‘ 国語力ブログ ’ カテゴリー

『大学』を素読する 9

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

『大学』を素読するシリーズは9回目です。

所謂(いわゆる)其の家を齊(ととの)うるには、其の身を修むるに在りとは、人(ひと)其の親愛する所に之(お)いて辟(へき)す。その賤悪(せんお)する所に之(お)いて辟(へき)す。其の畏敬する所に之(お)いて辟(へき)す。其の哀矜(あいきょう)する所に之(お)いて辟(へき)す。其の敖惰(ごうだ)する所に之(お)いて辟(へき)す。故に好みてその惡(あし)きを知り、惡(にく)みて其の美を知る者は、天下に鮮(すく)なし。

(現代語訳) 世に言われている、一家がよく調和するには、自分の身がよく修まることにありとは、(例えば)人は特に親しみ愛すると片寄って正常を失う。特にいやしみ憎む所があると片寄って正常を失う。特におそれやうやまう所があれば片寄って正常を失う。特にかなしみあわれむ所があれば片寄って正常を失う。また特におごりおこたる所があれば片寄って正常を失うことになるということである。そこで好んでその者の悪い点を知り、逆に憎んでその者の美点を知る者は世の中に甚だ少ないものだ。

故に諺(ことわざ)に之(こ)れ有り。曰(い)わく、人は其の子の惡(あし)きを知る莫(な)く、其の苗の碩(おお)いなるを知る莫(な)しと。

此(これ)を身(み)修(おさ)まらざれば 以(もっ)て其の家を齊(ととの)う可(べ)からずと謂う。

(現代語訳) 故に昔からの諺に、親は我が子の悪いことを知らない。農夫は自分の作った苗が他に比べて大きく育っているのを知らないとある。

これを身が修まらなければ、その家を齊(ととの)えることはできないというのである。

・・・客観的に人や物事を観ることの難しさを、具体的に感情の態様に応じて説いています。その故に、自分の身をよく修めることが如何に困難であるか。

自らの身を修めることができないとその家を齊(ととの)えることはできない。つまり、一家が安心・安定した様にはならない。

翻って、家庭教育についてみると、親御さんの身が修まらなければ・・・・・ということでしょうか。

posted by at 18:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

自ら勉学に勤しむ人に

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、「自ら勉学に勤しむ人」になる為の学びの基本から始めます。これは前回述べた「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」とは違い、古来から日本人としての学び方を踏襲するものです。

「読み・書き・算盤」という言葉は、非常に意義ある言葉です。つまり、日本人が人としてあるべき姿の一番の基本となるものだからです。

歴史的な偉人である吉田松陰二六歳の時に従兄弟彦助(叔父玉木文之進の嫡子)に贈った「士規七則」に

志(こころざし)を立てて以(も)って万事(ばんじ)の源(みなもと)と為す

交(まじわり)を択(えら)びて以って仁義の行(おこない)を輔(たす)く

書を読みて以って聖賢(せいけん)の訓(おしえ)を稽(かんが)ふ

とあります。

(現代語訳) あらゆる事の根本を為すのは、志を立てることである。仁義を貫くには、多くの人の支えが必要であり、その為には、人との交わりが大切である。聖人の教えを参考にして今に生かすようにするには、書物を読むことである。

この立志・択交・読書は、松下村塾生の指針とされたものであり、松陰の目指す人間像でもある。因みに、戦前の男子中等学校では、これを生徒の生活方針としたところもあった。

以上は、塾生の高校生が私的に山口県萩市に旅行した折に求めて後輩の塾生に贈ったカレンダーの一節です。

立志・択交・読書という文言は、常日頃から家庭の教育方針とすべきものです。この言葉が子供さんの身内に浸透するようになれば、「勉強しなさい」という言葉をかける必要がなくなると思います。

posted by at 14:53  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

紙が育む記憶力

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、近来の教育のデジタル化、ICT教育の流れを横目で見つつ、塾生さん達にとって最適な勉学の道を進もうと考えています。

