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「大学入学共通テスト」の英語で導入される民間検定試験

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室 羅針塾 https://rashinjyuku.com/wp では、日々、塾生に国語力をつける工夫を重ねています。何事を学ぶにしても、母国語をしっかり身につけなければなりません。何より、日本語は世界を見回しても比類のない語彙の豊富な言語です。知的レベルを上げるのには、これを活用しない手はありません。

さて、大学入試改革の中で「読む・聞く・書く・話す」の4技能を測る民間検定試験の導入に、冷水をかけるかのような、否、拙速な導入に冷静さを取り戻すべきだと言わんばかりの記事が目に入りました。

産経新聞(2018.9.26 )からの引用です。http://www.sankei.com/life/news/180926/lif1809260029-n1.html

東大、民間英語試験の成績を出願要件必須とせず 調査書に英語力記入で代用も可

東京大学は26日、平成32年度からの「大学入学共通テスト」の英語で導入される民間検定試験について、初年度の入試では受験生に成績提出を義務付けないとの基本方針を公表した。「公平・公正と実施の観点から、受験生が安心して受けられる体制が整っているとはいえない」ことが理由。文部科学省や大学入試センターの入試制度全体への責任体制に見通しが立ったとして出願要件の選択肢の一つに採用するが、高校の調査書などで一定の英語力が証明されれば出願可能とした。

 さらに、事故や病気など何らかの事情がある場合は、受験生が理由書を提出すれば出願を認める。3つの資料のいずれかの提出を求めるが、合否判定には用いないとしている。東大が民間検定試験の成績提出を必須としないと決めたことで、他大学に影響を与える可能性がある。

 東大によると、受験生に求める具体的な英語力の基準は、語学力の国際標準規格「CEFR(セファール)」で下から2番目の「A2」(英検で準2~2級相当のスコア)レベル以上。高校での成績評価で同等の英語力があるとみなされれば、民間検定試験の成績がなくても出願資格を認める。

 東大は3月、民間検定試験を合否判定に使わない意向を表明したが、4月末には一転して活用の方向と発表。しかし、その後も家計や居住地域で受験機会が左右されるとの懸念が指摘されるなど、意見が統一できなかった。

 共通テストの英語は最初の4年間、従来型のマークシート式試験と、「読む・聞く・書く・話す」の4技能を測る民間検定試験が併存。大学入試センターは今年3月、英検(新方式)など7団体の8種類を認定した。

・・・管見では、英語の民間検定試験の成績を出願要件(必須)とすることに反対です。何故なら、受験生が通常の受験勉強以外に、英語の民間検定試験を受けるのは負担が大きいからです。当然、受検費用も馬鹿になりません。また、大都市と地方を比較しても、受検会場にばらつきがあり、受検機会の公平性の観点からも問題があります。

そもそも大学入試センター試験のような選択肢問題を受験生に課すこと自体に筆者は否定的です。前身の共通一次試験が導入される前の、各大学が独自問題を作成し、大学の個性が表れる入試が本来あるべき姿のように思います。どの科目であれ、記述問題や論文問題をしっかり課すことにより、受験生の本当の力を見極めることが出来ます。受験生は、それを乗り越える力を身に付けなければ、本当の学力はつきません。

大学の先生方が、学生の力が落ちているとよく言われます。これは、考える暇を与えず、第一関門のセンター試験の選択肢問題をテクニックで解く訓練を高校や予備校でひたすらせざるを得ない状況を作り出した入試制度が一因ではないかと思います。

posted by at 14:34  | 塾長ブログ

世界最古の土器

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室 羅針塾 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生との何気ない会話の中でも論理的に話すことの大事さを伝えていきたいと考えています。

さて、日本の素晴らしさを伝える「国際派日本人養成講座」(http://blog.jog-net.jp)からの引用です。

「なぜ世界最古の土器が日本列島から出土するのか?」http://blog.jog-net.jp/201809/article_1.html

1万年以上も自然と共生し、平和が続いた縄文時代は「文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間」だった。

■1.日本列島から出土した世界最古の土器の一つ

 東京・上野の国立博物館での縄文展を見た。大変な人気である。特に中国やメソポタミアなどの土器との比較もできるようになっていて、縄文時代の火炎土器は年代もはるかに古いのに、立体的な造形美は比較にならないほど美しかった。また、細かい縄紋、すなわち縄目の模様の精巧さにも驚かされた。

 現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。

 世界の他の地域では、南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。

 従来の歴史では、メソポタミア、エジプト、インダス、中国が世界の「4大文明」であり、日本は文明を中国から教わった後進地域だった、と教わった。近年の考古学はその歴史観を覆しつつある。しかし、なぜユーラシア大陸の東端にある日本列島で、世界最古の土器が出てくるのだろうか?

