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食事を始める作法・終える作法

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

日本人として、しっかりした礼儀作法の型を幼児期から身につけると、どんなときにも自然と対応できるようになります。やはり何事も、幼児期から始めると一生の宝となります。

「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、作法はまず「食事」からという項があります。その中から一部引用してご紹介します。

食事を始める作法・終える作法

日本人にとっての食事を始める作法(食前感謝)について述べていきたい。

食前と食後に、食事に対して一礼して「いただきます」「ごちそうさま」と述べる。もしくは、柏手(かしわで)を打って、あるいは手を合わせて同じように述べてもよい。柏手を打つのは神道式、合掌は仏教式である。

食事を始める作法は、大自然の恵みに感謝することをを中心とする。目の前にある食事そのものを神と観念し、その食材を通じて、その背後にある大自然を仰ぎ見て「尊い命を頂きます」という気持ちで「いただきます」と唱える。

食事を終える作法は、動作は、食事を始める作法と同じだが、人々の働きに感謝することを中心とする。目の前にある食べ終わった食前を見ながら、この食事を用意するのにどれだけ多くの人の働きがあったかを思い描き「人々の尊い働きに感謝します」という気持ちで「ごちそうさまでした」と唱える。このように、大自然の恵みと人々の働きに深い感謝の気持ちを抱いて、感謝の言葉を唱えようとすると、自ずと背筋が伸び、正しい姿勢になるであろう。

・・・・以上の食事の作法は、竹田恒泰先生曰く略式だそうです。この後の記述で神道式の正式な作法が述べられていますが、それは次回以降にご紹介します。

略式といえども、食前感謝・食後感謝を、食事ごとにしっかりと心に刻みながらすることは、精神の安寧につながります。子供のときから、落ち着いた気持ちで食事に臨むことは、精神的にも安定し、賢さに繋がる日々の挙措動作ではないでしょうか。

posted by at 18:20  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「いただきます」と「ごちそうさま」

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

幼児教育の基本である躾はとても重要です。食事はその躾の「場」です。日々の朝食、昼食、夕食は単なる栄養を摂取する機会ではありません。その際の挙措動作によって、人の品性や人格が表れる以上、幼児期から正しい作法を身に付けておかなければなりません。

「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、作法はまず「食事」からという項があります。その中から一部引用してご紹介します。

「いただきます」と「ごちそうさま」

食事とは、「命を頂く儀式」であって、神聖なものである。食事はそれ自体が神事と考えてよい。さらにいえば、調理や稲作、そして酒造りなども神事そのものである。このように捉えてきた日本人は、「いただきます」と言って食事を始める。これは、元々は「あなたの命を頂きます」の意味で、大自然の恵みに感謝する言葉である。

他方、食後の「ごちそうさま」の言葉は、元の「ご馳走様」の文字を眺めればその意味が分かりやすい。自分のために走り回って食事を整えてくれた人の働きに感謝する言葉である。たとえ自分で料理したとしても、稲や野菜を育て、魚を捕り、塩を作り、酒を醸した人がいたはずであり、さらにいえば、調理道具や食器を作った人、食材を運んだ人、ガスを通した人など、大勢の人々の手を経なければ、たった一食の食事も成り立たない。私たちが何気なく口にしている一膳のご飯も、大自然の恵みの賜物であって、途方もないほど多くの人々の手が掛けられて、ようやく用意できるものである。

だから、古来「お米には神様が宿る」「米を一粒でも食べ残すと目が潰れる」などと教えてきた。「飯の喰い方のの汚い奴は出世できない」というのも真理を述べていると思う。そういう人は、物事に感謝できない人に違いない。

したがって、「いただきます」は自然の恵みに感謝する言葉で、「ごちそうさま」は人々の働きに感謝する言葉ということになる。日本人は太古の昔から、食事をする度に手を合わせて大自然の恵みに感謝してきた。

 

・・・・・食事の始まりに「いただきます」、終わりには「ごちそうさま」と唱えるのは、日本の家庭の食事風景には不可欠です。近来、外食の機会も多くなりましたから、公衆の場でも食事をすることになりますが、それとなく周囲を見ていると若い人たちも、食事の前にさりげなく手を合わせているのを見かけます。言葉は「言霊(ことだま)」ですから、「いただきます」「ごちそうさま」は、声に出すことが大事です。

