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『大学』を素読する11

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。「素読」をするには、基本的に正座と腹式呼吸が必須です。

『大学』を素読するシリーズは11回目です。

堯舜(ぎょうしゅん)天下を師(ひき)いるに仁を以(もっ)てして、民之(これ)に従う。桀紂(けつちゅう)天下を師(ひき)いるに暴を以(もっ)てして、民之(これ)に従う。其の令する所其の好む所に反すれば、民従わず。

(現代語訳) 聖天子の堯や舜は天下を率いるに人徳を以ってしたので、民は心から悦んで従った。無道の王、桀や紂は天下を率いるに暴力を以ってしたので、民はこれに従って、暴力が国中にはびこるようになった。このようにその発するところの命令が、自分の好むところに反すれば民はこれに従わないものである。

注:堯舜=古代支那で徳を持って天下を治めた聖天子堯(陶唐氏)と舜(有虞氏)。転じて、懸命なる天子の称。名君。

:桀紂=古代支那の夏の紂王と殷の紂王。ともに暴虐な君主。暴君。

是(こ)の故に君子は、諸(これ)を己(おのれ)に有して后(のち)諸(これ)を人に求め、諸(これ)を己(おのれ)に無くして后(のち)、諸(これ)を人に非とす。身に藏(ぞう)する所恕(じょ)ならずして、能(よ)く諸(これ)を人に諭(さと)す者は、未だ之(こ)れ有らざるなり。

故に國を治むるには、其(そ)の家を薺(ととの)うるに在り。

(現代語訳) そこで上位にある者は、自ら正しい道を行って人にもこれを求め、また自ら誤った行いを無くして後に人の誤りを誤りとして改めさせる。従って自分に恕(じょ*注)の心を持たないで、よく人を諭し導くことの出来る者はいない。(*注)恕:思いやること。同情。

・・・昔から漢文の初級レベルで堯舜、桀紂の逸話が必ず紹介されます。それにつけても、いつの時代も政治における指導者は、清廉潔白で範を国民に示すことができなければ、信を失います。

posted by at 18:24  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する10

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。「素読」がしっかりできると「音読」に進みます。

『大学』を素読するシリーズは10回目です。

所謂(いわゆる)國(くに)を治むるには、必ず先ずその家を齊(ととの)うとは、その家教う可からずして、能く人を教うる者は之れ無し。故に君子は家を出でずして、教えを國に成す。孝は君に事(つか)うる所以(ゆえん)なり。弟は長に事(つか)うる所以(ゆえん)なり。慈は衆を使う所以(ゆえん)なり。

(現代語訳) 「国を治むるには、必ず先ずその家を齊う」とあるのは、自分の家の者を教えることができないで広く人を教えることの出来るものはいない。だから君子は家に在っても国人を教えることが出来るのである。

例えば、家に在って我が親に孝行を尽くす心が君主によく事える本(もと)になるのである。兄や姉に従順であることが、世に出て年上や上司によく事える本になるのである。また妻子を慈しむ心は、民衆をよく使う本になるのである。

康こうに曰(い)わく、赤子を保(やす)んずるが如しと。心誠に之(これ)を求めば、中(あた)らずと雖(いえども)も遠からず、未だ子を養うを學(まな)びて后(のち)嫁ぐ者有らざるなり。

(現代語訳) 康こう(書経の一編)に「赤子を育てるようなものだ」とあるが、国を治めるに当たり一心になって政治に携わるならば、真中に的中しなくとも大きく間違うことはない。それはまだ我が子を育てることを十分経験してから嫁ぐ者が無いようなものだ。

一家仁なれば、一國仁に興り、一家譲なれば、一國譲に興(おこ)り、一家貪戻(たんれい)なれば、一國亂(らん)を作(おこ)す。その機此(かく)の如し、此(これ)を一言(いちげん)事(こと)をやぶり、一人(いちにん)國を定むと謂う。

