‘ 学習塾・幼児教育 ’ カテゴリー

ベーカー艦長

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

教育者としては人口に膾炙(*)していない人物について、渡部昇一上智大学名誉教授(専攻英語文法史。英語学者、歴史家、評論家)がessay(随筆)を書いておられます。渡辺昇一先生著「人生を創る言葉」(致知出版社)から引用してご紹介します。

*じんこうにかいしゃ=かいしゃ《膾 (なます) と炙 (あぶりにく) とが、だれの口にもうまく感じられるところから》人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る

ベーカー艦長

イギリスのロンドンにあった「ウォースター」という名門商船学校の校長を務めた。船を校舎として使っていたため、艦長でもある。

一番汚いところを徹底的にきれいにする

ロンドンのテームズ河口にウォースターの商船学校がある。ここは東郷平八郎元帥が若い頃に勉強したという有名な学校である。この学校の校舎はウォースターという軍艦で、これは五十門の大砲が積める木造の帆前船(ほまえせん)であった。その後、古くなったので、もっと大きな船に変えたけれど、名前は初代のウォースターをそのまま使っている。

明治三十二年に、東京商船学校の高柳教授という人がこの学校を訪ね、校長兼艦長のベーカー大尉に面会した。この人は予備役の海軍大尉で、この学校の出身者である。

ベーカー大尉が高柳教授に尋ねた。

「日本から海事教育の専門家が訪ねて来たのはあなたが初めてだが、何を見に来たのですか?」

「ウォースター商船学校そのものの見学に来たのですよ」

と答えると、

「それなら実際にウォースターではこういう教育をしていると、いうのを見せてあげましょう」

と言って、高柳教授を艦長の部屋に連れて行った。

どこの船でも艦長の部屋には洗面台がある。ベーカー艦長はその洗面台のところへ行って、ガラスのコップを一つ取りそのコップをポケットに入れた。それからそこにあった提灯みたいなものに灯を点けて、教授を船の中に連れて行った。どこへいくのかと思っていると、いくつもの階段をどんどん下りて、ついに木造船のどん底まで行った。艦の一番底には、家の下水のように、上甲板から来る雨水や船底から染み込む汚水が溜まるところがある。艦長はその蓋を開けて、中の水をコップに汲み、また甲板に上がってきて、それを太陽に照らしてみせた。

「これがウォースターの教育です。飲めるくらいの水で、ゴミ一つないでしょう。これがここの教育です。」

禅問答みたいな話だが、船底に溜まった水が飲めるくらい徹底的に船をきれいにするような教育をやっていたということである。高柳教授は非常に感銘を受けて、なるほどこうした教育を受けているから、イギリスに立派な名士が次々と出てくるのだろうと感じ入った。

その話を高柳教授から聞いたある人は、東郷さんのことを思い出した。日清戦争の前に支那の北洋艦隊が日本にやって来たことがある。定遠・鎮遠といった大軍艦が日本の各地で示威運動をして回った。その頃の日本には大きな軍艦はなかったから、見学した誰もが驚いた。

そうした見物人に混じって、東郷さんが平服でたびたび定遠・鎮遠を見に行っていた。あるとき、東郷さんが定遠を見学していると、大砲の砲身に水兵が洗濯したズボンが引っ掛けて乾してあった。それを見た東郷さんはにっこりと笑っていった。

「もう大丈夫だ。シナの艦隊はいつでも潰すことができるな」

東郷さんは砲身に洗濯物が乾してあるのを見て、水兵の訓練が徹底されていないことに気付いたのである。ウォースターで訓練を受けた東郷さんには、それが意味することがよく理解できた。

かって、ベルギーの商船学校の練習船がビスケー湾で原因不明の沈没をしたことがあったという。その原因を調べてみると、船の中に侵入してくる水をポンプでかい出しているうち、船底にゴミの混じった水が溜まっていたため、途中でポンプが効かなくなって沈んでしまったことがわかった。また日本の軍艦の話として聞いたことがあるが、東郷さんの頃はともかく、この前の戦争の頃になると、艦長は船底まで降りていかないのだそうだ。だから、船底を見ると非常に汚かったという。ウォースターのベーカー艦長が船底に案内したのは、良き時代のイギリスの教育は一番汚いところを徹底的にきれいにすることを教えていると知らせるためだったのである。

 

・・・この逸話は様々な示唆に富むものです。船底に溜まる汚水を水垢(みずあか)・bilge(ビルジ)と言いますが、小さなyacht(ヨット)やboat(ボート)でも、常に汲み上げたり、ウエス(雑巾)で拭き取ったりするのは船乗りの基本です。そうしておかなければ、気付かないうちに水垢が増し、あっという間に沈没の危機に陥ることがあるからです。

