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優れた授業

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、小学校からは学校の「授業」をしっかり学ぶことが何よりも大事だと考えています。近年の一部の風潮に、受験の為に学校での授業や教科書を大事にしなくてもよい、といったことが行われている例があります。これは学校の先生方に「授業力」がないことが原因とも言われています。戦後の日本の教育する力を貶める施策(米国主導)である師範学校の廃止は、七〇年経過すると、大きなマイナスとなって日本の教育に影を落としています。

さて、日本の教育界で長年教鞭をとられ、、教育の技術を法則化する運動をされている向山洋一先生の記事が目につきました。産経新聞(2018.4.4)の「優れた授業は努力からうまれる お手本を見て学び、何年もかけて」からの引用です。http://www.sankei.com/life/news/180404/lif1804040006-n1.html

授業の上手(うま)い教師がいる。下手な教師もいる。下手な教師は上手くなるように努力しなければならない。上手い教師のお手本を見て学び、やってみる。問題点を指摘され修正する。簡単な道のりではない。何年もかかる。誰だってそうやって上達していくのだ。

 ところが、校内研でも教委の研修でも、「授業の上手さ」について、ほとんど検討されていないという。指導主事や管理職が主に指摘するのは「『めあて』と『振り返り』を板書したか」「1時間の学習の流れを構造的に板書したか」といったことだ。しかも形式的すぎる。例外を認めない。ベテラン教師でも従うよう指示される。板書の仕方が全クラスで統一されていることを誇らしげに保護者に語る校長もいる。形だけは同じだが、子供をひきつけるエネルギーがその授業にはない。

 授業によって子供たちが熱中したのか、学力は上がったのかが大切である。その大切な点を見ていないのだ。

 私は、授業は上手い方であったと思う。全国からの参加者が千人以上になる公開研を幾度も経験してきた。筑波大付属、広島大付属、新潟大付属などでの公開授業をしてきた。著作も数多く著してきた。しかし、「めあてと振り返り」を板書したことは一度もない。「構造的な板書」もしていない。

それでも(だからこそ)、子供たちの学力は上がった。教室のすべての子が熱中して学習に取り組んだ。教師の力量とは「めあてと振り返りの板書」といった形式的なことにあるのではない。熱中する授業をするところにある。新しい学習指導要領では子供たちの「主体的・対話的で深い学び」が重視される。討論的な授業が期待される。この方針がすべての教室で生かされることを願う。

 授業の力量を上げ、子供たちを引きつけるためには原則的なことを学ぶことがまず必要だ。

 『授業の腕をあげる法則』という私の本は、教育書では史上最も売れたベストセラーでありロングセラーである。三十数年前に出版され、毎年数回増刷されこれまでに50万冊以上が先生方の手に渡っていった。この本の中で私は、授業の原則を10カ条にして示した。例えば「指示するときはその意味を説明しなさい」「一時に一事を指示しなさい」「発問・指示は短く限定して述べなさい」といったことである。

 次のような原則に基づく授業行為が必要なのである。

 (1)授業の導入でどのように子供たちを引きつけていたか。

 (2)教師の発問は子供たちをどのように思考させていたか。

 (3)指示は全員の子供をまきこみ、適切に活動させていたか。

 (4)授業のリズム・テンポ、時間配分等は流れるようであったか。

 (5)にこやかに子供と目線を合わせて授業を展開していたか。

 

こういった内容がもっと大切にされなければならない。TOSSでは文部科学省の委託事業を受け「若手教員の授業力」について研究した。ぜひアクセスしていただきたい。(toss.gr.jp/kyoushiryoku/

 戦後、師範学校が廃止され、教員養成はリベラルアーツの学部として出発した。師範学校で教えていた授業技術や学級経営などの実務に優れていた教員たちは職を追われた。海外の教育思想は紹介されるようになったが、発問の仕方も、机間巡視の仕方も分からない素人同然の教員が大量生産された。

