‘ 塾長ブログ ’ カテゴリー

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 17

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、春めく季節と共に新たな進学や進級に向けた準備が始まっています。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

The Treaty of Kanagawa and the arrival of Townsend Harris

In January 1854 (Ansei 1), Perry returned to Kanagawa. Following negotiations, the shogunate acceded to his demands and signed the Treaty of Peace and Amity (Treaty of Kanagawa) with he United States in March. Under the terms of this agreement, Japan was to open two ports, Hakodate (in modern-day Hokkaido) and Shimoda (in modern-day Shizuoka Prefecture), where American ships could resupply with coal, foodstuffs, and water. In addition, Japan was to set up a US consulate in Shimoda. This marked the end of Japan’s policy of national isolation.

In accordance with the treaty, Consul General Townsend Harris took up his post in Shimoda in 1856 and reiterated America’s desire for a commercial treaty opening Japan to trade with the United States. The shogunate was in no position to refuse, but tried to put off answering on the grounds that it wanted permission from the Imperial Court. And yet, the Emperor refused to sanction the agreement. The ensuing controversy split the country into two camps, one advocating that the “barbarians” be expelled from Japan and one advocating that Japan sign the commercial treaty and open its doors to the West. Each side attempted to sway the opinion of the Imperial Court in Kyoto, which abruptly became the center of the nation’s political attention.

Topic 49 Recap Challenge! – Using bullet points, list two of the demands Perry made to the shogunate upon his arrival in Japan.

 

日米和親条約とハリスの来日

 1854(安政元)年1月、ペリーは再び神奈川沖にやってきた。交渉の末、幕府はペリーの要求に応じ、3月、アメリカとの間に日米和親条約を結んだ。この条約によって開国した日本は、下田(静岡県)と箱館(函館・北海道)の2港を開き、アメリカの船に石炭、食料、水を補給し、下田にアメリカ領事を置くことを取り決めた。

 1856年、日米和親条約に基づき下田に着任したアメリカ総領事ハリスは、貿易を開始するために新たに通商条約を結ぶことを要求した。ハリスの要求を拒絶できないと考えた幕府は。朝廷の許可を得たいとして返答を伸ばしたが、天皇の許可(勅許)は得られなかった。攘夷(*2)を取るか、それとも通商条約を結ぶ開国政策をとるかは、国論を二分する大問題となり、両派が朝廷に働きかけた。京都の朝廷はにわかに国政の中心舞台となった。

 *2=「攘」は「攘(う)つ」で、武力で排除すること。「夷(い)」は外国を指す。外国を打ち払うこと。

まとめにチャレンジ 日本に来航したペリーが、幕府に要求したことを2つ、箇条書きにしてみよう。

・・・先にブログ記事(英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 16) で「ペリーは日本人をどう見たか」を紹介していますが、ペリーが日本との開国交渉をするために多くのことを情報源から学んだ上で交渉に臨んだことがわかる書物の一つをご紹介します。

日本1852: ペリー遠征計画の基礎資料 (草思社文庫)

 

訳者の渡辺惣樹氏の前書きによると、

本書の原題は「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」が示すように、アメリカの進める日本遠征計画を、強い関心を持って見つめていた英米の知識人のニーズに応えて出版されたものです。アメリカ海軍の四分の一の戦力を割き、アメリカの威信をかけて臨む日本開国プロジェクトは世間の耳目を集めていたにもかかわらず、人々は日本をほとんど知りませんでした。本書の発行は一八五二年七月。ニューヨークの出版社から刊行されています。ペリー提督がノーフォーク(バージニア州)を出港する四カ月前のことです。アメリカ政府もここに記述される情報以上のものは持ち合わせてはいませんでした。

ペリーは、戦艦ミシシッピ号で東インド艦隊の待つ中国沿岸に向かったのは一八五二年十一月二十四日のことであった。ぺリーの旅は大西洋から喜望峰を周り、インド洋を抜けて中国に向かう東回り航路であった。それだけに長い船旅となった。香港への到着は年も明けた四月初めのことである。四ヶ月半の船旅をペリーは無駄にしなかった。交渉相手国となる日本をじっくりと学んだのである。ペリーは日本開国交渉の本質が、米国に莫大な富をもたらす支那市場への太平洋蒸気船航路(太平洋シーレーン)を安全なものにすることであることは十分に理解していた。ペリー提督は計画の狙いやその重要性は理解していたものの、交渉相手となる日本についての知識は乏しかった。そんな彼にとって東回りの長旅は幸運だった。何冊もの日本を理解するための書を読み込んだ。その中の一つが本書だった。

