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「教育改革は焦眉の急」

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日々子供さん達の躾や教育に腐心されているお母さん方と話を致します。我が子であっても全く異なる人格を持つわけですから、性格や長所・短所を踏まえて、善き方向へ導いていかなければなりません。その際に、「我儘」をどの様にコントロールするかが鍵になります。

さて、筆者が日頃から読んでいる、国際ニュース解説と評論記事のブログ「AC通信」(Andy Chang氏主宰)からの引用です。

「教育改革は焦眉の急」(AC論説 No.684)http://melma.com/backnumber_53999_6657824/

教育改革の重要性が各国で討論されている。21世紀の大きな問題は若者の教養が明らかに低下していることだ。生活水準が向上し、食べ物も服装もよくなり、車も普及したが若者の教養が向上したとは思えない。教養とは知識の蓄積と、その知識を使ってものごとを考える力である。

スマホでメールやゲームや音楽を聴くことは出来ても遊んでばかりいると人間関係が希薄となり、社会的判断力が低下する。最近では教養のない若者が何か不満があるとすぐに集まって街頭でデモをやるようになった。だが街頭デモで気勢を上げても政治行動としては非効率なものである。デモ集会で国家が良くなるはずがない。

アメリカでは「読み書きそろばん」が出来ない大学卒も居るそうだ。台湾で近話題になったのは、大学入試の英語で100点満点をとった学生が17人居たが、0点を取った学生がなんと14,500人も居たと言う。大学入試を受けた高校卒業生の英語がこれほど貧弱とはオドロキだ。彼らは英語だけ出来ないのではなく、他の科目もダメだと思う。

高校卒の品質低下は国民の品質低下につながる。頭のよい17人が憲法改正を提唱しても、一万人以上の知識の低い人間が憲法を改正したら戦争になると言えば憲法改正は出来っこない。国民全体の知識水準を高める教育改正は焦眉の急である。

●社会文化の低下

昔は電車や汽車に中で本を読む人が多かったが、最近では90%がスマホでメールやゲームをやっている。メールやゲームで遊んでも知識を増やすことは出来ない。若者が本を読まないから出版社や書店の閉鎖が増えている。本を読まないと知識を得ることが出来ない。教養のない人間が増えると社会文化が低下する。科学の進歩が「一億総白痴」を生むとは皮肉なことだ。

物資が豊富になったから、生活に困らない程度の読み書きさえできれば個人の生活に困ることはない。しかし個人の需要は社会に共通の知識道徳とは違う。若者の教養が低下すれば社会文化の崩壊が起きる。

スマホが便利になって何でもスマホで検索すれば答えが出て来る。しかし検索した知識は個人の知識にはならず、人の思索に役立たない。昔の言葉で言えば軽薄な人間が増えるだけだ。

●文明とは国民全体の教養程度である

物資が豊富になって生活が楽になったけれど、人間として思考を満足させる生活、つまり社会に共通する宗教、道徳、学問、芸術など精神面の生活が豊かになったとは言えない。だから教育改革、物事を考える力を豊富にする教育が大切なのだ。

考える力を増すには本を読むことが第一である。スマホの普及で人が本を読まなくなったら思考力が衰える。思考力とは知識を蓄積し、その知識を使って日常生活で直面する事物を判断する能力である。

教養とは自分の知識を使って「なぜ(Why)」と考え、「どうして(How)」と理論づける能力だ。それが満足にできるようにするのが知識の蓄積、つまり教育である。本を読むことと実地に体験をすること、これが教育の本分である。読書とは本に書いてある「他人の知識と経験」から学ぶこと、体験とは自分で「なぜ、どうして、どうしたらよいか」を学ぶことだ。

●学費免除とゆとり教育は間違いだ

大学まで学費無料を主張する政治家も居るが、学費無料とゆとり教育は教育の失敗のもとである。この半世紀のあいだに世界諸国では高校卒業まで学費無料にした結果、学生の教育程度が下落した。大学も学費無料にしたらそれこそ税金の無駄遣いの上に大学の程度が低下する。