 日本の教師の長い年月をかけた努力をひきついでいくことをTOSSは自分に課している。

・・・熱意を持ち意欲のある先生方は沢山おられるはずです。ところが指導や訓練する「先生の先生」や「先生の先輩」を配置し、研修システムを充実しなければ、先生方の力量を上げていくことは出来ません。子供さんたちの学力の低下は、先生方の教育力・指導力の低下がもたらしていると言っても過言ではありません。意欲ある先生方を応援していかなければ、未来ある子供達の学力を上げることは出来ません。

 

posted by at 18:56  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 18

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、鉢植えの花々も明るく色付き、櫻の満開に合わせているかのようです。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

  Topic 50 – The rise of the sonno joi movement
How did the sonno joi movement arise during the waning years of the Edo shogunate?

The conclusion of the Treaty of Amity and Commerce
In 1858 (Ansei 5), the shogunate went ahead and concluded the Treaty of Amity and Commerce with the United States, despite the Imperial Court’s pointed refusal to sign on. Consequently, five ports, Hakodate, Kanagawa, Niigata, Hyogo (now Kobe), and Nagasaki, were opened to American trade.

Soon after, Japan signed similar treaties with other foreign countries.1 However, these were unequal treaties, in that Japan forfeited tariff autonomy, meaning its right to set its own import duties, and guaranteed extraterritoriality to foreign nations, meaning their exclusive right to try their own citizens in consular courts for any crimes they committed on Japanese soil.

*1=In accordance with the treaties, trade in Japan was carried out with gold and silver coins used by foreign countries. However, the exchange rate in Japan was one gold coin to five silver coins, whereas in foreign countries it was one to fifteen. Because of this large disparity, Japan’s gold was flowing abroad and being rapidly depleted at home, which put significant strain on the economy.

 

 

50 尊王攘夷運動の展開

 幕末の尊王攘夷運動は、どの様な経過をたどっていったのだろうか。

 日米修好通商条約の締結

 幕府は、朝廷の許可を得られないまま、1858(安政5)年、日米修好通商条約を結び、箱館(函館)、神奈川、新潟、兵庫(神戸)、長崎の5港を開いた。

 その後、日本は諸外国と同様の条約(*1)を結んだが、これらの条約は、日本における外国人の犯罪を日本側で裁くことができず(領事裁判権)、日本に輸入関税率を自由に決定する権利(関税自主権)のない、不平等条約だった。

*1 この条約により、外国の金貨銀貨が通用するようになった。ところが、金銀の交換比率が日本でおよそ1対5、外国で1対15と、約3倍の差があったため、金貨が大量に海外に流出し、国内経済を混乱させる原因となった。

 

 The sonno joi movement

The conclusion of the Treaty of Amity and Commerce elicited a storm of criticism from those who felt that the shogunate had ignored the will of the Imperial Court and surrendered to foreign pressure. This discontent gave rise to a new political movement, insisting that Japan preserve its independence. The slogan adopted by its supporters was sonno joi, which means “revere the emperor and expel the barbarians”. Between 1858 and 1859, Great Elder Ii Naosuke, a proponent of the shogunate’s decision to sign the treaty, launched a far-reaching crackdown on all the court nobles, daimyo, and patriotic samurai who had criticized the diplomatic policies of the shogunate and were sympathetic to the sonno joi movement. Tokugawa Nariaki, the former daimyo of Mito Domain, was placed under permanent house arrest, and Yoshida Shoin of Choshu Domain (modern-day Yamaguchi Prefecture) and Hashimoto Sanai of Echizen-Fukui Domain were both beheaded. This is referred to as the Ansei Purge.

In 1860 (Manen 1), as Ii Naosuke was passing near Sakurada Gate on his way to Edo Castle, he was ambushed and killed by masterless samurai, many from Mito Domain, who wanted revenge 

for the Ansei Purge. The assassination of Ii Naosuke, known as the Sakurada Gate Incident, was a major blow to the shogunate, which had lost its strongest leader in a single stroke.

