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教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳1

前々から是非御紹介したいと考えていた歴史上の人物に橋本景岳(けいがく)という江戸幕末期の俊秀がいます。

橋本景岳 福井市立郷土歴史博物館蔵(島田墨仙作)

当ブログの「教科書に載らない歴史上の人物」シリーズは、有難いことに興味のある方々に読んで頂いている様です。「教科書に載らない歴史上の人物24支倉常長」(https://rashinjyuku.com/wp/?s=教科書に載らない歴史上の人物)を掲載したのが2017年8月27日ですから、久しぶりの掲載記事となります。たびたび引用させていただいている「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.604からの引用です。

安政の大獄に犠牲になった人々、いずれも惜しむべきであります中に、最も惜しい人物が二人あります。それは過去幾百年の間に、會(か)って現れなかった偉大なる人物であり、それより今日に至る百数十年の中にも、まだこれだけの人物は出ていないからであります。

二人とは誰か。

一人は橋本景岳(通稱(つうしょう)左内)、一人は吉田松陰(通稱 寅次郎)、これであります。景岳は安政六年(西暦一八五九年)十月七日殺された時、二十六歳でした。松陰は少し遅れて十月二十七日に斬られましたが、年齢は三十歳でありました。かように若かったのでありますが、その人物識見は抜群であって、眞に天才と云うべきであり、その教えは没後に於いて明治の御代の指針となって来たのでありますから、その概略をお話ししましょう。

・・・平泉澄先生の名調子。これを読むであろう少年達に、湧く湧くする様な期待感を持たせる文章です。

橋本景岳は、天保五年に福井に生まれました。十二歳の時に、藩の儒者吉田東篁(とうこう)に就いて学びましたが、東篁は、山﨑闇斎(やまざきあんさい)、淺見絅斎(あさみけいさい)の系統を受けて、國體(こくたい)の尊嚴(そんげん)を説きましたので、その教えによって愛國の至誠と、慷慨(こうがい)の氣魄(きはく)とは、自然長養せられたと見え、十二歳の少年ながら、深く宋の岳飛(がくひ 注1)の人となりを慕い、自ら景岳という號(ごう:呼び名)をつけました(景は慕うという意味です)。

注1)岳飛=(1103〜1141)支那南宋の武将。一兵卒より湖北一帯を領する軍閥となる。金への抗戦を主張し、和議派の宰相秦檜(しんかい)の讒言により獄死。岳王廟に祀られ民族的英雄として尊崇される。

やがて十五歳の時に、「啓發録(けいはつろく)」を著しました。

それは、

(一)稚心(ちしん)を去る

(二)振氣(しんき)

(三)立志(りっし)

(四)勉學(べんがく)

(五)交友を撰(えら)ぶ

以上五つの綱目(こうもく:物事の大綱と細目)を立てて、少年學に入る心得を書きつらねたものでありますが、進んで他人に示そうとするものでは無く、むしろ自分の志(こころざし)を勵(はげ)ましたものであります。それ故にこれを祕藏(ひぞう)して置きましたが、十年たって安政四年に之を發見した時には、景岳自身も當時(とうじ)の奮勵(ふんれい)、却(かえ)って今日の及ぶ所では無い事を思い、「嗚呼(ああ)十年前すでに彼(か)の如く、而(しか)して今日此(かく)の如し、即(すなは)ち今より十年の後、それはた如何ぞや」と歎(なげ)き、同門の學友は之を見て、「一語半句(いちごはんく)も忠孝節義(ちゅうこうせつぎ)の言に非ざるはなく、感憤激勵(かんぷんげきれい)の氣、勃勃(ぼつぼつ)として其の間に流溢(りゅういつ)し、人をして悚然興起(しょうぜんこうき)せしむ」と感歎(かんたん)したのでありました。

今その「稚心(ちしん)を去る」の條(じょう)より少しく書き抜きましょう。

稚心とは、おさな心と云う事にて、俗にいふわらべしきこと也。(中略)十三、四にも成り、學問に志し候上(そうろううえ)にて、此の心、毛ほどにても殘りこれある時は、何事も上達致さず、迚(とて)も天下の大豪傑と成ることは叶わぬ物にて候(そうろう)。

 

此の啓發録を著した翌年、十六歳にして大阪へ出て、緒方洪庵の門に入り、三年間、蘭學及び西洋醫學を學びました。それは橋本家が藩醫(はんい)であったからであります。ここで西洋醫學も學びましたが、それよりも重大なのは、オランダ語の書物を自由に讀(よ)む力を得て、西洋の歴史、地理、政治、経済、化學、兵學等、あらゆる部門にわたり、西洋の文明に觸(ふ)れ、之を吸収し得た事であります。