筆者のチャールズ・マックファーレンは英国人である。歴史家であり、日本への溢れる好奇心を持つ友人に囲まれていた。その影響を受けて彼自身も日本に強い関心を寄せ、世界各国で著された日本に関する書籍を蔵書していた。日本を訪れた経験はないものの、当時としては日本についての十分すぎるほどの情報を持っていた。彼の情報源の多くが、長崎出島に暮したオランダ商館長や商館員のものである。出島に勤務したのはオランダ人だけではない。オランダは小国であり人口が少なかっただけに、有為な人材供給を外国に頼らざるを得なかった。蘭東インド会社にも多くの外国人が採用されていた。だから幕府の目からはオランダ人として見えた商館員には、イギリス人やドイツ人がいた。彼らは母国語で日本の経験を書いていた。それらもマックファーレンの重要な情報源となった。そうした情報を総合して書き上げたものが本書である。

日本の社会システム(徳川幕藩体制)を処処で批判するものの、全体的な評価は極めて高い。また日本人社会に行き渡る礼節に驚嘆し、賞賛を惜しんでいない。

もう一点注目しておきたいことがある。それは日本における権力の二重構造の理解である。世俗権力の象徴である将軍と、武力を有しないミカド(皇室)の精神的な権力の並立を見事なまでに把握している。マックファーレンのこの記述を読んだからこそペリー提督の日本開国交渉は丁寧であり、日本側に二重権力の間での意見のすり合わせと意思統一の時間を与えようとしたのではなかろうかと思わせる。例えば、ペリー艦隊の来航は二度にわたっている。一八五三年の四隻による来航時には、大艦隊を率いて翌年に再び来航することを伝えただけであった。二つの権力に方針を一致させるための時間を与えたのであろう。また日米和親条約締結後から領事赴任までに十八ヶ月の余裕を持たせている。これも同じ考えに基づくものではなかったか。もちろん我々はその後の歴史を知っている。ペリー提督の意識していた二つの権力は意見のすり合わせに失敗した。暴力的な分裂を見せた結果が、ペリー提督自身も予期しなかった明治維新であった。

・・・如何に綿密に、アメリカが日本開国の準備を進めていたか、がわかる資料です。歴史の教科書では、青天の霹靂の如く黒船が日本に来航したかのように説明されています。しかし、日本は長崎を「世界の窓」にして鎖国を保っていましたが、それぞれが求める情報は長崎を通して、江戸幕府も欧米諸国も互いに収集していたことが分かり興味深いものですね。「日本1852: ペリー遠征計画の基礎資料 」(草思社文庫)の内容にも、教科書には書かれていない様々な面白い記述がありますから、少しずつご紹介していこうと考えています。

下記の画像は日本財団図書館からの引用です。https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00915/contents/0004.htm

ミシシッピ号の航路図

久里浜にて、日本に初上陸するペリー艦隊の一行

浦賀沖を測量するミシシッピ号の搭載艇。攻撃の意図がないことを、艦首に掲げた白旗で示している。

富士山を後方に望み、江戸湾を北上するペリー艦隊

 

posted by at 08:49  | 塾長ブログ

大学入試共通テストを意識した設問

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、幼児期からの「読み」を重視しています。「読み・書き・算盤」の筆頭である「読み」は、言葉を覚え、使うことの大前提です。最初は口が回らなくても、リズムが有り、歯切れの良い文は、すぐに慣れてきて元気よく読むようになります。

さて、平成30(2018)年の日本の首都圏の中学入試の傾向について述べてある記事が目につきました。大学入試共通テストの目指す意図を先取りするかのような設問がされているという実例です。産経新聞(2018.3.19)からの引用です。http://www.sankei.com/life/news/180319/lif1803190004-n1.html

 

[速報]2018年 大学入試共通テストを意識した設問が増加!