The Choshu Domain, whose territory had been reduced by the shogunate hundreds of years earlier following its defeat at the Battle of Sekigahara, became the focal point of opposition to the shogunate’s policies. Yoshida Shoin had left a profound impact through his passionate advocacy of sonno joi at Shokason-juku, a private academy in Choshu. After Yoshida’s execution during the Ansei Purge, his former students, such as Takasugi Shinsaku and Kido Takayoshi, became powerful figures in Choshu politics. At their direction, Choshu joined forces with certain court nobles and gradually convinced the Imperial Court to take a hard-line stance in favor of expelling the barbarians.

 

Excerpts from the Treaty of Amity and Commerce

“Article 4 – Duties shall be paid to the Government of Japan on all goods landed in the country, and on all articles of Japanese production that are exported as cargo, according to the tariff hereunto appended.”

“Article 6 – Americans committing offenses against Japanese shall be tried in American Consular courts, and, when guilty, shall be punished according to American law.”

桜田門外の変(江戸東京博物館蔵)

 

尊皇攘夷運動

幕府が朝廷の意向を無視して通商条約に調印したことに対し、外国に屈服したとの批判が沸き起こった。その批判は朝廷を盛り立てる尊王と、外国を打ち払う上位の要求が結びついて日本の独立を守ろうとする尊皇攘夷運動に発展していった。条約の締結を推進した幕府の大老・井伊直弼は、1858年から翌年にかけて幕府の外交方針を批判して尊皇攘夷を唱える公家、大名、志士たちを大量に処罰した。前水戸藩主の徳川斉昭は永蟄居を命ぜられ、長州藩(山口県)の吉田松陰や越前福井藩の橋本左内は斬刑に処された。これを安政の大獄という。

1860(万延元)年、井伊直弼は江戸城に出勤する途上、桜田門の近くで、安政の大獄に憤った水戸藩などの浪士達に暗殺された(桜田門外の変)。最高責任者が暗殺されたことにより、幕府の権威は一挙に失われた。

買って関が原の戦いに敗れて領地を縮小されていた長州藩は、幕府批判勢力の中心だった。吉田松陰は、松下村塾という私塾で、弟子達に尊皇攘夷を説いて大きな感化を及ぼしていた。松陰が安政の大獄で処刑されると、その弟子であった高杉晋作や木戸孝允らが班を動かすようになり、長州藩は一部の公家と結んで、朝廷を強硬な攘夷論へと導いていった。

 

日米修好通商条約

第4条 すべて日本に輸入・輸出する商品は別に定める通り、日本政府へ関税を収めること。

第6条 日本人に対して法を犯したアメリカ人は、アメリカ領事裁判所で取り調べの上。アメリカの法律によって罰すること。(一部要約)

 

・・・外交交渉における米国の圧力と、国内の尊王攘夷運動との板挟みになった江戸幕府。現在からみれば、結果が分かっているので、何故と思うことでも、当時の幕府の要路に居た老中などの政治家の苦悩は計り知れません。現在の政治家と比較するのも烏滸がましいですが、幕府を支える武士には人格・識見共に素晴らしい人物が多く存在していました。

posted by at 12:00  | 塾長ブログ

受験で求められる力

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、春期講習中です。このような長期休暇は、子供さん達にとって成長する良い機会です。様々な科目の学習だけではなく、関連する事項や、普段学ぶ時間が取れないこと、また実地に学べるものなどにも時間を割くことが出来ます。図書館・美術館・博物館・科学館など、公共施設も活用したいものです。遠近に関わらず、数日間の小旅行も世間を知る良い機会です。

さて、「これからの高校受験で求められる力とは」という産經新聞(2018.3.30 )の記事が目につきましたので引用してご紹介します。。http://www.sankei.com/life/news/180330/lif1803300004-n1.html

これからの高校受験で求められる力とは

大学入試改革の方向性を受けて、高校入試でも思考力・判断力・表現力を問う問題が増えています。「受験生」というと、学校の後は塾などに通い、机に向かってひたすら勉強…といったイメージを持つかたが多いと思いますが、机の上での勉強時間が長ければ思考力がつくとは限りません。

 