これは、学問を勉強する際も同様に考えておかなければなりません。

教科書、参考書、問題集、帳面(ノート)、筆記用具等、全て大事に丁寧に扱う心掛けがまず必要です。ノートの書き方は勿論とても重要。文字や数字の大きさや正確さ。あらゆるところに気配り、心配りが必要です。

筆者も学生時代体育会yacht部で、海の上で競技をしていましたが、陸上での点検整備、海上での確認など、生命・身体に関わることですから、しっかりとしなければなりませんでした。海上に出る船舶は、大小に拘らず、生命に関わる以上、点検・整備、指差し確認、ダブル・チェックなどなど、日々行わなければなりません。

本当の学力をつける為には、海上に出る船乗りの如く、生命に直結しているという緊張感を持って学問に勤しむと、日々の努力が身を結ぶと思います。一問ぐらい間違っても、という心掛けでは、あたかも海の上で命を落とす危険に陥ることになりかねません。

ペスタロッチ

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

世界中で教育界の偉人として取り上げられるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi)について、渡部昇一上智大学名誉教授(専攻英語文法史。英語学者、歴史家、評論家)がessay(随筆)を書いておられます。引用してご紹介します。

ペスタロッチ

スイスの教育家。親友の死に会って政治家となることを諦め、絶えず子どもと共に生活し、一生を愛の教育に注ぐ。(1746~1827)

 ◎孤児を食に飽かせることは難しい。彼らの胃は空虚であるから。けれど彼らの霊を満たしむることはできる。人性は善であるが故に

スイスの大教育家ペスタロッチは、いつもこういっていた、

「自分は孤児を養うために、自ら乞食のように生きなければならなかった」

スタンツの戦争のために孤児になった少年少女救済に、独力で奮闘していたときのこと。資力もなく後援もない赤貧洗うような彼は、ただ町の人々に寄付を求めるより仕方がなく、朝に夕に町を歩いて、人々の慈悲心に訴えていた。

しかし、同情してくれるものは少ない。一方、孤児の数は日に日に多くなっていく。寄付のお金の代わりに貧しい孤児を連れて帰る日の方が多かった。しかも孤児たちは恐ろしいほどガツガツと食べる。その様子は、胃袋の中に餓えた狼が住んでいるようだった。

「ああ、1日でもかれらに腹一杯食べさせてあげられたら」

とペスタロッチは嘆いた。

しかし、孤児の心は僻(ひが)み、ねじけていた。神のような彼の愛情も、なかなか彼等の心には触れなかった。ペスタロッチはそれを悲しく思ったけれども、自分の愛がまだ足りないから、彼等の心を潤(うるおす)すことができないのだと考えた。そして彼は、孤児達の胃が飢えるよりも、その心が飢えることを恐れ、力の限り愛と誠を注いだ。

ある日、孤児達が隣の街から乞食の少年を何人も連れてきたのを見て、彼は驚いた。どうしたのかと聞いたら、こんな答えが返ってきた。

「先生、この子達も孤児です。可哀想だから連れて来ました。僕たちのパンを半分にして、この子達に食べさせてください」

その可憐な言葉にペスタロッチの目からは熱い涙がとめどなく流れた。

「孤児のお腹を一杯にさせることは難しい。彼等の胃袋は空虚であるから。しかし彼等の霊を満たしてあげることはできる。人の性は善であるが故に」

彼はそう言って小さく賤(いや)しい子ども達の心の奥に愛の気持ちが芽生えたことを神に感謝するのであった。

食べることに賤しく、性格も捻じ曲がってどうしようもないと思っていた孤児達が、もっと貧しい子達を連れて来て、自分達のパンを分けてあげてくれと言った。それを見てペスタロッチは、人の性の善なることを確信したのである。

ペスタロッチは誠心誠意、教育者であったということである。普通の先生に、ペスタロッチのようになれといっても、なれるわけはない。だが、「大教育者といわれる人は、こういう人だったのだ」「子どもというものは、そういう人に触れれば変わるものなのだ」と知ることによって、すぐにペスタロッチの真似はできないにしても、教育の参考にすることはできるのではないかと思う。

ノイホーフで妻アンナと共に子どもたちを教えるペスタロッチ

・・・フランス革命(1789)後の混乱の中で、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事したペスタロッチの教育の実践は、主として初等教育段階のものでした。その後、フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel, 1782~1852)は、ペスタロッチに啓発され、幼稚園(Kindergarten)を創始しました。(ドイツの教育者、幼児教育の祖)

世界史的には、18世紀末位から「幼児教育」が始まっていますが、

驚く無かれ、日本では平安時代末期には「実語教」(本サイトで紹介→https://rashinjyuku.com/post-211/)などの教材が示すように、12世紀末には幼児教育が行われています。およそ六百年も先駆けていることになります。

やはり、教育にも国柄が反映されているように筆者は思います。古来からある日本の良き教育の精髄を活かしながら、必要に応じて日本の伝統・文化にそぐうものを取り入れるという姿勢で良いと考えます。従って、安易に外来語をカタカナ表記にしている文章が氾濫している風潮は、子ども達の国語力を低下させると思います。

国語力って何??

