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学問のすすめ 初編 1

長崎市の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、就学前、小学校、中学校の時期に、しっかりと国語力をつける学びをしています。方法は様々ですが、何より語彙力を重視し、語句の用い方を習得することは必須です。その基礎があってこそ読解力も増し、表現力や作文力も増すことが出来ます。

さて、改めて福澤諭吉先生の「学問のすすめ」を筆者は読み進めています。

「学問のすすめ」は、明治5年(1872)初編出版。明治9年(1876)17編の出版を持って一応の完成。当時の日本の人口約三千万人の中で三〇〇万部以上売れたと言われる啓発書です。現在に例えると、千二百万部相当、十人に一人が購入した計算になるほどの大人気です。内容は例えも分かり易く、ベストセラーの意味がよく分かります。明治初期の日本人の読書欲の旺盛さは凄まじいものです。

では、よく知られた初編からご紹介です。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲とどろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

・・・実語教にある有名な文言、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」という明快な論旨が展開されます。分かりやすい例えは現代にも通ずるものです。そして、賢人と愚人の別についても、学ぶか学ばないか、によってその差は生ずると喝破しています。

身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々しもじもの者より見れば及ぶべからざるようなれども、そのもとを尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。ことわざにいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。

・・・人は生まれながらにして貴いも賤しいも、貧しいも富むも、その区別は無い。つまり、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」として、人の先天的な差を否定し、あくまでも後天的な人の努力や工夫などによって「富貴(財産や身分)」を得ることが出来るのである、とします。

学問とは、ただむずかしき字を知り、し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心をよろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめとうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟ひっきょうその学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

・・・学問の意味合いについて述べています。学問とは、世間一般で言うところの難解な文字、理解し難い古文、和歌や詩など、実学的で無いものを言うのでは無い、と。物事を理解している町人・百姓は、彼らの子供がそれらに長けて精を出すことが、財産を無くし、生計を立てていくことができなくなるのではないか、と心配するのが親心である。最終的には、実学的でない学問は、日常の生活には役立たないものである、と。

されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言もんごん、帳合いの仕方、算盤そろばんの稽古、天秤てんびんの取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土ふうど道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。

・・・日常的に必要な実学を優先し、文字、手紙の書き方、帳簿の付け方、計算、計量の仕方などから学び、さらに進んで学ぶべきことは沢山ある。地理、窮理(物理)、歴史、経済学、修身学など。

西洋の翻訳書も日本語で学べ、文才ある者なら外国語も読ませ、実学を基本にして一科目、一学問に合わせて、物事の道理を追求し、実際の用に役立てるべきである。人である以上、一様に身分の差なく、身に付けるべき心得であれば、各立場に応じてそれぞれ職分を尽くして、家業(生計の基盤となっている職業)を営み、個人も家も独立することができ、そうすることで天下国家も独立すべきである、と。

簡にして要を得た表現で、ぐいぐいと読者を引き込んでいきます。学問する意味合いを、明治期の日本人は、しっかりと理解していたことがよく分かります。

現在の私達も改めて学問、学ぶことの意味合いをしっかりと確認する必要があると考えます。

(初編の続きは、次回に。)

posted by at 16:46  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

努力による開運策

就学前教室(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、日々の努力の大切さを「学び」ながら身に付けていく指導をしています。努力の積み重ねが結果を生み出す事を知れば、人生の大きな財産となります。

筆者の蔵書の中にあった文章が示唆的であるのでご紹介します。

「占学遺文」という表題の明治四十三年に医師であり占術研究家でもあった人物が書いたものです。

運命開拓の鍵 (1)人生と運命 (2)運命開拓の秘訣 等々の表題の中の一節に、「努力による開運策」という項があり、これをご紹介します。尚、文章表現は明治期の雰囲気のままです。

