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パンデミックと源氏物語2

長崎市五島町の幼児教育・学習塾の羅針塾では、幼児さんを子育て中のお母さん方からの質問も受け付けています。言葉が出始める前後から、急に玩具や絵本などが家の中に増え始める時期と重なります。

絵本も国内並びに海外の翻訳ものなど多種多様です。玩具も所謂(いはゆる)知育玩具からキャラクターものまで百花繚乱。

何気なく購入したり、頂いたりしたものまで数えると、結構な量になります。

本や玩具は、年齢や知力に応じ「断捨離*」する必要があります。

*断捨離(だんしゃり)・・・沖正弘が提唱したヨガの思想。断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

  • 断:入ってくるいらない物を断つ。
  • 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
  • 離:物への執着から離れる。

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは異なるものとされている。(wikipediaより)

元気なハバネラの小さな花

 

さて、源氏物語についての「加瀬英明のコラム」「パンデミックは奇貨となるだろうか」http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgiからの引用です。

さまざまな香り――薫香が、もう1つ物語の進行を取りしきっている。名香に、梅花香、侍従、黒方(くろぼう)、荷(か)葉(よう)、薫衣(くのえ)香、百歩香などという名がつけられているが、おそらく6、70種類の薫香が舞台回しのように出てくる。

香りはくらしに密着していた。屋内にくゆらしただけでなく、袖や、紙、扇に香りをたきしめた。それも、自分なりの芳しい香りを工夫して、四季にあわせて調合した。

今日の日本では、クラブのホステスや、名流婦人が、不粋なことに1年を通して同じ西洋香水をつけているのには、辟易させられる。大量生産された安いガラス瓶に、はいっている。

源氏の世界では自分だけの香の壺を、四季にあわせてもっていた。

香りは清めであり、人々ははかない香りに感傷を託して、宇宙の静寂を感じた。

西洋の香水は、今日、日本の家庭に普及している除臭剤とかわりがないが、源氏の世界の香りは、優美なものだった。

自然は静かだが、人間は煩さすぎる

「匂」という字は、もとの中国にない。日本でつくった国字だ。よい香りがたつことだけを意味していない。

日本刀の小乱れした刃紋も「匂う」と表現するが、美しく輝いていることをいう。「朝陽に匂う山桜哉(かな)」という句がよく知られているが、山桜が朝の光をいっぱいに受けて、輝いているという意味である。

『源氏物語』のなかで、女性が「匂ひやか」というと、美しいことを表している。

桜の花は馨らない。光源氏が桜の花が美しいのに、香りがないことを慨嘆している(若菜)。

香を賞(めで)るというが、香りと静けさは1つのものだ。心を落着かせて集中しないと、身心を香りにゆだねることができない。

ゆとりがなければ、香を賞でることができない。香を嗅ぐことによって、ゆとりが生まれた。人生に間をはかることが、大切なのだ。

世間で“引きこもり疲れ”とか、“自粛疲れ”という言葉が流行っているが、自分を取り戻すよい機会だろう。

 

・・・なかなか蘊蓄(うんちく:深く研究して身につけた知識)のあるお話しです。源氏物語の中に流れる日本民族の感性の一端が紹介されています。殊更貴族階級だけのものではなく、大和言葉は広く一般の人々も同じ様に理解し用いていたことから、日本人独自の「感性」は連綿と現在まで繋がっています。

但し、現在の良くも悪くも「洋風化(グローバル化)」した風潮の中で、日本人の歴史・伝統・文化を踏まえた教えや習い事などを家庭でさせることができていれば、これからも日本人の「感性」は伝えていけることでしょう。

幼児教育の一環として、所謂、「道」のつく習い事(香道、書道、茶道、華道など)を幼い時から継続することはお勧めです。今ある小学校以上の学校での学びは基本ではありますが、子供さんの家庭や家系の伝統に基づく習い事は、人間形成に大きく関わり、その人となりの根幹を基礎付けます。

posted by at 15:00  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

パンデミックと源氏物語1

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、学びの合間に塾生に応じた会話を交わすことがあります。学ぶ教科に関連することから、敷衍(ふえん:押し広げること、展開すること)したり、時には話が脱線してあらぬ方向へ行くこともあります。塾生には、世界情勢や、歴史や自然科学の方面など、様々な物事に興味を持って欲しいものです。