先日、ある教育教材関連のセミナーを受講しました。文部科学省が進める中学校教科書改訂に伴って全ての小中学校で英語、一部の小中学校で算数・数学のデジタル教科書が導入されています(令和六年四月〜)。いわば、学校現場で「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」という流れを作ろうとしています。

パソコン、タブレット、スマホという機器を使いこなすことは、一見「紙」を使わないペーパーレス化が進み、合理的かのような風潮がありますが、果たして学習効果は如何。

これに関連して、東京大学大学院総合文化研究所 酒井邦嘉教授の「紙が育む記憶力・脳の創造性」の講演録を引用してご紹介します。

◾️教育の「デジタル化」の問題点

・製本された紙の教科書に比べ、デジタル教科書は画面上の位置が不定で実体がないため、空間的な手がかりに欠け、記憶に残りにくい。

・デジタル教科書はネット検索等で情報過多となり、自分で考える前に調べるようになる。

・端末で完結しがちなので、紙のノートを使わなくなり、「書き写して覚えること」、メモを取る能力、書字の能力にまで影響が及ぶ。

・咀嚼能力が下がり、学力低下が懸念される。

・・・詳細は https://www.sakai-lab.jp/media/2021077-133623-964.pdf 

あくまでも紙の教科書やノートが「主」であって、デジタル機器は「従」であり「副」なのだ。その関係性をはっきりさせなければ、デジタル機器を盲信する安易な意見に流されて、教育の質そのものが低下するのは避けられない。これは初等教育や中等教育だけでなく、高等教育を含む大問題であり、ひいては研究者や芸術家といった創造的な仕事まで関わることなのだ。

・・・酒井邦嘉教授は、『使用したメディアによる記銘の違いがどのように記憶の想起に差を生じさせるか』という研究(18歳から29歳の48人を「紙の手帳群」「タブレット群」「スマホ群」の3群割り振って比較検討する)によって、デジタル機器の潜在的な危険を指摘している。

結論として、

学習を通して、われわれが新たな知恵を自分のものにしていく上で、記憶こそがその根幹にある、いかに正確に、しかも、自分で使える記憶として脳にとどめておけるのか。情報化時代を迎えて、膨大なデータベースを利用できるようになったとはいえ、本当に使える知識というのは、自分の頭の中に身につけるしかない。

人間の脳は、非常に優れた情報検索装置でもある。しかも脳は新しい組み合わせを生み出すことができるから、確固たる記憶や知識は、創造性に直結する。学校における学びの場というのは、模倣で終わりではない。温故知新という試行錯誤のためには、十分な時間を確保することが求められる。

(中略)

要は物事の「考え方」をどのように次の世代に伝えていくかに尽きる。そのためにも、人工的な機械ではなく、人間の脳の自然な特性を踏まえた議論をすることがが大切であろう。

 

・・・やはり、物事を多面的に見ていくと、学校現場で「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」という流れは、勉学の「王道」から外れていると考えられます。デジタル機器のマイナス面も併せて考える必要があります。

 

『大学』を素読する8

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

幼児、小学低学年、中学年、高学年と、「素読」をし続けると、自ら行う「音読」が明らかに、滑舌良く正確に速くなります。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

曽子曰わく、十目(じゅうもく)の視(み)る所(ところ)、十手(じゅっしゅ)の指さす所、其れ厳なるかな。

富は屋(おく)を潤(うるお)し、徳は身を潤(うるお)す。心廣(ひろ)く體(からだ)ゆたかなり。故に君子は必ずその意(こころばせ)を誠にす。

(現代語訳) (孔子の高弟)曽子が「多くの人が注目するところ、多くの人が指摘するところは厳正だなあ」と言われた。

富は家をうるおし徳は身をうるおす。従って、心は広く、体ものびのびとする。故に君子は、必ず自分の意識や感情を正常にするように努める。 *因みに、富と徳を具有することを両潤(りょうじゅん)と言う。