努力による開運策

人力のあらん限りを尽くして、その上如何ともすべからざる所が即ち運命である。

努力もせず、苦闘もせずして、ああ運が悪いと嘆いたとて何人が同情するものであろうか。気随気儘に怠けていて、どうして、我に幸運が向かぬだろうなぞとコボしても、運命の神は嘲笑って逃げ出すばかりである。幸運の来るべき機会まで辛抱する事が出来なくて、早くも失望するが如きも、運を迎える術を知らない人である。真の運と僥倖との区別を知らぬ人である。真の運を愛する人は嘆かず、迫らず、悠々として機会の来るのを待ち、常に努力を怠る様なことはしない。心さえ潔白で、自ら助ける事を忘れなかったならば、運命の神は遅かれ早かれ、必ず玉の輿を以って   迎えに来るに相違ない。それが年中に来ることもあれば、晩年に来る場合もあろう。早く幸運に見舞われたからとて、慢心すべきものでもなければ、来るのが遅いからとて落胆すべきでもない。妄りに運だ運だとて天を恨む様な事があっては尚更いけません。平生の心がけと努力とによって、初めて運命は開拓せられるべきものです。

人間第一期の運命の定まるのは、普通十七〜八歳位としてあるが、実はそれ以前に定まるのです。初等教育を終えての人の品性が定まると共に、幸運の種も不運の種も、ここに芽を吹いていてしまうのです。

人は十二三歳頃、既に一生の大部分を支配すべき基礎が定められるのです。然しこの第一期の運命は、当人の責任でなくて家庭の責任です。

健実な親を持って、それに養われたものは、誠に幸福な人、そうでないものは不運の人である。この意味からすると、人の出入り多く、誘惑多く、悪影響多き富家の子女よりも、寧ろ中流以下でも健全な家庭に育った子供が、幸福の一生を送る様に思われる。運不運は必ずしも財産の有無ではない。平和の如何です。貧しくとも平和で愉快な家庭にある子供は、富んでダラシのない家の子女よりもはるかに幸運です。

富家の子供は幼少から華美な生活に慣れているから、大きくなっても虚栄心が強くて、その為に煩悶を求め、一生不運に陥る様な例は決して少なくない。

これに反して貧家の子は始終足らぬ勝ちという事を知っているから、不自由を忍ぶという力が強い。従って虚栄を求める様な場合が少ないから、そのために心身を労することがない。それだけでもまず幸運と云わなければなりますまい。

 

・・・平均寿命は、明治期と比べて大きく伸びている現在でも、「人は十二三歳頃、既に一生の大部分を支配すべき基礎が定められるのです。」という点は変わらないといえます。就学前の三歳前後から、十二歳までに、人格を基礎付ける躾や物事を理解する力、そして「学ぶ力」をしっかりと身に付けておかなければなりません。

posted by at 16:10  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「聞いて解く問題」 新しいタイプの入試

就学前教室(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、「人の眼を見て聞く、人の眼を見て話す」ことを重視しています。当たり前のことですが、「目は口ほどに物を言う*」と言われる様に、聞く態度、話す態度は「眼(目)」の輝きや真剣さがとても大事です。(*何もしゃべらなくとも目つきから相手の感情がわかるものだということ。情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだということ。英語の表現ではより具体的です。 The eyes have one (or a) language everywhere.(目は万国共通の言葉)The eyes are as eloquent as the tongue.(目は舌ほどによくしゃべる))

「人の眼を見て聞く、人の眼を見て話す」ことは、普段から心がけておかないと、急にすることはできません。ある意味で、習慣付けない限りは出来ない、と言っても過言ではありません。

これは家庭での躾が大事です。

人と会話する以上は基本中の基本ですが、「学ぶ」ときにも基本中の基本とすべきです。特に、小学校就学前には身につけておくべきことです。

「人の眼を見て聞く、人の眼を見て話す」ことは、その子供さんの「理解力」に直結し、学力の高さにつながります。

さて、正に上述した事を実践しているかの様な入試が始まっています。

「教員でも出来ない聞いて解く問題」という記事(朝日新聞EduA)が目につきました。引用してご紹介致します。https://www.asahi.com/edua/article/14474966

 

「ある船が地点Aから北に向かって走りました。この船は2時間30分で60㎞の距離を走ります。地点Aから灯台は北西に見えました。船が走り出して30分後にもう一度灯台を見たところ、ちょうど西に見えました。このとき、船から灯台までの距離を求めなさい」

