‘ 塾長ブログ ’ カテゴリー

令和七年に感謝

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。

令和七年は日本国内外激動の一年でした。日本初の高市早苗女性首相の誕生は国内外に様々な衝撃を与えました。東アジアの緊迫する国際情勢の中で、高市早苗首相は日本の舵取りを託され、今後の日本の行く末を決定していかなければなりません。

そして、これからの日本の未来を支え切り拓くのは、今懸命に学んでいる子供達です。その為には、より良き教育環境を親御さんが選択していくべきです。残念ながら、学校任せで子供の教育レベルは上がらないのが実情です。

その為に、小学校入学前の幼児期から少しづつ「学ぶ姿勢」「学ぶ力」をつけていくことが肝要です。「聞く」「理解する」「伝える」は、言葉があって初めて成り立ちます。物心が付き始めると同時に、言葉の一つ一つを理解させ、用い方を教えていくことが親の重要な役目です。親子の言葉のやり取りを互いの目を見て繰り返していく。この頻度や密度が、子供の脳の発達に大きく影響します。正しい言葉、善き言葉を繰り返し使うことで子供の良き人格形成に繋がります。

賢く善良な日本人を育てることがより良い日本をつくる基本です。

posted by at 15:42  | 塾長ブログ

羅針塾の方針

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。

羅針塾では中学生・高校生は
指導しないのですか?と
聞かれることが多々あります

中学・高校生は自律し自分の力で学び学年トップチームです。
ただ、中学生・高校生の新規生徒募集は考えていません。

羅針塾の方針は「国語力」の目安となる
漢字検定二級に小学校6年生までに合格することで
難関大学・医学部を目指す力をつけていくこと、です。

因みに、漢検二級のレベルは「高校卒業・大学・一般レベル」で、常用漢字2136字すべてを読み書きし、文章中で適切に使える能力が求められます。準2級(高校在学レベル)の上の段階で、四字熟語、部首、送り仮名、熟語の構成、対義語・類義語なども含まれ、実用的な漢字力が試される、漢検の中でも重要な目安となる級です。

従って、羅針塾の塾生は、コツコツと漢字検定を十級から合格し始めて、九、八、七、六、五、四、三、準二級、二級と、小学6年生段階で合格し終える必要が有ります。その為には、各試験までにどれくらい期間があるかを勘案して、何ヶ月も前からコツコツと漢字検定の問題集の漢字熟語の意味調べから始めます。自分で辞書を引いて漢字ノートに書き写す作業を毎日15〜30分します。

小学校1年生から初めて、倦まず弛まず辞書を引き、書く、ことを繰り返すうちに、漢字熟語の組み合わせ、意味合いを自然に理解していきます。その結果、どの科目の教科書であれ、参考書であれ、問題集であれ、全て自分の力で読み、読解して、解いていく力をつけていくのです。

そうして「素直に前向きに」学ぶ習慣を幼児期〜小学校卒業までにつけ、自律・自立して学ぶ力を身につけるわけです。

幼児期から学ぶ塾生さん達は全国模試でもトップクラスに入るようになりました。
「国語力」を身につけることで算数・社会・理科・英語の理解力がついています。

高校受験時、大学受験時に机に本格的に向かうのが一般的ですが、これでは難関大学・医学部への道は簡単には繋がりません。

幼児期から始め、小学校低学年時に丁寧で正しい学びに取り組んでいくことが大切だと考えます。

 

posted by at 18:27  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「小学校の算数」日本の教育が破壊された!? その1

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。

日本の大学が「小学校の算数」を教えなければならない理由(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90353?page=2)という記事が目につきました。最近、大学卒でも百分率・割合や四則の計算が危ういという話をよく聞くからです。

伊東乾(いとう・けん)東京大学教授のお話です。 作曲家=指揮者 (作曲・指揮・情報詩学研究室/生物統計・生命倫理研究室/情報基礎論研究室)東京大学ゲノムAI生命倫理研究コア統括。

引用してご紹介します。

「出口調査」の水準チェック消失

 出口1947年以降の日本の(公)教育で失われてしまったのは、卒業段階での「出口調査」、つまり「出荷時の品質保証」に相当する教育の水準チェックが消失したことによるのです。