変わりつつある高校入試

 まず、お住まいの地域の公立高校の入試問題を、ぜひお子さまと一緒に見ていただきたいと思います。

 都道府県によって差はありますが、「自分の学生時代とは違うなあ」という印象をお持ちになる保護者のかたが多いのではないでしょうか。

 たとえば東京都(2018年)の社会では、「写真を見て、その撮影地点が含まれる地形図を選ばせる」、「1961年に制定された『農業基本法』の内容と関連して、同じ地域の地形図を見比べ、道路の変化について簡単に記述させる」「『情報』をテーマに、様々な時代の出来事を述べた選択肢を年代順に並べる」といった問題が出されています。

 また、英語では英文を聴いて答えを自分で書く問題や、英文のEメールを読んで、その返信の内容を考え、条件に合うように3つの英文を書く問題が出ています。

 すべて中学校で習う基礎事項をもとにした問題ですが、解答するためにはどの知識が使えるか、頭を柔軟に働かせる必要があり、覚えた用語をそのまま答えればよいような問題は減っています。

求められるのは初見の問題にも対応できる力

 都道府県や高校によっては、たとえば神奈川県の「特色検査」のように、教科を超えた総合的な問題や作文・小論文、スピーチなどを課すところもあります。文書やグラフ・表、写真や絵画など様々な資料を読み取り、自分なりに問題点を理解した上で「自分の考えを述べる」「解決策を考える」というような、正解がひとつに決まらない問題は、今後ますます増えていくでしょう。

 その背景には、学習指導要領の改訂と、それと並行して進められている大学入試改革があります。初めて出会った問題に対して柔軟に思考し、対応する力が求められているのです。このような力は、これからの変化の激しい時代を生き抜く上で、必ず役に立つのではないでしょうか。

受験勉強のイメージも変わる?

 初見の問題にも対応できる思考力・判断力・表現力をつけるには、中学で教わる基礎事項を、使いこなせるレベルまでしっかりと身につけておくことが大切です。その上で、社会の動きに関心を持ち、「これはなぜだろう」「こんなとき、自分ならどうするだろう」などと様々な角度から考えることに慣れておく必要があります。

 受験生活も「毎日、学校と家、塾などの往復だけ」「机に向かってひたすら暗記と問題演習」といった従来のイメージとは違ってくるでしょう。保護者のかたは、新聞やテレビのニュース、生活にまつわる身近な出来事を家族で話題にする、一緒に学校見学や社会見学に出かけるなど、お子さまの「考えるきっかけ」づくりに協力していただければと思います。

・・・大学入試改革プラス学習指導要領の改訂は、高校のみならず、中学・小学校の指導内容に大きな影響を与えます。常々申し上げているように、子供さん達に「考える力」をつけ、その上でそれを「表現する力」をつけるには、幼少期からの「読む」・「書く」訓練は必須です。年齢が来たら、自然に覚えるようになる、というのは、ある意味博奕のようなものです。確かに、一見放っているように見える子供の中で、利発な子は確かに存在します。しかし、「玉磨かざれば光なし」という様に、どんなに素晴らしい宝石の原石であっても、上手に研磨しなければ、光輝な光を放たない様に、学力の基礎は徹底して行う必要が有ります。

posted by at 12:30  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 17

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、春めく季節と共に新たな進学や進級に向けた準備が始まっています。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

The Treaty of Kanagawa and the arrival of Townsend Harris

In January 1854 (Ansei 1), Perry returned to Kanagawa. Following negotiations, the shogunate acceded to his demands and signed the Treaty of Peace and Amity (Treaty of Kanagawa) with he United States in March. Under the terms of this agreement, Japan was to open two ports, Hakodate (in modern-day Hokkaido) and Shimoda (in modern-day Shizuoka Prefecture), where American ships could resupply with coal, foodstuffs, and water. In addition, Japan was to set up a US consulate in Shimoda. This marked the end of Japan’s policy of national isolation.