増えている「立場を変えて考える」問題

 2018年の首都圏中学入試では、2020年度(2021年1月)から実施される「大学入学共通テスト」を意識した問題が、数多くの学校で出題されました。よく見られたのが、グラフや表、図や絵、文章や会話文など、様々な資料を参照しながら、現実社会の問題について考える力を問うといった設問です。

 たとえば開成の国語では、北海道の名産品を販売する会社の、カニ弁当の仕入れと売り上げに関する文章が、「売れ行き総数の推移」のグラフとともに出題されました。弁当は、新宿支店では売り切れ、池袋支店では20個の売れ残りが生じましたが、販売部長は売り切った社員を評価し、社長は売り残した社員のほうを高く評価します。社長の考えを、指定の接続詞を使って説明しなさいという問題です。

 グラフからは、新宿支店では18時から19時まで弁当が欠品になっていたことがわかります。つまり、欠品によるお店の信頼性の問題がポイントになっているんですね。

 小学生は基本的に消費者ですから、このように「供給者」「経営者」の立場で考えるのは、なかなか難しいのではないでしょうか。

 これまで、中学入試の国語では、子どもが主人公で、家族や友情をテーマにした小説や、子どもにとっても身近な社会問題や環境問題を扱った説明文が多く出題されていました。もちろん、今回もそのような文章もたくさん出ていますが、この問題のように、自分とは離れた立場に立って考えなければならない問題がほかにも見られました。同じく開成では、キャリアウーマンの女性の視点から描かれた大人向けの小説が出題されています。この女性には子どもがいて、夫は家事一切をやっている主夫です。現実社会を反映した設定ですが、子どもが「お父さんが主夫である家のお母さん」の立場に立つのはかなり難しそうです。

 このように「現実社会の問題を考える」「立場を変えて考える」力を問う設問は、今後も増えていくのではないかと思います。

算数では「数の性質」、理科では実験・観察の問題が頻出

 新学習指導要領では整数論が一単元をあてて新設されました。これを先取りして、中学入試でも、連続した数字の中に、一定の決まりを見つけて解くような問題がたくさん出されました。このような問題には、事前の知識はあまり必要なく、その「数の性質」の場で「考える」力が大切です。様々な問題を解いてみて、どこに目をつければいいか見つけることに慣れておく必要があります。

 理科では、実験や観察の問題が多く出題されました。これらの問題では、知識として暗記しているかというより、実際に実験を行ったか、自分でよく観察しているか、そこから何を理解したかといったことが問われています。たとえば、「クモの脚のつき方を作図する」といった問題は、クモをよく観察したことがあればわかると思います。

 社会でも、グラフや表、図の読み取りはよく出題されました。第二次世界大戦に関連して、手塚治虫の漫画『アドルフに告ぐ』のコマを時系列順に並べる問題(東邦大学付属東邦)は印象的でした。

自分で考えて「目のつけどころ」をつかむ力を

 全体として、大学入試改革の方向性を反映して、「自分で考えさせる」「教科の力を現実問題に反映させる」問題が多く出題されたと思います。国語や社会に、算数や理科の考え方を反映させるような問題も多く見られ、算数や理科に会話文などが出されてリテラシーを問う問題もよく見られます。また、「自分の考えを、自分の言葉で書く」タイプの記述問題も増える傾向にあります。必要な知識事項は、ほとんどが小学校の教科書に沿ったものです。小学校で習った基礎的な知識や考え方を組み合わせて「どう使うか」が問われているのです。

 今後の中学入試対策としては、小学校で学ぶ基礎的な考え方をしっかり身につけること、そのうえで様々な問題を自分で解いて「目のつけどころ」「とっかかり」をつかむ経験、現実社会の問題に目を向け、自分なりに考える経験、考えたことを人に伝わるよう「話してみる」「書いてみる」経験が、ますます必要となってくるでしょう。

・・・関東圏の受験難関校には、レベルの高い小学生が挑戦します。小学生で、大人が真似できるだろうかというほどの努力を重ねて来ます。その賛否はともかく、挑戦することと、努力を惜しまないことは、貴重な経験になります。