 その主犯はGHQ、占領軍にほかなりません。日本の戦前の教育は、非常に高い水準にあった。

連合軍は「カミカゼ」で特攻してくるイエローぺリル(黄禍)たる日本人が、どのような教育を受けて、あのような自爆特攻で突っ込んで来るのか、占領直後から入念に調査を行います。

 その結果、八紘一宇などの思想教育と並んで、特に算術や理科など、サイエンスの基礎教育が極めて充実していることに驚嘆させられます。

 小学算術の立役者、東京帝国大学理学部物理学科出身の塩野直道氏などは、一番に公職追放され、後半生を官界、学界で過ごすことはありませんでした。

 占領軍による教科書の「墨塗り」というと、修身などの思想教育ばかりが強調されますが、それと同じように、多様な応用に目の開かれた、驚くほど充実した日本の初等理数教育は寸断され、見るも無残なバラバラ事件が1947年以降、約80年続いています。

・・・現在では、当然ですが戦前の良き小学校教育を受けた世代はどんどん少なくなっています。

具体的にどういうことか?

小学校5、6年生には「応用問題」がありましたね。鶴亀算、時計算、植木算などなど。

 では中学卒業時点で、数学の問題に「応用」がありましたか?

 というより、今現在でも「2次方程式」が何の役に立つか、子供にパッと教えられますか?

 応用問題の消去=「墨塗り」。これが、GHQがやらかした、日本の教育の骨抜きのもう一つの実態です。

 同じことが高校の数学にも、さらに「旧制高校の数学」=現在の大学教養課程まで、ずっと繰り返されているのは、驚くべきことです。

 つまり、高校に進学された皆さんは、1年生で「三角関数」や「指数関数」を習うはずですが、それが何の役に立つか、教えられましたか?

 子供に尋ねられて、多くの「数学の先生」が答えに窮する現実があります。ましていわんや、一般の親御さんが答えられなくて何の不思議もありません。

「お父さん、三角関数なんて、何の役に立つの?」と問われて、交流の蛍光灯がついている室内で答えに窮するお父さんというのは、何とも残念な悲喜劇を演じていることになる。

 なぜなら、交流の電機システムは基本すべて、三角関数、指数関数を活用して設計、実装されているからです。

 昭和22年からの新課程で教育を受けた昭和15年生まれ=現在85歳以下の世代は、あらかた、この「分断教育」の犠牲者と言ってよいでしょう。

 1億2000万の人口に占める85歳以上の割合は2020年時点で600万人程度とのことですから、ざっと人口の95%がGHQ分断教程で学んだ人ということになる。

 

・・・改めて、このようなお話を聞くと筆者自身も「GHQ分断、黒塗り教育」の犠牲者の一人であると痛感します。小学校高学年の算数で、「応用問題」として鶴亀算、時計算、植木算などはうんうん言いながら解いた記憶がありますが、中学校卒業前に数学の「応用問題」を解いた記憶はありません。高校数学も同様です。「三角関数」や「指数関数」が何の役にたつかは、数学の先生から一言も聞いていません。

その最大の原因が米国の日本占領政策にあると判明すると、戦前の日本の教育を再評価して活用すべきであると考えるのは私だけでは無いと思います。

 

 

posted by at 13:07  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

いろいろな涙

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。

令和7(2025)年12月号の「致知」に」特集「涙を流す」と言う記事が目に付きました。様々興味を惹かれる記事があります。その中に、江戸時代の俳人小林一茶の話があります。引用してご紹介します。

涙にもいろいろな涙がある。嬉しい時も悲しい時も、人は泣く。

口惜くやし涙、無念の涙もあれば、喜びの涙、感動のあまり流す涙もある。人の生は常に涙と共にあるといってもよい。

心しなければならないのは悲しみの涙である。悲しみの餌食えじきになって、人生を誤る人も多いからである。

(中略)

もう一つの話は、江戸時代に生きた俳人小林一茶である。一茶の句はユーモアにあふれているが、その人生が悲しみの極みのような人生であったことはあまり知られていない。

一茶は1763年、信濃(長野県)の柏原という寒村で生まれた。3歳の時に実母と死に別れる。父は再婚し、すぐ異母弟が生まれる。継母が気性の激しい人で、先妻の子の一茶をいじめる。父親がみかね、15歳になった時に江戸に奉公に出す。