家庭では、子供さんに「いただきます」「ごちそうさま」の意味合いをしっかり教え諭すと、一生の宝になるのは間違いありません。

posted by at 17:01  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

食事の作法

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

その子供達も、いずれ大人になり社会へ出ます。そうすると、社会のルールや常識、礼儀作法など、人としての有り様(あるべき姿)を様々な場面で問われます。その為にしっかり身につけるべき作法について、「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)から一部引用してご紹介します。

作法はまず「食事から」

箸に手を付けた瞬間その人の評価が決まる 知らないでは済まされない日本人の常識

およそ食事の作法は、自然の恵みに感謝すること、人々の働きに感謝すること、そして相手を尊重することの三点に尽きる。この要点を踏まえて、食事の作法の核心を述べていきたい。食事の作法は、ただ形だけを身に付けるのではなく、その意味も一緒に知るようにしなくては意味をなさない。作法の根底に横たわる「精神」を会得すれば、自ずと形も整うというものだ。何故そのような作法になっているかを考えれば、すべて感謝と尊重が元にあることがわかるはずである。

そして、食事作法こそが、日本の礼儀作法の根本といってもよいかも知れない。食事作法ができていなければ、いかに他の礼儀作法ができていても、何もできないのと等しい。逆に、食事作法さえできていれば、他の作法の欠陥を補うこともできる。

 

・・・食事は、乳児から幼児、そして少年・少女へと成長する際に、日に何度もします。したがって、日々「作法」を学ぶ機会があることになります。そうすると、家族で食卓を囲む際に、父・母や祖父母など年長者がいると、日々「真似る」ことができます。これができないと、「躾ける」必要があります。そうして、「作法」は代々継承されていきます。

子供が成長する際に、さまざまなことを学びますが、何より「食事の作法」から始まることを考えれば、食事の時間は貴重な「学び」のときとなります。

つまるところ、幼児教育の要諦は「食事の作法」にあるということができます。

posted by at 17:37  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

美しい日本語を使えますか

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

また、幼児から小学生・中学生、高校生の塾生と普段接していると、賢く成長してもらう為に、それぞれが正しい日本語を習得することを願っています。。その秘訣のいくつかを記している書物があります。「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)から一部引用してご紹介します。

美しい日本語」とは何か

まず、「美しい日本語」とは何であるかを考えてみたい。それはズバリ「正しい日本語」であるといってよいであろう。単に「正しい」といっても、「文法的に正しい」だけでなく、「時機が正しい」必要がある。「時機が正しい」とは「TPOが正しい」ということであり、例えば、目上の人に対しては敬語を用いることなどがこれに当たる。

つまり、「美しい日本語」は、知識さえあれば誰でも話すことができるのであるから、知らないと損をするのである。ただ、いくら知識があっても、それに慣れていないと、咄嗟(とっさ)に話すことはできない。だからまず知識を持ち、次にそれに慣れることで、誰でも「美しい日本語」の話し手になることができる。

逆に「正しい日本語」が話せないと、それは致命的であることを知っておいて欲しい。何故なら、「正しい日本語」を話せない人は、「正しい日本語」を話す必要がある場面をあまり経験していないと見なされてしまうからである。使うべきところで敬語を使えないと、品格を疑われる。「正しい日本語」が話せない人は、信用されないのである。

・・・・・竹田恒泰氏は、明治天皇の玄孫です。所謂、「宮家のおしえ」は、話し言葉、挙措動作、居住まい、等々、全人格的な一つの物差しを示しています。

私達は、物心がついた頃から、身近な父・母・祖父母・兄弟姉妹との会話の中、また身振り素振りの中で成長していきます。「学ぶ」は、「真似ぶ」が語源ともいわれ、「真に似せる」の意味から「真似(まね)」や「まねぶ」が生まれ「学ぶ」という語句がうまれたとも言われます。

そうすると、幼い頃からの環境が「正しい日本語」「美しい日本語」の出発点であるともいえます。幼児教育の基本は、「正しい日本語」を使う訓練から始まります。

posted by at 15:28  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語教育の大事さ

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

再々、国語教育の大事さを当ブログではお伝えしていますが、何度でも訴え続けなければならないことであると痛感します。蓋し(けだし)、知・情・意の人間性を説明する言語として日本語が優れているからです。夏目漱石の「草枕」の冒頭の文、(参照:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html))