小学生には難度が高くても、訓練することで力をつけることはできます。日頃から、「何故と自問する」「自分の言葉で説明する」「自ら調べる」といったことを習慣づけることが大事です。その為には、お父さんやお母さんが、日常の生活の中で、子供さんに問い掛けて、考えさせ、自分なりの説明ができるよう導いていく日々の繰り返しが必要です。また、一文で書く癖をつけてあげることです。

posted by at 13:36  | 塾長ブログ

「教育改革は焦眉の急」

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日々子供さん達の躾や教育に腐心されているお母さん方と話を致します。我が子であっても全く異なる人格を持つわけですから、性格や長所・短所を踏まえて、善き方向へ導いていかなければなりません。その際に、「我儘」をどの様にコントロールするかが鍵になります。

さて、筆者が日頃から読んでいる、国際ニュース解説と評論記事のブログ「AC通信」(Andy Chang氏主宰)からの引用です。

「教育改革は焦眉の急」(AC論説 No.684)http://melma.com/backnumber_53999_6657824/

教育改革の重要性が各国で討論されている。21世紀の大きな問題は若者の教養が明らかに低下していることだ。生活水準が向上し、食べ物も服装もよくなり、車も普及したが若者の教養が向上したとは思えない。教養とは知識の蓄積と、その知識を使ってものごとを考える力である。

スマホでメールやゲームや音楽を聴くことは出来ても遊んでばかりいると人間関係が希薄となり、社会的判断力が低下する。最近では教養のない若者が何か不満があるとすぐに集まって街頭でデモをやるようになった。だが街頭デモで気勢を上げても政治行動としては非効率なものである。デモ集会で国家が良くなるはずがない。

アメリカでは「読み書きそろばん」が出来ない大学卒も居るそうだ。台湾で近話題になったのは、大学入試の英語で100点満点をとった学生が17人居たが、0点を取った学生がなんと14,500人も居たと言う。大学入試を受けた高校卒業生の英語がこれほど貧弱とはオドロキだ。彼らは英語だけ出来ないのではなく、他の科目もダメだと思う。

高校卒の品質低下は国民の品質低下につながる。頭のよい17人が憲法改正を提唱しても、一万人以上の知識の低い人間が憲法を改正したら戦争になると言えば憲法改正は出来っこない。国民全体の知識水準を高める教育改正は焦眉の急である。

●社会文化の低下

昔は電車や汽車に中で本を読む人が多かったが、最近では90%がスマホでメールやゲームをやっている。メールやゲームで遊んでも知識を増やすことは出来ない。若者が本を読まないから出版社や書店の閉鎖が増えている。本を読まないと知識を得ることが出来ない。教養のない人間が増えると社会文化が低下する。科学の進歩が「一億総白痴」を生むとは皮肉なことだ。

物資が豊富になったから、生活に困らない程度の読み書きさえできれば個人の生活に困ることはない。しかし個人の需要は社会に共通の知識道徳とは違う。若者の教養が低下すれば社会文化の崩壊が起きる。

スマホが便利になって何でもスマホで検索すれば答えが出て来る。しかし検索した知識は個人の知識にはならず、人の思索に役立たない。昔の言葉で言えば軽薄な人間が増えるだけだ。

●文明とは国民全体の教養程度である

物資が豊富になって生活が楽になったけれど、人間として思考を満足させる生活、つまり社会に共通する宗教、道徳、学問、芸術など精神面の生活が豊かになったとは言えない。だから教育改革、物事を考える力を豊富にする教育が大切なのだ。

考える力を増すには本を読むことが第一である。スマホの普及で人が本を読まなくなったら思考力が衰える。思考力とは知識を蓄積し、その知識を使って日常生活で直面する事物を判断する能力である。

教養とは自分の知識を使って「なぜ(Why)」と考え、「どうして(How)」と理論づける能力だ。それが満足にできるようにするのが知識の蓄積、つまり教育である。本を読むことと実地に体験をすること、これが教育の本分である。読書とは本に書いてある「他人の知識と経験」から学ぶこと、体験とは自分で「なぜ、どうして、どうしたらよいか」を学ぶことだ。

●学費免除とゆとり教育は間違いだ

大学まで学費無料を主張する政治家も居るが、学費無料とゆとり教育は教育の失敗のもとである。この半世紀のあいだに世界諸国では高校卒業まで学費無料にした結果、学生の教育程度が下落した。大学も学費無料にしたらそれこそ税金の無駄遣いの上に大学の程度が低下する。