39歳の時、無性に郷里に帰りたくなり、家へ帰った。父親は両手をひろげて迎えてくれたが、間もなく脳溢血のういっけつで倒れ、再起できず、69歳で亡くなった。父親は一茶と弟が等分に分割相続するように遺言したが、折り合いがつかず、遺産争いは10年以上続き、ようやく折り合いがついた時、一茶は51歳になっていた。

その翌年、一茶52歳の時、28歳の菊と結婚、一茶は菊との間に60歳までに3男1女をもうける。自分が不幸だった分、子供には幸せになってもらいたいと願って、長男には千太郎、次男には強い子になれと石太郎、三男には貧乏しないように金三郎と名づけた。女の子にはさとと名づけ、なめるように可愛かわいがった。

しかしこの子供たちが次々に死んでいく。まず長男は誕生の翌月に死去(一茶54歳)。その2年後に長女さとが生まれたが、1年後に死去した。さとが生まれ育っていく喜びを詠んだ句がある。

・・・断片的に、小林一茶の人生について知っていますが、一茶の俳句の面白さ、愛情あふれる表現は、なるほど!と思わせるものばかりです。ここに紹介するお話は、その時々の俳句の中に、我が子に対する悲しみや慈しみに溢れています。子を持つ親なら誰しも得心するお話です。

へ笑へ 二ツになるぞ からは

さも ちう位也 なり おらが春

一人娘の成長を見守る一茶の幸せそうな顔がみえるような句である。この頃が一茶の幸福の絶頂期だったといえる。

そのさとが6月の初めに天然痘てんねんとうにかかって発熱し間もなく死ぬ。

つゆの世は 得心ながら さりながら

露の世は 露の世ながら さりながら

一茶の悲しみ、無念が伝わってくる句である。

悲嘆の極みに一茶の心境は変化していく。こんな句を残している。

ともかくも あなた任せの としの暮

あなた任せとは、すべてを阿弥陀あみだ仏に任せて生きる覚悟をしたということである。

 

・・・一人娘の成長を楽しみにしている最中、天然痘で娘をなくすという冷厳な事実。思わず、一茶の立場に立たされると、自分ならどうするだろうかと考えてしまいました。

「露の世」と現生の儚さを一言で表す表現が、「露の世ながら さ(然)りながら」と続けます。

敢えて意訳すると、

露のように日が差すと、あっという間に蒸発してしまうように、人の命も儚ないものである。世の中のその儚さは重々承知しているが、それはそうであるが・・・(実に無念であるなあ。と)

先の句は つゆの世は 得心ながら さりながらとあり、

仏の道に思いを致すと、幼い命であっても往生していると得心(心から納得すること)はしているものの、それでも尚、愛しい愛子(まなご;可愛い子、いとし子)が愛おしいなあ、と。

その翌年に次男石太郎が生まれるも、おんぶしている時に窒息死したといわれている。正月に石太郎の位牌いはいの前にぞうにを供えて詠んだ句がある。

もう一度 せめて目をあけ ぞうに膳

かげろうや 目につきまとふ 笑ひ顔

その翌年、菊は三男金三郎を出産したが、1年を経ずして、この世を去った。行年37。その母のあとを追うように、金三郎も亡くなった。

一茶は62歳で天涯孤独となった。

これを機に、一茶は阿弥陀仏への信仰をさらに深めていった。普通の人なら絶望に打ちひしがれてしまうところだが、一茶は次々と襲い来る不幸を乗り越えて、再婚する。

この再婚は数か月で終わったが、この失敗にめげず、一茶は64歳の時、3度目の結婚をする。俳人として名声が広まった頃だが、大火事に遭い、これまで培ってきた本や財産をすべて失い、やむなく生家の裏の土蔵に住むことになった。この頃の一茶は少々のことに乱れない心の様相を持っていた。

土蔵の窓から葬式の列を見て詠んだ句がある。

送り火や 今に吾等も あの通り」「極楽の 道が近よる 冥土めいどかな

そういう状況の中で3人目の妻やをが懐妊する。一茶もことほか喜んだようだが、その子の誕生をみずに、一茶は死んだ。65歳の生涯だった。

ああままよ 生きても亀の 百分一

仏とはほどけた人、という言葉がある。一茶は数々の悲しみを経て、ほどけた人になったのだろう。晩年の句がそれを教えている。

常に悲観をいだきて、心ついにせいす──と釈迦は言った。常に深い悲しみを心に抱き、その悲しみを大切にして歩み続ける人はついに悟りに目覚める。

涙を流すことは心を浄化し、魂を高めることにつながる道なのかもしれない。

 