In accordance with the treaty, Consul General Townsend Harris took up his post in Shimoda in 1856 and reiterated America’s desire for a commercial treaty opening Japan to trade with the United States. The shogunate was in no position to refuse, but tried to put off answering on the grounds that it wanted permission from the Imperial Court. And yet, the Emperor refused to sanction the agreement. The ensuing controversy split the country into two camps, one advocating that the “barbarians” be expelled from Japan and one advocating that Japan sign the commercial treaty and open its doors to the West. Each side attempted to sway the opinion of the Imperial Court in Kyoto, which abruptly became the center of the nation’s political attention.

Topic 49 Recap Challenge! – Using bullet points, list two of the demands Perry made to the shogunate upon his arrival in Japan.

 

日米和親条約とハリスの来日

 1854(安政元)年1月、ペリーは再び神奈川沖にやってきた。交渉の末、幕府はペリーの要求に応じ、3月、アメリカとの間に日米和親条約を結んだ。この条約によって開国した日本は、下田(静岡県)と箱館(函館・北海道)の2港を開き、アメリカの船に石炭、食料、水を補給し、下田にアメリカ領事を置くことを取り決めた。

 1856年、日米和親条約に基づき下田に着任したアメリカ総領事ハリスは、貿易を開始するために新たに通商条約を結ぶことを要求した。ハリスの要求を拒絶できないと考えた幕府は。朝廷の許可を得たいとして返答を伸ばしたが、天皇の許可(勅許)は得られなかった。攘夷(*2)を取るか、それとも通商条約を結ぶ開国政策をとるかは、国論を二分する大問題となり、両派が朝廷に働きかけた。京都の朝廷はにわかに国政の中心舞台となった。

 *2=「攘」は「攘(う)つ」で、武力で排除すること。「夷(い)」は外国を指す。外国を打ち払うこと。

まとめにチャレンジ 日本に来航したペリーが、幕府に要求したことを2つ、箇条書きにしてみよう。

・・・先にブログ記事(英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 16) で「ペリーは日本人をどう見たか」を紹介していますが、ペリーが日本との開国交渉をするために多くのことを情報源から学んだ上で交渉に臨んだことがわかる書物の一つをご紹介します。

日本1852: ペリー遠征計画の基礎資料 (草思社文庫)

 

訳者の渡辺惣樹氏の前書きによると、

本書の原題は「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」が示すように、アメリカの進める日本遠征計画を、強い関心を持って見つめていた英米の知識人のニーズに応えて出版されたものです。アメリカ海軍の四分の一の戦力を割き、アメリカの威信をかけて臨む日本開国プロジェクトは世間の耳目を集めていたにもかかわらず、人々は日本をほとんど知りませんでした。本書の発行は一八五二年七月。ニューヨークの出版社から刊行されています。ペリー提督がノーフォーク(バージニア州)を出港する四カ月前のことです。アメリカ政府もここに記述される情報以上のものは持ち合わせてはいませんでした。

ペリーは、戦艦ミシシッピ号で東インド艦隊の待つ中国沿岸に向かったのは一八五二年十一月二十四日のことであった。ぺリーの旅は大西洋から喜望峰を周り、インド洋を抜けて中国に向かう東回り航路であった。それだけに長い船旅となった。香港への到着は年も明けた四月初めのことである。四ヶ月半の船旅をペリーは無駄にしなかった。交渉相手国となる日本をじっくりと学んだのである。ペリーは日本開国交渉の本質が、米国に莫大な富をもたらす支那市場への太平洋蒸気船航路(太平洋シーレーン)を安全なものにすることであることは十分に理解していた。ペリー提督は計画の狙いやその重要性は理解していたものの、交渉相手となる日本についての知識は乏しかった。そんな彼にとって東回りの長旅は幸運だった。何冊もの日本を理解するための書を読み込んだ。その中の一つが本書だった。

