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教科書に乗らない歴史上の事実 5 「三種の神器」

塾生には幼児さんに限らず、児童・生徒に常識として知っておくべき様々な質問をします。常識(ある社会で、人々の間で広く承認され、当然持っているはずの知識や判断力)の有る無しは、社会人になる為に最低限持っておくべき素養とも言えます。これは、日頃から家庭で身に付けさせることとして、日本人なら代々、祖母から母、母から娘(息子)へと継承されてきたものです。

筆者は幼児期に母から敬語の用い方を学んだ記憶があります。どういう時に、どのような人に、どのような場面で用いるか。更に、最高敬語として「陛下」「行幸」「崩御」なども教えられました。当然、音の「へいか」「ぎょうこう」「ほうぎょ」で記憶し、のちに長じて改めて辞書で再確認しました。不思議なもので、歳を経るごとに様々な言葉が蘇ります。

さて、度々引用させていただく「国際派日本人養成講座」からのご紹介です。

国柄探訪:「三種の神器」が示す「和の国」ぶり http://blog.jog-net.jp/201908/article_3.html

   国柄探訪:「三種の神器」が示す「和の国」ぶり

 我が国の「和の国」ぶりは、すでに神話の中で示されている。

■1.遠い神代につながる三種の神器の由来

 本年5月1日午前10時30分、新帝陛下が皇位の証(あかし)として三種の神器を引き継がれる「剣璽等承継の儀」が執り行われた。

 完全な沈黙の中で、三種の神器のうち草薙太刀(くさなぎのたち)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、および、国璽(国家の印章)と御璽(天皇の印章)が御前の白木の台に置かれ、その後、陛下の御退出と共に、それらも運び出される、という5分程度の簡素な儀式である。

 勾玉を璽とも呼び、国璽・御璽を含めて、「剣璽等」と呼ばれる。三種の神器のもう一つは八咫鏡(やたのかがみ)だが、これは宮中三殿の賢所の御神体であるため、動かされない。

 いずれにせよ、剣璽とも箱に収められ、布に包まれていて、天皇ですら、その中をご覧になる事ができない、という神秘的なものである。

 三種の神器の由来を辿ると、それは我が国の遠い神代に繋がっていく。

 まず八咫鏡と八尺瓊勾玉(数多くの勾玉を長い緒に貫き通した玉飾り)は、古事記によれば、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が弟・速須佐之男命(はやすさのをのみこと)の乱行に責任を感じて天の岩屋に閉じこもってしまわれた際に、榊(さかき)にかけて大御神を引き出す際に使われた。

 また、草薙大刀は高天原を追放された速須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際に尾から出てきたもので、天照大神に献上されたものである。

 後に、天照大御神が皇孫・天津日高日子番能瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと、「天の高い所からにぎわしい恵みをゆきわたらせる日のみ子」)を葦原中国(あしはらのなかつくに)に下される時に、これら「三種の神器」を授けられたのである。

・・・因みに、筆者は幼児期に絵本で速須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した話を読み、更に小学校六年生の学芸会で速須佐之男命役として八岐大蛇を退治し、草薙大刀を頭上に掲げた記憶があります(最近の公立小学校で学芸会の演目に神話が上がることはないのではないかと思いますが・・・)。

■2.三種の神器は「和の国」を作るための三大原則を示している

 そもそも大御神が葦原中国に皇孫を差し向けたのは、「道速振(ちはやぶ)る荒振(あらぶ)る国つ神等(ども)が多(あま)た居(あ)る」(勢いはげしく、荒ぶる国つ神たちが大勢いる)」状態なのを、何とか平和に治めたいとの願いからである。

 田中英道・東北大学名誉教授の画期的な学説によれば、縄文時代には温暖な気候のもとで、日本列島の人口はほとんどが関東・東北に住んでいた。高天原とは当時の東日本に存在していた「日高見国(ひだかみこく)」であったとする。それが紀元前10世紀頃からの気候の寒冷化によって、人口が南下し、また大陸・半島からの難民・移民も増えて、西日本が不安定になった。