ゆとり教育が提唱されて以来、アメリカ、日本、台湾などで学生の質が下落した結果が出ている。大学でも学費無料にすれば大学卒業生の品質がさらに低下するだけである。ゆとりとは甘やかすことにほかならない。ゆとり教育で若者は勉強せず学習する気も無くなったと言える。

学費無料化より、高校生の学費を成績で決めるのが学習意欲を増進させる道である。つまり成績に比例して学費を払う制度である。成績をABCDとFで評価し、不合格Fなら次の学期は学費の100%を払う、Dの辛うじて合格なら50%払うとすべきである。落第(留年)なら全額自己負担にすればみんな真面目に勉強するはずだ。

奨学金制度を導入すれば学生は勉強する。ゆとり教育で学費無料にすればたとえ勉強してもしなくても卒業するから真面目に勉強しない。私がアメリカに留学したときはまだ奨学金制度があったので、われわれ留学生は必死に勉強して奨学金を貰ったものだ。この経験からして学費無料化は学生の素質を低下させる最大の原因と断言できる

●英語を普及させる

台湾で問題になった英語の学力低下である人が以下のような提言をした。
台湾人は日常生活にいろいろな日本語の単語を使っている。例えば「セビロ」とか「ビール」、「ダンス」、「オートバイ」などである。だから彼はそれなら日常会話に英単語を取り入れれば英語がうまくなるだろうと言う。

私はこの提言に反対である。日本語の単語が出来ても日本語ができるのとは違う。それぞれの言語にはそれぞれの文法があって、文法が出来なければ出来ることにならない。例えば台湾人が日本に旅行して「運ちゃん」とか「おじさん」などと言ったとしても日本語ができたのではなく、むしろ無知、無教養をさらけ出しただけだ。言語の習得には「読む、書く、話す、聞く」を習う必要があり、単語だけではダメだ。

勉学に近道はない、教育に近道はない。国民の教養水準を高めるには国民教育の改革が焦眉の急である。

・・・筆者の勝手な推測ですが、Andy Chang氏は、戦前の日本の教育を受けられて、米国に留学され、定住されておられる台湾の方のようです。刻苦勉励して一廉(ひとかど)の方になられ、ブログを通して世の中に警鐘を鳴らされている、とお見受けします。ご紹介しました上記のお話は筆者も同様の懸念を持っています。一旦、国の教育の力を落とすと、それを是正するには大変な努力が要ります。世界の先進国でも日本同様、教育に対する懸念が起きています。

posted by at 14:35  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 16

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の「音読」の確認を筆者がします。音読の出来具合で、塾生のその日の調子や、内容の理解の確認をします。筆者が学んだ小学校高学年の恩師は、音読の重要さを常々語っておられました。句読点、間のあけ方、登場人物の心情などを表現するよう指示されました。

最近の子供さん方は、鼻呼吸できないことが多く、その矯正から音読は始まります。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

  Section 2 – From the end of isolationism to the Meiji Restoration

Topic 49 – Commodore Perry and the opening of Japan to the West

What events forced Japan to open its doors to the outside world?

The arrival of Perry

In June 1853 (Kaei 6), four heavily-armed American warships, dubbed “black ships” by the Japanese, appeared at the entrance of Edo Bay off the coast of Uraga (in modern-day Kanagawa Prefecture). The commander of this fleet was Commodore Matthew C. Perry, who carried an official letter from the President of the United States.

The shogunate was left with little choice but to accept the letter, which demanded that Americans sailing in the Pacific Ocean be allowed to enter Japanese ports if their steamships required food and water or were shipwrecked by a typhoon. Perry departed after informing the Japanese that he would return the following year to receive their reply.1

*1=If Japan refused to end its policy of isolationism, Perry planned to occupy the port of Okinawa as a storage site for steamship coal.

ペリーの2回の来航  ペリーは1852.11.24にアメリカ東岸ノーフォークから出発から出発。アフリカ南部やシンガポールを経由してマカオ・香港に到着。

 

 第2節 開国から明治維新へ

49 ペリーの来航と開国

 日本が開国せざるを得なくなった経緯は、どのようなものだったのだろうか。

ペリーの来航

 1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入り口の裏が(神奈川県)沖に姿をあらわした。率いるのはアメリカの海軍提督ペリーで、大統領の国書を携えていた。

 幕府はやむなく国書を受け取った。国書には太平洋を航行する蒸気船が食料や水を補給したり台風で遭難したりしたとき、日本の港に入ることを認めよと記されてあった。ペリーは回答を得るため、翌年また訪れることを告げて立ち去った*1。

*1=ペリーは幕府が開国を拒否した場合でも、蒸気船の燃料の貯蔵のために琉球の港を占拠する考えだった。

 

Elder Abe Masahiro’s dilemma

Once Perry had departed, Elder Abe Masahiro agonized over resolving the unprecedented crisis confronting Japan. Up to then, Western ships approaching Japan had been driven off with cannon fire. This policy was called joi, which means “expel the barbarians”. However, it was not possible for the shogunate to simply reject Perry’s demands, given the overwhelming military superiority of the US Navy. Even though the shogunate held the exclusive right to conduct diplomacy with foreign countries, Abe decided to break with tradition and solicit the views of the Imperial Court, the daimyo, and even the shogun’s retainers. Simultaneously, he ordered the creation of Odaiba, an artificial island in Edo Bay to be used as an artillery emplacement, and lifted the prohibition on construction of large ships. Though the daimyo had no useful ideas on the issue of national defense, the very act of consulting them enhanced their political influence over the shogunate. As the strength of the shogunate declined, the prestige of the Imperial Court also increased.

老中阿部正弘の苦悩 

 ペリーが去った後、老中・阿部正弘は、未曾有の国難に直面して頭を悩ませた。要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷は、圧倒的な軍事力の差のもとで不可能だった。外交はばむふの専権事項だったが、安倍は慣例を破り、朝廷をはじめとして、諸大名から幕臣に至るまで、国防についての意見を求めた。その一方で、お台場(砲台を据えた人口の島)をつくらせ、大船建造の禁を解いた。諸大名らには名案はなかったが、幕政に対する発言力を強め、朝廷の権威が高まり、幕府の統制力は低下していった。

ペリー提督・横浜上陸の図 1854年2月、ペリーの第二回来航。前年を上回る7隻(後に9隻)の艦隊を引き連れ、約500名の兵士が儀仗兵のいでたちで上陸。その整然とした隊列の動きは、さらに日本側を威圧した。

 

What Did Perry Think of the Japanese People?
(Excerpts from Perry’s Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)

“The people are universally taught to read and are eager for information… The Japanese with whom the Americans were brought into communication were not only thoroughly acquainted with their own country, but knew something of the geography, the material progress, and contemporary history of the rest of the world. Questions were frequently asked by the Japanese which proved an information that, considering their isolated situation, was quite remarkable…”

“Once possessed of the acquisitions of the past and present of the civilized world, the Japanese would enter as powerful competitors in the race for mechanical success in the future.”

“The Japanese are hard workers, but they compensate themselves with occasional holidays, and in the evenings and hours of leisure with frequent games and amusements.”

“The young girls are well formed and rather pretty, and have much of that vivacity and self-reliance in manners, which come from a consciousness of dignity, derived from the comparatively high regard in which they are held.”

 

ペリーは日本人をどう見たか(支那海と日本へのアメリカ艦隊遠征のペリーの物語からの抜粋)

 「読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。・・・lあれらは自国についてばかりか、他国のチリや物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた。」

「日本人が一度文明世界の過去・現在の技術を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう」

「日本人は一所懸命に働くが、時々の祭日を持って埋め合わせをし、また夕方や暇な時には勝負事や娯楽に興じる」

「若い娘は姿よく、とても美しく、立ち居振る舞いは大変活発で自発的である。それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているために生じる、品位の自覚からくるものである」

・・・ぺリーの日本人に対する観察眼は、冷静で客観的です。1853年当時の世界を見回しても、日本人の識字率の高さや教養(和歌・俳句を日常的に嗜むことなど)は群を抜いていたと推察できます。温和で誠実、人を揶揄しない特性は、今に至るまで現在の日本人に受け継がれています。

阿部正弘(文政2(1819)〜安政4(1857))は、江戸末期の備後福山藩第七代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行。嘉永7年(1854)、ペリーの再来により同年3月、日米和親条約を締結、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げました。正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努めました。更に講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設しました。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となります。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組みました。三九歳の若さで亡くなりましたが、日本の改革の先鞭をつけた偉人と言えます。

posted by at 16:54  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 15

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、漢字・平仮名・片仮名や数字を丁寧に書くよう指導します。大人になった時に、人前で文字を書く機会があるときに、恥をかかない為です。特に、一生書き続ける自分の名前は、丁寧にバランスを考えて書かせています。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

アヘン戦争の図 中国の帆船を砲撃するイギリス艦(右端)は最新の蒸気船で、産業革命によって生じた西洋とアジアの力の差を象徴している(東京・財団法人東洋文庫蔵)

 

The Opium War and Great Britain’s advance into China

Tea-drinking grew in popularity throughout Europe over the course of the eighteenth century. In Great Britain especially, Chinese tea became a daily necessity. Britain paid a hefty price in silver to Qing China in exchange for the tea. However, in order to recoup its losses, Britain started to grow the narcotic opium in India and secretly export it to China. As a result, silver flowed out of China.

When China banned importing of opium, Britain sent an armada to China, in the name of defending free trade. In 1840, British and Chinese forces clashed, marking the start of the Opium War. Great Britain used its naval superiority to blockade the Chinese coastline and, in 1842, finally forced China to sign the humiliating Treaty of Nanking, which ceded Hong Kong to Britain. Hamstrung by hefty war reparations, China soon had to sign similar unequal treaties with the other Western powers.

The Western powers were thus gradually consigning China to a quasi-colonial status. News of this reached Japan where it was met with great alarm.

Topic 48 Recap Challenge! – (1.) What word would you use to describe the state of the nations of Asia during the West’s age of expansion? (2.) Explain what methods were employed by the Western powers at this time to extend their influence over Asia.

 

アヘンを巡る三角貿易 ① 茶を輸入してイギリス本国で売り捌き、② イギリスの安い綿製品をインドに売り、③ アヘンを栽培させて清に売った。

 

インドのアヘン倉庫 広大なケシ畑と大規模な工場で生産されたアヘンが格納、管理されていた。

 アヘン戦争とイギリスの中国進出
18世紀になると、ヨーロッパ人に紅茶を飲む習慣が 広まった。特にイギリスでは、真から輸入する茶は生活必需品となり、代価として多数の銀を清に支払った。そのため、イギリスはインド人に麻薬のアヘンをつくらせ、これを密かに清に輸出したため、今度は清から銀が大量に流出した。
 清がアヘンの輸入を禁止すると、イギリスは自由貿易を口実に軍艦を派遣して戦争を仕掛け、1840年、アヘン戦争が始まった。圧倒的な力を持つイギリスの海軍が海上を封鎖して、1842年、清は香港の割譲などを含む屈辱的な南京条約に調印した。清は多額の賠償金に苦しみ、他の欧米列強とも不平等条約を結ばされた。
 こうして清は次第に半植民地の状態に置かれるようになっていった。この情報は日本にもたらされ、大きな衝撃を与えた。
 まとめにチャレンジ
① アジア諸国は、欧米列強の進出を受けてどのようになったか、一語で考えてみよう。
② その時の欧米諸国の進出の方法は、どのようなものであったか説明してみよう。

ケシの実 イギリスはインドの高原地帯でケシを栽培させ、アヘンに精製さした。今日、日本を含む多数の国で、ケシの栽培は固く禁じられている。

 

・・・現在の麻薬や禁止薬物の蔓延は、多くの国の人々を苦しめ、各国が撲滅運動を行なっていますが、その蔓延の端緒となったと言える歴史的な事実が、イギリスの行ったアヘンをめぐる三角貿易です。イギリスなどの欧米諸国が行なった「奴隷貿易」同様、世界史に記す大きな汚点です。力を信奉する国々の争いは、現在も続いています。

posted by at 15:54  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 14

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、「春一番」のような風雨の激しい中でも(中にはずぶ濡れになりながらも)塾生は元気に通塾してくれます。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

Topic 48 – The Western invasion of Asia

How did the Western powers advance into Asia?

Great Britain’s colonization of India

Following their industrial and people’s revolutions, the Western powers overran Asia with the twin objectives of securing plentiful sources of cheap raw material and gaining access to markets where they could sell their own mass-manufactured products. The country leading this charge into Asia was Great Britain.

Great Britain’s conquest of India was spearheaded by the British East India Company, which inundated India with its mass-produced cotton textiles.1 India’s handicraft manufacturing lost out to stiff competition from cheaper British products and many craftsmen were deprived of their livelihoods.2

*1=This company was founded in 1600 with a monopoly on trade in Asia granted by the King of Great Britain.

*2=By contrast, the British government imposed high tariffs of up to four hundred percent on Indian goods entering Great Britain to prevent them from undercutting Britain’s own industries.

In 1857, India was rocked by a mutiny of Indian soldiers known as sepoys, who were serving the British East India Company. When the mutineers were joined by disaffected Indian farmers and craftsmen, it transformed into a national revolt. Great Britain responded by crushing the rebels through force of arms and imposing direct rule over all of India. With that, India became a British colony.

19世紀後半のヨーロッパ列強のアジア進出地図

 

48  欧米列強のアジア進出

 欧米諸国は、どのようにアジアに進出したのだろうか。

 イギリスによるインド支配

産業革命と市民革命を成し遂げた欧米諸国は、安い原材料を大量に確保するため、また、大量生産された自国の商品を売る市場を求めて、アジアに進出した。欧米列強の先頭に立っていたのは、イギリスだった。

 インドに進出したイギリスは、イギリス東インド会社*1が主体となって、大量生産した綿織物をインドに売り込んだ。インドの手工業は、安価なイギリス製品との競争に負けて衰え*2、多数の職人が失業した。

 1857年、東インド会社に雇われていたインド兵の反乱(セポイの乱)をきっかけに、不満を持っていた手工業者や農民が合流し、全国的な反乱になった。これを武力で鎮圧したイギリスは、インド全土を支配下におさめ、植民地とした。

*1 1600年設立された、イギリス国王からアジア貿易の独占権を与えられた会社。

*2 イギリスは自国の製品と競合するインド産の品目を、時には400%にものぼる高い関税をかけて締め出した。

 

セポイの反乱 インドを支配するイギリス人をインド兵が襲ったが、鎮圧された。イギリスはインドを植民地にした。

 

綿織物の輸出額の推移 産業革命とともに、インドからの製品輸出はほとんど消滅している。

 

 The military superiority of Europe

During the three hundred years between the sixteenth and eighteenth centuries, the nations of Europe were locked in a state of near-constant warfare. With the beginning of the Industrial Revolution, each nation adopted the latest military technologies, including advanced firearms, artillery, and warships. Consequently, a huge disparity emerged between the military strengths of European and Asian nations.

In Japan, the formation of the Edo shogunate at the start of the seventeenth century ushered in an era of peace during which the development of new military technology was actively discouraged.

During the nineteenth century, European peoples utilized their overwhelming military supremacy to colonize the nations of Asia, one by one.

 

 軍事力の格差

 16世紀から18世紀に至る300年間に、ヨーロッパでは国家が相争うことが多くなっていった。その間に産業革命が産業革命が始まり、鉄砲、大砲、軍艦などの軍事技術も発達し、ヨーロッパとアジア諸国との軍事力の格差が広がっていった。

日本では、17世紀の初めに成立した江戸幕府が、軍事技術の発達をむしろ抑制して平和な社会をつくっていた。

 19世紀に入ると、軍事力で圧倒的優位に立つヨーロッパ人は、アジア諸国を次々に植民地化していった。

 

・・・英国が最も多くの広大な植民地を獲得した時代は19世紀末から20世紀初頭にかけてであり、第一次大戦直前(1914年)には、その総面積は3350万k㎡(陸地総面積の22%)で、支配下の総人口は4億人(当時の世界人口18億の20%以上)であったたという推計があります。同時代の露(ロシア)の全面積の1.5倍、世界第2位の植民地帝国フランスの3倍の面積を誇っています。

現在の英国は、かっての植民地を失っても、イギリス連邦((イギリスれんぽう、Commonwealth of Nations、旧名:British Commonwealth)は、かつての大英帝国がその前身となって発足し、主に英国とその植民地であった独立の主権国家から成る、つまり緩やかな国家連合(集合体)の盟主として依然国際的な存在感を誇っています。

英国の全盛期は、19世紀中葉(1830〜70)のビクトリア期です。その時代の英国の政治家ディズレイリの国会での演説が残されています。

「アメリカとロシアの平原は我々の畑であり、シカゴやオデッサは我々の穀物倉庫である。カナダや北欧には我々の(木材用の)森林があり、我々の牛はパンパ(アルゼンチン)の牧場で飼われ、オーストラリアの牧場では我々の羊毛が刈られている。地中海のブドウ(ワイン)、中国の茶や絹、西インドの砂糖、ブラジルのコーヒーは我々のために作られている。インド、アメリカ、エジプト、その他世界の全ての綿花は我々の工場の原料となる。我々の工場から出荷される製品は全世界に売られ、それらの決算をするのは我々のカリフォルニアとオーストラリアの金、ペルーの銀である」

英国は、現在でも国際金融を牛耳っています。

posted by at 21:48  | 塾長ブログ

9歳の壁

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、様々なご家庭の教育環境についてお話しすることが多々有ります。子供の成長を植物の成長に例えると、「土作り」が根本だからです。親は、子供が成長し長い人生の中で果実を手に入れる為に、根をしっかり張り、太い幹を具えた大樹になって欲しいものです。その為には、種を蒔く土壌の改良が何よりも重要です。昔から、日本のお百姓さんは、「土作り」に創意工夫をしてきました。これは、私達の先祖や先人が施してきた子供への教育も同様です。親御さんが、子供が生まれる前から、「土作り」=「家庭の教育環境作り」をし始める事が出来たら理想的です。

さて、

関東や関西など中学受験に熱心な地域での苛烈な競争の中で、「9歳の壁」という言葉がよく語られます。これは、難関中学受験のための基礎学力を身につけているか、という意味合いもあります。しかし、一般的には、9歳前後に学習や学校生活、友人との関係でなんらかの問題が起こり、それを乗り越えることに苦慮することを指しています。

学力だけに着目すると、9歳は小学校3、4年生に当たり、算数では少数・分数、理科では電気など、それまでの内容よりも抽象的な思考を必要とするものが増えてきます。つまり、教科書に書いてある説明を読んで理解する力があれば問題はありませんが、読んでも分からないなど、「語彙力」「読解力」がないことからくる躓(つまず)きがあると、後々大きな影響が出ます。

「9歳の壁」を乗り越えられるか否かは、その前提となる小さな壁を次々と乗り越えてきているか、だと考えます。つまり、言葉の意味合いを理解する訓練を幼少期から着実にしているかどうか。敢えて言えば、「9歳の壁」の前に、「5歳の壁」も有ります。

小学校就学前に、他人とのコミュニケーションを取ることができるか。「自律」並びに「「自立」する訓練ができているか。

通常、子供達にとっては5歳までは褒められることはあっても、厳しく接っしたり、放っておく大人達の存在は身近にありません。普段から様々なことに親が手助けをしていると、自分で考えたり、工夫をしたり、更に困難を越える力はつきません。また、親が育つに任せ放任するのも同様です。5歳までの間に、徐々に自立できるよう力をつけてあげるのは親、特に母親の責任です。

posted by at 14:17  | 塾長ブログ
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