筆者のチャールズ・マックファーレンは英国人である。歴史家であり、日本への溢れる好奇心を持つ友人に囲まれていた。その影響を受けて彼自身も日本に強い関心を寄せ、世界各国で著された日本に関する書籍を蔵書していた。日本を訪れた経験はないものの、当時としては日本についての十分すぎるほどの情報を持っていた。彼の情報源の多くが、長崎出島に暮したオランダ商館長や商館員のものである。出島に勤務したのはオランダ人だけではない。オランダは小国であり人口が少なかっただけに、有為な人材供給を外国に頼らざるを得なかった。蘭東インド会社にも多くの外国人が採用されていた。だから幕府の目からはオランダ人として見えた商館員には、イギリス人やドイツ人がいた。彼らは母国語で日本の経験を書いていた。それらもマックファーレンの重要な情報源となった。そうした情報を総合して書き上げたものが本書である。

日本の社会システム(徳川幕藩体制)を処処で批判するものの、全体的な評価は極めて高い。また日本人社会に行き渡る礼節に驚嘆し、賞賛を惜しんでいない。

もう一点注目しておきたいことがある。それは日本における権力の二重構造の理解である。世俗権力の象徴である将軍と、武力を有しないミカド(皇室)の精神的な権力の並立を見事なまでに把握している。マックファーレンのこの記述を読んだからこそペリー提督の日本開国交渉は丁寧であり、日本側に二重権力の間での意見のすり合わせと意思統一の時間を与えようとしたのではなかろうかと思わせる。例えば、ペリー艦隊の来航は二度にわたっている。一八五三年の四隻による来航時には、大艦隊を率いて翌年に再び来航することを伝えただけであった。二つの権力に方針を一致させるための時間を与えたのであろう。また日米和親条約締結後から領事赴任までに十八ヶ月の余裕を持たせている。これも同じ考えに基づくものではなかったか。もちろん我々はその後の歴史を知っている。ペリー提督の意識していた二つの権力は意見のすり合わせに失敗した。暴力的な分裂を見せた結果が、ペリー提督自身も予期しなかった明治維新であった。

・・・如何に綿密に、アメリカが日本開国の準備を進めていたか、がわかる資料です。歴史の教科書では、青天の霹靂の如く黒船が日本に来航したかのように説明されています。しかし、日本は長崎を「世界の窓」にして鎖国を保っていましたが、それぞれが求める情報は長崎を通して、江戸幕府も欧米諸国も互いに収集していたことが分かり興味深いものですね。「日本1852: ペリー遠征計画の基礎資料 」(草思社文庫)の内容にも、教科書には書かれていない様々な面白い記述がありますから、少しずつご紹介していこうと考えています。

下記の画像は日本財団図書館からの引用です。https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00915/contents/0004.htm

ミシシッピ号の航路図

久里浜にて、日本に初上陸するペリー艦隊の一行

浦賀沖を測量するミシシッピ号の搭載艇。攻撃の意図がないことを、艦首に掲げた白旗で示している。

富士山を後方に望み、江戸湾を北上するペリー艦隊

 

posted by at 08:49  | 塾長ブログ

大学入試共通テストを意識した設問

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、幼児期からの「読み」を重視しています。「読み・書き・算盤」の筆頭である「読み」は、言葉を覚え、使うことの大前提です。最初は口が回らなくても、リズムが有り、歯切れの良い文は、すぐに慣れてきて元気よく読むようになります。

さて、平成30(2018)年の日本の首都圏の中学入試の傾向について述べてある記事が目につきました。大学入試共通テストの目指す意図を先取りするかのような設問がされているという実例です。産経新聞(2018.3.19)からの引用です。http://www.sankei.com/life/news/180319/lif1803190004-n1.html

 

[速報]2018年 大学入試共通テストを意識した設問が増加!