 天孫降臨の目的とは、この不安定となった西日本に「和」をもたらす事であった。その際に大御神が与えた三種の神器は、どのように「和の国」を作るべきかが示されている。

 まず、八咫鏡に関しては、大御神は次のように言われている。

__________
此の鏡は、専(もは)ら我が御魂と為(し)て、吾が前を拝(をろが)むが如く、いつき奉れ」(この鏡はひたすら私の御魂として、私を祭るように祭り仕えなさい)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 統治者は鏡に自分の心を映して、そこに和を希求する大御神の御心を継承しているか、私心で曇らされていないかを省みよ、との教えであろう。

 第二の八尺瓊勾玉は、すべての人はこの玉飾りのように一つの命で結ばれている事を暗示し、その平等観、同胞感をもって民を大切にせよ、という事のようだ。

 第三の草薙太刀は、八岐大蛇など、この世の和を乱す者と戦う勇気の象徴である。

 三種の神器こそは、天照大神が地上において「和の国」を建てるために示された原則であり、それを継承して代々「和の国」を統治されてきたのが歴代天皇である、という事になる。

■3.「清明心」が「和の国」の基盤

「和」との関連から、三種の神器の指し示す所を掘り下げてみよう。まず、鏡の象徴する「無私の心」。和を実現するには、一人ひとりが私心による心の曇りがないか、よく省みなければならない。

 現代の我々も、例えば電車の中で目の前に杖をついたお年寄りが立っているのに席を譲らないでいたら、心が落ち着かない。そんな時、思い切って席を譲ったら、清々しい心持ちになる。

 身を守る牙も爪もない人間は共同体を作って、互いに助け合うことで生き延びてきた。その過程で、共同体を保つための利他心を本能として発達させた。電車の中で席を譲ることで心が晴れ晴れとする、というのは、利他心という本能を満足させた快感なのである。

 そういう人間心理を観察力豊かな我々の先祖はよく知っていて、利他心に満ちた心を「清明心(きよくあかき心)」と呼んで大切にした。それは共同体を築き、維持するための原動力である。鏡が象徴する清明心こそ、「和の国」を成り立たせる基盤なのだ。

 後に聖徳太子が十七条憲法で「和を以(もっ)て貴(たふと)しと為」すとの理想を掲げられたが、それは単に「仲良くすることが大事だ」という次元の「お説教」ではない。「和」とは共同体の各人が「背私向公(私に背いて公に向かう)」、すなわち私心に「背い」て、「公」すなわち共同体のために心を向ける、という姿勢によって築かれるものだ、と説かれたのである。

 この「背私向公」が、戦時中に唱えられた「滅私奉公」とは全く異なる点に留意したい。「和の国」は「私」のないロボットによって成り立つ全体主義社会ではない。「私心」は人間の性(さが)として滅ぼせないものだ。しかし、各自が鏡に映った自分の姿を見て「私に背いて公に向かう」処に、清明心が広がり、互いに信じ合い、助け合う「和の国」が成り立つのである。

・・・利他心に満ちた心を「清明心(きよくあかき心)」と呼ぶ。この意味合いを、幼い頃から知ることが出来れば、「世の為、人の為」に学ぶ意義を見出していくのではないでしょうか。

■4.勾玉の示す平等感、同胞感

 第二の勾玉(まがたま)はおたまじゃくしのような不思議な形をしているが、それは胎児の形を模したものという説がある。たしかに、[1]での比較写真を見れば、勾玉は胎児のレントゲン写真と区別がつかないほど、そっくりである。その勾玉が緒でつながっているということは、それぞれの命が、「神の分け命」であることを象徴しているようだ。

