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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 11

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、インフルエンザが流行していることもあり、塾生の健康管理には普段から気をつけています。より良く学ぶ為には万全の体調を維持する必要があります。

さて、

平成三十年二月九日からKoreaで始まる冬季オリンピックは、北朝鮮の核と長距離弾頭弾の開発がもたらす日・米とChina・南北朝鮮間の緊張のさなかで行われます。百年以上も前に、日本・朝鮮・清(China)との関係を、福澤諭吉が喝破していた通りの展開が現在も進行し、日本の国難は続いています。

そこで、この「英語と歴史を同時に学ぶ」の1で一部ご紹介した福沢諭吉の『学問のすすめ』と「脱亜論」の続きです。

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ その8-第4章「近代の日本と世界(I)―幕末から明治時代」http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf からの引用です。

 

Saving Japan from the “wildfire”

In the same line of thought, Fukuzawa hoped that Japan’s neighbors in Asia, Korea and Qing China, would also assert their independence in order to resist Western imperialism. He believed that all three nations would have to help their people accept enlightened values, quickly modernize their societal structures, and then join forces to defeat the encroachments of the Western powers. Contrary to Fukuzawa’s high expectations, events did not transpire in the way he had desired.

From the Opium War and onwards, China was repeatedly invaded by the Western powers, including Great Britain, France, and Russia, but it hesitated to modernize its political and social structures. Under the tributary system, Korea stagnated under Chinese tutelage and proved unable to institute the reforms needed to modernize its national defenses even as Russian power bore down on the Korean Peninsula from the north. Indeed, some Chinese and Korean leaders scorned Japan’s policy of “civilization and enlightenment” as “aping the West”.

Fukuzawa refused to simply turn a blind eye to the problems of Japan’s Asian neighbors. He explained the situation as follows:

“Europe’s current advance into Asia is just like a spreading wildfire. Japan cannot save itself from the wildfire just by building its own home out of stone. As long as the other homes in the neighborhood are built of cheap wood, Japan will have no chance of escaping the spreading flames.”

Thus, because Japan, Korea, and China were all homes on the same street, Japan would only be safe once it had ensured that the other two homes were also built of stone, if necessary by applying a degree of coercion towards their owners. This was the analogy Fukuzawa chose to illustrate Japan’s urgent need to modernize not only itself, but its neighbors as well.

 

「火事」から日本を守るには

 福沢は、同じ考えのもと、お隣の朝鮮も清(中国)も、外国に侵されない、独立した国になることを望みました。東アジアの3国が、自国の国民を啓蒙するとともに、社会の仕組みを一日も早く近代化し、互いに手を取り合って西洋のアジア進出に対処していかねばならない、と考えたのです。しかし、現実は、福沢の望み通りには進みませんでした。

 アヘン戦争以後の清は、イギリス、フランスロシアなど西洋列強によって国土を侵されてきましたが、政治や社会の仕組みの近代化が立ち遅れていました。朝鮮は、その清を宗主国とする冊封体制にとどまっていました。南下政策をとるロシアが朝鮮半島を狙っていることに対しても、近代的な国防の仕組みを十分につくることができませんでした。また、日本が開化政策をとっていることを、「西洋かぶれ」と反発した勢力もありました。

 福沢は、このような隣近所の国々のあり方を見過ごすことができませんでした。彼はその状況を以下のように説明しました。

「いま西洋が東洋に迫るその有様は、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすれば済むというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼は免れないからである。」

 日本・朝鮮・清という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでも我が家に等しい石造りの家を作らせることが必要である。これが福沢の考え方でした。

 

時事新報 1882(明治15)年に福沢諭吉が創刊した新聞。1885年3月16日付に「脱亜論」が掲載された。

 

Korea’s failure to modernize and Leaving Asia

Within the Korean government, some politicians understood the gravity of the crisis their country was facing. One of them was Kim Ok-kyun. Fukuzawa was in contact with Kim Ok-kyun and other members of his Enlightenment Party, and he aided their efforts to have the Korean government pursue a pro-modernization agenda.

Fukuzawa also urged that all Koreans be educated to read and write in hangul, a Korean alphabetic script that was not widely used, despite having been invented by Korea’s ruling Choson dynasty in the fifteenth century.