さて、時折引用しているブログからご紹介です。→「加瀬英明のコラム」「パンデミックは奇貨となるだろうか」http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

ようやく全国に外出自粛を強いていた、緊急事態宣言が解除された。

 といっても、相手は疫病神(えやみがみ)だからまだ安心できない。しばらくはマスクを着用して、人々とのあいだの距離をとることになるのだろう。

 武漢(ウーハン)ウィルスの大流行という奇禍によって、自宅と近くの事務所を往復して逼塞する日々を過していたが、自分の時間を落ち着いて持つことができたのは、珍しい財貨――奇貨というものだった。

 予想もしなかったが、おとなになってから、はじめて長い休暇に恵まれたと思った。

 インスラ、アウタルキア

 2つの小さな島に似た、自宅と事務所に籠るうちに、英語で「孤立、隔離」を意味するアイソレーション*1の語源が、海外に留学した時に学んだラテン語の島の「インスラinsulaであるのを思い出した。英語のアウタルキー(自給自足)*2の語源が、ラテン語の「アウタルキア」autarkiaだったと、頭に浮んだ。

 自粛中は人出や、交通量が大きく減ったから、喧噪が失せて静かだった。

 仕事や会合や、絶え間ない都会の騒音によって、関心がつねに散らされて、自分をおろそかにしていたが、案じることから感覚まで自給自足するようになった。

 自宅が表通りの裏の路地に面しているが、狭い庭に集まったスズメの囀りや、近くの皇居の森から飛んでくる野鳥が鳴きかわす声が、はっきりと聞えて嬉しい。

 街が静かになったからだ。玄関を出入りする時に、家人が植えた花の甘い香りに気がついて、狼狽(うろ)たえた。喧騒のなかで視覚や聴覚を酷使していたために、五感が鈍ってしまったのだと思った。

 つい、4、50年前までは、私たちは東京に住んでいても、自然が心身の一部になっていたから、自然を身近に感じたものだった。

 だから樹木が芽をふくころに、屋根や緑を静かに濡らす雨は、春雨(はるさめ)だったし、五月に入ると五月雨(さみだれ)、秋から冬にかけて降る雨や、通り雨は時雨(しぐれ)といった。

 春なら霞(かすみ)、秋は霧といったのに、いまでは環境が人工的になったためか、心が粗削(あらけず)りになってしまったためか、1年を通してただ霧としか呼ばない。

 英語は季節感が乏しいので、霞も、霧もすべて「フォッグ」fogか、「ミスト」mistか、「ヘイズ」hazeであって、季節によって呼び分ける繊細さを欠いているから、味気ない。

*1 isolation=隔離、分離、孤立、絶縁 *2 autarky=経済的自給自足

・・・外交評論家としてご健在な加瀬英明氏は、該博(がいはく:広く物事に通じていること)な知識と、軽妙な文章表現をされるので、読んでいても楽しいものです。氏が述べられている様に、日本語の情趣豊かな表現は、外国語の追随を許さないと言えるでしょう。

筆者は、日本語字幕の外国映画をよく鑑賞しますが、セリフが英語表現の際に、度々上手く字幕を訳しているなあ、と感心することがあります。英語のセリフは、場面が違っても同じ様な英語表現であるのに、日本語の字幕は漢字を交えているので、場面に応じて日本人の翻訳者が上手に表現していることが多々あるのです。

 

『源氏物語』を読む

私は『源氏物語』、川端文学の優れた訳者として有名な、エドワード・サイデンステッカー教授と昵懇(じっこん)にしていた。

「サイデンさん」と呼んだが、下町をこよなく愛していたので、山の手で育った者として、下町文化のよい案内役をえた。永井荷風文学をよく理解できるようになった。

(中略)

私は『源氏物語』を、サイデンさんの知遇をえるまで、製紙、香料の産業史の本として読んでいたが、サイデンさんの導きによって、王朝文学として親しむことができた。

香りは舞台回し

『源氏物語』には数えたことがないが、50種類あまりの紙が登場する。溜漉(ためす)き*3の紙は中国で発明されたが、源氏に「唐の紙はもろくて朝夕の御手ならしにもいかがとて、紙屋(かんや)を召して、心ことに清らかに漉かせ給へるに」(鈴虫)と、述べられている。

流し漉き*4の丈夫な和紙は日本で発明されたが、物語のなかで紙が重要な役割をつとめている。

 

*3溜漉(ためす)き=紙の手漉き法の一。簀 (す) をはめた漉桁 (すきげた) へ紙料液をすくい入れ、揺り動かして繊維の絡みをよくし、水を漏下させて紙の層を得るもの。

*4流し漉(す)き=手漉き和紙の漉き方の一。ねりとよぶ植物性粘液を混ぜた紙料液を、ばね式につるしてある漉き桁 (げた) の中へ手前からすくい入れ、揺り動かして繊維の絡みをよくし、向こう側へ余分な水を流し、これを数回繰り返す。漉き上がった湿紙を重ねても、ねりの粘度が急速に減退するので、1枚ずつはがせる。

・・・源氏物語の中で、「唐の紙はもろくて朝夕の御手ならしにもいかがとて、紙屋(かんや)を召して、心ことに清らかに漉かせ給へるに」の部分は、与謝野晶子版「源氏物語」でご紹介しますと・・・

五島美術館蔵 鈴虫

すずむしは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のおん弟子の君のためににと秋を浄(きよ)むる

夏の蓮(はす)の花の盛りに、でき上がった入道の姫君の御持仏の供養が催されることになった。

(中略)

仏前の名香(みょうこう)には支那の百歩香(ひゃくぶこう)がたかれてある。阿弥陀仏と脇士(わきし)の菩薩(ぼさつ)が皆白檀(びゃくだん)で精巧な彫り物に現わされておいでになってた。閼伽(あか)の具はことに小さく作られてあって、、白玉(はくぎょく)と青玉(せいぎょく)で蓮の花の形にした幾つかの小香炉(こうろ)には蜂蜜の甘い香を退けた荷葉香(かようこう)が燻(く)べられてある。経巻は六道を行く亡者(もうじゃ)のために六部お書かせになったのである。宮の持経は六条院がお手ずからお書きになったものである。これを御仏(みほとけ)への結縁としてせめて愛する者二人が永久に導かれたい希望が御願文(がんもん)に述べられてあった。朝夕に読誦(どくじゅ)される阿弥陀経は支那の紙ではもろくていかがと思召(おぼしめ)され、紙屋(かんや)川の人をお呼び寄せになり特にお漉(す)かせになった紙へ、この春ごろから熱心に書いておいでになったこの経巻は、片端を遠く見てさえ目がくらむ雅さはことさらにいうまでもない。

・・・とあります。

それに付けても、平安時代の高貴な方々の世界とはいえ、優雅で心の持ちようが現代人では想像を絶するほどのものです。現在の私達よりも、自然を敬い、仏道を如何に大事にしていたかが理解できます。

 

posted by at 17:37  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

智能は幼児期に言葉に依って創られる

長崎市五島町にある幼児教室・学習塾の羅針塾では、小学校受験に向け準備をしようと考えておられる親御さんから様々な質問を受けます。子供さんの教育にしっかりとした考えをお持ちの方は少数派です。子育てや教育に対する様々な悩みや不安の元は、耳に入る情報が錯綜し、いずれを取るべきか確信が持てないことが原因です。

現在は、教育に対する情報がインターネットにも百花繚乱と言える程溢れています。簡便に情報を集めることが出来るのは有り難いのですが、其の中から適切で有意義な情報を収集し、分析し、活用するのは、自らの立ち位置をしっかり維持しておかない限り、混乱の元にもなりかねません。

最新の教育理論や動向は、しっかりと検証されるまでに時間がかかり、安易に取り入れる事は、後で悔やむことになりかねません。

筆者は、海外の教育理論や動向などの最新情報にも目を通しますが、「教育は百年の大計」と言われるように、日本の歴史の中で検証された教育と日本文化に根差した、正に日本人に適した教育があると信じます。

そこで、よく引用させて頂く石井勲の著書から、「漢字興国論」(1997)をご紹介します。

「漢字興国論」 第二章 漢字は世界で最も高度な文字――真に文字と言へるものは漢字だけである――

智能は幼児期に言葉に依って創られる

従来「智能は生れつきに依る」と考へられてゐましたが、近年は「幼 児期に創られる」それも「言語によって創られる」といふ考へが強まって 来ました。

フランスの言語心理学者ポール・ショシャールは、フランスの小学校 に就学してゐる黒人の子供たちの生育歴を 1 人 1 人丹念に調査しまし た。そして「アフリカで生れ、そこで幼児期を過した子供たちの智能は、 フランスの子供たちの智能より明らかに低いが、アフリカで生れてもフ ランスで幼児期を過した千供たちの平均IQは、フランスの子供たちの 平均 IQ に劣らなかった」といふ事実を明らかにしました。

右の事実は「智能は生れつきに依らない。幼児期に創られるものである」ことを教へてくれます。また、「智能は幼児期の言語活動に依って 創られる」ことを推測させてくれます。ではなぜ「智能は幼児期に言語 に依って創られる」のでせうか。

 人間の大脳はよくコンピューターに譬へられます。然し、似てはゐても、大変な違ひがあります。コンピューターは初めからハードウェアの 容量が決ってゐて、それに見合ったソフトウェアしか入力できません。 いくら立派なソフトウェアを作っても人力できないのです。

これに対して人間の大脳は、人力されたソフトウェアに依ってハード ウェアはいくらでも容量が大きくなるやうに準備されてゐるのです。つま り、ソフトウェアが立派になればそれに従ってハードウェアも大きくなる のです。そして大きくなったハードウェアが更に立派なソフトウェアを入 力し易くする、といふやうに相互に影響を与へ合ひながら発達して行く のです。

所で、人間の大脳は二十歳頃までにハードウェアの発達を終へます が、幼児期の発達が特に目覚しく、この時期に成人の大脳の 60 から 70 パーセントまで発達し、小学校に入学する 6 歳頃には 80 パーセントま で発達するさうです。既に述べましたやうに大脳のハードウェアとソフト ウェアとは相互に影響し合って発達して行くものですから、幼児期の大 脳の使ひ方で決ったハードウェアの容量の大小に依ってその後の発 達が左右されるのです。大脳のソフトウェアは言葉が基幹ですから、 「幼児期に吸収する言葉の質と量に依って智能が決定する」のは当然 だと言へませう。

・・・「幼児期に吸収する言葉の質と量に依って智能が決定する」という言葉は、非常に含蓄があります。

「言葉の質」は、美しい日本語、「言葉の量」は、正しい日本語、によって担保されます。外来語や和製英語的なカタカナ混じりの日本語を、どれだけ入れても、本当の智能の発達には寄与しない、と考えます。

 

 

posted by at 14:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

自学自習の力

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、塾生の将来を見据えながら日々の学びを指導します。

幼児さんであれ小学生であれ(むろん、中学・高校・大学生も)、将来自ら人生を切り開いて行く力を身につけていかなければなりません。

其の為の第一歩が、自ら学び、自ら習う「自学自習」する力を、如何に早くみにつけていくか、です。

産経新聞(2020.6.23)の記事にも、15歳対象の国際学力調査を踏まえて以下の記事がありました。引用してご紹介します。

【風を読む】自学自習力を高めたい

https://www.sankei.com/life/news/200623/lif2006230010-n1.html

 20、21日の土日、高校生らがインターネットのテレビ会議システムを使って社会問題などについて考えるイベントを見る機会があった。日本財団が支援する団体「i Stand」の活動の一環で、グループに分かれ話し合い、小学生にも分かる動画教材をつくる企画だ。コロナ禍の中、「他人の意見を聞く機会」の重要さを語る高校生もいて印象深かった。

15歳対象の国際学力調査などを行っている経済協力開発機構(OECD)の担当者はコロナ禍の以前から、ネット社会での学びの変化について指摘していたので、改めて紹介したい。かつての勉強法は、分からないことがあれば、専門知識を持った人が書いた本を読んで調べた。それがいまネット検索で手軽にできる。しかし、その情報が本当に正しいのか、吟味する力が必要になっているという。

そうした批評的思考は、日本の弱点とされる。OECDの学力調査の一環で、他人といかに協力できるかチームで連携する力を調べたことがある。3人一組で役割分担する想定で、他人の誤りなどに適切な助言ができるかなどだ。日本の生徒はルール違反を指摘して修正できるかみる設問で正答率が低く、他人に迎合する傾向が出た。

オンライン授業以前に、自学自習の力を見直したい。日本の学生の勉強不足が指摘されて久しい。欧米に比べ、日本の学生が課題図書を読む量など授業の準備に充てる時間は極めて少ないといわれる。1日の読書時間が「ゼロ」という学生が過半数に上る調査もあった。異論、反論はチームで解決していく力につながるが、確かな知識、教養に根ざした意見を持てるか。自ら学ぶ力が問われている。

・・・「批評的思考は、日本の弱点とされる。」と記事にありますが、外国人と議論する場合は別として、一般の日本人同士では、「批評的思考」は寧ろ無遠慮として忌避される傾向があるように思います。所謂、揚げ足を取らないのが礼儀とされているからです。

丁々発止するディベイト(debate*)の場では、「批評的思考」がなくては議論になりません。

以下Wikipediaからの引用です。

ディベイト(debate)とは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論すること(広義のディベイト(debate))。様々な教育目的のために行われる教育ディベート(educational debate)が、単に「ディベート」と呼ばれることもある(狭義のディベート)。

尚、日本における本格的な教育ディベートは、福沢諭吉によって初めて日本にもたらされたとするのが定説である。福澤は「debate」の訳語に「討論」という日本語を当て、日本に広く普及させるとともに自ら実践した。明治6(1873)年に福澤が行った日本初の教育ディベートの論題は「士族の家禄なるもの、一体プロパーチーであるか、サラリーであるか」だったとされている。討論は、この頃から学校教育で課外活動として位置づけられはじめ、旧制中学においても1877年頃から各種の討論会が行われはじめる。こうした教育ディベート活動は、1897年以降には多数の理論書も出版されるなど隆盛を極める。

・・・日本における教育ディベートは、歴史を振り返ると福沢諭吉を嚆矢(こうし:ものごとの初め)として、其の素地はしっかりとあります。従って、しっかりとした指導者が導いていけば、日本人が外国人とのディベートに劣る事はない筈です。

当然、ディベートをする前提としてしっかりとした語彙力がなければなりません。それを幼い時から一つづつ身に付けていく必要があります。其の為には、子供さんに「言葉の意味合い」を理解させていく普段の努力が親御さんには必要です。

言葉の意味合い」をひとつづつ理解した子供さんは、物事に興味を持ち、知識欲が芽生え、更に知りたいという学びに対する欲求が出てきます。そうすると、最初は親御さんにしょっちゅう尋ねていたレベルから、導きによって自ら学ぶことを覚えていきます。

自学自習の力は、導きと訓練(繰り返し)によって獲得していきます。

 

posted by at 12:40  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

もしも20年後の子供に会ったとしたら

現在、子育て真っ最中のお母さん方が、もし20年後の子供さんに会うことを想像してみたら、子育ての意味合いを理解できるのではないでしょうか。

これは、筆者の子育て(否、家内が主で)経験から考えさせられることです。

最初の子供を持った時の、感動、戸惑い、不思議さ、等々、それぞれの親御さんが感じるものが、子育ての始まりです。

「這えば立て、立てば歩めの親御心」

これは、筆者の母親が子供時分に諭してくれた俚諺(りげん:民間で言い表されている諺)です。幼い時分から、事あるごとに問わず語りに語っていた言葉の数々が、年を経るごとに思い起こされます。

不思議なことに、子供の頃の一場面一場面がふとした時に蘇るのは筆者だけでしょうか。

間違いなく、子供さんも日々の中で、様々な思いを紡いでいきます。

楽しいこと、悲しいこと、悔しいこと、ワクワクすること。

その度に、話すことができれば、まず第一にお母さんに話すでしょう。

そのような日々を、一年365日繰り返していきます。

そして、成長していく中で、子供心にお母さんの存在は一見小さくなっていきます。それが、いずれ親離れし、成人していく。

人間がこの世に生まれてから、営営と続けてきたことがこれからも続いていきます。

 

・・・子供の為に良かれと思い、叱ることもあり、日々悩むのが子育てです。

そんなときに、20年後の立派な男性、女性になっている将来の子供さんに、もしタイム・マシーンに乗って会うことが出来れば・・・

どれ程楽しく、嬉しいでしょうか。

「楽有れば苦有り、苦有れば苦有り」と、繰り返し繰り返し呟いていた母の姿が思い起こされます。

 

posted by at 16:14  | 塾長ブログ
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