芝浦工業大付属中(東京都江東区)の21年度入試で出た算数の問題だ。文字で見るとさほど難しくないが、受験生には問題文は配られず、教室のスピーカーから一度だけ流れる問題の音声を聞いて答えなければならなかった。同校の斎藤貢市・広報部長によると、教員でもできない人が多く、受験生の正答率もこれまでより下がったという。

なぜこのような問題を出したのか。斎藤さんは「背景には、現場の問題意識があった」と明かす。「耳で聞いた情報や指示に反応できない子がいて、そうした子は成績も伸び悩む傾向にあるという声があった」

「聞いて解く問題」は、計4回の入試のうち2回の国語と算数で出題した。配点はどちらも120満点中で20点程度に抑えた。「それで合否を決めるというよりは、ボーダー層のうちから聞くことが得意な子を採るのが目的」(斎藤さん)のためだ。

同校は今年度、男子校から共学に変わった。同時に、ITとグローバルコミュニケーションの二つの探究活動に取り組むなどの教育改革も実施した。これらの改革や入試の見直しで、「今年の新入生は男女問わず、活発に意見を言う子が集まった」(同)といい、22年度は回数と教科を増やし、特色入試をのぞく3回の算数、国語、理科で実施する。

斎藤さんは「本校を第一志望として対策をとってきた子どもに受けてもらいたい。保護者が小4~5レベルの文章題を読んで聞かせて子どもにメモをとらせたり、親子でニュースについて話して伝達力やコミュニケーション力をつけたりしてほしい」と話す。

 

・・・「一を聞いて十を知る」ほど、非常に賢く理解力があるとまではいかなくとも、少なくとも「十を聞いて十を知る」ので無ければ、学力は身に付きません。

「聞く」「聞き取る」力は、「理解力」の基本です。これは、幼児期にしっかりと身に付けておかないと、後から(小学校に上がってから)では、一朝一夕には身に付きません。

当塾に教育相談に来られると、具体例を交えてお話しすることが出来ますので、幼児教育に関心がある方は、ご遠慮なくお尋ねください。

posted by at 16:28  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「失敗しても良い」

就学前教室(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、「失敗しても良い」からやってみなさい、という声掛けをします。また、「失敗は成功の母」などの諺の意味も教えます。

さて、

東京大学工学部のAさんは神奈川県出身。地元の県立高校に入ったが、1年の冬に留年が決定。失意の中、約800kmも離れた西日本の山間部にある寮付き高校に入学し直した。当初は大学へ行くつもりがなかったにもかかわらず、3年後に“赤門”を突破した。田舎での生活で起きたミラクルとは――。

で始まるプレジデント・オンラインの記事が目についたのでご紹介します。

「高一で退学」した男子が予備校もない山間部の高校に入り直し逆転東大合格を晴らすまでの全記録

https://president.jp/articles/-/51255?cx_referrertype=mail&utm_source=presidentnews&utm_medium=email&utm_campaign=dailymail

全文は当サイトでお読みいただくとして、

受験を経て中学、高校、大学に進学したものの、言わば「燃え尽き症候群」とも言える入学後のやる気喪失で、学校に馴染めない、学校生活がつまらない、などという例が起きています。

まさに、その様な体験をした若者が、主体的に自らの環境を変えて、新たな目標を掲げ、東京大学に入学するまでを述べています。

当然、そこに至る過程にはさまざまなドラマがありますが、家庭での教育方針に、一貫して主体性を持たせること、があります。

 

Aさんが育った家の子育てで一貫していたのは、「自分の意思で決めたらやらせてみる」ということだ。

「親が止めて失敗させないよりも、たとえ失敗してもやらせたほうがいい。その失敗もまたよい経験になると考えていました」(母親)

その具体例として・・・

中学2年生のとき、横浜の家から北海道の富良野にある祖父母の家に、青春18きっぷを使い、一人旅したこともあった。夜行列車と普通列車を乗り継いで2泊3日かけて向かった。