Nonetheless, there were also many ultraconservative political figures in the Korean government who opposed the Enlightenment Party and sought to thwart their policies of modernization. In addition, China exerted military pressure on Korea to prevent it from breaking free of its tributary status and interfered with Korea’s progress towards modernization. In 1884 (Meiji 17), Kim Ok-kyun and the Enlightenment Party attempted to seize power with Japanese support in the hopes of completing the modernization of their country. This event, known as the Kapsin Coup, proved short-lived when the Chinese government declared its intention to “protect” its tributary and had its armed forces quickly crush Kim’s uprising.

The failure of the rest of East Asia to modernize did much to disillusion Fukuzawa. Immediately after the Kapsin Coup, he penned the essay Leaving Asia, which expressed his new way of thinking that, “Our country can no longer hope to resist the advance of the West by joining forces with Korea and China as they are now. From now on, we will have no choice but to work with the Western countries and play by their rules.” Regardless, Fukuzawa did not adopt an uncompromising stance right away. He continued to insist afterwards in his speeches and writings that China and Korea would experience a great awakening.

 

朝鮮近代化の挫折と「脱亜論」

 朝鮮政府の中には、自国の置かれている危うさに気づいている政治家もいました。その一人が金玉均でした。福沢は、金玉均たち開化派に働き掛け、朝鮮政府が近代化政策を進めるのを支援しました。

 朝鮮王朝によって15世紀に発明されながら十分に普及していなかったハングル文字を、国民教育のために使用することを勧めたのも福沢でした。

 しかし、朝鮮政府の中には、開化派に反感を抱く守旧派の政治家たちもたくさんいて、開化派が進めようとする近代化政策に反対しました。朝鮮を属国と見ている清は、朝鮮に軍事的な圧力をかけ、朝鮮の近代化政策に干渉しました。1884(明治17年)、金玉均たちの開化派は、日本を後ろ盾として、国の近代化を図るためのクーデターを起こしました。清は「属邦保護」を名目に干渉し、軍隊によって鎮圧しました(甲申事変こうしんじへん)。

 近代化が十分に進まない東アジアの状況に対して、福沢はなかば絶望しました。そして、甲申事変のすぐあとに、「脱亜論」という論文を発表し、「我が国は、もはやこのような朝鮮や清と連携して西洋の進出に対抗することはできない。これからは、西洋諸国のやり方に従って、付き合うしかない」と主張しました。しかし、すぐに強硬な姿勢をとったわけではなく、その後も朝鮮や清の覚醒を期待しつつ、粘り強く言論活動を続けました。

・・・「進取の気象」に富む日本の先人達は、困難な状況でも希望を失わず、前向きに物事に取り組んできました。現在の日本を取り巻く状況も、Chinaや北朝鮮、ロシアの「核」の脅威が厳として存在する以上、日本は存亡の危機に瀕しています。七〇年以上の見せかけの「平和」に狎れ、所謂「平和ボケ」から日本人自身がいち早く脱却しなければ、福澤諭吉が危惧していた「脱亜論」で言う所の「支那・朝鮮」と同様の苦しみを、子供達が味わうことにもなりかねません。その為にも、学校で学ばない「近現代の歴史」を学ぶ必要があります。

posted by at 16:14  | 塾長ブログ

明治百五十年の意義

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、インターネットを活用して、様々な考えや意見を参照しつつ、物事の見方を学んでいます。平成30年(2018)は、明治維新から百五十年。筆者は中学生の時に、明治百年を慶祝する行事をTVで見た記憶が有ります。小学校の社会で、時の担任の恩師にしっかり日本史を学んだお陰で、当時の中学生のレベルからすると、明治維新の意義を理解していたように思います。では、現在の小学校や中学校の担任の先生方が、明治百五十年の意義を子供達に語れる先生がどれほどおられるでしょうか。余程、自ら日本の歴史を学んだ先生以外は語れないのが当然です。なぜなら、これは現在の先生方のせいではなく、その先生方が、小学生や中学生であった時の先生方や大人達が、日本の歴史を様々な角度から語って来なかったからと考えます。

そこで、このような見方・考え方・歴史観があるのだという意味で、以下のブログの記事をご紹介します。

「西村眞悟の時事通信 http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1405」からの引用です。少々長い論説ですが、原文から何を学べるかという意味合いで、全文を転記致します。