長崎市五島町にある
難関大学・医学部を目指す
就学前教育(プレスクール)
学習塾 羅針塾です
***********************************************

令和六年度入学 小学校受験生を若干名募集しております。

「国語力」を磨き
よく聞き、よく考え、よく理解できる子を育てていきます。

小学校受験を考えているんですが・・・と悩まれている御家庭
色々とお話ができます。

小学校受験の詳細、合格実績はトップページに掲載しております
**********************************************

塾長は、常々「現代文」を学習するだけでは読解力は身につかない。子供達の才能は開花できない。と話しています。

羅針塾では
世の中の一歩か二歩先に
進むためには、古典や歴史に学ぶべきだと考えています。

近来、文部科学省が掲げる学びの
思考力・判断力・表現力につながる
学びを随分前から実践しています。

これまで、沢山の学びを先生達は
創意工夫し積み重ねてきました。

さあ!日本の西の果てで何が?できる??
西の果てから!自分自身の力で
難関大学・難関国立医学部へいける??
いけますよ!!羅針塾の学びだったら絶対に!・・・と思っています。

やっぱり、!!!
『古典・漢文・修身』の素読は基本なのです。

素読を一語も乱すことなくできる子は
賢い!!!

難関大学・難関医学部を狙えます。

「国語力」は

『古典・漢文・修身』の素養からです。

「賢い子」になるために
幼児さんが修身を素読します。
意味がわからない言葉は
時を経て、「先生!!あの時言ってたよ!!」になります。

「本物のトップ!」になるために
「古典・漢文・修身」を知ったなら
国史を白紙の紙に書いてみることです。

国史は
自分の祖先の生きた証
白紙の紙に書き切れないほどの
先人の脈々とした生き様があります。

国史に興味を持ち。日本の伝統や文化を理解し
「思考力・判断力・表現力」を身につけた子は
世界に通用する『国語力』を持つと考えます。

posted by at 11:57  | 学習塾・幼児教育

小学校・中学校選びは大事

長崎市五島町にある
難関大学・医学部を目指す
就学前教育(プレスクール)
学習塾 羅針塾です
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令和六年度入学 小学校受験生を若干名募集しております。

「国語力」を磨き
よく聞き、よく考え、よく理解できる子を育てていきます。

小学校受験を考えているんですが・・・と悩まれている御家庭
色々とお話ができます。

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私立小学校・私立中学校の
オープンスクールが始まり
今年度の受験も本格化してきました。

長崎大学教育学部附属小学校の
運動会も参観ができましたので
足を運ばれた方も多いかと思います。

受験を考えている御家庭には
気になる学校があったら
ぜひ行ってみてくださいね。と
お伝えしています。

学校の雰囲気を見たり
児童・生徒達の様子を見たりと
御家庭の教育方針に合っているか
入学した後、我が子の
活躍する姿が描けるかが
大事なポイントとなります。

早速、公開授業を参観された
御家族は
「とてもいい学校でした。我が子には向いていると思います。前向きに検討します。」と
好印象のようでした。

先生達は必ずここを受験しないと!とは
言いません。
御家庭の方針が一番です。
第一希望で
志願する学校には合格させたい!
合格させる!!と考えています。
(合格できる国語力をつけていくので、御縁できると考えています)

「賢い子」になるために
家族一丸で取り組む
小学校・中学校受験
「国語力」をしっかりとつけ
素直に前向きに学んでほしいと
願っています。

「本物のトップ!」になるために
御縁する場所で一所懸命に学ぶ
まずは、クラスで一番!
学年で一番!と
絶対に負けない力を一つ一つ
積み重ねてほしいと願っています。

posted by at 18:23  | 学習塾・幼児教育

「今こそ必要な宗教心」

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。その為には、日本の伝統・文化・歴史などを踏まえた人間形成が必要です。その一助となるessay(随筆)がありますので引用してご紹介します。

さて、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の「いまこそ必要な宗教心」(読売新聞2004年10月18日)という随筆を引用してご紹介します。

お伊勢参りをした。伊勢神宮には五キロほど隔てて内宮(ないくう)と外宮(げくう)がある。内宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつり、外宮は衣食住や産業のお守り豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつる。とりあえず内宮へ向かった。