増えている「立場を変えて考える」問題

 2018年の首都圏中学入試では、2020年度(2021年1月)から実施される「大学入学共通テスト」を意識した問題が、数多くの学校で出題されました。よく見られたのが、グラフや表、図や絵、文章や会話文など、様々な資料を参照しながら、現実社会の問題について考える力を問うといった設問です。

 たとえば開成の国語では、北海道の名産品を販売する会社の、カニ弁当の仕入れと売り上げに関する文章が、「売れ行き総数の推移」のグラフとともに出題されました。弁当は、新宿支店では売り切れ、池袋支店では20個の売れ残りが生じましたが、販売部長は売り切った社員を評価し、社長は売り残した社員のほうを高く評価します。社長の考えを、指定の接続詞を使って説明しなさいという問題です。

 グラフからは、新宿支店では18時から19時まで弁当が欠品になっていたことがわかります。つまり、欠品によるお店の信頼性の問題がポイントになっているんですね。

 小学生は基本的に消費者ですから、このように「供給者」「経営者」の立場で考えるのは、なかなか難しいのではないでしょうか。

 これまで、中学入試の国語では、子どもが主人公で、家族や友情をテーマにした小説や、子どもにとっても身近な社会問題や環境問題を扱った説明文が多く出題されていました。もちろん、今回もそのような文章もたくさん出ていますが、この問題のように、自分とは離れた立場に立って考えなければならない問題がほかにも見られました。同じく開成では、キャリアウーマンの女性の視点から描かれた大人向けの小説が出題されています。この女性には子どもがいて、夫は家事一切をやっている主夫です。現実社会を反映した設定ですが、子どもが「お父さんが主夫である家のお母さん」の立場に立つのはかなり難しそうです。

 このように「現実社会の問題を考える」「立場を変えて考える」力を問う設問は、今後も増えていくのではないかと思います。

算数では「数の性質」、理科では実験・観察の問題が頻出

 新学習指導要領では整数論が一単元をあてて新設されました。これを先取りして、中学入試でも、連続した数字の中に、一定の決まりを見つけて解くような問題がたくさん出されました。このような問題には、事前の知識はあまり必要なく、その「数の性質」の場で「考える」力が大切です。様々な問題を解いてみて、どこに目をつければいいか見つけることに慣れておく必要があります。

 理科では、実験や観察の問題が多く出題されました。これらの問題では、知識として暗記しているかというより、実際に実験を行ったか、自分でよく観察しているか、そこから何を理解したかといったことが問われています。たとえば、「クモの脚のつき方を作図する」といった問題は、クモをよく観察したことがあればわかると思います。

 社会でも、グラフや表、図の読み取りはよく出題されました。第二次世界大戦に関連して、手塚治虫の漫画『アドルフに告ぐ』のコマを時系列順に並べる問題(東邦大学付属東邦)は印象的でした。

自分で考えて「目のつけどころ」をつかむ力を

 全体として、大学入試改革の方向性を反映して、「自分で考えさせる」「教科の力を現実問題に反映させる」問題が多く出題されたと思います。国語や社会に、算数や理科の考え方を反映させるような問題も多く見られ、算数や理科に会話文などが出されてリテラシーを問う問題もよく見られます。また、「自分の考えを、自分の言葉で書く」タイプの記述問題も増える傾向にあります。必要な知識事項は、ほとんどが小学校の教科書に沿ったものです。小学校で習った基礎的な知識や考え方を組み合わせて「どう使うか」が問われているのです。

 今後の中学入試対策としては、小学校で学ぶ基礎的な考え方をしっかり身につけること、そのうえで様々な問題を自分で解いて「目のつけどころ」「とっかかり」をつかむ経験、現実社会の問題に目を向け、自分なりに考える経験、考えたことを人に伝わるよう「話してみる」「書いてみる」経験が、ますます必要となってくるでしょう。

・・・関東圏の受験難関校には、レベルの高い小学生が挑戦します。小学生で、大人が真似できるだろうかというほどの努力を重ねて来ます。その賛否はともかく、挑戦することと、努力を惜しまないことは、貴重な経験になります。

小学生には難度が高くても、訓練することで力をつけることはできます。日頃から、「何故と自問する」「自分の言葉で説明する」「自ら調べる」といったことを習慣づけることが大事です。その為には、お父さんやお母さんが、日常の生活の中で、子供さんに問い掛けて、考えさせ、自分なりの説明ができるよう導いていく日々の繰り返しが必要です。また、一文で書く癖をつけてあげることです。

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