といふ事でした。

(中略)

然し、能力の高い時に負担が軽くて、能力が低下するにつれて負担 が重くなる漢字教育を受けてゐる子供たちの事を思ふと、暗然たる気 持にならざるを得ませんでした。

こんな見当違ひの漢字教育を続けてゐる限り、教科書が満足に読め ない子供が多く出るのは当り前です。教科書が満足に読めなくて楽し い学習が出来るわけはありません。そこから登校拒否する子や非行少 年少女が生れるのです。

昭和35年当時の子供達の例が最初に記されています。これと比較して現在の子供達の漢字を伴う国語力は、さらに低下していると思います。何故なら、漢字熟語を平仮名との交ぜ書きで表記してある教科書を学校教育で用いているからです。例えば、「友情」を「友じょう」、「心理描写」を「心りびょう写」などと表記されれば、文章を読み続けることが嫌になってしまいます。

幼児期から、「聞く」力をしっかり身につけ、「読む」ことは大人と同じように漢字を日常的に用いると、自然と語彙力が増してきます。小学校での漢字教育・国語教育は、国公立・私立を問わず、まだまだ不十分と感じるのは筆者だけでしょうか。小学生をお持ちの親御さんには、子供さんの漢字ノートを日頃から確認して頂き、正しい漢字力をつけるよう導いて欲しいものです。

posted by at 08:42  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

聴く力

羅針塾では、春休みなど長期休暇の時期に塾生の学力の長所・短所を見極めた対応をしていきます。学年・年齢を超えて、学力の土台をしっかり作るべきと考えるからです。それぞれの取り組むべき課題について、音読をしながら取り組みます。

文部科学省の学習指導要領には、国語科の学習内容として「聞く力」「話す力」「読む力」「書く力」の四つが上げられています。古来、日本では子供に身につけさせるべきことの代表のように「読み、書き、算盤」を重視してきました。その結果、「聞く力」と「話す力」には特別な配慮をしてきていません。何故なら、聞いたり、話したりするのは敢えて学ばなくても、成長に従って自然に身につけていくものだと考えられてきたからです。

しかし、幼児期に「聴く力」を育み、想像力を膨らませておかないと、その後の成長や学力の向上に結びつかないように思います。つまり、お母さんやお父さんが絵本や童話などを読んであげることが、幼児期の子どもさんの脳の発達には非常に大事であるということです。

実際に読解力のある子供さんは、学年・年齢差は無関係です。つまり、「聴く力」に優れ、内容を良く把握しています。昔から「目は口ほどに物を言う」と言いますように、聴いている姿勢が良く「目の輝き」が活き活きとしています。

関門海峡の春の満ち潮

 

受験や学力の向上についてのご相談の中に、「様々な習い事をしているのですが、学校の成績に結び付いていない」、と言われるケースがあります。例えば、「読み、書き、計算」については、小さい頃からそれに特化した教室に何年も通ってきました、などです。また、定期的に届く通信教育教材や、「読み、書き、計算に加え英語を早い時期から身につけさせたい」と複数の教室をはしごするケースもそうです。

確かに、それぞれの教材や教育方法は、一定の理論付けがなされて編み出されています。しかし、それらが対象としているのは、一定の「理解力」「読解力」を持つ子供さんを前提としています。もちろん、それらの力がない場合には、親御さんが家庭でサポートすることが大前提です。つまり、その力に応じて宿題や課題として家庭学習しなければならない、ということです。結局「労多くして功少なし」という結果に終わります。

小学校三年生までに各教科の成績が満足のいくものでない場合は、「聴く力」不足で「考える力」を育てる根本的に大事な基礎教育が置き去りにされていると考えなければなりません。当然、小学校高学年なら早急に手を打たなければ、学力不足のまま中学校・高校に進学することになります。更に、高校、大学に進学した後に学力が伸びないとか、社会人になって仕事に対応できないというケースをよく耳にします。