土産物屋の並ぶ通りを抜けると五十鈴(いすゞ)川にかかる大きな橋がある。かってお伊勢参りの人々は、ここで身と心を清めたと言う。なるほどと思わせる清浄な流れである。優雅な曲線を描く川上に目をやると、どこか荘厳な緑の山々が連なっている。橋を渡ると玉砂利の境内である。神域とも言えるここに足を踏み入れた江戸時代の人々は、ありがたさに涙したといわれる。

名所観光なのだろう。旗を立てた団体客が玉砂利に大きな音を立て、運動靴を引き摺る若者達が、冗談口を叩きながら砂煙を立てていた。瞼(まぶた)を拭う者などどこにもいない。往時は五十鈴川で履きかえた新しい草履で、口数も少なく粛々と歩いたのだろう。

境内を埋める鬱蒼(うっそう)たる巨木に圧倒されつつ、正殿へ向かった。皇祖をまつるというからにはさぞかし豪壮なものだろう。と想像していたら、切妻萱(きりずまかや)ぶきの屋根に高床づくりの質素なものだった。宮殿というより弥生時代の立派な倉庫の趣である。一瞬あっけにとられてから、この慎み深い古代美を、華美に走ることなく二千年近くを守り通した日本人の、見識と美意識に感銘を受けた。

高下駄を吐いた神官に導かれ、御前でうやうやしく参拝した、二礼二拍手一礼がきまりだが、歴代天皇も参拝された皇祖神ということでさすがに緊張したのか、礼を一つ余計にしてしまった。冷や汗をかいたが、多い分はていねいに過ぎたということだから、天罰も降るまいと考えた。

江戸時代、お伊勢参りは頗る盛んで、多い年には五百万に達したらしい。当時の人口を考えれば五人に一人である。庶民に旅行は許されなかったが、寺社参拝のためなら許されたから、『東海道中膝栗毛’とうかいどうちゅうひざくりげ)』のように、物見遊山(ものみゆさん)を兼ねてお伊勢参りや善光寺参りに繰り出したらしい。。一生に一度のお参りのため、小額の金を出し合い伊勢講を組み、毎年くじに当たったものが行く、などということをしていた。白衣に菅笠(すげかさ)、筵(むしろ)を背負っての旅立ちだった。参宮者を助けるのは功徳ということで、街道沿いの裕福な商家や寺は食事や宿舎をただで提供したという。なんと美しい日本の風景であろう。

彼らは各地でのお寺参りやお宮参りで、私と同じように無病息災や加護を祈り感謝を捧げたのだろう。彼らの意識に、宗教の違いや教派の違いはなかったろう。神と仏の違いさえなかったのではないか。日本人が神仏に手を合わせるのは、宗教ではなく宗教心である。戦後、公立学校では、宗教教育が禁止されたはずみで、宗教心までが切り捨てられた。神仏に手を合わせるという先祖代々の美風、日本人の心髄と言って良いものが捨てられたのである。何か人間をはるかに超えた存在にひざまずく、という心は物質主義、功利主義、傲慢の氾濫する現代にこそ、求められる。心髄を失った国民は風にそよぐしかない。

 

・・・神宮(じんぐう)とは、三重県伊勢市にある内宮(ないくう)および外宮(げくう)を指します。詳細は神宮のホームページに→https://www.isejingu.or.jp/

内宮の一の鳥居

・・・二千年の歴史を有し、日本人の「心の故郷」と称される伊勢神宮は、日本全国にある8万5千以上もある神社の最高位とされます。

しかし、学校では教えない近現代史として、

先の大戦後昭和20年(1945)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」いわゆる神道指令(しんとうしれい)を発しました。

指令を受け、幣原喜重郎内閣は12月28日に、ポツダム勅令で宗教法人令を公布施行し、宗教団体法を廃止して、、宗教団体の国家統制を廃止しました。

つまり、日本占領下において、強制的に日本の法律を廃止させたのでした。その時、神社本庁は指令により神道の信仰が「不当に圧迫された」としましたが、その当時の抵抗は、言わば「蟷螂の斧(とうろうのおの」でしかありません。

葦津 珍彦(あしづ うずひこ・日本の神道家)は神道指令に関する昭和35年(1960)の論文で、「重大な障害がない限り」(”as long as there is no serious obstacle”)占領軍は「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」(”should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area”)ということがハーグ条約で定められていたとして、日本占領軍による神道の弾圧は国際法からの逸脱だと批判したそうです。(wikipediaからの引用)

 

・・・宗教弾圧によって大打撃を受けた神社は、現在では見事に復活していますが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の呪縛は日本に大きな傷跡を残しています。

 

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