所謂(いわゆる)身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在りとは、身(み)忿(ふん)ちする所有れば、即ちその正しきを得ず。恐懼(きょうく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。好楽(こうらく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。憂患(ゆうかん)する所有れば、即ちその正しきを得ず。心(こころ)焉(ここ)に在(あ)らざれば、視(み)て見えず、聴きて聞こえず、食いて其の味を知らず。此れを身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在(あ)りと謂(い)う。

(現代語訳) よく言うところの「身を修るには、其の心を正しうするに在り」とは、例えば身(心の存する肉体)に怒を含んでいるときは正しく判断することはできない。恐れを懐いてる時は正しく判断することはできない。片寄って好んだり楽しんだりする所があれば正しく判断できない。甚だ心配する所があれば、正しく判断することはできない。心が散漫して止まる所がなければ、視ても其の真実が見えない。聴いても其の真実が聞こえない。また食べても本当の味がわからないということである。これを身を修るには、其の心を正しくすることにありと言う。

・・・如何に、心を正しく平常に保ち続ける必要があるか、と言うことですね。しかし、これがとても難しい。日々、修行です。

posted by at 16:11  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 7

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

令和七年の冬期講習は4日から再開です。素読も同様に始まります。素読の繰り返しは、読み下し文(*)が自然と身に付きます。

(*)読み下し文:漢文を返点、振り仮名、送り仮名などの訓点に従って、日本語に直訳した文章。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

所謂(いわゆる)其の意(こころばせ)を誠にすとは、自(みずか)ら欺(あざむ)く母(な)きなり。悪臭(あくしゅう)を悪(にく)むが如く、好色(こうしょく)を好むが如し。此(これ)を之(こ)れ自謙(じけん)と謂(い)う。故に君子は、必ず其の獨(ひとり)を慎むなり。

(現代語訳) 「其の意を誠にす」というのは、自分が自分を欺かないことである。それは丁度悪い臭いをかいだら本能的に鼻をすくめ、好きなよい色を見れば、本能的に目を見開いて見ようとするようなものでる。これを自らあきたる「自謙」(謙は慊に通ず*)というのである。そこで君子は必ず自ら自分で一人を慎むのである。

*「謙」:謙(ヘリくだ)る、慎んで人の下につく。「慊」:飽き足りない、心に満足しない。

小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善を為(な)し、至らざる所(ところ)無(な)し。君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、其の不善をおおいて其の善を著(あらわ)す。人の己を視(み)ること、其の肺肝(はいかん)を見るが如く然(しか)り。即ち何の益かあらん。此を中(うち)に誠(まこと)あれば外(そと)に形(あら)わると謂う。故に君子は必ず其の独りをつつしむなり。

(現代語訳) つまらない人間は暇があると善くないことを考えて、何をしでかすかわからない。それでも立派な人物に出会うと良心が目覚めて、自分が嫌になって自分の悪いところを隠して善い方を表そうとする。然し他人がそれを見透かすことは、肺臓肝臓を見通すような物で、何の役にも立たないだろう。これを中に誠があれば自然に外にあらわれ出るものだという。偽りもまた同じである。故に君子は必ず独りを慎むわけである。

・・・「小人閑居為不善、無所不至」はよく聞く文言です。簡単に言うと、小人はつまらない、貧弱な考えしか持たない人、大人は富者、貴人を敬っていうこと。君子は学識・人格共に優れ、徳行の備わった人、です。人の性情・人格は、まさに人それぞれですが、大昔から変わらない人間模様があります。

posted by at 18:42  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
さらに記事を表示する

月別アーカイブ

長崎|羅針塾学習塾トップページ

羅針塾 SNS

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter
PAGE TOP

新着ブログ

  1. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  2. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、素読に実語教、…
  3. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  4. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  5. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…

月別アーカイブ

羅針塾 SNS

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter