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子供の食事作りと教育

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、社会の様々な意見や考え方に、子育てや教育に関する卓見(非常に優れた意見・見識)を見出して、当ブログでご紹介できればと考えています。

日々の生活の中で、子育て、躾、教育を家事とともに同時進行でなしているお母さん方に、一つのヒントとなる人生相談が目に付きました。

「山本一力の人生相談」(産経新聞 2018.5.6  http://www.sankei.com/life/news/180506/lif1805060010-n1.html)を引用してご紹介します。

子供の食事作り・・・完璧であるべきか

相談

 「食育」に厳しい祖母に育てられました。献立は必ず一汁三菜、おみそ汁の具材は3種以上、1日30品目を摂取といったルールを厳しく守る人でした。バランスの取れた食生活のおかげで私は健康に育ちました。しかし、このルールが呪縛のように感じるときがあります。私も3歳の娘のために毎日食事を作りますが、祖母のようにできないと、自分が手抜きをしているように感じてしまうのです。

 専業主婦だった祖母と違い、私はフルタイム正社員。必死に献立を作っても、子供は食が細く、「こんなのイヤ」と言ったり、買ってきた総菜や弁当を喜んだり。むなしい気持ちになり、イライラを子供にぶつけてしまうこともあります。食事作りに時間を割くより、遊んだり絵本を読んでやったり、子供との時間に使った方がいいのではないかとも思います。祖母の食事の再現にこだわるのはただの自己満足なのでしょうか。(神奈川県 30代女性)

 

山本一力氏

回答

 ひとはだれしもが、おいしい記憶を持っていると思う。

 食べることに始まり、食べられなくなったときに土に返るのが、ひとの一生だろう。

 もしも誕生直後の記憶を呼び起こすことができるなら。

 初めての、あのおちちの美味(おいし)さこそが、おいしい記憶の始まりではなかろうか。

 前置きが長くなった。

 あなたはひとも羨(うらや)む、幸せな記憶の持ち主だ。

 ていねいに毎食を調理してくれたおばあちゃんが、身近にいたからだ。

 おいしい記憶を1200字で綴(つづ)るエッセーコンテストが、今年で10年目となった。

 回を重ねても投稿数が減らない最大の理由は、百人百様の「おいしい記憶」があるからだろう。

 あなたが作る料理は、多品種である必要などない。

 多忙で手が回らなかったときは、炊きたてご飯に生卵をぶっかけた「たまごご飯」でいいじゃないか。

 作らなければ、ではない。

 作れるときに作ればいい。

大事なことは、一緒に食卓につくこと。

 なにを食べたかよりも、そのときの親の表情、会話が一番の滋養となるものだ。

 食育に厳しい祖母。

 そのおばあちゃんから、いかほど多くの「おいしい記憶」を、あなたはもらえたか。記憶を作るために、時間の遡行(そこう)はできない。こども時分の思い出は、そのときにしか作れない。

 新人賞に投稿を続けていた当時、カミさんは鮮魚屋さんで「魚のあら」ばかり買っていた。破格値で買えたから。

 かぶと煮が定番料理だったことで、こどもたちは器用な箸つかいを覚えた。いまも魚の食べ方が上手だと褒められる。

 料理は愛情。これは事実だ。

 こどもは知らぬところであなたを慕い、思い出を作る。

回答者

 山本一力 作家。69歳。平成9年『蒼龍』でオール読物新人賞を受賞しデビュー。14年『あかね空』で直木賞受賞。近著に『ジョン・マン6順風編』(講談社)、『牛天神 損料屋喜八郎始末控え』(文芸春秋)。

・・・含蓄を含んだ回答です。

読後、様々な母親の表情が脳裏に浮かんで来るのは筆者だけでしょうか。人それぞれ母親の思い出があります。食事を準備する母親の後姿、俎板で鳴る包丁の音、御飯が炊けた香り、味噌汁の匂い、等々。子供の頃の記憶はふとした時に蘇ります。子育てに一所懸命なのはどのお母さんも同じ。それは子供心に伝わります。子供は幼くとも母親の一挙手一投足や表情を母親の想像以上に気しています。お母さんに余裕がなく、しかめっ面をしていたら、不安が募ります。お母さんが笑顔でいてくれると、不安は吹き飛び思わず笑顔が出てきます。お母さんが、かって自分の子供の頃に感じていたように。