これらは、幼児期からしっかりとした「聴く力」をつけるていくという「学びの根っこ」を等閑(なおざり)にしてきた結果と言えます。「聴く力」は「話の内容理解」として、「話す力」は「話づくり」として、幼児期に学ぶべきことです。それが長ずるに従って、「聴く」ことによって他人の意見を理解し、それを踏まえて自分の意見を述べ、「話し合う」ことが出来ていく。現在喧(かまびす)しく言われている「コミュニケーション能力」を発揮することになります。

何より子供さんには、幼児期に「聴きとり」名人になって欲しいものです。

posted by at 09:03  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

音読・素読・輪読・会読

国語教育の基本は、子供の成長に応じ正しい発音と発声で書物を音読することです。

形態としては、単独でする音読(声を出して読むこと)、師匠と弟子のように相対してする素読(意味を考えないで、文字だけをを声を出して読むこと)、同じ目的を持つ複数の人がする輪読(数人が一冊の本を代わる代わる読んで解釈し意見を交わすこと)や会読(数人が一箇所に集まって同一の本を読み、研究や討論をすること)などがあります。

管見では、音読の為の書物は、文章にリズムがあり、歯切れの良いものがお勧めです。文章の難易や内容は、子供の現在の理解度に合わせるのではなく、将来自ら学ぶ力を持つ素養を涵養する為に必要なものであることです。

羅針塾では、漢字を中心に語彙力が上がってくると、塾生には輪読の機会を設けます。たとえ小学生であっても、代わる代わる音読しているうちに、漢字熟語を読む力も増し、集中力も増してきます。

さて、インターネットで様々な記事を拝読しているうちに、参考になるブログを見つけました。

「日本漢文の世界」(https://kambun.jp/index.html)というサイトです。この中から興味深い記事をご紹介します。

(22)漢文訓読を現代に活かすために(「素読」から文法理解へ)

 

(前略)

現代において、この漢文訓読を活かしてゆくためには、何が必要でしょうか?

まず、江戸時代から明治の初期までと現代とでは、漢文の素養がまったく異なることを考えなければなりません。当時の教育では、子供にたくさんの中国古典を「素読(そどく)」させていました。「素読」とは、細かな意味は教えず、ただ声をだして漢文を訓読させる教育法です。大量の漢文を素読しているうちに、自然と漢文の意味が分かるようになるのです。もちろん、その域に到達するためには、非常に時間と労力をかける必要がありました。そして、このような悠長な教育法の実践は、明治以後には難しくなったため、「素読」は、今では全く廃れてしまいました。

(中略)

具体的にどの程度の素読が課されていたのか、宇野哲人・乙竹岩造・外著『藩学史談』(文松堂書店)の記事から見てみましょう。

津藩・有造館(三重県)  対象年齢 9歳~15歳 

論語 孟子 詩経 書経 易経 礼記 春秋左氏伝 十八史略 史記 前後漢書 綱鑑易知録 資治通鑑 (同書12ページ参照)

 仙台藩・養賢堂(宮城県) 対象年齢 8歳~三度落第したら退学

 孝経 小学本註 四書集註 近思録 春秋胡氏伝 公羊伝 穀梁伝 周礼 太載記 (生徒の望みにより、史記 漢書 等も教授)(同書369ページ参照)

 長州藩・明倫館(山口県) 対象年齢 8歳~14歳

 孝経 大学 論語 孟子 中庸 詩経 書経 易経 春秋三伝 礼記 小学(同書181ページ、191ページ)

さて、この明倫館の課業は厳しく、「小学生素読」の試験では、五経十一冊と小学四冊を「誤読遺忘」なきように覚えなければなりませんでした。これは容易なことではなく、合格者が非常に少なかったので、試験を分割して行うようにするなどの緩和策が講じられたほどであったといいます。(同書195ページ)

以上は各地の藩学の状況ですが、私塾でもほとんど変わらないカリキュラムで教育が行われていたようです。たとえば、福沢諭吉は少年時代に私塾で学んだ体験を自伝に書いていますが、次のような驚くべき勉強量です。(『福翁自伝』、岩波文庫旧版、23ページ) 