 こういう生命観は、人間は男女や階級に関わらず、生まれながらに平等な同胞である、という人間観をもたらす。万葉集で天皇から農民、兵士に至るまで社会的地位や貧富に関係なく、真心の籠もった歌を集めているのは、こういう平等感、同胞感の表れだろう。「和の国」の民は、こういう平等感、同胞感で結ばれていなければならない。

 ここで留意すべきは、同胞感といっても、同じ大和民族の中だけに留まらない点だ。たとえば、百済からの帰化人・王仁(わに、中国系という説も根強いが)の次の歌は『古今集』の仮名書きの序文で紹介されている。

難波津(なにはず)に咲くやこの花ふゆごもり今は春べと吹くやこの花
(難波津に吹く木の花よ。長い冬ごもりが終つて、さあ春が来たぞとばかりに、あのやうに盛んに咲く木の花よ)

 この歌が「歌の父母のやうに」手習う人のはじめに習うべき教材とされている事からも、当時の人々の間では外国人という差別意識はなかったと思われる。

 この歌は、仁徳天皇が即位前にその弟君と皇位を譲り合って3年間も経ってしまった際に、弟君の学問の師として呼ばれた王仁が、仁徳天皇に即位を勧められた歌であるという。王仁に私心があれば、自分が教えている弟君を推したであろうが、この歌には仁徳天皇に「さあ、ご即位なされよ」と呼びかけられた清々しい心が感じられる。

 外つ国に生まれた人でも、清明心をもって公のために尽くそうとする人々は、同胞感をもって迎えられたのである。

■5.草薙太刀による「言向け和す」

 第三の草薙太刀はどうだろうか。まず確認すべきは、この剣は由来からして「防衛的」だ、という事である。前述のように、この太刀は速須佐之男命が退治した八岐大蛇の尻尾から出てきた。命が大蛇を退治したのは、8人の乙女のうち7人まで食べられてしまって最後に残された櫛名田姫(くしなだひめ)を救うためだった。

 また、後にこの太刀は第12代景行天皇の皇子・倭建命(やまとたけるのみこと)が東征をされた折り、相模の国で火攻めにあった際に、草を刈り払って、向かい火をつけて身を守った時にも使われた。これが草薙太刀の名前の由来となっている。

 景行天皇は倭建命に次のように命ぜられていた。

__________
 東の方の十二(とをあまりふたつ)の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等(ひとびと)とを言向(ことむ)け和(やわ)し平らげよ。
(東の方にある十二の国の荒れすさぶ神と、服従しない者たちとを説得し、平らかにせよ)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 小学館『全文全訳古語辞典』によれば、「言向く」は「言葉を用いて服従させる。説得して従わせる」、「やわす」は「和らげる。平定する。帰順させる」とある。すなわち、争いに明け暮れている地方豪族たちに、大和朝廷に帰順して平和に暮らすよう説得する事である。

「言向け」や「言向け和す」は古事記の中に何度も使われている。そもそも天照大神も葦原中国の平定を任すべき神を問いて「何れの神を使はしてか言趣(ことむ)けむ」と神々に相談された。その後、任務を果たした建御雷神(たけみかづちのかみ)は、「葦原中国を言向け和し平らげつる状(かたち)」を復奏している。

各地で相争う地方豪族たちに、平和的に国家建設に参加せよと勧めるのが日本神話で語られたアプローチであった。戦って相手を降伏させたのでは、相手は恨みを抱き、その結果、清明心をもって「和の国」に参加する事にはならない。

 しかし、説得に応ぜすに、戦い続ける相手、あるいは「和の国」を害そうとする相手とは、剣をもって戦わなければならない。「和の国」は「非武装平和」では建設も維持もできないのである。

・・・我が国の歴史を他の国の歴史と比較した場合、「説得に応ぜすに、戦い続ける相手、あるいは「和の国」を害そうとする相手とは、剣をもって戦わなければならない。」という国柄の日本とは異なるように思います。それは、歴史を遡ってみると、古事記の神話に言う大國主の命の「国譲り」に由来があるようです。