■2.縄文人たちの「持続可能な開発」

 従来の文明観では、石器時代の人類は狩猟・採集による移動生活を送っていたが、約1万2千年前くらいから、世界の各地で農耕と牧畜を始めてようやく定住生活ができるようになり、そこから文明が始まったというものだった。

 この文明観から完全にはみ出しているのが、1万5千年前くらいから始まった日本の縄文時代だった。そこで我々の先人たちは狩猟や採集のまま定住生活を始めたのである。

 日本列島を巡る海では寒流と暖流がぶつかり合って世界有数の漁場をなし、豊かな森林からは木の実やキノコなどがとれた。さらにイノシシやシカ、ウサギなどの動物も豊富だった。こうした自然の恵みで、縄文人は農耕や牧畜をしなくとも、四季折々の豊かな食物に恵まれていたのである。

 一般に、農耕・牧畜は狩猟・採集よりは進んだ文明段階であると考えられているが、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の黄河流域がみな砂漠化している事を考えれば、農耕・牧畜が自然破壊を伴っていることがよく分かる。

 森を切り開いて畑にすれば、樹木がなくなってやがて表面の土壌が失われてしまう(水田は別だが)。牧畜でも家畜が草の芽まで食べてしまうので、植生が失われ、土壌が劣化する。それに比べれば、縄文人たちは1万年以上もこの日本列島で暮らし、しかも豊かな自然を残してくれたのである。

 近年、国連が「持続可能な開発」(Sustainable Development) という概念を打ち出したが、縄文人たちの生活はまさにそのお手本なのである。

■3.数百種類の食材を、旬を考えながら採っていた

 縄文人たちは自然の恵みをただ受けとっていたのではない。それぞれの品目ごとに「旬」を知って採っていたようだ。

 シジミやハマグリは貝の断面の成長線を調べると、全体の70%は4月から6月にかけて食べていたことが分かった。現代の潮干狩りと同様で、この時期がもっとも脂がのっているからである。同じくイワシ、ニシンも春に盛りを迎える。夏はアジ、サバ、クロダイ、秋はサケ、ブリ等々。同時にクリ、クルミ、シイ、トチなどの木の実のシーズンとなる。

 冬になると、脂肪を蓄えたキジ、ヤマドリ、カモ、イノシシ、シカ狩り。年を越すとワラビ、クズ、セリ、ゼンマイなどの若葉、若芽が採れる。縄文遺跡の食料の残滓から獣60種類以上、魚70種類以上、貝350種類以上が遺されている。これに木の実や野菜、果物、キノコなどが加わる。[2, 963]

 今日の日本料理が多種多様な食材を、それも「旬」を考えて出すのは世界の料理の中でもユニークな特色だが、それは縄文時代から続いている伝統だろう。

 この数百種類の食材に対して、どれが食べられるのか、どこで採れるのか、いつが旬なのか、どう料理するのかを縄文人たちは考えながら、食べていた。一口に狩猟・採集とは言っても、麦だけを植え、牛だけを育てる農耕・牧畜よりは、複雑な知識を使っていたのである。

■4.定住と知識・技術の進化

 縄文人の食の多様性をさらに大きく広げたのが土器だった。土器による煮炊きによって、木の実のアクを抜き、植物の根や茎を柔らかくして食べやすくし、魚や獣の肉の腐敗を防げるようになった。土器は保存容器としても、通気性や通水性によって表面の水分が気化して低温を保つので、食物の長期間保存を可能とした。

 縄文人たちは定住することで、大きな重い土器を作り、使う事ができるようになった。一定の場所から粘土を見つけ、それを形にし、火で焼くという作業は定住していなければできない。

 また、定住生活では身体の弱ったお年寄りも脱落することなく、その経験や知識を次の世代に伝える事ができる。それによって様々な食材を食べられるかどうか判別し、いつどこで採ったら良いかを考える、という知識と経験の積み重ねが容易になった。土器の発達も、定住生活ができるようになったから加速しただろう。

