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紙が育む記憶力

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、近来の教育のデジタル化、ICT教育の流れを横目で見つつ、塾生さん達にとって最適な勉学の道を進もうと考えています。

先日、ある教育教材関連のセミナーを受講しました。文部科学省が進める中学校教科書改訂に伴って全ての小中学校で英語、一部の小中学校で算数・数学のデジタル教科書が導入されています(令和六年四月〜)。いわば、学校現場で「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」という流れを作ろうとしています。

パソコン、タブレット、スマホという機器を使いこなすことは、一見「紙」を使わないペーパーレス化が進み、合理的かのような風潮がありますが、果たして学習効果は如何。

これに関連して、東京大学大学院総合文化研究所 酒井邦嘉教授の「紙が育む記憶力・脳の創造性」の講演録を引用してご紹介します。

◾️教育の「デジタル化」の問題点

・製本された紙の教科書に比べ、デジタル教科書は画面上の位置が不定で実体がないため、空間的な手がかりに欠け、記憶に残りにくい。

・デジタル教科書はネット検索等で情報過多となり、自分で考える前に調べるようになる。

・端末で完結しがちなので、紙のノートを使わなくなり、「書き写して覚えること」、メモを取る能力、書字の能力にまで影響が及ぶ。

・咀嚼能力が下がり、学力低下が懸念される。

・・・詳細は https://www.sakai-lab.jp/media/2021077-133623-964.pdf 

あくまでも紙の教科書やノートが「主」であって、デジタル機器は「従」であり「副」なのだ。その関係性をはっきりさせなければ、デジタル機器を盲信する安易な意見に流されて、教育の質そのものが低下するのは避けられない。これは初等教育や中等教育だけでなく、高等教育を含む大問題であり、ひいては研究者や芸術家といった創造的な仕事まで関わることなのだ。

・・・酒井邦嘉教授は、『使用したメディアによる記銘の違いがどのように記憶の想起に差を生じさせるか』という研究(18歳から29歳の48人を「紙の手帳群」「タブレット群」「スマホ群」の3群割り振って比較検討する)によって、デジタル機器の潜在的な危険を指摘している。

結論として、

学習を通して、われわれが新たな知恵を自分のものにしていく上で、記憶こそがその根幹にある、いかに正確に、しかも、自分で使える記憶として脳にとどめておけるのか。情報化時代を迎えて、膨大なデータベースを利用できるようになったとはいえ、本当に使える知識というのは、自分の頭の中に身につけるしかない。

人間の脳は、非常に優れた情報検索装置でもある。しかも脳は新しい組み合わせを生み出すことができるから、確固たる記憶や知識は、創造性に直結する。学校における学びの場というのは、模倣で終わりではない。温故知新という試行錯誤のためには、十分な時間を確保することが求められる。

(中略)

要は物事の「考え方」をどのように次の世代に伝えていくかに尽きる。そのためにも、人工的な機械ではなく、人間の脳の自然な特性を踏まえた議論をすることがが大切であろう。

 

・・・やはり、物事を多面的に見ていくと、学校現場で「紙で学ぶからデジタル端末で学ぶ」という流れは、勉学の「王道」から外れていると考えられます。デジタル機器のマイナス面も併せて考える必要があります。

 

『大学』を素読する8

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

幼児、小学低学年、中学年、高学年と、「素読」をし続けると、自ら行う「音読」が明らかに、滑舌良く正確に速くなります。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

曽子曰わく、十目(じゅうもく)の視(み)る所(ところ)、十手(じゅっしゅ)の指さす所、其れ厳なるかな。

富は屋(おく)を潤(うるお)し、徳は身を潤(うるお)す。心廣(ひろ)く體(からだ)ゆたかなり。故に君子は必ずその意(こころばせ)を誠にす。

(現代語訳) (孔子の高弟)曽子が「多くの人が注目するところ、多くの人が指摘するところは厳正だなあ」と言われた。

富は家をうるおし徳は身をうるおす。従って、心は広く、体ものびのびとする。故に君子は、必ず自分の意識や感情を正常にするように努める。 *因みに、富と徳を具有することを両潤(りょうじゅん)と言う。

所謂(いわゆる)身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在りとは、身(み)忿(ふん)ちする所有れば、即ちその正しきを得ず。恐懼(きょうく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。好楽(こうらく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。憂患(ゆうかん)する所有れば、即ちその正しきを得ず。心(こころ)焉(ここ)に在(あ)らざれば、視(み)て見えず、聴きて聞こえず、食いて其の味を知らず。此れを身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在(あ)りと謂(い)う。

(現代語訳) よく言うところの「身を修るには、其の心を正しうするに在り」とは、例えば身(心の存する肉体)に怒を含んでいるときは正しく判断することはできない。恐れを懐いてる時は正しく判断することはできない。片寄って好んだり楽しんだりする所があれば正しく判断できない。甚だ心配する所があれば、正しく判断することはできない。心が散漫して止まる所がなければ、視ても其の真実が見えない。聴いても其の真実が聞こえない。また食べても本当の味がわからないということである。これを身を修るには、其の心を正しくすることにありと言う。