大国主命(ウィキペディア掲載写真)

■6.「うしはく」と「知らす」の違い

 葦原中国平定の任務を果たすために、建御雷神はその地を支配する大国主命(おほくにぬしのみこと)に対して、こう問いただした。

__________
 汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国と言依(ことよ)し賜ひき。故(かれ)、汝が心は、奈何に。
(お前が領有する葦原中国は、わが御子の治められる国であると(天照大神は)ご委任なさった。そこで、お前の心はどうか。)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大国主命が「うしはける」葦原中国は、我が御子の「知らさむ」国であるという。この「うしはく」と「知らす」の違いは何か。

 明治帝国憲法の起草者の一人、井上毅(こわし)は、記紀を研究する過程で、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」が使われ、大国主神や一般の豪族たちの場合は、「うしはく」が使われていて、厳密な区別がなされていることを発見した。

 ここに日本国家の根本原理があると、井上は確信した。「しらす」とは「知る」を語源としており、民の喜びや悲しみ、願いを知ることである。それは民の安寧を祈る無私の心につながる。

 それに対して、「うしはく」は「自分の財産として領有する」という意味であり、中国の皇帝や欧州の王のように民を財産として、支配する事を指す。それは私心に基づく支配である。

「知らす」こそ「和の国」の統治原理を示した言葉なのである。国家の中心に無私の心をもって、民の幸せを祈る中核があることが、「和の国」の原理である。その無私の祈りが国民に伝播して、国民がそれぞれの立場で公のために尽くしていく。そこに「和の国」の美しさと勁(つよ)さがある。

■7.「八百万の神、天の安の河原に神集い集いて」

 鏡に象徴される清明心、勾玉の平等感・同胞感、剣の「言向け和す」、それらによる統治原理としての「知らす」。「和の国」の根底にあるのは、人間を心ある存在として捉え、その心が活き活きと働いて、自立的主体的に共同体を支える姿である。

 そこには民を家畜のように領有する専制皇帝や、人民をロボットのように支配する独裁者の姿はない。この「和の国」の形は、現代の自由民主主義に通ずる。現代の民主主義は、古代ギリシャ、ローマ、ゲルマンの「民会」に起源を有するようだが、それに酷似した光景が日本神話にも出てくる。

 たとえば、速須佐之男命の悪行に責任を感じて、天照大神が天の岩屋に閉じこもってしまわれた際には、「是を以(も)ちて、八百万の神、天の安の河原に神集い集いて(それですべての神々が天の安の河原に集り)」、どうしたら良いかを相談したのだった。しかも、その際は、思金神(おもいかねのかみ)に案を出させている。まさに間接民主主義である。

 無事に天照大神を天の岩屋から引きずりだした後も、「八百万の神、共に議(はか)りて」(すべての神々は一緒に相談して)、速須佐之男命を追放処分にすることを決めている。

 このように「和の国」の伝統的な統治形態は自由民主主義に酷似している。明治維新に際し、五箇条の御誓文を出して、第一条に「広ク会議ヲ興(おこ)シ、万機公論二決スベシ」と宣言したのも、この伝統があったからだろう。

 我が国の「和の国」ぶりは、以上述べたように神話時代からの生命観、人間観、社会観に根ざしているのである。

 

・・・伊勢雅臣氏主宰のブログ「国際派日本人養成講座」は、様々な視点から世の人を啓蒙する記事を掲載されています。

posted by at 12:05  | 塾長ブログ

間違いから学習する能力

「失敗は成功の基(元)」の類義語は、「しくじるは稽古のため」「七転び八起き」「失敗は成功の母」「失敗は成功を教える」「禍を転じて福と為す」と、数々あります。

英語では、Failure teaches success.(失敗が成功を教える) He that never did one thing ill can never do it well.(一度も失敗を経験したことの無い者は成功できない)等があります。

これらの警句は、古今東西を問わず、人は失敗や間違いを犯すものである、失敗をしない者はいないということから、それをどのように生かすか、に力点が置かれています。

Twitterの記事に、面白いものを見つけました。

「より速く適切に学べる人、その理由:ほめ方の研究」https://wired.jp/2011/10/18/「より速く適切に学べる人」:その理由/

引用してご紹介します。

間違いから学習する能力の高い人は、そうでない人とは異なる脳の反応を示す。そして、生徒の知性をほめた時と、努力をほめた時の影響の違いは驚くほど大きい。

物理学者のニールス・ボーアは、専門家とは「非常に狭い範囲で、生じうる間違いのすべてを経験した人」だと定義した。この警句は、学習というものの重要な教訓をまとめている。つまり、人は何度も何度も間違いをおかすことで、正しいやり方を学ぶということだ。教育とは、数々の間違いから搾り取られた知恵のことなのだ。

(中略)

スタンフォード大学の心理学者キャロル・ドゥエック氏は、知能に対する人間の姿勢(マインドセット)を2種類に分けている。

ひとつは、「自分の知能レベルはこのくらいであり、ほとんど変えることはできない」という固定的な姿勢(fixed mindset)、もうひとつは、「必要な時間とエネルギーさえ費やせば、ほぼどんな能力も伸ばすことができる」という成長志向の姿勢(growth mindset)だ。固定的な姿勢をもつ人は、間違いを「ぶざまな失敗」とみなし、与えられた課題に対して自分に十分な能力がない証拠だと考える。一方、成長志向の姿勢をもつ人は、間違いを、知識を得るために必要な前段階、学びの原動力ととらえる。

・・・興味深い研究の詳細は、上記サイトでお読みください。

よくある単純な「褒めて伸ばす」教育に対する反論となる研究ですが、「褒め方」にも工夫が要るということです。

生徒の「賢さ」をほめることの問題は、教育というものの心理学的なリアリティを誤った形で示すことにある。それは、「間違いから学ぶ」という最も有益な学習活動を避けさせてしまう。間違いをおかすことで生じる不愉快な反応を経験しない限り、われわれの脳が既存のモデルを修正することはない。いつまでも同じ間違いをおかし、自信を傷つけないために、自らを成長させる機会を逃し続けるのだ。

サミュエル・ベケットは適切にもこう言っていた。「試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。もう一度試せ。もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ」

 

・・・幼児期から、失敗を恐れず、学ぶことの大事さを身に付けることが出来れば、マインドセット(「気持ちの持ち方」、「信念」に近いもの)は、能力は努力次第で伸びるという「成長志向の姿勢(grouth mindset)となります。

その為には、親御さん自身が子供さんに対し「成長志向の姿勢(grouth mindset)を示し続ける必要があります。正に、死ぬまで前向きに歩む気持ちと姿勢を保つことが肝要です。

posted by at 12:23  | 塾長ブログ

学力テストから見る英語教育の問題点

 毎年実施される全国学力テスト。各都道府県で小学校や中学校の学習の充実度を見る指標として筆者も毎年注目しています。教育現場の先生方は、常に創意工夫しながら児童生徒の学力向上を目指されているはずです。その意味でも、学力テストの結果は先生方の切磋琢磨の励みとなれば何よりです。

さて、国立教育政策研究所のホームページに平成31年度(令和元年度) 「全国学力・学習状況調査 報告書」

https://www.nier.go.jp/19chousakekkahoukoku/report/19middle/19meng/が有ります。詳細且つ克明に解答の分析がされています。

教科に関する調査の各問題の分析結果と課題」(2)中学校英語https://www.nier.go.jp/19chousakekkahoukoku/report/data/19meng_04.pdf 

から、当該英語の学力テストの出題の趣旨を抜き書きしてみました。「聞くこと,読むこと,書くこと」(大問題1〜10)「話すこと」(大問題1〜3)について(詳細は当該ホームページをご参照ください)。

出題の趣旨

◎聞くこと,読むこと,書くこと

1 英語を聞いて情報の詳細を理解することができるかどうかをみる。

2  まとまりのある英語を聞いて,話の概要を理解することができるかどうかをみる

まとまりのある英語を聞いて,必要な情報を理解することができるかどうかをみる。

聞いて把握した内容について,適切に応じることができるかどうかをみる。

英語を読んで情報の詳細を理解することができるかどうかをみる。

まとまりのある文章を読んで,話のあらすじを理解することができるかどうかをみる。

まとまりのある文章を読んで,説明文の大切な部分を理解することができるかどうかを みる。

書かれた内容に対して,自分の考えを示すことができるよう,話の内容や書き手の意見 などをとらえることができるかどうかをみる。

英語の基本的な語や文法事項等を理解して,正しく文を書くことができるかどうかをみ る。

10 与えられたテーマについて考えを整理し,文と文のつながりなどに注意してまとまりの ある文章を書くことができるかどうかをみる。

◎話すこと

基本的な表現を理解して正しく応答する

即興でやり取りをする

まとまりのある内容を話す

・・・英語の4技能「聞くこと,読むこと,書くこと」「話すこと」について、上記の「出題の趣旨」は、そのまんま母語である我が国の言葉で適切に応えることが出来ますか、ということです(強調!)。

幼い時から、日々言葉を覚え、文法を踏まえた用い方を習うことから始まって、正しく「聞く,読む,書く」「話す」を訓練しない限り、日本人としての「国語力」は身につきません。

それが出来て初めて外国語(英語など)に取り組まなければならないにも関わらず、早々と小学校に来年度から英語が教科となって導入されます。文部科学省のなんと誤った英語教育の施策でしょうか。同様に憂えるのは、英語を熟知したほど多いように感じます。

以下の産経新聞(2019.8.5)社説も早期の英語教育の愚を指摘しています。https://www.sankei.com/column/news/190805/clm1908050003-n1.html

主張】英語の学力テスト 「話す」土台の国語鍛えよ

 「話す」のが苦手で、基本的な文法も身についていない。全国学力テストで中学3年を対象に英語が初めて行われ、課題が明らかになった。

 基礎を大切にコミュニケーション能力の向上を図る、文部科学省のかけ声とは正反対の結果である。指導態勢などの厳しい検証が必要だろう。

 中3生は、小学校で英語に親しむ「外国語活動」の授業が導入された世代だ。

 ところが、英語の平均正答率をみると、「聞く」(68・3%)▽「読む」(56・2%)▽「書く」(46・4%)▽「話す」(30・8%)で、思うように会話力がついていないことが分かった。

 2人の会話のやりとりを踏まえ関連した質問を考える問いでは、正答率が1割台と低かった。将来の夢などを話す問題も、正答率は4割台にとどまった。

 さらに気がかりなのは「書く」などの分野で、三人称単数現在形(三単現)の動詞を間違える生徒が目立つなど基本的な文法が身についていない懸念があることだ。「話す」力の育成もうまくいかず基礎も身についていなければ、虻蜂(あぶはち)取らずの結果である。

 文科省は、英語教育の早期化に舵(かじ)を切り、来年度からは小学校で英語が教科となる。だが早くから学べば英語が話せるようになると思うのは安易だ。日々使う環境がなければ英語はすぐに忘れ、身につかないことは専門家も指摘している。授業時間が限られた学校教育では、まず基礎の習得に重きを置くことを明確にすべきだ。

文章の空欄に接続詞を入れる問いでは、「but」が正解なのに「because」と答えた生徒が目立った。そもそも、文章を理解する国語力に課題があるのではないか。

 コミュニケーションの基礎となるのは、相手の言葉をよく聞き、理解する読解力だ。これを支えるのは国語力である。あらゆる教科につながる知的基盤だ。それは日頃からの読書などを含め培われるものだ。英語早期化を焦り国語力育成が忘れられては困る。