 定住が土器を発達させ、食材に関する知識を蓄積できるようにした。逆に土器と食材に関する知識が定住を可能とさせた。この定住と技術・知識の蓄積は、車の両輪として暮らしの進歩をもたらしたようだ。

■5.縄文人の円の思想

 こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現している。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。

__________
 夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものはすべて精霊が宿っている。人間もその一部である。その精霊の命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。

 森を切り払って畑にしたり、牛のための牧草地にしてしまう農耕・牧畜の民よりも、はるかにエコロジカルな世界観である。1万年以上もの間、自然と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。

 自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っていると小林達雄・國學院大學名誉教授は指摘する。日本語は擬音語、擬声語が豊かなのが特徴だ。川が「さらさら」流れる、風が「そよそよ」吹く、などである。小林教授はこう語る。

__________
 風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない。ささやいているのです。
 どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです。音ではなくて「声」です。・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 縄文人は、人間同士で互いに語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである。

特別展「縄文―1万年の美の鼓動」(東京国立博物館

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1906

・・・小中学校で学ぶ日本の歴史は、縄文時代がどれほど素晴らしい時代であったか、を示していません。様々な研究によって、日本の縄文時代が世界の四大文明よりも古い時代に、豊かで文化的であったことが判り始めています。私達の遠い先祖が、どれほど豊かな食生活をしていたのか。「数百種類の食材を、旬を考えながら採っていた」という指摘には、現在の和食の起源をみる思いがします。

縄文時代のわたくし達のご先祖様が、自然を大事にして食生活を営んでいたグルメだと考えると豊かな気持ちになってきます。

posted by at 08:50  | 塾長ブログ

子弟教育 松陰先生の言葉 4

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室 羅針塾 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生に学校の先生のお話をしっかり聴くことが大事であると常々話します。先生の言葉の一言一句を聞き漏らさず再現できることが、賢くなることの基本です。

 

さて、

一般社団法人 萩ものがたり出版の「萩ものがたり」vol.5 「松陰先生のことばーいまに伝わる志」(萩市立明倫小学校監修)からのご紹介です。一年生三首の次は、二年生です。

「松陰先生のことばーいまに伝わる志」P.10  二年生一学期

万巻の 書を読むに あらざるよりは いずくんぞ 千秋の人たるをえん

ーーー多くの本を読み、勉強しなければ、どうして名を残すような立派な人間になることができようか、しっかり勉強しなさい。(全集第六巻P145「松陰詩稿」松下村塾聯 松陰読本P50)

「松陰詩稿」に収められた「丙辰秋冬稿」(安政三年(一八五四)秋冬)の「松下村塾聯」の前半部分、松陰二十七歳の時のことば。

全文は「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致を得ん」(原文は漢文)。

 松陰の学問態度を簡潔に表したこの句は、松陰自ら筆をとり、久保五郎左衛門が彫って、聯(れん:左右の柱に対句を分けてかける柱かけ)にして松下村塾に掲げられていた。聯の材料は久保家の屋敷に生えていた孟宗竹である。ただし聯の方は「寧」が「安」になっているが、意味は変わらない。

・・・分野を問わず、「万巻の書」(多くの書物)を読み学ぶことは、いつの時代も立派な人になる為の変わらない基本です。活版印刷が普及する前の江戸期までは、貴重な書物は高価であり、学ぶ意欲のある人物は必要に応じて筆写を懸命にしていました。吉田松陰も諸国を行脚しながら、長崎の平戸に来た際には、まず葉山左内の門を叩いて儒学をより深め、その後山鹿高紹について兵学を学びました。五十日余り滞在して数多くの書物を書き写したといわれています。

posted by at 01:37  | 塾長ブログ

子弟教育 松陰先生の言葉 3

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室 羅針塾 https://rashinjyuku.com/wp では、幼いときから人の話をしっかりと聴く姿勢を身に付けるべきであると考えています。話す人の目をしっかりと見る。当然、大人もしっかりと子供の目を見る。「目は口ほどに物を言う」とは、至言です。「喜怒哀楽を表す目付きは、言葉で説明するのと同じように、相手に気持ちが伝わるものである」ということですね。