まさに、食事作りや躾や教育も基本は変わりません。「病める時も、健やかなる時も」変わらずに明るく、前向きなお母さんの表情や言葉が、子供を元気付けてくれます。

posted by at 04:18  | 塾長ブログ

子供達の為に日本を学ぶ 平仮名の歴史

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、幼児期に文字の形をしっかりと覚えることが大事であると考えています。日本語は、片仮名、平仮名、漢字の組み合わせでできています。表音文字の片仮名、平仮名。表音並びに表意文字である漢字を巧みに使うことの出来る民族は世界でも稀有な存在です。

平仮名の成り立ちについて、その意義を歴史を踏まえ丁寧に説明して下さっている書物からのご紹介です。平泉澄著「少年日本史」http://shuppan.kogakkan-u.ac.jp/book/detail/225からの引用です。

平泉澄著「少年日本史」

・・・此の好著は、「少年日本史」(昭和四十五年初版)として子供向けに書かれた日本通史です。総ルビとは言え、現在の高校生レベル以上の日本史の知識、及び豊富な語彙力がなければ内容を理解することは難しいかもしれません。しかし、平泉先生のような方から、此のような日本の歴史や文化、文学的な観点からのお話を伺えれば子供達も幸せではないでしょうか。そこで、原著通り「旧漢字、仮名遣い」のまま(一部変換できない漢字もありますが)ご紹介します。

二四 平假名

(中略)

是(これ)まで我(わ)が國(くに)には獨自(どくじ)の文字は無く、字といえば漢字でありました。ところがその漢字を利用するのに、日本獨特(どくとく)、の方法を用いました。卽(すなは)ち漢字を、支那風(しなふう)に音で讀(よ)む事もありますが、その外(ほか)に今一つ訓(くん)で讀(よ)み、音(おん)と訓(くん)とを自由自在(じゆうじざい)、に使いこなして来たのです。たとえば、「音」という字、「オン」とよめば音讀(おんどく)、「おと」とよめば訓讀(くんどく)です。「山」という字、「サン」とよめば音讀(おんどく)、「やま」とよめば訓讀(くんどく)です。かように音と訓とを自由に使いこなして、支那(しな)の古典(こてん)も、日本風に讀みました。例えば文選(もんぜん)という古い書物を見ても、

「泊湘」を「ささらなみ」とよみ、

「閻閭」を「さとのかど」とよんだのです。

また土佐日記(とさにっき)を見ると、

「棹穿波上月」を、「さをはうがつなみのうへのつき」と読んだとありますし、江談抄(ごうだんしょう)を見ると、

「二月三月日遅々」を、「きさらぎ。やよひ、ひうらうら」と讀むのだとあります。

一層(いっそう)、面白(おもしろ)いのは、音讀(おんどく)と訓讀(くんどく)とを二重(にじゅう)にする讀(よ)み方です。

煙霞(えんか)子細(しさい)とこまやかに、泉石(せんせき)分明(ぶんめい)とあきらかなり、

というのが、その一例で、「仔細」を一度は「シサイ」と音讀(おんどく)した後、も一度「こまやかに」と訓讀(くんどく)しているでしょう。

以上は漢學(かんがく)、詩文(しぶん)の例ですが、佛教(ぶっきょう)の経文(きょうもん)も同様に、音(おん)で読むときは音で讀(よ)みますが、その外(ほか)に訓(くん)で讀(よ)む事も要求せられていました。延暦(えんりゃく)二十五年正月、朝廷(ちょうてい)の規定(きてい)に、僧侶(そうりょ)は、法華経(ほけきょう)と金光明経(こんこうみょうきょう)とを、漢音(かんおん)でも讀(よ)めば、訓でも讀(よ)まねばならぬと定(さだ)めてあります。そこで例(たと)えば法華経(ほけきょう)は、音讀(おんどく)の外に、

そのとき摩訶(まか)伽葉(かせふ)および諸々の大弟子につげたまはく、よきかな、よきかな、伽葉(かせふ)。

と訓讀(くんどく)もしたのです。

このように訓讀はしたものの、假名が無いのですから、その讀み方を覚え、之を傳(つた)えるという事は、大變(たいへん)むつかしく、いろいろ難儀(なんぎ)したでしょう。そこでヲコト點(てん)という事が始まりました。是は、人によって違い、寺によって別々ですが、漢字の周圍(まわり)にいくつか點(てん)を打って、どこに點(てん)があれば、どう讀むという約束を立てたのです。そして大抵は「何」の字の右の肩に點(てん)があれば、「何を」とよみ、右側の中程に點(てん)があれば、「何すること」とよむのです。このような點(てん)をテニハ點(てん)とも云いました。

そのような工夫をこらしても、問題はやはり残り、何か書くのに漢字だけで國語をあらわそうとすれば、古事記(こじき)や日本書紀(にほんしょき)、萬葉集(万葉集)などのように、苦労(くろう)をしなければなりません。

ますらをの 行くといふ道ぞ

おほろかに おもひて行くな

ますらをのとも(九七四)

(勇士の行く道であるぞ、いい加減に考えて、氣樂に、ぞんざいに、行ってはいけないぞ、勇氣ある人々よ)

という歌を作っても、之(これ)を文字に書くとなれば、萬葉人(まんようじん)は、

大夫之 去跡云道會 凡可爾

念而行勿 大夫之伴

と書かねばならなかったのです。これでは書くにも一苦労(ひとくろう)、讀むにはまた大變(たいへん)な苦労、下手をすれば、讀みちがえをするでしょう。

 

そこへ平假名が發明(はつめい)せられたのです。これは漢字を草書體(そうしょたい)で書いているうちに、段々(だんだん)簡単な形となり、また自然に一定の形に落ち着いて出来て来たのです。

 

いー以から、ロー呂から、はー波から、にー仁から、

ほー保から、へー部から、とー止から、ちー知から、

りー利から、ぬー奴から、るー留から、をー遠から、

わー和から、かー加から、よー與から、たー太から、

れー禮から、そー曾から、つー川から、ねー禰から、

なー奈から、らー良から、むー武から、うー宇から、

ゐー爲から、のー乃から、おー於から、くー久から、

やー也から、まー末から、けー計から、ふー不から、

こー己から、えー衣から、てー天から、あー安から、

さー左から、きー幾から、ゆー由から、めー女から、

みー美から、しー之から、ゑー惠から、ひー比から、

もー毛から、せー世から、すー寸から、

 

そして是等の平假名を一つにまとめて覺えさせたものに、古くは「あめつちほしそらやまかはみねたにくもきり」とつづけたものも、ある事はありましたが、結局は「いろは歌」が決定的なものとして勝ちを占め、千年の壽命(じゅみょう)を保って、今日に至っているのです。

 

その「いろは歌」は、誰によって作られたものであるか、不幸にして明瞭ではありません。然しそれは非常な英才でなければ、作れるものではありますまい。すべて四十七字あって、しかも一字も重複していない事を、必要とするのですから、只単語を並べるだけでも、すでにむつかしい作業であるのに、それに意味をもたせて、韻律(いんりつ(リズム))をつけて、假名の手本であると同時に、立派な詩とした手際(てぎわ)は、凡人ではありますまい。

 

色(いろ)は匂’にほ)へど 散(ち)りぬるを

我(わ)が世(よ)誰(たれ)ぞ 常(つね)ならむ

有爲(うゐ)の奥山(おくやま) 今日(けふ)越(こ)えて

淺(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ 醉(ゑひ)もせず

詩の内容から見れば、明瞭(めいりょう)に佛教(ぶっきょう)の思想ですから、僧侶が作ったものとして良いでしょう。僧侶の中でも、よほどの英才(えいさい)で、才氣(さいき)かがやき、詩情溢(しじょうあふ)るる人でなければなりますまい。大江匡房(おおえのまさふさ)は、今より九百年ばかり前の人で、當時(とうじ)第一流の學者として尊敬(そんけい)せられ、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)も、就(つ)いて教(おしえ)を受けた碩學(せきがく)ですが、その大江匡房は「源信(げんしん)僧都(そうず)が、『いろは歌を作られたのは弘法大師(こうぼうだいし)である』といわれた」と人に語っています。源信は空海(くうかい)とは反對(はんたい)に、叡山(えいざん)の名僧ですから、「いろは歌は弘法大師の作」と、叡山でも認めていたことが分かります。然し空海と源信とでは、その間に百数十年のへだたりがあるので、之を決定的な證據(しょうこ)とは出来ませんが、大江匡房といい、源信といい、いずれも第一流の學者が、「いろは歌は弘法大師の作られたもの」と信じていた事は確かです。

 

それに今一つ、證據(しょうこ)として良いものが、凌雲集(りょううんしゅう)という古い漢詩集(かんししゅう)にあります。それは弘仁(こうにん)五年(西暦八一四年)に作られたもので、従って空海の生きているうちのものです。仲雄王(なかおおう)が、空海を閑静(かんせい)、な寺に訪ねて、その人柄(ひとがら)と功績(こうせき)とに感激して作った詩の中に、「字母(じぼ)、三乗(さんじょう)を弘(ひろ)め、眞言(しんごん)、四句(しく)を演(の)ぶ」とあります。その四句は、「いろは歌」をさすものと判斷せられますから、「いろは歌」は、空海の作で、しかも弘仁五年より前(そして大同元年歸朝(きちょう)以後)に出来たものと考えられます。

空海には、いろいろと、功績が澤山(たくさん)ありますが、然(しか)し萬人(ばんにん)がその恩惠(おんけい)にあずかり、千年を經(へ)て盡(つ)きないものは、此の「いろは歌」を作ったという事でしょう。

・・・如何でしょうか。  此の様なお話を幼い頃から聞いて育っていると、その時には分からずとも、必ず長じれば得心すること請け合いです。日本人は古来から曾祖父母、祖父母、父母。また、先学(学問上の先輩)、先生から、連綿と文化・文学・歴史を習い覚えてきた民族です。その素晴らしい伝統を受け継ぐべきではないでしょうか。

posted by at 19:31  | 塾長ブログ

大学入学共通テスト 全国立大学が外部の資格・検定試験を併用

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の長所・短所を見極めながら、より良く学ぶ力をつけて欲しいと念願しています。

さて、新聞紙上では大学入試改革の記事がしばしば紹介されています。子供を持つお母さん方も将来の我が子の姿と重ね合わせて、大学入試の先行きを意識せざるを得ません。産経新聞(2018.4.30)からのご紹介です(http://www.sankei.com/life/news/180430/lif1804300001-n1.html)。

 

全国立大で検定と記述式を活用へ 共通テスト

 2021年1月から大学入試センター試験に代わって実施される「大学入学共通テスト」では、国語と数学に記述式問題を導入するとともに、英語では筆記とリスニングの他、「聞く・読む・話す・書く」の4技能をすべて評価するため、大学入試センターが認定した外部の資格・検定試験(受験の年の4~12月に2回まで)を併用することになっています。

結果をどう活用するかは各大学に委ねられていますが、国立大学協会(国大協)は、一般選抜で両方を全受験生に課すとするガイドラインを策定しました。他の公私立大学にも、大きな影響を与えるものと見られます。

記述式は一般選抜の全受験生に

ガイドラインでは、まず資格・検定試験について、5教科7科目と同様、一般選抜の全受験生に課すことを確認。

具体的には、(1)一定水準以上の認定試験の結果を出願資格とする(2)CEFRによる対照表に基づき新テストの英語試験の得点に加点し、点数等の具体的な設定は各大学・学部等が主体的に定める…のいずれか、または両方を組み合わせて活用するとしています。

CEFRとは、「ヨーロッパ言語共通参照枠」のことです。外国語を教えたり学んだりする際にどれだけ使える力があるかを、A1~C2の6段階で示したものです。Aは「基礎段階の言語使用者」、Bは「自立した言語使用者」、Cは「熟練した言語使用者」で、それぞれ1が下位、2が上位です。中央教育審議会は、2022年度までに中学校卒業段階でA1レベル相当以上、高校卒業段階でA2レベル相当(英検準2級等)以上を達成した生徒の割合を50%以上にすることを国の目標に盛り込むよう答申をまとめています。資格・検定試験のスコアを文部科学省が作成したCEFRと対照させることで、受験生がいろいろな資格・検定試験を受けていても、同一基準での活用が可能になるわけです。

一方、国語の記述式問題は段階別で成績が表示されますが、国立大学ではこれを点数化し、マークシート式の得点に加点することを基本にするとしています。数学はもともとマークシート式問題と一体で出題されるため、同センターの配点に従います。

入学後にも必要な能力

ところで国大協の方針をめぐっては以前、資格・検定試験の配点を最大でも1割弱にするとの一部報道がありました。しかし最終的には先に見た通り、各大学の判断に委ねられています。

東京大学は、福田裕穂副学長(入試担当)が3月の記者会見で、資格・検定試験のスコア提出は求めるものの、合否判定には使わない考えを表明していました。ただ、これは国大協がガイドラインを公表する前です。

その東大も、4月から学生の「国際総合力」を伸長させるため、認定制度「Go Global Gateway」を始めました。五つの要素で構成される国際総合力の第1には「コミュニケーション能力」を挙げています。資格・検定試験で問われる4技能が、たとえ入試段階ではそれほど評価されなかったとしても、入学後に必要になってくることは間違いありません。

記述式も、大学教育で求められる思考力・判断力・表現力が備わっているかどうかを測るものです。配点などに惑わされず、今からしっかりと高校の授業で取り組みたいものです。

・・・結局のところ、各大学は優秀な学生を集める為に様々苦悩をしているわけですから、入試改革の一環として資格・検定試験を導入するとしても、それが優秀な学生を見極める物差しになるかは未知数です。子供を育てる親の立場からすると、常に制度は変わるものと達観して、幼児期から「考える力」「聞く力」「伝える力」を如何に涵養(かんよう:水が自然にしみ込む様に、少しずつ養い育てること)していくか、です。

posted by at 07:44  | 塾長ブログ

母の味 Audrey at Home Memories of My Mother’s Kitchen

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、4、5月の連休中も通常通り「学び」に勤しんでいます。

さて、かって子供であった全ての人はお母さんの手作りの料理、所謂「御袋の味」を懐かしむことがあると思います。人間の五感は時として一瞬にしてタイムスリップさせるかのようなことを惹起します。その中でも、嗅覚は格別で「懐かしさ」とともに蘇る印象は鮮烈です。その香りや匂いは、幼児期なのか、少年少女期かを問わず、母親の後姿や声音までも思い出させてくれます。

オードリー at Home

ネットで見つけた書物は、筆者の興味を引きました。「永遠の銀幕スター」(古色蒼然たる表現ですが・・・)Audrey Hepburn(オードリー・ヘプバーン)の、息子さんが著した書物。「オードリー at Home](原題:Audrey at Home Memories of My Mother’s Kitchen-With Recipes,Photographs and Personal Stories )です。

映画が好きで美味しいものが好きな方必見。

キャッチ・コピーは、

今なお世界を魅了し続ける女優オードリー・ヘプバーンが愛したものに思いを巡らせ、息子ルカ・ドッティが語る母の生涯。彼女の最愛の子ども達、友人、動物達と過ごした日々を、50種類のお気に入りのレシピと250枚以上の家族写真、思い出の品、プライベートなエピソードの数々で描き出す。真のオードリーの家庭の姿がこの一冊に。

オードリーと母エラ・ファン・ヘームストラ男爵夫人

 

パスタ・アル・ポモドーロが大好きなオードリー

 

posted by at 02:12  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 19

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、穀雨(二十四節気の一つ)の「霜止出苗(しもやんでなえいずる)」の時期に因んだわけでは有りませんが、プランターの花々の植え替えをしました。早く来た塾生にも手伝って貰い、根切り虫を土壌の中から駆除。花の苗の成長を見守ります。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

 Choshu and Satsuma Domains’ bid to expel the barbarians

In 1863 (Bunkyu 3), the shogunate succumbed to pressure from the Imperial Court and asked that all domains take measures to drive away foreigners. Choshu Domain eagerly embraced this call to arms, only to find itself confronted the very next year by a punitive expedition of American, British, French, and Dutch warships. Helpless in the face of the withering firepower of the combined fleet, Choshu was quickly defeated. This was called the Shimonoseki War.

The other powerful domain influenced by the sonno joi movement was Satsuma (modern-day Kagoshima Prefecture). Unlike Choshu, Satsuma Domain did support the shogunate’s policy of opening Japan, but Satsuma samurai murdered British citizen Charles Lennox Richardson in 1862, and British warships attacked Kagoshima Castle in Satsuma Domain in retaliation for the “Richardson Affair“. Though Kagoshima was burnt to the ground under the enemy bombardment, Satsuma did put up a tough fight and caused significant damage to the British fleet. This conflict was called the Anglo-Satsuma War.

The British left the fight greatly impressed by the bravery of Satsuma samurai, and henceforth attempted to deepen its ties with Satsuma Domain.

Having seen the military strength of the Western powers firsthand on the battlefield, the samurai of Satsuma and Choshu realized that simply “expelling the barbarians” would not save their country. Instead, they increasingly came to believe that Japan would have to embrace Western civilization in order to modernize its own military forces.

Topic 50 Recap Challenge! –

(1.) Write down two controversial provisions included within the US-Japan Treaty of Amity and Commerce.

(2.) Explain the differences in the policies of the shogunate and those of the samurai of the sonno joi movement.

長州藩の下関砲台を占拠した四ヶ国連合艦隊の兵士達  長州藩は馬関海峡(現関門海峡)を封鎖し、通行する外国船を攻撃したが、四ヶ国の連合艦隊17隻に砲撃されて敗北した(ベアト撮影 神奈川・横浜開港資料館像)

 攘夷を決行した長州藩と薩摩藩

朝廷の攘夷の要求に押された幕府は、1863(文久3)年、各藩に攘夷を行うよう命じた。これを受けて長州藩は攘夷を決行したが、翌年、報復にやってきた米・英・仏・蘭の軍艦の圧倒的な火力によって敗北を喫した(下関戦争)。

 長州藩と並ぶ有力な攘夷勢力は、薩摩藩(鹿児島県)だった。薩摩藩は、幕府の開国方針を支持していた。しかし、1862年に薩摩藩が起こしたイギリス人殺傷(生麦事件)に報復するために、鹿児島に来襲したイギリス艦隊と戦った。艦隊の砲撃により鹿児島城下は炎上した。しかし、薩摩藩は善戦して、艦隊にかなりの被害を与えた(薩英戦争、1863年)。

 以後、イギリスは薩摩藩士の気概に一目を置くようになり、薩摩藩に接近していった。

外国と戦争をした薩長両藩の攘夷派の武士達は、単純な攘夷論では国を救えない、我が国は西洋文明を積極的に取り入れ、軍事力の近代化を図らねばならないと考えるようになった。

 まとめにチャレンジ 

①米国と結んだ日米修好通商条約に含まれていた二つの問題点を書いてみよう。

②尊王攘夷派の武士達と幕府の方針の違いを説明してみよう。

The Tsushima Incident

The foreign threat to Japan came no less from the north. In February 1861 (Bunkyu 1), the Russian warship Posadnik suddenly appeared in Aso Bay, Tsushima Island. Three hundred and sixty Russian soldiers disembarked, occupied part of the island, and killed several local people. Russia was an imperial rival of Great Britain and hoped to turn Tsushima into a military outpost for its own incursions into the Pacific.

The shogunate convinced Great Britain to compel the Russians to leave, but the occupation of Japanese territory for half a year hammered home to the people of late-Edo Japan the necessity of a strong national defense.

 

対馬事件

 外国の脅威は北からもやってきた。1861(文久元)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が、突然、対馬の浅茅(あそう)湾に来航した。360人のロシア兵が島の一部を占拠し、島民殺害事件まで起こした。ロシアの目的は、イギリスに対抗して対馬を太平洋進出の軍事基地にすることだった。

 幕府はイギリスの力を借りて退去させたが、半年に亘り日本の領土を占拠されたこの事件は、幕末の人々に国防の重要性を認識させた。

 

・・・現在も国防の最前線である対馬。

元寇襲来の文永の役(文永11(1274)年)では、宗資国は80余騎で応戦しながら対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は総討ち死にした。その時の対馬の惨状を日蓮が以下のように伝えている。

去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) — 『日蓮書状』

元軍は宗資国以下の対馬勢を破った後、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としています。

その約六〇〇年後の対馬事件は、ロシア軍艦ポサドニック号が文久元年(1861)二月に対馬尾崎浦に来航し、浅茅湾に居座り、九月まで対馬藩や幕府がその対応に苦慮したものである。対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。七月に、イギリスが幕府に英艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。幕府は独力で排除できず、イギリスの干渉によってロシア艦隊が退去に至った。

いつの時代も、しっかりした軍事力を有していないと、他国の侵略に翻弄されてしまうという厳しい現実。それを歴史は証明しています。

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