・・・如何に、心を正しく平常に保ち続ける必要があるか、と言うことですね。しかし、これがとても難しい。日々、修行です。

posted by at 16:11  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 7

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

令和七年の冬期講習は4日から再開です。素読も同様に始まります。素読の繰り返しは、読み下し文(*)が自然と身に付きます。

(*)読み下し文:漢文を返点、振り仮名、送り仮名などの訓点に従って、日本語に直訳した文章。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

所謂(いわゆる)其の意(こころばせ)を誠にすとは、自(みずか)ら欺(あざむ)く母(な)きなり。悪臭(あくしゅう)を悪(にく)むが如く、好色(こうしょく)を好むが如し。此(これ)を之(こ)れ自謙(じけん)と謂(い)う。故に君子は、必ず其の獨(ひとり)を慎むなり。

(現代語訳) 「其の意を誠にす」というのは、自分が自分を欺かないことである。それは丁度悪い臭いをかいだら本能的に鼻をすくめ、好きなよい色を見れば、本能的に目を見開いて見ようとするようなものでる。これを自らあきたる「自謙」(謙は慊に通ず*)というのである。そこで君子は必ず自ら自分で一人を慎むのである。

*「謙」:謙(ヘリくだ)る、慎んで人の下につく。「慊」:飽き足りない、心に満足しない。

小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善を為(な)し、至らざる所(ところ)無(な)し。君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、其の不善をおおいて其の善を著(あらわ)す。人の己を視(み)ること、其の肺肝(はいかん)を見るが如く然(しか)り。即ち何の益かあらん。此を中(うち)に誠(まこと)あれば外(そと)に形(あら)わると謂う。故に君子は必ず其の独りをつつしむなり。

(現代語訳) つまらない人間は暇があると善くないことを考えて、何をしでかすかわからない。それでも立派な人物に出会うと良心が目覚めて、自分が嫌になって自分の悪いところを隠して善い方を表そうとする。然し他人がそれを見透かすことは、肺臓肝臓を見通すような物で、何の役にも立たないだろう。これを中に誠があれば自然に外にあらわれ出るものだという。偽りもまた同じである。故に君子は必ず独りを慎むわけである。

・・・「小人閑居為不善、無所不至」はよく聞く文言です。簡単に言うと、小人はつまらない、貧弱な考えしか持たない人、大人は富者、貴人を敬っていうこと。君子は学識・人格共に優れ、徳行の備わった人、です。人の性情・人格は、まさに人それぞれですが、大昔から変わらない人間模様があります。

posted by at 18:42  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

令和七年 謹賀新年

明けましておめでとうございます。

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾は、令和七年の年頭にあたり、自律・自立する力を身に付ける教育を更に目指していきます。

本年も宜しくお願い致します。

 

『大学』を素読する 6

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

冬休みなどの長期休暇には、幼児から小学生、中学生、高校生と揃うときがあります。年長者が発語し、それに唱和する。百人一首形式の論語カルタから始まり、更に「修身」「論語」「大学」「孝経」「実語教」などから三十分程度正座で素読します。幼児にとっては、聞いたことも使うこともない言葉が出てきますが、素読を重ねていくと大きな声で年上の塾生に負けじと唱和します。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

詩に云わく、於戯(ああ)前王(ぜんのう)忘れられずと。君子はその賢を賢として、其の親(しん)を親(しん)とす。小人(しょうじん)は其の楽しみを楽しみとして、其の利を利とす。此(ここ)を以て世を没(おわ)りて忘れられざるなり。

(現代語訳) 詩経(周公烈文篇)に「ああ前王忘れられずとある。これは後の君主は、前王の尊敬した賢者を同じく賢者として尊敬し、又前王の親愛した人を変わらず親愛した。又一般庶民は前王の遺(のこ)した楽しみを同じく楽しみとして、其の利としたところを利として恩沢を長く享(う)けている。この故に亡くなられてもながく忘れられないのである。

子(し)曰(のたま)わく、訟(うったえ)を聴くこと吾(われ)猶(なお)人のごときなり。必ずや訟(うったえ)無(な)から使(し)めんかと。情(まこと)無き者は、其の辞(ことば)を盡(つく)すを得ず。大いに民の志(こころざし)を畏(おそ)れしむ。此(これ)を本(もと)を知ると謂(い)う。

此(これ)を本(もと)を知ると謂(い)う。此(これ)を知の至(いた)りと謂(い)うなり。

(現代語訳) 孔子が「訟(うったえ)を聴いて判決を下すのは自分も他の裁判官と変わることはない。然し私の窮極の願いは訟(うったえ)の無いような世の中にすることだ」と言われた。真実(まこと)のない虚偽(うそ)の訟(うったえ)は、結局言葉を尽くして言い張ることが出来なくなるものだ。要するに民が自ら省みて、自ら畏れて訟(うったえ)が出来なくさせる。

これを人の道の本を知るというのである。これをまた知の至りともいうのである。

・・・なかなか意義深い言葉です。

素読をする際には、其の言葉の解釈まではしません。「読書百遍意自ずから通ず」即ち、「難しい書物であっても、何度も繰り返して読めば、其の意味は自然にわかってくるものである。それ故、解らないと思ってもすぐに諦めるのではなく何度も読むべきである」とする教え。

筆者は、教科書などを紐解いている際に「分からない」というと、母親から「読書百遍意自ずから通ず」と諭され、其の意味も含めて辛抱して努力することの大事さを繰り返し繰り返し諭されました。

posted by at 18:27  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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