明治天皇御影

天皇と士魂が明治維新を実現した   平成30年1月31日(水)

 

本年、平成三十年が、
京都における「五箇条の御誓文」と「国威宣布の宸翰」の発布、
そして同日の江戸における徳川幕府軍と新政府軍との江戸無血開城合意、
の為された慶応四年戊辰(1868年)三月十四日、
元号改まって明治元年から百五十年。
それ故、世は盛んに、明治維新から百五十年、という。そこで、本年が、明治百五十年であることの意義とは何かを改めて指摘したい。
それは、単なる、「歴史の回顧」としての明治百五十年ではなく、
現在の歴史段階と我が国を取り巻く厳しい内外の情勢の中で、
明治維新が、我が国が国難を克服する生きたモデルとして作用するからである。
明治維新は、現在における国難克服の指針である。
しかも、それは単なる「近代化」のモデルではなく、
日本的変革の指針だ。
即ち、明治維新は、
日本が日本でなくなるための変革ではなく、
日本が日本であり続けるための変革の指針である。
ここに明治百五十年を意識する戦略目的がある。
また、明治維新が、国家の存続のために、
「徳川幕藩体制」から脱却して
近代国民国家になる変革であるならば、
現在の我が国も、国家の存続のために、国家のサバイバルのために、
「戦後体制」=「日本国憲法体制」=「マッカーサー憲法体制」から脱却して、
自立した近代国民国家になる変革を実施しなければならない。よって、この戦略目的の観点から
明治維新を成り立たせた前提を自覚する必要がある。
それは、我が国の
「万世一系の天皇」と「士魂の系譜」である。
そして、我が国の「士魂」とは「万世一系の天皇」と不可分である。
幕末の武士で明治二十一年まで生き山岡鉄舟が言うように、
我が国の「士魂」(武士道)は我が国の開闢(筆者注:開闢(かいびゃく)・・・天地の始まり、世の中の始まり。)とともにある。
我が国の開闢とは、即ち、天照大神(筆者注:あまてらすおおみかみ)の天壌無窮の神勅(筆者注:てんじょうむきゅうのしんちょく)、とともにあるということだ。近来、改革論議が盛んで、
猫も杓子も、選挙が迫れば改革を訴え、
カタカナを使えばうけると思えば「リセット」とも言っている。
ある総理は、構造改革とは郵政民営化です、郵政民営化とは構造改革です、
というような訳の分からんことを言って民衆を煽って成功し、
その成功例をもう一度と、大阪でも東京でも、都構想とか三都物語とか・・・、
民衆を煽る材料には事欠かない。
しかし、これは、結局、人目をひくための芸能プロダクション的集客戦略に過ぎない。
何時までも煽られ続けていれば危うい。
我が日本の真の改革は、
天皇と士魂から生まれる。
このこと、現在の戦後時代では保守反動というレッテルを貼られるのだが、
それこそ、明治維新百五十年であるが故に、自信を持って言っておく。

従って、この観点からみて、
明治維新とは何時なのか、と問われれば、
慶応三年暮れの大政奉還と王政復古の大号令から
五箇条の御誓文と国威宣布(筆者注:こくいせんぷ)の宸翰(筆者注:しんかん 天子直筆の文書)の発布
そして、
徴兵令から廃藩置県を経て
明治十年九月二十四日の城山における西郷南洲の戦死まで、
これが明治維新だとしたい。
西郷南洲は、我が国に「士魂」を残すために死んだからである。

次に、戦後の史観は、マルクス史観に影響されて、
明治維新をフランス革命やプロレタリア革命と同様の次元で把握しようとしている。
しかし、明治維新は、フランス革命やロシア革命とは全く違う。
フランスやロシアの革命は、
過去と切断された無秩序と暴力のなかの殺戮である。
ルイ十六世とニコライ二世の殺害がその象徴である。
これに対して、我が国の明治維新は、王政復古の大号令によって始まった。
また、フランス革命やロシア革命は、
二十一世紀のフランスやロシアの改革の指針にはなり得ないが、
明治維新は二十一世紀の日本改革の指針であり日本的改革の原点である。
さらに、
フランス革命やロシア革命の構造と我が明治維新の構造を同一視して、
フランス革命が王党派とジャコバン派の抗争で、
ロシア革命がブルジョアとプロレタリアの両敵対勢力の抗争であったのと同じように、
明治維新も佐幕派と討幕派の武力衝突が本質であるとして、
討幕派の歴史観ではなく佐幕派の歴史観に立てば、
吉田松陰はテロリストになるというような議論が為されたりするが、
江戸無血開城が成ったことでも明らかなように、
天皇の下での明治維新は、彼ら西洋世界の革命とは全く違う。

ここで、
天皇と日本の淵源である
天照大神の天壌無窮の神勅と
士魂(武士道)の系譜を指摘しておく。

天壌無窮の神勅にある
「宜しく爾皇孫就いてしらせ」即ち「爾、皇孫、就(ゆ)いて、しらせ」
の「しらせ」とう文言に注目する。
この言葉こそ、大日本帝国憲法を起草した井上毅が、
古事記、日本書紀などの我が国の古典を調べ尽くした中で、
最も注目した言葉であろうと思う。
この「しらす」こそ、
天皇の統治の本質である。
しらす、とは・・・
「人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るも、
みな、自分以外にある他の物を、我が身に受け入れて、
他の物と我とが一つになること、即ち、自他の区別がなくなって、
一つにとけこんでしまうこと」(「宮中見聞録」元侍従次長 木下通雄著)である。
つまり、天皇がしらす国、即ち、日本とは、
天皇と国民が溶け合って一つの家族のように自他の区別がなくなる国のことである。
従って、
明治維新の王政復古の大号令とは、
日本を天皇を戴く一つの家族の国に戻す号令であった。

三年間の税収途絶で、ボロボロの着物を着て雨が漏れる廃屋の皇居に住んでいる
仁徳天皇が、
民の竈から煙が上がるのを眺められて「我、すでに富めり」と言われたのは、
まさに、民と自分が一つの家族だと実感されていたからである。
また明治元年の国威宣布の宸翰で
明治天皇が、
「天下億兆一人も其の所を得ざるときは、皆朕が罪なれば」
と言われたのも民とご自分が家族だと思われているからである。
もちろん、敗戦の我が国の津々浦々を巡幸された
昭和天皇も、
東日本大震災の被災地を度々見舞われた
今上陛下も、
皆、国民と家族だと思われている。

これが、日本という国の姿、即ち、國體(筆者注:こくたい 国家の状態、国柄)である。
我が国は、
如何なる「近代化」のなかでも、
如何なる「グローバリゼーション」のなかでも、
この「天皇のしらす国」という國體を維持しなければならない。
これが、日本的改革の要である。

次に、「士魂」であるが、
我が国の士魂は、
この「天皇のしらす国」に生まれた「士魂」である。
従って、「士魂」は、
天皇のもとでの「和」を回復する為の武力(兵法)であり誠心誠意の精鋭である。
即ち、天皇のもとで正々堂々と死ぬことを恐れないことが士魂の根底にある。
ここが、
異民族の殲滅のための武力を前提として、
武とは、敵を欺くこと、
即ち、詭道(きどう)であると説く支那の「孫子」との決定的違いだ。
敵を欺くことを基本姿勢とするとは、結局、死ぬことが怖いのである。

私の心に浮かんだ我が国の「士魂」の系譜を次に記しておく。

・弟橘姫命(筆者注:おとたちばなひめのみこと)・・・日本武尊の為に入水する。即ち、最も清冽で尊い自己犠牲の姿
・文永の役(一二七四)・・・対馬の宗助国ら八十四騎は、
   対馬の小茂田浜に上陸した雲霞の如き蒙古勢に微笑みながら突撃して玉砕した。
・湊川の戦い(一三三六)・・・楠正成ら七百騎玉砕、七生報国を誓う、以後、挙族殉皇
・徳川光圀の湊川建碑(元禄五年、一六九二)・・・楠正成戦死の地に建ったこの碑
   「嗚呼忠臣楠子之墓」こそ、
    西国街道を行き来する庶民に楠正成の忠孝の志を廣く伝えた。
・赤穂浪士吉良邸討ち入り(元禄十五年、一七〇三)・・・不滅の士魂
   吉良の家は、足利の本家筋。従って、その吉良の首を取った大石内蔵助は
   楠正成の生まれ変わりだと人々は思い、次の歌を流行らせた。
     楠のいま大石となりにけり なほも朽ちせぬ忠孝をなす
・嘉永六年(一八五三)・・・黒船来航、幕末(今楠の時代)始まる
・安政六年(一八五九)十月二十七日・・・吉田松陰斬首、大和魂、士魂を残す
・慶応三年(一八六七)十月十四日、大政奉還、十二月九日、王政復古の大号令
・明治元年(一八六八)三月十四日、五箇条の御誓文、国威宣布の宸翰、江戸無血開城
 四月二十一日・・・湊川神社創建を命じられる
・明治十年九月二十四日・・・西郷南洲、戦死、
  生死何疑天附與 願留魂魄護皇城
「生死なんぞ疑わん、天の付与するを、願はくば 魂魄を留めて皇城を守らん」
これは、沖永良部に幽閉されていた時の西郷南洲の漢詩であるが、
皇居の武道館横の近衛歩兵第一連隊跡地には、
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからずとは雖も、
選ばれて近衛兵となり、
輦下に奉仕せる吾等、
たとい魂魄となりても永久に皇居を守護し奉らん。」
と刻まれている。
西郷南洲の士魂が、ここに受け継がれている。

 

・・・如何でしょうか。読まれる方には、歴史的な背景や字義など、ご存知ない事が若干有るかとは思いますが、熟読含味すると得心できるようになられるかとは思います。歴史を勉強するのは「ツマラナイ」という思いを持たれた方に、歴史は多くのドラマの積み重なりと考えて頂くと、「ツマラナイ」歴史が新鮮に見えることと思います。

これからの日本を担っていく子供達に、様々な角度から日本の歴史を学んでもらうことが、国際的な認識を持つ日本人になっていく大切な鍵だと考えます。

posted by at 08:28  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 10

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生に辞書の活用法を身に付けて欲しいと考えています。惜しむらくは、現在の小・中学・高校生が普段使いするような辞書には、掲載されていない漢字や熟語があることです。そのときには、様々工夫をして調べるようにしています。

さて、明治の日本では西洋の列強に伍していく為にも憲法制定に腐心しました。戦後の学校教育では、米国に占領されていた昭和21年、米国から半ば強制的に大日本帝国憲法を改正させられた経緯は教えられていません。現在の憲法は、明治22年に制定された大日本帝国憲法を「木に竹を接ぐ*」形で公布されました。したがって、有史以来長い歴史を連綿とつないで来ている日本の国柄を理解する為にも、明治期の大日本帝国憲法の成立過程や内容を知っておく必要があります。

以下の記述は、中学の歴史教科書ですが、非常にポイントを突いています。

*木に竹を接ぐ・・・性質の違うものを繋ぎ合わせる。調和が取れぬことの喩え。

 

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ その8-第4章「近代の日本と世界(I)―幕末から明治時代」http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf

Topic 60 – The Meiji Constitution and the foundation of a constitutional state

What principles were enshrined within the Meiji Constitution?

The promulgation of the Meiji Constitution
 On February 11, 1889 (Meiji 22), the Meiji Constitution, officially titled the Constitution of the Great Japanese Empire, was promulgated. On that day, raucous festivities took place throughout Tokyo, even though the city was still blanketed by the snowfall of the previous night. Celebratory gunfire rang out, costumed revelers went on parade, and floats snaked their way through the streets.

The Meiji Constitution affirms in its first articles that the Emperor reigns over Japan. However, the government’s actual policies were to be enacted in accordance with the advice of the Emperor’s ministers, and the Emperor himself bore no political responsibilities.*1 The Meiji Constitution obligated all Japanese subjects to pay taxes and serve in the military, but guaranteed their rights to freedom of speech, assembly, association, residence, movement, and religion within the bounds of the law. Japanese subjects also had the right to vote for members of the House of Representatives in free elections. The enactment of budgets or laws required the consent of the national assembly, which was called the Diet. The Diet was composed of two houses: the popularly elected House of Representatives and the House of Peers, which included both peers and other distinguished men, such as scholars or bureaucrats, who were appointed by the Emperor.

*1=This concept is contained within Article 3 of the Meiji Constitution, stating that, “The Emperor is sacred and inviolable.” This article meant that the Emperor could not be held responsible for political decisions, but the implication of it was that the Emperor held no right to make political decisions.

60  大日本帝国憲法と立憲国家
 大日本帝国憲法は、どのような内容だったのだろうか。
大日本帝国憲法の発布
 1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。この日は、前夜からの雪で東京市中が一面の銀世界となったが、祝砲が轟き、山車が練り歩き、仮装行列が繰り出し、祝賀行事一色となった。
 大日本帝国憲法は、まず天皇が日本が統治すると定めた。その上で実際の政治は、各大臣の輔弼(ほひつ:助言)に基づいて行うものとし、天皇に政治的責任を負わせない*1こともうたわれた。国民には兵役と納税の義務があるとともに、法律の範囲内での言論・集会・結社・居住と移転・信教などの自由が保障された。また、国民は選挙権をもち衆議院議員を選ぶことになった。法律や予算の成立には議会の承認が必要とされた。議会には国民の選挙による衆議院のほか、華族や功労ある学者および官僚出身の議員などからなる貴族院が置かれた。
*1 憲法の第3条が、その条文にあたる。条文の意味は、天皇に政治責任を問うことはできないというもので、その裏には、天皇は政治的決定権を持たないという意味を含んでいた。

大日本帝国憲法の発布(左図) と 憲法発布式桜田之景(右図)

<上図の説明>

左図 大日本帝国憲法の発布 1889(明治22年)2月11日、前年10月に完成したばかりの皇居新宮殿で、天皇が憲法原本を総理大臣の黒田清隆に手渡した。(東京憲政記念館蔵)

右図 憲法発布式桜田之景 祝賀の観兵式に臨む天皇を乗せた馬車が、皇居を出るところを描いており、周囲では憲法の誕生を祝う人々が、お祭り騒ぎを繰り広げている。(東京都立中央図書館蔵)

A Constitution Praised Inside and Outside Japan

At the time that the Meiji Constitution was proclaimed, it garnered praise even from stridently anti-government newspapers that described it as “truly commendable” and “far better than what we expected”. Once the Meiji Constitution was translated and sent abroad, it elicited a similar response in other countries. One British newspaper wrote that, “There is something romantic about this deliberate establishment of a Parliamentary Constitution in an Eastern land. It is a tremendous experiment.” The most praiseworthy aspect of the Meiji Constitution, according to one British scholar, was the moderation upon which it was founded as demonstrated by its respect for time-honored history and traditions. Furthermore, a German legal theorist commended Japan’s leaders for their wisdom in dividing the national assembly into a popularly elected lower chamber (the House of Representatives) and an appointed upper chamber (the House of Peers) on the grounds that the lower houses of other countries were apt to favor extreme solutions and become a source of social unrest. To check the rash behavior of the lower house, he argued, it was necessary to have an upper house consisting of conscientious men who care deeply about the national interest. 

 

憲法を賞賛した内外の声

憲法が発布されると、政府批判の論陣を張って来た新聞も、「聞きしに勝る良憲法」、「実に賞賛すべき憲法」などと称えた。また憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。イギリスの新聞は、「東洋の地で、周到な準備の末に、議会制憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と書いた。イギリスのある学者は、日本の憲法が古来の歴史と習慣をもととした穏健な立場で作られていることが最も賛成できる点である、と述べた。ドイツのある法律家は、議会を両院に分け、衆議院の他に貴族院を設けた知恵を高く評価した。その理由は、どこの国でも下院(衆議院)は急進的になるものだが、その暴走による社会不安を和らげるには、国に対する責任感と良識のある人々からなる上院(貴族院)が欠かせないというものだった。

 

大日本帝国憲法の主な条文と大日本帝国憲法による立憲国家の仕組み

 

The Major Articles of the Meiji Constitution

“Article 1. The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.”

“Article 3. The Emperor is sacred and inviolable.”

“Article 4. The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitution.”

“Article 5. The Emperor exercises the legislative power with the consent of the Imperial Diet.”

“Article 11. The Emperor has the supreme command of the Army and Navy.”

“Article 20. Japanese subjects are amenable to service in the Army or Navy, according to the provisions of law. “

“Article 29. Japanese subjects shall, within the limits of law, enjoy the liberty of speech, writing, publication, public meetings and associations.”

“Article 55. (1) The respective Ministers of State shall give their advice to the Emperor, and be responsible for it. (2) All Laws, Imperial Ordinances, and Imperial Rescripts of whatever kind, that relate to the affairs of the State, require the countersignature of a Minister of State.”