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。

・・・夏目漱石先生の名調子の文章は多くの人に愛されています。「に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。」は、まさに知・情・意の関係を簡明に表現しています。

さて、前回の当ブログ(11月3日は「明治節」)でご紹介しました「歴代天皇の御製集」[公社]国民文化研究会・編著(致知出版社)の「刊行に当たってーー歴代天皇の御製としきしまの道ーー」公益社団法人国民文化研究会理事長 小柳志乃夫 氏の文をご紹介します。

ここに述べられている論は、我が国の歴史と国柄を明確に捉え、説明されています。

私たちの国日本は極めてユニークな国です。長い歴史を持つ国であり、その間に大陸の文化や西洋近代の文化を取り入れつつ、独自の文化を守り育んできた国です。その歴史を貫いて今も生きているわが国の大きな特徴が二つあると思います。

一つは、常に国の中心に皇室のご存在があったことです。万世一系といわれる天皇の系譜ー皇統ーは、皇祖神(こうそじん)、天照大神(あまてらすおおみかみ)にはじまり、初代の神武(じんむ)天皇から令和の百二十六代の今上天皇に至ります。今上天皇の父方のご祖先を辿るとそのまま神武天皇に至り、さらに神話の世界にさかのぼるわけです。日本書紀に示された皇紀(神武天皇即位の年を元年とする日本の紀元)では二千七百年近く、歴史考証でもほぼ二千年に及ぶ長い歴史をもちます。天皇は、今もご祖先の天照大御神を祭られていて、 たとえば十一月二十三日の新嘗祭(しんじょうさい)(「勤労慇謝の日」の由来)ではその年に取れたお米を神様にお供えし、自ら食されていますが、このお祭りは千四百年以上前から今に至ります。このような国は世界のどこにもありません。アジアや欧州諸国のように、侵略や革命による王朝の興亡が起きることもなく今日まで続いているのです。海外からの侵略がほとんどなかったのは島国という地理的条件も幸いしたでしょうが、天皇と国民が外国に多く見られるような権力的支配・被支配という関係であったなら、今日まで続くことはなかったでしょう。天皇と国民の間には、長い伝統を背景とした深い敬愛と信頼がありましたし、こうした国のあり方を守ってゆく意志を、天皇と共に私たちの祖先が持ちつづけてきたことが今日まで皇室が継続した背景であると申せましょう。

 もう一つの特徴は、国語の存在であり、特に和歌が詠みつがれてきたという点です。古代に大陸から漢字が入ってそれをもとに万葉仮名をはじめ仮名文字が作られ、文学がさらに発展することになりました。さらに近世の国学者の努力により、今私たちは、原文で記紀神話を読み、万葉の歌を味わうこともできます。わが国にはこうした多くの文学や文献資料が今に伝えられています。それは我が国が全般に平和であった何よりの証左です。中国では今でも革命による前代の歴史の否定が行われているように、言葉の断絶や歴史の断絡が仮にあったならば、こうした祖先のことを知る大事な機会が失われてしまいます。

・・・更に、

特に和歌の伝統は重要な意味を持ちます。平安時代前期末の『古今和歌集』(醍醐天皇の勅命による初めての勅撰和歌集。本書では「古今集」と以下略)は、それまで隆盛を誇っていた漢文学に対して、和文学の復興を告げたものといえましょうが、その「仮名序」に「やまと歌は、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける(日本の和歌は人間の心に感じたことをとあるように、和歌は心、祖先の心が現代の私たちの心にを種として、多くの言葉を茂らせてきた)」とあるように和歌は心にかんじたことをやまと言葉で定型の詩に整えたものです。祖先の歌を味わうと、祖先の心が現代の私たちの心によみがえってくる、そういう道が今も開かれているということです。

 

・・・①神話にさかのぽる皇室のご存在と、②和歌を中心とする豊かな国語文化、この重要な論点について我が国の学校教育ではほとんど触れられることはありません。むしろ、避けている印象が強い。このままでは、豊かな国語文化は衰微していくことになり、将来の日本人の豊かな人間性も育たないことになりかねません。

子供さんの将来を真剣にお考えのご両親には「歴代天皇の御製集」はお薦めです。

posted by at 16:44  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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