ゆとり教育が提唱されて以来、アメリカ、日本、台湾などで学生の質が下落した結果が出ている。大学でも学費無料にすれば大学卒業生の品質がさらに低下するだけである。ゆとりとは甘やかすことにほかならない。ゆとり教育で若者は勉強せず学習する気も無くなったと言える。

学費無料化より、高校生の学費を成績で決めるのが学習意欲を増進させる道である。つまり成績に比例して学費を払う制度である。成績をABCDとFで評価し、不合格Fなら次の学期は学費の100%を払う、Dの辛うじて合格なら50%払うとすべきである。落第(留年)なら全額自己負担にすればみんな真面目に勉強するはずだ。

奨学金制度を導入すれば学生は勉強する。ゆとり教育で学費無料にすればたとえ勉強してもしなくても卒業するから真面目に勉強しない。私がアメリカに留学したときはまだ奨学金制度があったので、われわれ留学生は必死に勉強して奨学金を貰ったものだ。この経験からして学費無料化は学生の素質を低下させる最大の原因と断言できる

●英語を普及させる

台湾で問題になった英語の学力低下である人が以下のような提言をした。
台湾人は日常生活にいろいろな日本語の単語を使っている。例えば「セビロ」とか「ビール」、「ダンス」、「オートバイ」などである。だから彼はそれなら日常会話に英単語を取り入れれば英語がうまくなるだろうと言う。

私はこの提言に反対である。日本語の単語が出来ても日本語ができるのとは違う。それぞれの言語にはそれぞれの文法があって、文法が出来なければ出来ることにならない。例えば台湾人が日本に旅行して「運ちゃん」とか「おじさん」などと言ったとしても日本語ができたのではなく、むしろ無知、無教養をさらけ出しただけだ。言語の習得には「読む、書く、話す、聞く」を習う必要があり、単語だけではダメだ。

勉学に近道はない、教育に近道はない。国民の教養水準を高めるには国民教育の改革が焦眉の急である。

・・・筆者の勝手な推測ですが、Andy Chang氏は、戦前の日本の教育を受けられて、米国に留学され、定住されておられる台湾の方のようです。刻苦勉励して一廉(ひとかど)の方になられ、ブログを通して世の中に警鐘を鳴らされている、とお見受けします。ご紹介しました上記のお話は筆者も同様の懸念を持っています。一旦、国の教育の力を落とすと、それを是正するには大変な努力が要ります。世界の先進国でも日本同様、教育に対する懸念が起きています。

posted by at 14:35  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 16

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の「音読」の確認を筆者がします。音読の出来具合で、塾生のその日の調子や、内容の理解の確認をします。筆者が学んだ小学校高学年の恩師は、音読の重要さを常々語っておられました。句読点、間のあけ方、登場人物の心情などを表現するよう指示されました。

最近の子供さん方は、鼻呼吸できないことが多く、その矯正から音読は始まります。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

  Section 2 – From the end of isolationism to the Meiji Restoration

Topic 49 – Commodore Perry and the opening of Japan to the West

What events forced Japan to open its doors to the outside world?

The arrival of Perry

In June 1853 (Kaei 6), four heavily-armed American warships, dubbed “black ships” by the Japanese, appeared at the entrance of Edo Bay off the coast of Uraga (in modern-day Kanagawa Prefecture). The commander of this fleet was Commodore Matthew C. Perry, who carried an official letter from the President of the United States.

The shogunate was left with little choice but to accept the letter, which demanded that Americans sailing in the Pacific Ocean be allowed to enter Japanese ports if their steamships required food and water or were shipwrecked by a typhoon. Perry departed after informing the Japanese that he would return the following year to receive their reply.1

*1=If Japan refused to end its policy of isolationism, Perry planned to occupy the port of Okinawa as a storage site for steamship coal.

ペリーの2回の来航  ペリーは1852.11.24にアメリカ東岸ノーフォークから出発から出発。アフリカ南部やシンガポールを経由してマカオ・香港に到着。

 

 第2節 開国から明治維新へ

49 ペリーの来航と開国

 日本が開国せざるを得なくなった経緯は、どのようなものだったのだろうか。

ペリーの来航

 1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入り口の裏が(神奈川県)沖に姿をあらわした。率いるのはアメリカの海軍提督ペリーで、大統領の国書を携えていた。

 幕府はやむなく国書を受け取った。国書には太平洋を航行する蒸気船が食料や水を補給したり台風で遭難したりしたとき、日本の港に入ることを認めよと記されてあった。ペリーは回答を得るため、翌年また訪れることを告げて立ち去った*1。

*1=ペリーは幕府が開国を拒否した場合でも、蒸気船の燃料の貯蔵のために琉球の港を占拠する考えだった。

 

Elder Abe Masahiro’s dilemma

Once Perry had departed, Elder Abe Masahiro agonized over resolving the unprecedented crisis confronting Japan. Up to then, Western ships approaching Japan had been driven off with cannon fire. This policy was called joi, which means “expel the barbarians”. However, it was not possible for the shogunate to simply reject Perry’s demands, given the overwhelming military superiority of the US Navy. Even though the shogunate held the exclusive right to conduct diplomacy with foreign countries, Abe decided to break with tradition and solicit the views of the Imperial Court, the daimyo, and even the shogun’s retainers. Simultaneously, he ordered the creation of Odaiba, an artificial island in Edo Bay to be used as an artillery emplacement, and lifted the prohibition on construction of large ships. Though the daimyo had no useful ideas on the issue of national defense, the very act of consulting them enhanced their political influence over the shogunate. As the strength of the shogunate declined, the prestige of the Imperial Court also increased.

老中阿部正弘の苦悩 

 ペリーが去った後、老中・阿部正弘は、未曾有の国難に直面して頭を悩ませた。要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷は、圧倒的な軍事力の差のもとで不可能だった。外交はばむふの専権事項だったが、安倍は慣例を破り、朝廷をはじめとして、諸大名から幕臣に至るまで、国防についての意見を求めた。その一方で、お台場(砲台を据えた人口の島)をつくらせ、大船建造の禁を解いた。諸大名らには名案はなかったが、幕政に対する発言力を強め、朝廷の権威が高まり、幕府の統制力は低下していった。

ペリー提督・横浜上陸の図 1854年2月、ペリーの第二回来航。前年を上回る7隻(後に9隻)の艦隊を引き連れ、約500名の兵士が儀仗兵のいでたちで上陸。その整然とした隊列の動きは、さらに日本側を威圧した。

 

What Did Perry Think of the Japanese People?
(Excerpts from Perry’s Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)

“The people are universally taught to read and are eager for information… The Japanese with whom the Americans were brought into communication were not only thoroughly acquainted with their own country, but knew something of the geography, the material progress, and contemporary history of the rest of the world. Questions were frequently asked by the Japanese which proved an information that, considering their isolated situation, was quite remarkable…”

“Once possessed of the acquisitions of the past and present of the civilized world, the Japanese would enter as powerful competitors in the race for mechanical success in the future.”

“The Japanese are hard workers, but they compensate themselves with occasional holidays, and in the evenings and hours of leisure with frequent games and amusements.”

“The young girls are well formed and rather pretty, and have much of that vivacity and self-reliance in manners, which come from a consciousness of dignity, derived from the comparatively high regard in which they are held.”

 

ペリーは日本人をどう見たか(支那海と日本へのアメリカ艦隊遠征のペリーの物語からの抜粋)

 「読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。・・・lあれらは自国についてばかりか、他国のチリや物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた。」

「日本人が一度文明世界の過去・現在の技術を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう」

「日本人は一所懸命に働くが、時々の祭日を持って埋め合わせをし、また夕方や暇な時には勝負事や娯楽に興じる」

「若い娘は姿よく、とても美しく、立ち居振る舞いは大変活発で自発的である。それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているために生じる、品位の自覚からくるものである」

・・・ぺリーの日本人に対する観察眼は、冷静で客観的です。1853年当時の世界を見回しても、日本人の識字率の高さや教養(和歌・俳句を日常的に嗜むことなど)は群を抜いていたと推察できます。温和で誠実、人を揶揄しない特性は、今に至るまで現在の日本人に受け継がれています。

阿部正弘(文政2(1819)〜安政4(1857))は、江戸末期の備後福山藩第七代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行。嘉永7年(1854)、ペリーの再来により同年3月、日米和親条約を締結、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げました。正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努めました。更に講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設しました。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となります。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組みました。三九歳の若さで亡くなりましたが、日本の改革の先鞭をつけた偉人と言えます。

posted by at 16:54  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 15

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、漢字・平仮名・片仮名や数字を丁寧に書くよう指導します。大人になった時に、人前で文字を書く機会があるときに、恥をかかない為です。特に、一生書き続ける自分の名前は、丁寧にバランスを考えて書かせています。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

アヘン戦争の図 中国の帆船を砲撃するイギリス艦(右端)は最新の蒸気船で、産業革命によって生じた西洋とアジアの力の差を象徴している(東京・財団法人東洋文庫蔵)

 

The Opium War and Great Britain’s advance into China

Tea-drinking grew in popularity throughout Europe over the course of the eighteenth century. In Great Britain especially, Chinese tea became a daily necessity. Britain paid a hefty price in silver to Qing China in exchange for the tea. However, in order to recoup its losses, Britain started to grow the narcotic opium in India and secretly export it to China. As a result, silver flowed out of China.

When China banned importing of opium, Britain sent an armada to China, in the name of defending free trade. In 1840, British and Chinese forces clashed, marking the start of the Opium War. Great Britain used its naval superiority to blockade the Chinese coastline and, in 1842, finally forced China to sign the humiliating Treaty of Nanking, which ceded Hong Kong to Britain. Hamstrung by hefty war reparations, China soon had to sign similar unequal treaties with the other Western powers.

The Western powers were thus gradually consigning China to a quasi-colonial status. News of this reached Japan where it was met with great alarm.

Topic 48 Recap Challenge! – (1.) What word would you use to describe the state of the nations of Asia during the West’s age of expansion? (2.) Explain what methods were employed by the Western powers at this time to extend their influence over Asia.

 

アヘンを巡る三角貿易 ① 茶を輸入してイギリス本国で売り捌き、② イギリスの安い綿製品をインドに売り、③ アヘンを栽培させて清に売った。

 

インドのアヘン倉庫 広大なケシ畑と大規模な工場で生産されたアヘンが格納、管理されていた。

 アヘン戦争とイギリスの中国進出
18世紀になると、ヨーロッパ人に紅茶を飲む習慣が 広まった。特にイギリスでは、真から輸入する茶は生活必需品となり、代価として多数の銀を清に支払った。そのため、イギリスはインド人に麻薬のアヘンをつくらせ、これを密かに清に輸出したため、今度は清から銀が大量に流出した。
 清がアヘンの輸入を禁止すると、イギリスは自由貿易を口実に軍艦を派遣して戦争を仕掛け、1840年、アヘン戦争が始まった。圧倒的な力を持つイギリスの海軍が海上を封鎖して、1842年、清は香港の割譲などを含む屈辱的な南京条約に調印した。清は多額の賠償金に苦しみ、他の欧米列強とも不平等条約を結ばされた。
 こうして清は次第に半植民地の状態に置かれるようになっていった。この情報は日本にもたらされ、大きな衝撃を与えた。
 まとめにチャレンジ
① アジア諸国は、欧米列強の進出を受けてどのようになったか、一語で考えてみよう。
② その時の欧米諸国の進出の方法は、どのようなものであったか説明してみよう。

ケシの実 イギリスはインドの高原地帯でケシを栽培させ、アヘンに精製さした。今日、日本を含む多数の国で、ケシの栽培は固く禁じられている。

 

・・・現在の麻薬や禁止薬物の蔓延は、多くの国の人々を苦しめ、各国が撲滅運動を行なっていますが、その蔓延の端緒となったと言える歴史的な事実が、イギリスの行ったアヘンをめぐる三角貿易です。イギリスなどの欧米諸国が行なった「奴隷貿易」同様、世界史に記す大きな汚点です。力を信奉する国々の争いは、現在も続いています。

posted by at 15:54  | 塾長ブログ
さらに記事を表示する

月別アーカイブ

長崎|羅針塾学習塾トップページ

羅針塾 SNS

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter
PAGE TOP

新着ブログ

  1. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  2. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  3. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  4. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…
  5. 長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室 学習塾羅針塾です…

月別アーカイブ

羅針塾 SNS

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter