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我が道を行く覚悟 二宮翁夜話

幼児さんの塾生が一斉にある本の音読をしている際に、「おめずおくせず」という語句が出てまいりました。

「怖めず臆せず」とは、「少しも怖れたり気後れすることなく。堂々と。」の意です。塾生が長じて成人してからも、立派な日本人として怖めず臆せず、其々の行く道を歩んで貰いたいと祈念するばかりです。

さて、「我が道を行く覚悟」について、二宮翁夜話 巻一 十より、引用してご紹介します。

翁曰、 親の子における、農の田畑に於る、我道に同じ、 親の子を育(ソダツ)る無頼(ブライ)となるといへども、養育料を如何せん、農の田を作る、凶歳なれば、肥代(コヤシダイ)も仕付料も皆損なり、夫(それ)此道を行はんと欲する者は此理を弁(ワキマ)ふべし、

・・・二宮翁が仰るには、親が子に対する姿勢、農業の田畑に対する姿勢は、私にとっては同じ「道」である。親が子を育て、無頼(定職を持たず、素行の悪いこと)となるとしても、その養育料をどうしたら良いのか。農業の田を作る際に、凶歳(不作の年)となれば、肥料にかかる費用も仕付け(作物を植え付けること。特に、田植え。)の費用も、皆損をすることになる。そもそもこの道を行おうと欲する者は、この理(物事の筋道。道理。)を弁えて(善悪の区別をして)おかなければならない。

吾始(ハジメ)て、小田原より下野(シモツケ)の物井の陣屋に至る、己が家を潰して、四千石の興復一途(いちず)に身を委(ユダ)ねたり、是則(これすなわち)此道理に基けるなり、

・・・私(二宮翁)は、始めて小田原(現神奈川県の小田原)より下野(旧国名、現栃木県)の物井の陣屋(*)に赴任した。己(自分自身)の家を潰して(犠牲にして)、四千石の復興に一途(一つのことだけに打ち込む事)に身を委ねた(一身を捧げた)。これはすなわちこの道理に基づいていたのである。

(*)物井の陣屋:小田原城主である大久保加賀守忠朝の三男教信が分家して、旗本であった宇津家を再興した。その際下野国桜町領にて四千石を知行し、元禄12年(1699)この地に陣屋を創設した。
その後、五代教成にいたり、領内がすこぶる疲弊し、陣屋役所の頽廃も極度に達したため、財政改革・領地復興のために本家である小田原藩から依頼され、二宮金次郎が文政5年(1822)に赴任することになった。以来26年間、桜町陣屋を中心に活動し、桜町領の復興に成功した。
陣屋は旗本宇津家の知行所三か村(物井・横田・東沼)四千石の統治のために、元禄12年(1699)創設され、明治4年(1871)に至る172年間の役所である。敷地構内は東西約90m、南北約109m、回字形で面積1.1ヘクタール余をはかる。内部には田畑、宅地、池、井戸、神社等がある。周辺に土塁をめぐらし、外周三方に堀が通じている。
その後、二宮金次郎は日光神領の復興を命じられ、今市報徳役所にあって着々成果を上げたが、70歳で亡くなり、如来寺(現在の報徳二宮神社境内)に埋葬された。

二宮尊徳所縁の地(https://www.tochigiji.or.jp/spot/8563/)より引用

 

夫(それ)釈(シヤク)氏は、生者必滅(セウシヤヒツメツ)の理を悟り、 此理を拡充して自ら家を捨(ステ)、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり、只此一理を悟るのみ、

・・・そもそも、お釈迦様は、生者必滅(しょうじゃひつめつ:生ある者は必ず死ぬという事)の理(真理)を悟られ、この理を拡充(広げ、充実させること)して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日の如き「道(仏道)」を弘められた。ただこの一理(一通りの道理)を悟るのみである。

夫(それ)人、生れ出(いで)たる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり、長生といへども、百年を越(コユ)るは稀なり、限りのしれたる事なり、 夭(ワカジニ)と云(いう)も寿(ナガイキ)と云(いう)も、 実は毛弗の論なり、譬(タトヘ)ば蝋燭に大中小あるに同じ、 大蝋といへども、火の付(つき)たる以上は四時間か五時間なるべし、 然れば人と生れ出(いで)たるうへは、必(かならズ)死する物と覚悟する時は、一日活(イキ)れば則(すなわち)一日の儲(マフケ)、一年活(イキ)れば一年の益也、故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり、予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」、 夫(それ)此世は、 我(われ)人(ひと)ともに僅(ハツカ)の間の仮の世なれば、 此身は、かりの身なる事明らかなり、 元のあるじとは天を云(いう)、このかりの身を我身と思はず、生涯一途(ヅ)に世のため人のためのみを思ひ、 国のため天下の爲に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免(マヌカ)れ富有になり、土地開け道(ミチ)橋(ハシ)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫(それ)のみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我(わが)此身である、といふ心にてよめる也、是(コレ)我(ワレ)畢生(ヒツセイ)の覚悟なり、我道(ワガミチ)を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず

・・・そもそも、人は生まれ出でたる以上は死ぬことは必定(ひつじょう:必ずそうなることは決まっていること。そうなることが避けられないこと)である。長生きをするとしても、百歳を超えることは稀であり、(所詮は)限りあることである。夭逝(ようせい:年若くして死ぬこと)というも長寿(ちょうじゅ:長生きすること)というも、実は毛弗(もうふつ:わずかな違い)の論である。

たとえば、蝋燭(ろうそく)に大中小あることと同じである。大蝋(大きな蝋燭)といっても、火がついた以上は(燃えている時間は)四時間か五時間しかない。そうであるから、人として生まれ出でた以上は、必ず死すべきものと覚悟(悟りを開くこと)するときは、一日活きれば(生存すれば)則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益(利得)となる。故に、本来(もともと)我が身も無いものと、我が家も無いものと覚悟すれば、跡(あと:人が残したもの)は百事百般(色々なことやいろいろなほうめん、万事万般)は皆儲けである。

予(私)の歌に、

「かりの身を 元のあるじに 貸渡し 民安かれと 願ふ此身ぞ」

そもそもこの世は、私も人も共に僅かの間の仮の世であるから、この身は仮の身であることは明らかである。元のあるじとは、天のことである。この仮の身を我が身と思わず、生涯を一途に(一筋に)世の為人の為とのみ思い、国の為、天下の為に益(役立つこと)あることのみを、勤め(当然しなければならない)れば、一人でも一家でも一村であっても、困窮(貧乏で困ること)を免れ、富有(豊かで富むこと)になる。土地を開墾し、道や橋を整えることができ、安穏(穏やかで無事な様)に渡世(社会の中で働きつつ生きること)出来るようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕(朝な夕なに)願い祈って、怠り無い私のこの身よ、という心にて詠んだのである。

これは私の畢生(ひっせい:生涯、一生)の覚悟である。

我が道を行わんと思う者は、知らずんば在るべからず(知らずにあるべきでは無い、知らずに居られようか)。

 

・・・私達の御先祖様達は、此のような覚悟を常に心に留めて精進をしていたのです。管見ながら、古典を紐解くことによって、幼児期から倫理観と志を植えつけていくことが肝要では無いか、と。

東京一極集中と二宮翁夜話

武漢ウィルスが世界中に蔓延しつつあるこの時期に、久し振りに二宮翁夜話(にのみやおうやわ*)を読んでいますと、改めて感じ入ることがあります。

*二宮翁夜話・・・二宮尊徳の門人福住正兄(ふくずみまさえ)が,師の身辺で暮らした4年間に書きとめた《如是我聞録》を整理し,尊徳の言行を記した書。1884‐87年正編5巻刊行。正編には233話,続編(1928)には48話を収める。尊徳の自然,人生,歴史観ならびに報徳思想の実体が,平易に,私心を交えず伝えられた,彼の全貌を知るための手引書である。

二宮翁夜話 巻一 九より引用してご紹介します。

越後国の産(モノ)にて、笠井亀蔵と云者あり、故ありて翁の僕(ボク)たり、翁諭(サト)して曰、 汝は越後の産なり、越後は上国と聞けり、 如何(イカ)なれば上国を去(サリ)て、他国に来れるや、亀蔵曰、上国にあらず、田畑高価にして、田徳少し、江戸は大都会なれば、金を得(ウ)る容易(タヤス)からんと思ふて江戸に出づと、 翁曰、 汝過(アヤマ)てり、 夫 (それ)越後は土地沃饒(ヨクジヤウ)なるが故に、食物多し、食物多きが故に、人員多し、人員多きが故に、田畑高価なり、田畑高価なるが故に、薄利なり、然るを田徳少しと云ふ、少きにあらず、田徳の多きなり、田徳多く土徳(ドトク)尊きが故に、田畑高価なるを下国と見て生国を捨(すて)、 他邦に流浪するは、大なる過ちなり、  過ちとしらば、速(スミヤカ)にその過ちを改めて、帰国すべし、越後にひとしき上国は他に少し、然るを下國と見しは過ちなり、

・・・(筆者現代語訳)

越後国(佐渡島を除く、新潟県全域に相当)出身の笠井亀蔵という者が在り、事情があって翁(二宮尊徳)(おきな:老人の敬称)の下僕(げぼく:召使い、下男)をしておりました。翁が諭して仰るには、

「汝(お前)は越後の出身で、越後は上国(近世、石高の大きな藩、格の高い藩)と聞いている。何故に上国を去って、他国に来たのか。」

亀蔵が言うには、

「上国ではありません。田畑は高価にして、田徳(田の恵、富)は少ないのです。江戸は大都会なので、金を稼ぐには容易であろうと思って、江戸に出て参りました。」

翁が仰るには、

「お前は過っている。其れ越後は土地が沃饒(よくじょう:田畑が肥沃、土地が肥えていて作物がよく採れること)である為に、食物が豊富である。食物が豊富である為に、住む人が多い。住人(人口)が多い為に田畑が高価である。田畑が高価である為に、薄利(利益が少ないこと)であると。然る(そうであること)を、田徳(田の恵、富)が少ないという。(ところが)少なくはなく、田徳は多いのである。田徳は多く土徳(土地の恵み・有難み)は尊いが故に、田畑が高価であることを下国(近世、石高の小さな藩、格の低い藩)と見て、生まれた国を捨て他の邦(くに)を流浪するのは、大いなる過ちである。過ちを悟ったならば、速やかにその過ちを改めて、国に帰るべきである。越後に相当するような上国は他に少しあるだけである。そうであるのに、下国であると見るのは過ちである。」

是を今日、暑気の時節に譬へば、蚯蚓(ミヽズ)土中の炎熱に堪兼(タヘカネ)て、土中甚(ハナハダ)熱し、土中の外に出(いで)なば涼しき処あるべし、土中に居るは愚(グ)なりと考へ、地上に出(いで)て照り付られ死するに同じ、夫(それ)蚯蚓は土中に居るべき性質にして、土中に居るが天の分なり、 然れば何程熱(アツ)しとも、外を願はず、我本性に随ひ、土中に潜みさへすれば無事安穏なるに、 心得違ひして、地上に出(いで)たるが運のつき、迷(マヨヒ)より禍を招きしなり、

・・・これを昨今の暑気の時節(真夏の時期)に喩えれば、蚯蚓(ミミズ)が土中の炎熱(燃えるような暑さ)に耐え兼ねて、土中の甚だしく熱していることから、土中の外に出ていけば涼しいところがあるだろうし、土中に居残るのは愚かであると考え、地上に出て日に照り付けられて死んでしまうことと同じである。そもそも蚯蚓は土中に居るべき性質であるし、土中に居るのが天分(生まれつきの性質)である。然れば(そうであるならば)どれ程熱くても、外に出ることを願わず、自分の本性に従って、土中に潜んでさえいれば無事で安穏な(暮らしができる)のに、心得違い(間違った考え)をして地上に出てしまったら運の尽きである。迷いによって禍(災い)を招いてしまうことになる。

夫(それ)  汝もその如く、越後の上国に生れ、 田徳少し、 江戸に出(いで)なば、 金を得る事いと易からんと、思ひ違ひ、自国を捨(すて)たるが迷の元にして、みづから災を招きしなり、 然れば、今日過ちを改めて速(スミヤカ)に国に帰り、小を積んで大をなすの道を、勤(ツトム)るの外あるべからず、心誠に爰(コヽ)に至らば、おのづから、安堵の地を得る必定なり、 猶(ナホ)迷(まよい)て江戸に流浪せば、詰(ツマ)りは蚯蚓の、土中をはなれて地上に出(いで)たると同じかるべし、 能(よく)此理を悟り過を悔ひ能(よく)改めて、安堵の地を求めよ、 然らざれば今千金を与ふるとも、無益なるべし、我(わが)言ふ所必ず違(タガ)はじ

・・・「それ汝も同様に、越後という上国に生まれ、田徳が少ないので江戸に出れば、金を得ることは非常に容易いのではないかと、思い違いをし、自分の国(故郷)を捨てたのが迷いの元であり、自ら災いを招いてしまっている。そうであるならば、今過ちを改めて速やかに国元に帰り、小を積んで大を為す道に精進する外はない。心素直にこの心持ちに至れば、自然に安堵(あんど:安心する、心が落ち着くこと)の地(場所)を得ることが必ず出来る。猶(なお:まだ)迷ったまま江戸を流浪(さまよい歩くこと)するならば、鯔(トド)の詰まり(物事の行き着くところ)、蚯蚓が土中を離れて地上に出てくることと同様である。能く(手落ちなく)この理屈を悟り、禍を悔いて能く(上手に)改めて、安堵の地(安心して住むことができる土地)を求めなさい。然らざれば(そうでなければ)、今千金(多額の金銭)を与えても、無益(無駄なこと)なこととなってしまう。私が申し述べることは、必ず違う(たがう:一致しない)ことはない。

映画「二宮金次郎」https://ninomiyakinjirou.com

・・・二宮尊徳の具体的でわかりやすい話は時代を超えて説得力があります。

また、長い人類の歴史の中で、様々な警句(奇抜な表現で、巧みに鋭く真理を述べた短い言葉)があります。

The grass is always greener on the other side of the fence.(隣の芝生は青い)

The darkest place is under the candlestick.(最も暗い場所はろうそく立ての下である)

The nearer the church, the farther from God.(教会に近ければ近いほど、それだけ神から遠くなる)

 

子育てと「何の為に学ぶのか」の動機付け

羅針塾では、塾生の親御さんと定期的に面談する機会を設けています。ご家庭での様子、幼稚園や学校での先生方からの評価、当塾での様子など、相互に情報交換をして、塾生の健全な成長を促進する縁(よすが:手掛かり、切っ掛け)となるからです。

さて、国際派日本人養成講座2020年03月08日(http://blog.jog-net.jp/202003/article_2.html)に、素晴らしい記事が掲載されていましたので、引用してご紹介します。

アドラー心理学と「和の国」の子育て 

 

子供達が「共同体感覚」を発達させて、共同体に貢献することが幸せへの道、とアドラーは考えた。

■1.「しっかり勉強して、世のため人のために尽くせる人間になりなさい」

 先日、福岡のある保育園で保護者向けの講演をさせていただいた。そこでは石井式の漢字教育[a]を実践されており、4、5歳の幼児たちが先生の示す漢字カードに元気な声で「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」などと唱和している姿を見た。こういう子供たちが立派に成人して、明日の日本を支えてくれるだろうと思ったら、嬉しくなって涙が出そうになった。

 保護者も熱心な方が多く、1時間お話をしたが、5~60人の方々が床の上に直に座り、4~50人の方々が廊下にまで立って、真剣に聞いてくれた。

 話の中で、知的障害者が従業員の7割を占めるという日本理化学工業の事例を紹介した。同社では近所の施設から依頼されて、知的障害者2人に作業を体験して貰ったのだが、いかにも嬉しそうに仕事をする。

「会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに」と社長の大山さんは不思議に思ったが、この疑問に答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。曰く、幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」。この幸せとは、施設では決して得られず、働くことによってのみ得られるものだと。

 この事例のあとで、保護者の方々に問いかけた。子どもを幸せにしたかったら「しっかり勉強して、一流大学に行き、一流企業に入りなさい」と言うよりも、「しっかり勉強して、世のため人のために尽くせる人間になりなさい」と言うべきではないか、と。

■2.他者の幸福のために努力すること

 幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」というお坊さんの指摘は、現代心理学でも「利他心は人間の本能で、それが発揮されると幸福感をもたらす」と裏付けられている。そこから、子育てにおいても「一流企業に入れるよう」と子供の利己心を刺激するよりも、「世のため人のために」と利他心を引き出す教育方法の方が良いはずだと考えた。

 心理学の創始者の一人で同様の主張をしたのが、オーストリアの精神科医・心理学者のアルフレッド・アドラーだ。はじめはフロイトとともに心理学の研究をしていたが、根本的な人間観の相違から袂を分かった。

 アドラーは自著のなかでフロイトの「人間は性欲動を満たそうとする快楽原則に支配される」という人間観を批判して、「他者の幸福のために努力することが、共同体感覚を持った人間にとって、真の『快楽原則』である、と反論している。[Hoffman, 7255]

 両者の人間観の違いは根本的だ。フロイトの暗い、宿命論的な心理学に対して、アドラーの心理学は崇高で明るい。アドラー自身も社交的な人間で、友人たちとウィーンのカフェで毎晩のように夜遅くまで語り合っていた。

 一時は社会を救うためにマルクス主義に傾斜したが、ロシア革命の現実を目の当たりにして、社会を変革して人々を救済するには育児と教育によるしかない、と考えるようになった。そこで研究だけでなく、カウンセリングや教師の育成に一生を尽くしたのである。

■3.「共同体の中で価値ある存在になりたい」という欲求

 アドラーは、人間は共同体の中で生まれ育つことを重視する。

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 人類の歴史上、完全にひとりで孤立した人間というものはいません。人類が発展できたのは、人類が共同体となり、完全を目指しながら理想の共同体へ向けて努力していたからです。[アドラー, 3243]
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 これは人間はもともと「群生生物」、すなわち群れの中で力を合わせて生き延びてきた、という進化人類学の定説と一致する。

 その共同体の中で「価値ある存在」になりたい、という基本的欲求を人間は持つ。これは共同体を維持・発展させるための群生生物としての本能だ。そこで、子供をどのように「価値ある存在」になるように育てるか、が教育上の重要課題となる。

「共同体の中で価値ある存在になりたい」という子供の欲求を正しく充たすアプローチとしてアドラーが主張しているのが、子供がお手伝いをした時などに「ありがとう」と感謝の言葉を伝える、「嬉しい」と素直な喜びを現す、「助かったよ」とお礼の言葉を述べる、などである。

 それによって、子供は自分が他者にとって「価値ある存在」になれることを実感し、その方向に向けて、さらに努力しようとする勇気を持つ。[岸見H25、2593]

 子供の「価値ある存在」になりたいという欲求に正しい方向性を与えるのが「共同体感覚」である。それは同じ共同体に属する他者を「仲間」と感じる所から始まる。そう感じるからこそ、仲間が困ったり、苦しんでいる時に、それを感じとり、何とかしたいと思う気持ちが生ずる。他者への貢献は、この「共同体感覚」によって正しい方向付けがなされる。

■4.「価値ある存在」になりたいという欲求を正しい方向に導く共同体感覚

「勇気づけ」ではなく、甘やかされた子供はどうなるか。他者から与えられる事に慣れた子供は、他者に依存しつつ、他者を「自分のために何かをしてくれる存在」と見なす。これでは共同体感覚が育たない。

 共同体感覚を欠いた「価値ある存在」になりたいという欲求は、他者を自分に奉仕させ、虚栄心を満足させようとする方向に働く。こういう子供が大人になると、地位や名声を求め、他者への思いやりのない、自己中心的な人間になるのだろう。

 また、幼児の頃に甘やかされて、途中から親に構って貰えなくなると、子供は親を自分に向けさせようと、非行に走ったり、不登校になったする。あるいはリストカットまでして、自分に奉仕しない事への復讐をする。どちらにせよ、自己中心的な姿勢である。

 逆に、叱られたり、罰を与えられてばかりだと、子供は家庭や学校で自分の「居場所」を見つけることができず、自分は「価値ある存在ではない」と思い込み、それが劣等感となる。この場合でも健全な共同体感覚は育たず、「他者のために何かしてみよう」という勇気は生まれない。

 家庭や学校は、共同体の中に生まれついた子供が、やがて「他者のために価値ある存在」に育つための場所だ。そこでは子供たちを他者のための思いやりや親切を行うよう勇気づけ、それが多少なりともできた時に、感謝や喜びの言葉によって、子供自身が「価値ある存在」に近づけたことを実感できるようにする。

こういう体験によって、子供の心に共同体感覚が発達し、それが「価値ある存在」になりたいという欲求を正しい方向に導いていく。アドラーはこれこそが本来の教育だと考えた。

 アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)  1870〜1937 オーストリア出身の精神科医・心理学者・社会理論家。精神異常について関心を持ち、精神分析運動の展開において中心的な役割を持った。1911年個人心理学協会創立。フロイトのリピドー理論を批判し、力こそ行為の原動力であり、神経症の原因は劣等感であると説いた。(20世記西洋人名辞典より)

補償compensation(心理学)・・・一般的には、全体としてのシステムが欠如した部分を補い、全体としてよりよい機能を維持しようとする傾向のことをいう。アドラーの個人心理学では、身体的諸器官、たとえば感覚器官の欠陥や弱さは心理的に補償されると考えられる。デモステネスは言語障害であったが雄弁家に、フランクリン・ルーズベルトは小児麻痺(まひ)を克服して大統領になったという。身体的器官に限らず、なんらかの欠点、弱さからおきてくる劣等感は、補償され優越感を求めようとする。劣等感が強すぎると過補償がおこり、かえって問題が生じることになる。(日本大百科全書)

講演の合間に怪我をした少女の手に包帯を巻くアドラー(Wikipediaより)

・・・この後、さらに素晴らしい記事が続きますが、下記ブログをご覧ください。(国際派日本人養成講座2020年03月08日(http://blog.jog-net.jp/202003/article_2.html))

 

 

因みに、筆者が考える教育理念の一つは、

倫理と志」を幼少時から醸成(じょうせい:序々に作り上げていくこと、醸し出すこと)すること、です。

倫理(りんり:人として守るべき道)とは、その人が育まれた家庭の有り様、環境によって人のあるべき崇高な精神として基礎づけられるものです。

志(こころざし:心に決めて目指していること)は、自我が目覚める前後から自然に(じねんに:しぜんに、自ずから、ひとりでに)生じてくるものであり、利己心から離れ、他を利する生き方を厳然と選ぶ、ことです。

所謂(いわゆる)「義務教育」(小学校・中学校)の中で、このような概念は児童生徒には披瀝(ひれき:考えをすべて打ち明けること)されることはないでしょうが、心ある先生方は、何らかの形で伝えようとされていると信じたいですね。

 

教科書に載らない歴史上の人物 26  高木兼寛

武漢発のコロナ・ウィルスの日本国内感染者が徐々に増えつつある中で、クルーズ船内や密室空間での感染の恐怖を味わうのは、底知れぬものがあることと思います。

同様に、日本の歴史の中で疾病の原因が分からず、治療法が無いと思われていた国民病・脚気についても克服するまでには多くのドラマがあります。

再々参照させていただいている「国際派日本人」養成講座 「軍医・高木兼寛 海軍を救う」(http://blog.jognet.jp/202002/article_4.html)と、「宮崎県郷土先覚者 高木兼寛」(https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/index.html)からの引用です。

高木兼寛(かねひろ)はペリー来航を直前に控えた江戸末期、薩摩藩領の日向国穆佐村白土坂(むかさむらしらすざか/現・宮崎市高岡町穆佐)に生まれました。

武士の子として、幼少期から学問や剣術を学ぶ一方で、父・喜助の手伝いで大工仕事にも精を出します。当時の薩摩郷士は、武士としての俸禄だけではなく、耕作や大工仕事などの副業で生計を立てるのが一般的でした。

その後兼寛は地元で敬愛されていた医師の黒木了輔にあこがれを抱き、医学の道を志します。17歳になると鹿児島に出て、石神良策に医学を学びます。2年後の1868(明治元)年には戊辰戦争が始まり、兼寛も薩摩藩九番隊付として上京します。

当時の藩医たちは、戦闘による傷の手当てに不慣れであったため、西郷隆盛が英国領事館の医師、ウィリアム・ウィリスに依頼し、負傷者の治療にあたらせます。ウィリスは麻酔を使った手術や消毒処置によって、多くの兵士を救います。この光景は、若い兼寛に大きな刺激となったことでしょう。

会津戦争後に帰郷した兼寛は、鹿児島医学校に赴任してきたウィリスと再会し、改めて英語と医学を学びます。その後、海軍省出仕を経て3年後の1875(明治8)年、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学します。

同医学校ではさまざまな医科学を学ぶと同時に、ナイチンゲール看護婦学校を見聞するなど、英国医学の特徴であった「臨床医学」や「看護婦養成」などを身につけます。兼寛が残した言葉「病気を診ずして病人を診よ」の精神も、この時期に身についたのかもしれません。

同校を首席で卒業した兼寛は、帰国後すぐに東京海軍病院長に任ぜられます。

英国留学中の高木兼寛 出典東京慈恵会医科大学

 

日本海軍に衝撃を与えた脚気患者の大量発生

明治15(1882)年の京城事変では、朝鮮宮廷のクーデーターで日本大使館も襲われ、政府は邦人保護のために軍艦5隻を仁川沖に派遣しました。それに対抗して清国も戦艦3隻を派遣して、睨(にら)み合いとなりました。

 この時、日本の五隻の軍艦内では多数の脚気(かっけ)患者が発生し、死亡する者もいました。もしも清国軍艦と交戦状態となったら、日本の各艦には戦闘に応じる人員はわずかで、たちまち危機に瀕することはあきらかでした。日本側はこのような事態を清国側に気付かれないよう、元気な水兵を集めて艦上でしきりに訓練させました。

 脚気は心不全により、足のむくみ、しびれが起き、最悪の場合は心臓発作を起こして死亡に至ります。江戸時代の元禄年間には江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と呼ばれ、激しい脚気が流行した京都では、短期間に死ぬので「三日坊」とも言われました。欧米にはない病気で、明治9(1876)年に来日して東京帝国大学医学部で教えていたドイツ人医師ベルツは黴菌による伝染病と考えていました。

 明治天皇は皇后とともに軽い脚気に罹(かか)られた事があり、内親王のお一人を脚気で亡くされている事から、脚気専門病院の設立をしてはどうか、と政府に伝え、破格の金額を下賜されていました。政府も予算を投じ、明治12(1879)年に脚気病院が設立されましたが、有効な治療法が見いだせませんでした。

 海軍病院の軍医・高木兼寛(かねひろ)は、毎日、脚気患者に接していたことから、なんとしてもこれらの患者を救わねばならないと、自らこの大問題に取り組むこととしました。

 改めて記録を調べてみると、明治11(1878)年には海軍の総兵員数4,528名のうち、脚気患者は1,485名、32.8%にも上っていました。これではいくら最新鋭の軍艦を揃えても戦えません。京城事変での危機的状況は、今に始まったことではなかったのです。

脚気栄養説の実証実験に使われた軍「筑波」 出展東京慈恵会医科大学

国民病・脚気との闘い

海軍軍医大監に任ぜられると、脚気についての調査に乗り出します。兼寛はその原因として、患者のいない英国海軍ではパンや肉など、たんぱく質の多い食事を摂っていたのと比較して、白米中心の日本食がその原因ではないかと考えたのです。

脚気とは末梢神経に障害を与え、下肢のしびれやマヒを引き起こし、ひどくなると死亡することもある病気です。富国強兵策を唱える明治政府にとって脚気は、兵力安定のための懸案事項のひとつとなっていました。

ちょうどその頃、太平洋横断の練習航海中の軍艦「龍驤」で、376名の乗組員中、169名の重症脚気患者(25名死亡)を発生させ、ハワイのホノルルにたどりつくという事件が発生しました。

龍驤はハワイ停泊中の食事を、米食から肉・野菜に変更したところ患者は快方に向かい、帰国することができました。このことは兼寛の仮説を補強する出来事でした。

脚気栄養説を確信した兼寛は、兵食改善を明治天皇に奏上。練習艦「筑波」に改善食(洋食)を搭載し、龍驤と同じコースをたどらせます。その結果、肉やミルクを嫌った者以外に患者なしという結果が出ました。その後海軍食は、主食をパンから日本人にも食べやすい麦飯に変え、脚気患者が激減します。

一方、ドイツの「研究室医学」が主流の東京大学と陸軍では、衛生学教授の緒方正規が「脚気病菌」の発見を報告したり、ドイツ留学中の軍医・森林太郎(のちの鴎外)が「日本兵食論大意」を著すなど、兼寛の栄養説を批判します。

海軍の栄養説と陸軍の伝染病説とは、長年に渡って論争を繰り広げますが、その結果として、日清戦争での陸軍の脚気患者は34,783名(死亡者3,944名)、日露戦争では実に211,600名の患者が発生し、27,800名もの兵が亡くなりました。一方海軍では、合計で患者約40名、死者は1名と決定的な差が生じます。

このような事実にも関わらず陸軍では、伝染病説を捨てませんでした。

しかしフンクによるビタミンの発見、マッカラムによる脚気予防因子ビタミンBの発見により、栄養説が実証されることになるのです。

 

・・・当時の日本の陸軍と海軍、医学会を二分する論争は夙(つと)に有名です。

細菌説の中心にあって白米供給にこだわっていた森林太郎(鴎外)は、日露戦争後、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と軍医のトップに登りつめました。しかし、同様のキャリアを積んだ人々が男爵、子爵に補せられているのに、森にはついにその声があがりませんでした。

一方、高木兼寛は、東京帝国大学と陸軍からの厳しい敵視を浴びつつも、明治天皇が自分を認めてくれているという事を心の支えに、屈辱に耐えました。そして生前に男爵に補せられ、大正9(1920)年の逝去の日には従二位に叙されました。

彼の業績は欧米では遙かに高い評価を与えられました。コロンビア大学やフィラデルフィア医科大学から名誉学位を送られました。ビタミン発見の歴史において、高木兼寛は先駆的な業績をあげた研究者として顕彰されています。

日清・日露戦争と多くの脚気による死者を出しながらも、保身のために細菌説にこだわった陸軍中枢部に対し、ひたすら兵員の命を救うために、自らの命をも掛けた航海実験を敢行した兼寛に、歴史は最後には正当な評価を与えたのです。

因みに、高木兼寛は医師としての功績のみならず、語学は無論、軍人(海軍軍医総監)、経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)、教育者(成医会講習所など)、政治家(貴族院議員など)、開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)、宗教家などさまざまな顔を持つ、多芸多彩の人であったのです。

東京慈恵会講習所の卒業生に囲まれた兼寛 出展:東京慈恵会医科大学

教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳4

日本の歴史の中でも、江戸幕末から明治維新にかけては約百五十年ほど前の話ですから、現在の私達からすると3〜4世代前の曽祖父かその前の世代の話です。しかしながら、遠い昔のように感じられるのは、その頃の日本人の精神の強さと比し、現在の私達の精神の相対的なひ弱さ故なのでしょうか。

さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳3https://rashinjyuku.com/wp/post-category/schoolmaster/からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.611からの引用です。

何故に井伊大老がこれを死刑にしたかと云えば、井伊は徳川幕府従来の體制(たいせい)を頑固に維持して行こうと考え、家康以来、天下の政治は、朝廷より御委任を受けて、幕府の専決する所であって、國を鎖すか開くかも、將軍の後嗣ぎに誰を選ぶかも、全て幕府の権限に属し、今更朝廷の思召(おぼしめし)をうかがう必要もなければ諸藩の意志を聞こうとは思わない、そして幕府に於いて之を判断する者は、御三家御三卿(ごさんけ・ごさんきょう)でも無ければ、親藩でも無く、將軍の高級幕僚たる溜(たまり)の間詰(まづめ)の譜代大名のうち、選ばれて大老たり、老中たる者に限る、もともと井伊はその高級幕僚の筆頭であり、そして今や大老として將軍代行の地位に在る、井伊を差措(さしお)いて、國家の重大時に嘴(くちばし)をさしはさむ者は、朝廷の重臣であろうとも、御三家であろうとも、その僭越(せんえつ)は咎(とが)められねばならぬ、まして陪臣(ばいしん:江戸時代直臣(じきしん)の旗本・御家人に対し諸大名の家臣)たる者が越権にも何をいうのだ。

かような考(かんがえ)によって、橋本景岳は斬られたのでありました。

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)水野筑後守(みずのちくごのかみ)は之を見て、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と云いました。

人は、それぞれ其の行為の責任を取らなければならないのです。伊井は、また幕府は、やがてその責任を取るでしょう。然しその前に、今一人の惜しむべき犠牲者、吉田松陰に就いて語らねばなりません。

 

・・・ブログの文章にしては、つい長くなってしまう所以(ゆえん:謂れ、理由)が、この平泉澄先生の名調子にあります。

中・高校の教科書にもこのような名調子、博識を披露してもらうようなものがあれば、誰一人授業中に眠るものがいない筈です。

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