(現代語訳) 一家の中が互いに仁の心を持って和やかに睦(むつみ)合えば、自ずから仁の気風が国中に満ちるようになる。一家の中で互いに譲り合えば自ら国中に我を捨てて互いに譲り合い、力を尽くす美風が興ってくる。然し、君主が貪欲で道理を無視して我儘(わがまま)であると、国中挙(こぞ)って乱を起こすようになる。このように治乱興亡のはずみは甚だ微妙なものである。これを昔の人が、一言の使いようで事を破り、一人の働きが国を安定させる原動力となると謂うのである。

・・・・・一言(いちげん)事(こと)をやぶり、一人(いちにん)國を定む 即ち、「一言の使いようで事を破り、一人の働きが国を安定させる原動力となる」とは、いつの時代にも通ずる言葉です。

小さい場面では、家族、友人知人間での一言。大きい場面では、国の元首の言葉です。日本では天皇陛下の勅語(ちょくご)や詔書(しょうしょ)など。

posted by at 17:24  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 9

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

『大学』を素読するシリーズは9回目です。

所謂(いわゆる)其の家を齊(ととの)うるには、其の身を修むるに在りとは、人(ひと)其の親愛する所に之(お)いて辟(へき)す。その賤悪(せんお)する所に之(お)いて辟(へき)す。其の畏敬する所に之(お)いて辟(へき)す。其の哀矜(あいきょう)する所に之(お)いて辟(へき)す。其の敖惰(ごうだ)する所に之(お)いて辟(へき)す。故に好みてその惡(あし)きを知り、惡(にく)みて其の美を知る者は、天下に鮮(すく)なし。

(現代語訳) 世に言われている、一家がよく調和するには、自分の身がよく修まることにありとは、(例えば)人は特に親しみ愛すると片寄って正常を失う。特にいやしみ憎む所があると片寄って正常を失う。特におそれやうやまう所があれば片寄って正常を失う。特にかなしみあわれむ所があれば片寄って正常を失う。また特におごりおこたる所があれば片寄って正常を失うことになるということである。そこで好んでその者の悪い点を知り、逆に憎んでその者の美点を知る者は世の中に甚だ少ないものだ。

故に諺(ことわざ)に之(こ)れ有り。曰(い)わく、人は其の子の惡(あし)きを知る莫(な)く、其の苗の碩(おお)いなるを知る莫(な)しと。

此(これ)を身(み)修(おさ)まらざれば 以(もっ)て其の家を齊(ととの)う可(べ)からずと謂う。

(現代語訳) 故に昔からの諺に、親は我が子の悪いことを知らない。農夫は自分の作った苗が他に比べて大きく育っているのを知らないとある。

これを身が修まらなければ、その家を齊(ととの)えることはできないというのである。

・・・客観的に人や物事を観ることの難しさを、具体的に感情の態様に応じて説いています。その故に、自分の身をよく修めることが如何に困難であるか。

自らの身を修めることができないとその家を齊(ととの)えることはできない。つまり、一家が安心・安定した様にはならない。

翻って、家庭教育についてみると、親御さんの身が修まらなければ・・・・・ということでしょうか。

posted by at 18:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

自ら勉学に勤しむ人に

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、「自ら勉学に勤しむ人」になる為の学びの基本から始めます。これは前回述べた「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」とは違い、古来から日本人としての学び方を踏襲するものです。

「読み・書き・算盤」という言葉は、非常に意義ある言葉です。つまり、日本人が人としてあるべき姿の一番の基本となるものだからです。

歴史的な偉人である吉田松陰二六歳の時に従兄弟彦助(叔父玉木文之進の嫡子)に贈った「士規七則」に

志(こころざし)を立てて以(も)って万事(ばんじ)の源(みなもと)と為す

交(まじわり)を択(えら)びて以って仁義の行(おこない)を輔(たす)く

書を読みて以って聖賢(せいけん)の訓(おしえ)を稽(かんが)ふ

とあります。

(現代語訳) あらゆる事の根本を為すのは、志を立てることである。仁義を貫くには、多くの人の支えが必要であり、その為には、人との交わりが大切である。聖人の教えを参考にして今に生かすようにするには、書物を読むことである。