やがて十八歳の冬、父の病氣によって家に歸(かえ)り、翌年父が亡くなったので、後をついで藩醫となりましたが、二十一歳江戸へ出て杉田成卿(せいけい)の門に學びました。

大阪の緒方、江戸の杉田は、當時(とうじ)蘭學界最高の権威であったのです。此の江戸留學二年あまりの間に、天下の名士に會ってその精神をみがく事が出来ましたが、景岳が特に敬服したのは、水戸の藤田東湖(とうこ)でありました。景岳は實(じつ)に此の東湖を通じて水戸學の感化影響を受けたのです。

・・・現在の日本では考えられないほど、己の持つ力を何に活かすべきかを真剣に追求した先人が数多(あまた)存在するのが本来の日本です。道を求める人に、啓発する何かを与え得る思想家が、現在の日本にはどれ程存在するのでしょうか。

安政二年二十二歳の時に、福井藩は景岳の職分を、醫員より轉(てん)じて、政治に當らしめる事としましたが、それはやがて此の人に大事を擔當(たんとう)させる爲(ため)でありました。安政三年四月、藩は景岳を抜擢(ばってき)しようとして歸國(きこく)を命じました。これに對して景岳の答えた所は、要領をまとめますと、次の通りです。

國是(こくぜ)決定の爲に歸れとの御命令でありますが、「元來(がんらい)皇國(こうこく)は、異邦と違い、革命と申す亂習惡風(らんしゅうあくふう)これ無き事故(ことゆえ)」今日といえども、神武天皇の御遺訓(ごいくん)を守る外はありません。その御遺訓は、「人、忠義を重んじ、士、武道を尚(たっと)ぶ」此の二箇絛(にかじょう)、皇國の皇國たる所」であって、之を支那や西洋に比較するに、優劣は雲泥の相違であります。決して支那を慕うに及ばず、オランダを真似る必要もありません。もし此の大方針御確定の上、その實現(じつげん)の爲に御つかい下さるのであれば、卽日出發歸藩(そくじつしゅっぱつきはん)いたしますが、根本がきまらず、議論で日を暮らし、あとは嘆息している程度でありますならば、私だけは御はぶき下されたい。

是が二十三歳の青年、抜擢の内命を受けた際の返答でありました。藩當局は之を諒承し、景岳を主任として、教育の改革を斷行させました。越前では、水戸の學校弘道館を模範として、明道館を創立しましたが、景岳によって西洋の學問を取り入れた事が、明道館の特色となっています。

 

・・・現在の福井県、旧越前藩の教育にかける熱の一端が残っているので、全国の学力テストの上位県となっているのでは、と思います。義務教育の小・中学校での教育は、江戸期からの藩校の流れがある地域では、熱心です。戦後の悪しき日本語、歴史教育が蔓延した結果、国語力や読解力の低下が起きていると痛感します。

・・・続く

 

小学校受験後の親御さんの配慮

受験後の穏やかな日々が続いているときに、旧暦のお正月前に隣国Chinaからおどろおどろしいコロナウィルス蔓延のニュースが伝えられ、日本にも感染者が出て大変な状況になっています。塾生のご家族にも筆者から注意を喚起するお知らせをいたしています。

日本人は一般的に、最悪のケースを想定して準備をするという習い性を持つ方が比較的少ないように思いますが、子供さんを持つご家庭は「万一」の際の対応を常々考えておく必要があります。

さて、小学校受験を子供さんと共に経た親御さんは、その後の子供さんの成長にどのような配慮をなさっているでしょうか。

一般的には、これまで頑張ってきたから子供さんにゆっくりさせてあげたいし、親御さん自身もひと段落なのでゆっくりしたい、というのが実情と思います。無論、受験準備に相当力を注いで来たような場合は、そう考えることに理解は出来ます。

しかし、少し視点を変えると、折角「学び」の習慣が付いてきている訳ですから、それを活かさない手はないと言えます。

つまり、受験準備の内容と質が、単に受験し合格する為だけのものか否かです。

受験する訳ですから、合格を目指すのは当然ですが、合格の先にある小学校入学後の「学び」にsmooth(スムーズ)に繋げていくことが肝要です。

例えば、机に座る、話を良く聞く、質問に応える、指示に従って行動する、等々は、小学校に進学してからも、必要最低限できて当然のことです。

当塾では、小学校受験を経た塾生には、具体的に日々為すことがありますので、二時間しっかりと学び続けていきます。

posted by at 15:09  | 塾長ブログ

言葉の豊富な子供に

謹賀新年 

令和二年庚子(かのえ・ね)元旦 

干支(えと)の十二支勢揃い 中心が本年の子

長崎大学教育学部附属小学校受験まであと僅か。新暦でのお正月を迎え、氣持ちも新たに羅針塾学習塾・幼児教室では、正月特訓中です。幸い、温かな新春の日差しの中で、元氣に御挨拶から始まります。

防府天満宮の臥牛(レプリカ) 牛は天神さまのお使いとされ、臥牛が天神さまの鎮まる場所を表すシンボルとなっています。

塾生の中には、帰宅する際に必ず上掲の臥牛の頭を撫ぜていくものもあり、学問の神様菅原道眞公に肖(あやか)ろうと言う塾生の素直な氣持ちの表れといえます。

因みに、学問の神様菅原道眞公は全国的には、終焉(しゅうえん)の地である福岡県太宰府市の天満宮や京都市の北野天満宮が有名ですが、日本最初の天神様は山口県防府市の防府天満宮です。

防府天満宮http://www.hofutenmangu.or.jp/nenkan.htmlnのサイトから引用してご紹介します。

防府天満宮の御祭神は菅原道眞公。

平安の古、菅原家は学者の家として栄えておられました。その家柄の中で道真公は菅原是善の子として、承和12年(845)6月25日にお誕生になり、幼名を「阿呼」(あこ)と申されました。幼少より学問に優れ、僅か5歳の時、庭に咲いている梅を愛でられ、

「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」

とお詠みになりました。

その後、18歳で文章生、33歳で文章博士になられ学識を高めていかれる一方で、誠実な政治感覚により時の帝の信任も篤く、高位高官へ昇られ、55歳の時に右大臣に任じられました。しかし時の権力者である藤原氏による讒言により無実の罪を着せられ、昌泰4年(901)1月25日、九州大宰府へ左遷されることになりました。その際御自宅の紅梅殿の庭にて

「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

と和歌を詠まれて、永く親しまれた梅の花に別れをお告げになりました。

左遷より2年の月日が経った延喜3年(903)2月25日大宰府にて無念の思いのまま薨去されました。そこで亡骸を牛車にお乗せし引かせたところ牛が伏せて動かなくなりました。人々は「きっとここに葬って欲しい」という道真公のお気持ちの表れであると思い、その地(今の太宰府天満宮)に葬りました。

薨去後、都では天変地異が続き左遷に関わった者達が次々に亡くなりました。人々は道真公の怨霊の仕業に違いないと畏れ、御霊魂をお慰めするため京都の地(今の北野天満宮)に神としてお祀りしました。
道真公と梅と牛にまつわる伝承は数多くあり、そのことから全国の天満宮では境内に梅が咲き誇り、牛は天神さまのお使いとされ、臥牛が天神さまの鎮まる場所を表すシンボルとなっています。

日本最初の天神様と銘記されているのが下掲の写真です。

銘は「扶桑菅廟最初」とあります(筆者撮影)。

防府天満宮は日本で最初に創建された天神さまです。

道真公は、九州大宰府への西下の途中、時の周防国(山口県)国司である土師氏(道真公と同族)を頼り、本州最後の寄港地となる防府の勝間の浦に御着船になり、「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」(解釈:この港を出発すれば次はいよいよ九州であるが、この防府の地は天皇のいらっしゃる京の都とまだ地続きである。願わくはここ松崎の地に住まいを構え「無実の知らせ」を待っていたい。) と願い九州へと旅立たれました。

大宰府にて薨去されたちょうどその日、防府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司を始め里人たちは道真公の御霊魂が光となり雲となって「此地」に帰ってこられたと悟り、翌年の延喜4年(904)道真公の願われた通り、御霊魂の「居」を「この所」である松崎の地に建立して「松崎の社」と号しました。

道真公をお祀りした神社は全国に約1万2千社ありますが、当宮創建をもって「扶桑菅廟最初」日本で最初に創建された天神さまと称しています。

 

・・・就学前とはいえ、言葉の豊富な子供さんは、理解する力がありますから、指示行動も過たずに出来ます。そうでない場合は、本人も親御さんも一苦労も二苦労もすることになります。語彙力の差は、本試験の際に応用力となってあらわれます。

posted by at 14:39  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

小学校受験の動機付け

受験の時節到来で、大学受験を始め高校・中学・小学校と様々な段階での挑戦が始まっています。

戦後約70年六・三・三制が始まって以来の、いつの時代も変わらぬ風景ですが、受験に臨むためには、何よりも「何の為に」受験をするか、が大事です。特に、小学校受験では、子供さん達には、親御さんが理解力に応じて得心出来る様にしてあげる必要があります。

但し、

その為に、まずお親御さんが(基本的には母さん方)が「何の為に」受験をさせるのか、をしっかり認識しておかなければなりません。

ご両親と同世代の周囲の友人・知人達や、身内の子供達の祖父母や親類等、様々な提言・意見があることでしょう。どれも良かれと思っての助言です。

両親の意見が一致し、家族一丸で取り組める体制を作ることが出来れば一番です。

ところが、意外に難しいのが、両親の育った環境や教育に対する考え方の違いがある場合です。それは、父親と母親のそのまたご両親の考え方が反映されるからです。

幸いにも、日本のお母さん方は子供さん達の受験の決定権をお持ちの場合が殆どです。何故なら、子供が生誕し、授乳から始まり子育てのほぼ全てを担っているから、父親が口出し出来る場面は無いとも言えるからです。

事実上、お母さんが子供さんの受験を主導するのであれば、母子で受験を乗り越えていかなければなりません。

その為には、お母さんが「何の為に」受験をさせるのか、の動機について自問自答する必要があります。

 

・・・筆者は、様々なご家庭の事情や、お母さんの願いをお聞きして、より良く子供さんを導くためのヒントを差し上げることが出来れば、受験の成果を出すことができると考えます。

posted by at 13:28  | 塾長ブログ

賢い子供にする親の力

様々な年代の子供さん達と接していると、その子の成長の為に家庭的な教育的背景が大きな力を持つことに氣づかされます。子供さんには、父母がありますが、そのまた父母、つまり父方・母方の祖父母があります。当然ですが、そのまた先祖となると、所謂(いわゆる)家系的に、子弟教育に対する熱意の濃淡が子供達にも投影されている様に思います。

子供の教育には、長い年月に亘る精神的・経済的な支援が必要です。歴史を振り返ると、日本人は他の民族と比較しても、子供を大事にするが故に、教育には熱心な民族といえます。日本が島国という恵まれた環境であり、地続きの国々と比べると、侵略される可能性は相対的に低いわけですから、長い年月に渡って、家系をつなぐことが出来ています。それ故に、言語も漢字は取り入れましたが、大和言葉を連綿とつないでいくことが出来ました。

有名な「最後の授業」(アルフォンス・ドーデの短編小説「月曜物語」の一編)には、国語を維持することの意義を示しています。

「最後の授業」のあらすじ(ウキペディアから引用https://ja.wikipedia.org/wiki/最後の授業

ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」。これを聞いたフランツ少年は激しい衝撃を受け、今日はいっそ学校をさぼろうかと考えていた自分を深く恥じる。

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

・・・筆者は、小学校の教科書で「最後の授業」を学び、子供心に戦争で負けると教科書や言葉も変わるのだ、と強烈な印象を持ったことを覚えています。

さて、子供の教育です。

私達のご先祖は、幾多の困難を乗り越えながら、私達に生命を繋ぎ、教育も繋いできています。親御さん方が、今ある自分の境遇を考え、親や祖父母、そのまた先のご先祖様方に想いを馳せると、自らの子供を如何により良く育てていかなければならないか、が見えてきます。

塾生に、分かる限り家系図を調べてみたら、自分のこれからの志を見つけることができると思います、と伝えたことがあります。

そうすると、何かを感じた塾生は早速取り組みました。夏休みの宿題の一環として、家系図を作成したり、親御さんに質問したり・・・すると、将来の目標として、四代目を継ぎたいという塾生もあらわれました。

やはり、自分のルーツ(root:根、〔~s〕(人などの)根っこ、出身、出自、祖先)の一端が分かると、自分も次に繋げていく存在であることに氣付かされます。

結局、これが子供さんの強く学びたいという動機付け(motivation:自発性、積極性、動機を与えること)になります。つまり、親御さん方自身が、御両親や御祖父母のことを理解し、尊敬することが、子供さんの学ぶ意欲を増す原動力になっていくのです。

 

posted by at 22:36  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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