高校1年生の夏休み、つまり学校を休みがちになった頃からは、学生限定の格安のバスツアーを使って泊りがけで震災ボランティアに参加し始めた。

・・・「可愛い子供には旅をさせよ」(我が子が可愛いなら、親の元に置いて甘やかすことをせず、世の中の辛さや苦しみを経験させたほうがよいということ。)という諺は、教育についての箴言(しんげん:戒めとなる短い句、教訓の意味を持つ短い言葉)です。

旅をするには、交通機関が発達し、コンビニやスマートフォンが当たり前の現代と異なり、昔(昭和以前)は、困った時には赤の他人に助けを求めたり、自ら足が棒になる程歩き続けなければならない、といった様々な苦労や困難を乗り越えなければなりませんでした。その経験が人を大きく成長させる。正に、利便性の高い現代では、敢えて求めなければその機会はありません。

結局のところ、ボランティアなどの社会活動をするにも、自らの意思で一人で飛び込んでいく気概を持つ必要が有ります。その為には、幼い時から「小さい失敗」を体験することも大事になります。

 

 

posted by at 19:46  | 塾長ブログ

詰め込み教育、詰め込まれ教育?

幼児教室・学習塾の羅針塾では、塾生からそれぞれ通学している学校情報が入ることがあります。同級生、先輩、後輩、先生について、極めて冷静、客観的に物事を観ていることが分かります。

「人の振り見て、我が振り直せ」(他人の行動を見て、良いところは見習い悪いところは改めよということ。)という諺を例に、塾生には様々な智慧を身につけて欲しいと考えます。学校生活の中で日々学ぶことが沢山あります。

・・・学校情報の一例をご紹介します。

あるクラスの担任の先生は、塾禁制令を出しているとのこと。何故なら、「詰め込み教育」となるから、と。

なかなか骨のある先生です。

筆者は基本的に賛成です。

えっ!と思われるかもしれませんが、塾を主宰していても正論は正論です。本来であれば、学校教育の中で児童・生徒がしっかり理解し、学力が向上する様に導くのが先生の役割だからです。

ところが、学力不足又は受験競争に勝ち残るために鍛錬したい、という需要があるから、塾はそれに対応する訳です。大学制度ができた明治期から、塾の需要はあったことから、昔も今も変わらないことがわかります。

上述の先生が言われる「詰め込み教育」は良くない

・・・その心は?

詰め込み教育と詰め込まれ教育とも言うべき差異があると考えます。

まず、誰が「詰め込む」のか?

例えたら、フォアグラ。ガチョウやアヒルに食欲の如何を問わず、沢山の餌を与えて肝臓を肥大化させてつくるフランス料理の代表的食材ですが、これは生産者がガチョウやアヒルに「詰め込む」。

同様に、学ぶ者にどこまで理解しているか否かを問わず、学ぶべき量を与え続ける。これは限られた時間、カリキュラムに合わせた塾・予備校側が、生徒・児童に「詰め込む」例です。

前者は、生産者の都合でガチョウやアヒルには迷惑な話。

 

後者は、塾・予備校側が成績向上を願う需要(needsニーズ)に応じたやり方ですから、これに合うか、合わないかによって、評価が分かれるところです。

従って、成績向上の為に、限られた時間で成績を上げることを望んだ以上は、詰め込み教育も承知の上ですから、否定的に捉えることはありません。

結局、自ら望まないのに、又は能力を超えて詰め込まれた教育は、学ぶ者にマイナスになるということです。

・・・本来の学びは、自らしっかりと教科書を理解し、その程度を確認する問題を解き、さらに力を付ける為程度の高い問題や応用問題を自主的に解いていく。常に、自主的に自発的に取り組むことが出来る様に努力を積み重ねる。

先述の先生は、その力を付ける為に授業を展開されているのでしょう。

自らの力で考え、問題解決をする児童・生徒になって欲しいとのお考えから、問題を解くknow-how(ノウハウ)やtechnic(テクニック)を詰め込む教育、又は詰め込まれる教育は、小手先の学びとなって身に付かず、将来に禍根を残す事になる。

学校・塾のいずれも、学ぶ意欲のある児童・生徒にする為尽力しなければなりません。

 

 

 

posted by at 18:33  | 塾長ブログ
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