 白石(しらいし)の塾(じゆく)に居(い)て漢書(かんしよ)は如何(いか)なるものを読(よん)だかと申(もう)すと、経書(けいしよ)を専(もつぱ)らにして論語(ろんご)孟子(もうし)は勿論(もちろん)、すべて経義(けいぎ)の研究(けんきゆう)を勉(つと)め、殊(こと)に先生(せんせい)が好(す)きと見(み)えて詩経(しきよう)に書経(しよきよう)と云(い)うものは本当(ほんとう)に講義(こうぎ)をして貰(もらつ)て善(よ)く読(よ)みました。ソレカラ蒙求(もうぎゆう)、世説(せせつ)、左伝(さでん)、戦国策(せんごくさく)、老子(ろうし)、荘子(そうじ)と云(い)うようなものも能(よ)く講義(こうぎ)を聞(き)き、其先(そのさき)は私(わたくし)独(ひと)りの勉強(べんきよう)、歴史(れきし)は史記(しき)を始(はじ)め前後(ぜんご)漢書(かんじよ)、晋書(しんしよ)、五代史(ごだいし)、元明史略(げんみんしりやく)と云(い)うようなものも読(よ)み、殊(こと)に私(わたくし)は左伝(さでん)が得意(とくい)で、大概(たいがい)の書生(しよせい)は左伝(さでん)十五巻(じゆうごかん)の内(うち)三四巻(さんしかん)で仕舞(しま)うのを、私(わたくし)は全部(ぜんぶ)通読(つうどく)、凡(およそ)十一度(じゅうひとたび)読返(よみかえ)して、面白(おもしろい)処(ところ)は暗記(あんき)して居(い)た。

江戸時代の教育は、もちろん「素読」だけだったわけではなく、「会読」や「講義」もあるわけですが、これだけ漢文の勉強をするのは、現代においては困難です。 

 それでは、現代において、速成的に漢文の読解力をつけるには、どうすればよいのでしょうか? それには、英語の学習とおなじように、文法の理解が必要です。漢文法を習うことが、漢文読解力の向上のために、非常に有効なのです。

 英語でも、文法にもとづいて内容を理解できなければ、「直訳」すらできません。漢文も同じで、文法の理解なしでは訓読(=直訳)を誤ることにもなりかねません。ですから、訓読法を堅持する立場からも、文法の学習を忽(ゆるが)せにすることはできないのです。

・・・漢文を学ぶには漢文法を学び、英文を学ぶには英文法を学ぶべきである、という意見に全くの賛意を表します。

英語教育で所謂「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能を身に付けなければならないと喧伝(けんでん:盛んに言いふらすこと、世間で喧しく言い立てること)されています。

しかし、それには先ず国語力をつけなければならない。国語力をつけるには、国文法を身に付けなければならない。その上で、英語を学ぶ王道である英文法を身に付けるべきです。

詰まる所、国語力をつけるには、漢文教育プラス漢文法、国語教育プラス国文法、英語力をつけるには英語教育プラス英文法、となります。

posted by at 08:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語力で得るもの

幼児期からの国語力のための丁寧な学びは大事。
明日の「漢字検定」
準備での学びで再度実感しました。
塾生さん達は一所懸命最後の追い込みです。
一つ一つの漢字から国語力をつける。
顕著に成績に反映されています。

読むこと、書くこと、その言葉の使い方
丁寧に学ぶことによって
塾生一人一人の力がグングンとついています。

年中さんが小学一年生の試験を
小学校一年生が小学校三年生の検定に臨みます。
ほとんどの塾生さん達が先取りの学びを
しっかりと理解して!です。

「ハキハキ!元気!賢い子」
国語力のある子供達は
的確に自分自身の伝えるべきことを
質問に対し簡潔に論理的にお話ししてくれます。
5w1hの話し方が自然と身についていくのです。
羅針塾の学びはその時の成績がいい!ではなく
受験に合格すればいい!でもない。
一人一人がキラッと輝く本物の力をつける
学びを取り組ませていきたい。
日々考え、塾生さん達に向き合っています。

家族旅行のお土産です。
「幼いから連れ回しただけのようが気がして…」
大丈夫ですよ。楽しかったことを沢山お話ししてくれました。
しっかりと記憶に残っています。
ただのイベントではない家族旅行は一生の宝物です。

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