この立志・択交・読書は、松下村塾生の指針とされたものであり、松陰の目指す人間像でもある。因みに、戦前の男子中等学校では、これを生徒の生活方針としたところもあった。

以上は、塾生の高校生が私的に山口県萩市に旅行した折に求めて後輩の塾生に贈ったカレンダーの一節です。

立志・択交・読書という文言は、常日頃から家庭の教育方針とすべきものです。この言葉が子供さんの身内に浸透するようになれば、「勉強しなさい」という言葉をかける必要がなくなると思います。

posted by at 14:53  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

紙が育む記憶力

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、近来の教育のデジタル化、ICT教育の流れを横目で見つつ、塾生さん達にとって最適な勉学の道を進もうと考えています。

先日、ある教育教材関連のセミナーを受講しました。文部科学省が進める中学校教科書改訂に伴って全ての小中学校で英語、一部の小中学校で算数・数学のデジタル教科書が導入されています(令和六年四月〜)。いわば、学校現場で「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」という流れを作ろうとしています。

パソコン、タブレット、スマホという機器を使いこなすことは、一見「紙」を使わないペーパーレス化が進み、合理的かのような風潮がありますが、果たして学習効果は如何。

これに関連して、東京大学大学院総合文化研究所 酒井邦嘉教授の「紙が育む記憶力・脳の創造性」の講演録を引用してご紹介します。

◾️教育の「デジタル化」の問題点

・製本された紙の教科書に比べ、デジタル教科書は画面上の位置が不定で実体がないため、空間的な手がかりに欠け、記憶に残りにくい。

・デジタル教科書はネット検索等で情報過多となり、自分で考える前に調べるようになる。

・端末で完結しがちなので、紙のノートを使わなくなり、「書き写して覚えること」、メモを取る能力、書字の能力にまで影響が及ぶ。

・咀嚼能力が下がり、学力低下が懸念される。

・・・詳細は https://www.sakai-lab.jp/media/2021077-133623-964.pdf 

あくまでも紙の教科書やノートが「主」であって、デジタル機器は「従」であり「副」なのだ。その関係性をはっきりさせなければ、デジタル機器を盲信する安易な意見に流されて、教育の質そのものが低下するのは避けられない。これは初等教育や中等教育だけでなく、高等教育を含む大問題であり、ひいては研究者や芸術家といった創造的な仕事まで関わることなのだ。

・・・酒井邦嘉教授は、『使用したメディアによる記銘の違いがどのように記憶の想起に差を生じさせるか』という研究(18歳から29歳の48人を「紙の手帳群」「タブレット群」「スマホ群」の3群割り振って比較検討する)によって、デジタル機器の潜在的な危険を指摘している。

結論として、

学習を通して、われわれが新たな知恵を自分のものにしていく上で、記憶こそがその根幹にある、いかに正確に、しかも、自分で使える記憶として脳にとどめておけるのか。情報化時代を迎えて、膨大なデータベースを利用できるようになったとはいえ、本当に使える知識というのは、自分の頭の中に身につけるしかない。

人間の脳は、非常に優れた情報検索装置でもある。しかも脳は新しい組み合わせを生み出すことができるから、確固たる記憶や知識は、創造性に直結する。学校における学びの場というのは、模倣で終わりではない。温故知新という試行錯誤のためには、十分な時間を確保することが求められる。

(中略)

要は物事の「考え方」をどのように次の世代に伝えていくかに尽きる。そのためにも、人工的な機械ではなく、人間の脳の自然な特性を踏まえた議論をすることがが大切であろう。

 

・・・やはり、物事を多面的に見ていくと、学校現場で「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」という流れは、勉学の「王道」から外れていると考えられます。デジタル機器のマイナス面も併せて考える必要があります。

 

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