さて、

一般社団法人 萩ものがたり出版の「萩ものがたり」vol.5 「松陰先生のことばーいまに伝わる志」(萩市立明倫小学校監修)からのご紹介です。

「松陰先生のことばーいまに伝わる志」P.40  一年生三学期

『親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん』

ーーー子供が親を慕う心持ちよりも、親が子を愛する親心は、どれほどまさったものであろう。死なねばならぬ私の便りを知って故郷の両親は、どんなに悲しむことであろう。(全集第八巻P418「松陰詩稿」彦介の元服を祝す 松陰読本P70)

安政六年(一八五九)十月二十日、江戸伝馬町の獄中より、萩の父杉百合之助・叔父玉木文之進・兄杉梅太郎にあてた書簡より。処刑一週間前のもので、「永訣の書」と呼ばれる。松陰三十歳の時のことば。「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず。非常の変に立ち到り申し候。嘸々御愁傷も遊ばざるべく推察仕り候」と書き出し、この和歌を続ける。

同年七月九日、九月五日、十月五日の評定所での松蔭の取り調べで、奉行の態度は穏やかだった。当初は死を決意した松陰だったが、他家預けか国元送りで済むのではと楽観視するようになる。ところが十月十六日の最後の審判で奉行の態度は一変して厳しくなったため、松陰は死を決意し、この手紙を書いたのだ。

・・・幼いときより、厳しく躾けられ、懸命に学問をしてきた松陰は、誠意と熱意の人です。「嘸々」とは、嘸(さぞ)、「直接見聞していない他人の心中・状態についてこうに違いないと思いやる意を表す。きっと。さだめし。さぞや。」の意。

「親思う心にまさる親心」と、よく聞かされた言葉です。その意味合いをわかる頃には、親が年老いたり、亡くなってしまっていることがあります。子を思う情の深さが濃いのが日本人の親なのです。

尚、吉田松陰の実母が杉瀧子です。→教科書に載らない歴史上の人物 7 杉 瀧子https://rashinjyuku.com/wp/post-137/

 

posted by at 08:40  | 塾長ブログ

子弟教育 松陰先生の言葉 2

長崎市五島町にある学習塾・幼児教室 羅針塾 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生に、「学ぶことの意義」を理解することが、成績向上のポイントであることを伝えます。年齢に応じて「学ぶことの意義」は変わります。物事の意味合いを理解する為には、「語彙力」の多寡が大きく影響します。

さて、

一般社団法人 萩ものがたり出版の「萩ものがたり」vol.5 「松陰先生のことばーいまに伝わる志」(萩市立明倫小学校監修)からのご紹介です。

「松陰先生のことばーいまに伝わる志」P.24  一年生二学期

『世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤(しず)が誠は神ぞ知るらん』

ーーー(海外渡航の企てについて)世間の人は、私のとった行動をよくないという人もいるだろうが、私の国を思う真心は神だけが知っているだろう。(全集第九巻P396「松陰詩稿」彦介の元服を祝す 松陰読本P78)

 安政元年(1854)三月、伊豆下田よりアメリカ密航を企てた前後の模様を日記体に記した「回顧録」より。「回顧録」は翌二年三月から八月までの間に、萩の野山獄中で当時を回顧しつつ著した。この歌は「下田にて読み侍りし」の題のもとに記されているので、密航失敗直後、下田の獄で詠んだもの。よって松陰二十五歳の時のことば。

 信念を持って行動したことは、現時点では理解されなくても、後世必ずや歴史が評価してくれるとの思いが伝わる。

 坂本龍馬は「世の人は われをなにとも いはばいへ わがなすことは われのみぞしる」、高杉晋作は「西へ行く 人を慕ひて 東行く 心の底ぞ 神や知るらむ」と詠んだが、この松陰の和歌に通じるものが多い。

・・・因みに「賤が誠」の「賤」は、位卑しい(くらいがひくい)、卑(いやし)き人と謙遜した表現です。

萩市立明倫小学校の一年生は、二学期からこの松陰先生の言葉を毎日朗唱します。基本的には、字句の解釈はしないで、朗唱をすることが基本だと思われます。年齢の如何を問わず、毎日繰り返すことは、子供の心に染み渡ります。長じて、朗唱していた言葉の意味合いが、ふと分かる時が来ることでしょう。その時に、朗唱を勧めていた先生方の顔も思い浮かぶのではないでしょうか。

posted by at 10:23  | 塾長ブログ
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