 学力テストと合わせて行われた生活などの調査の分析から、新聞を読む習慣のある子供の方が、国語、算数・数学、英語とも正答率が高い傾向が顕著に出た。新聞は日々さまざまな情報を分かりやすくまとめる工夫をしている。学力向上に活用してほしい。

 

・・・「英語早期化を焦り国語力育成」を閑却(かんきゃく:いい加減にしておくこと)すると、一部の「できる」児童生徒とほとんどの「できない」児童生徒に分化すると愚考します。

それへの対策は、小学校の英語教育が始まる前に、日本語の語彙力をつけ、正しく「聞く,読む,書く」「話す」を訓練をすることです。

posted by at 12:45  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

創造力の発露1

羅針塾では夏期講習の真っ盛りです。

塾生は夫々の課題をこなしつつ、音読、漢字の意味調べなど共通の課題にも取り組みます。塾生の個性を顧慮しつつ、学ぶべきことはしっかり身に付けていきます。

八月に入り、二十四節気は「大暑(たいしょ)土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)」です。文字通り、一年で一番暑さの厳しく感じられる頃です。

第三十五候「土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)」・・・地面から陽炎が立ち上り、土いきれで吸う息も熱く感じられます。この暑さを人は冷たいもので暑気払いをしたり行水や打ち水でやり過ごすしかありません。木や草花はますます緑を濃くし、枝を伸ばし葉を広げて夏を謳歌するかのようです。田畑では熱い太陽の恵みを享受し、実りの秋に向け各種の作物がすくすく育っていきます。

田畑の作物と同じように、子供たちも暑い夏でもすくすく育ちます。大人がげんなりする日の光にも負けることはありません。

空調が効いている教室では、論語カルタや尻取りも全員参加。息抜きをしつつ効率的に学んでいきます。

夏休みのニュー・カマー「エジプトの猫」

 

・・・上記写真の小2塾生作品は、発想や創造力に富みます。ご両親が子育てを楽しみ、本人もドンドン力をつけています。家の中は作品で溢れているとか。その一端を、お披露目です。

posted by at 17:13  | 塾長ブログ

3歳児の教育

県外から3歳児をお持ちの若いお母さんが、幼児期の教育についてお尋ねに当塾に来られました。

切っ掛けは、お母さんのお父様。日頃、日本の教育に危機感を抱いている熱血漢。お孫さんである3歳児を連れて、田植えから始まり、稲の収穫まで、米作りの実際を一緒に体験されておられます。また、ご自分や、お母さんとお孫さんの祖先につながる郷土史の研究にも取り組まれています。

子供さんのこれからの教育について、何故強い関心をお持ちになられたか、をお尋ねしました。

お母さんは、

「自分が成長するにつれて、選択をしなければならない時に、選択肢が限られていた自分を振り返り、子供にはそのような思いをさせたくない」、と。

幼児期の教育が如何に大切であるか、について縷縷(るる:細々(こまごま)と)お話をし、質問も頂きました。

幼児教育の大切さを日頃お話ししている当塾の基本的な考え方や、幼児教育の基本、お母様方の取り組み、家族の協力、等々、結局二時間強お話致しました。

一芸に秀でる人を育てるには、三代(親・子・孫)かかるとよく言われるように、教育も同様です。

お母さんが身籠った時から始まり、1歳児、2歳児、3歳児と、心や思いを込めて育て上げていくことが肝要です。自我が芽生える幼少期の教育は、純粋無垢の真っ白なキャンバスに絵を描いていくようなものです。極言すれば、お母さん次第。出産の苦労を乗り越えた母性を持つ母親だけが、愛すべき子供さんを叱咤激励しながら、一廉(ひとかど:他よりも一際優れていること)の人物にすることが出来ます。

 

 

posted by at 14:38  | 塾長ブログ
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