・・・小林一茶の人生は、波瀾万丈です。幸せを求めてささやかな人生を送ろうとしても、様々な困難、苦難が襲ってきます。現代と違い、食も貧しく子供にとっては栄養不足が日常で、薬も医者も無い。その中であっても、俳句を友とし、我が身と人生を客観視する。

多くの残された小林一茶の俳句は、時代を超えて私達に語りかけているようです。

posted by at 11:59  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

生きる力 人間力を高めましょう

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。

茶道裏千家第十五代・前家元の千玄室氏が、去る8月14日に102歳でお亡くなりになりました。かって長崎で講演された際に、素晴らしいお話を聴講いたしました。その頃も九〇代半ばを過ぎておられていましたが、長身で矍鑠(かくしゃく)とされオーラを放っておられました。講演会場からお帰りになる際にお見送りをしていますと、偶然視線が合い握手をして頂き感動した記憶が残っています。

本年(令和7年)1月18日に開催された致知出版社新春特別講演会「生きる力」のお話が掲載(月刊『致知』2025年11月号特集「名を成すは毎に窮苦の日にあり」)されていますので、引用して一部をご紹介します。

人間力を高めましょう
(前略)

さて、昨年は元旦から能登のあの大地震、そしてまた豪雨とか、大洪水とか、日本列島は様々な大きな試練を受けました。たくさんの我われのどうほうが、お亡くなりになったり、家を失われてこれからどうやって生きていこうかと途方に暮れていらっしゃったりするわけであります。

そういう方々のために、私たちは何かをして差し上げなくてはいけない。

それは誰かに強制されてやることではありません。求められるのは、人間の本能に根ざした、心の底からの思いやり。私ね、その大本となる人間力を高めようと申し上げたい。

人間力を高めるというのは、人間の存在価値というものをどれだけ認識できるか。そして自分の知性ですね。ナレッジ(知識)、ウィズダム(知恵)、こうしたものがすべて知性に入るわけですが、この知性をいろんな経験を重ねて磨き上げることによって、自分自身を高めていくことが大事です。

皆さん方は、そういう自分自身の存在価値、これをどのように考えていらっしゃるか。そこが大事なところだと私は思います。

お互いが身をひけば衝突は起こらない

私はきょうまで一世紀にわたって生きてまいりましたが、その中で自分の足元を見つめ、自分を省みるよすがとしてきたのが、『論語』の「われ日にが身を三省す」という言葉です。朝に反省する、昼に反省する、夜に反省する。人間はリフレクトしなければいけないと。

私は、朝起きたらまず最初に鏡を見て「おはようございます」と言うのです。これは子供の頃に母から教わって始めたことです。

母は私に言いました。

「あなたね、朝起きたばかりでまだ眠いからといって、仏頂面ぶっちょうづらで『おはよう』と言っても相手に通じないわよ。これからは、毎朝鏡に映った自分の顔に向かって『おはようございます』と言いなさい。そして夜寝る前に歯を磨く時にも、また鏡の中の自分自身に向かって『きょうも一日ご苦労さんだったな』と言ってあげなさい」と。

私は母から、そんなふうに『論語』の三省を教わりました。

おかげでどこへ行っても皆さんに、「おはようございます」と素直にご挨拶できるようになりました。私はこれを、母からいただいた人生で一番大きな宝だと思っているのですよ。私がここまで長生きできたのも、小学一年生の頃からこれを実践してきたおかげだと思っています。

・・・最初の導入のお話から、聞き入ってしまうようなお話です。

千玄室氏のお話の中で、よくお母様のお話が出てきます。恐らく、成人されてからずっと、子供の頃に聞かされたであろうエピソードが、ご自身の人格形成の基本となっておられると言うことではないでしょうか。

『論語』の「われ日にが身を三省す」という言葉は、羅針塾で論語の素読をする際に必ず暗誦します。因みに、これに続いて論語の素読の最後の一節は、「我が道は、一(いつ)以(も)って之を貫く」です。

古今東西を問わず、幼児期からの母親の薫陶(くんとう:人格・品位などで人を感化し、良い方に導くこと)は、人の人間力を高める大きな力となります。

 

posted by at 19:06  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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