子供の頃を思い出してみれば、「お母さん」の笑顔や優しい言葉ほど力を与えてくれるものはありません。
「良かったね」
「良くできたね」
「お利口さんね」
・・・子供心に前向きな、元気が出る、励ましの言葉を「お母さん」に掛けて貰うことがどんなに嬉しいか。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供さんの力を信じ応援しているお母さん方と協力して、子供さんの能力を高めていきたいと考えています。
今回ご紹介するのは、いつの時代でも教え導く立場にある人の座右とも言える歌です。
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「やってみせて 言って聞かせて やらせてみて
ほめてやらねば 人は動かじ」
「人を動かすには、自分でやってみせて、言って聞かせ、相手にそれをやらせてみて、
やったことを褒めてやらなければ、誰もが動かない。」
それを実践するのが山本五十六の言葉です。
会社の部下であれ、子供であれ、やる気を出させてくれる上司や「お母さん」は間違いなく尊敬されます。
山本五十六は旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれます。
生まれた時の父親の年齢から「五十六」と名付けられました。
母親も45歳と当時としては高齢での出産です。
五十六は子供の頃から負けず嫌いでした。
小学生時代「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだしたとの逸話も残っています。
大日本帝國海軍軍人で連合艦隊司令長官である山本五十六は、
米国ハーバード大学に国費留学し、駐米武官としての経験から、当時の米国の事情にも精通していました。
従って、
日独伊三国軍事同盟に反対し、日米開戦に大反対しました。
しかし、
ひとたび米国との戦いが決すると、「短期決戦・早期和平」の目標の元作戦計画を立案します。
大東亜戦争(所謂太平洋戦争は米国側からみる呼称)の初期には、真珠湾攻撃など歴史に残る戦果を挙げます。
しかしながら、米国に日本軍の暗号が解読されているのを知らずにミッドウエー海戦を挑んでから、形勢が不利となっていきます。
数多の先人達の粉骨砕身の御蔭で現在の日本や私達があるのですが、歴史の教訓をしっかり学ぶのも私達の責務であると思います。

海軍大将米内光政と山本五十六
山本五十六の戦死 (さらに…)