“Article 57. (1) The Judicature shall be exercised by the Courts of Law according to law, in the name of the Emperor.”

 

大日本帝国憲法の主な条文

第1条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す

第3条 天皇は神聖にして侵すべからず

第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行ふ

第5条 天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行ふ

第11条 天皇は陸海軍を統帥す

第20条 日本臣民は法律の定むる所に従い兵役の義務を有す

第29条 日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会および結社の自由を有す

第55条 ①国務各大臣は天皇を輔弼しその責めに任ず

②全て法律勅令その他国務に関する詔勅は国務大臣の副署を要す

第57条 ①司法権は天皇の名において法律により裁判所これを行ふ

 

・・・大日本帝国憲法の条文を読むと、一見天皇に強大な権限があるようですが、「帝国議会の協賛をもって立法権を行ふ」「国務各大臣は天皇を輔弼しその責めに任ず」「詔勅は国務大臣の副署を要す」「司法権は天皇の名において法律により裁判所これを行ふ」とある様に、権威はありますが、権力の直接的行使は実質的にできませんでした。イギリスの政体の「君臨すれども統治せず」(国王は君主として君臨しているが、統治権は議会を通じて国民が行使する)に近いと言えます。

posted by at 16:58  | 塾長ブログ

『北斎とジャポニスム』

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、インターネットの恩恵を受けて様々な情報を摂取しています。いつも閲覧しているブログに「国際派日本人養成講座」http://blog.jog-net.jp  があります。

そのNo.1046 「葛飾北斎が西欧に与えた衝撃」 http://blog.jog-net.jp/201801/article_3.htmlは、筆者が云々するよりも、このサイトをご覧になって頂きたいと思いご紹介致します。以下はその冒頭の部分です。

 東京・上野の国立西洋美術館で開催されている『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西欧に与えた衝撃』が大人気のようだ。ホームページの「みどころ」では、モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど西欧の画家たちと北斎の絵を比べ、彼らがいかに北斎から影響を受けたかが、一目で判るようになっている。

 例えばクロード・モネの『陽を浴びるポプラ並木』は、北斎の『冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷』の松並木とそっくりだし、ポール・セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』は、『冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二』と、手前に樹木を配し、遠くに山を望む構図からして同じである。

 しかし、北斎が西洋の画家たちに与えた影響は異国趣味という皮相的なものではない、と西洋美術史の大家、田中英道・東北大学名誉教授は著書『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』で指摘している。

 この点に深入りする前に、まず北斎の「すごさ」を田中教授の解説から辿ってみよう。

その中で紹介されているものが、現在、東京の国立西洋美術館で「北斎とジャポニスム」http://hokusai-japonisme.jpがです。これはなかなか秀逸な企画展です。キャッチ・コピーは

日本発、世界初。
西洋と北斎の名作、夢の共演。

19世紀後半、西洋の人々を魅了した浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)。
その出会いからジャポニスムを読み解く、世界初の展覧会です。

モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガンをはじめ、西洋美術の名作約220点と、
北斎の錦絵約40点、版本約70冊の計約110点が一堂に会する、”東西・夢の共演”。

西洋の芸術家たちは北斎をどう受けとめ、新たな造形表現を生み出したのか―
北斎が西洋に与えた衝撃を、あなたも実感してみませんか。

です。ご縁があれば是非鑑賞したいですね(それに関連する記事が以下です http://www.e-libera.com/entertainment/2017/07/hokusaiandjaponisme/

・・・筆者もかってフランスのパリに行く機会があって、オルセー美術館で印象派の絵画を鑑賞して感動した記憶があります。

オルセー美術館 内部

美術館の作品群で、素朴な衝撃を受けたのが「笛を吹く少年」(エドゥアール・マネ)でした。中学校の美術の教科書に掲載されていたその絵を、筆者は小さな作品のように思い込んでいたのです。オルセー美術館の展示室のあるコーナーを回って実際にその本物の絵画に出会った瞬間、思わず声が出てしまったほどです。「大きい!」というのが正直な気持ちで、その場にしばし佇み、中学時代の美術の教科書と目の前の「実物」とを比べている不思議な感覚を覚えました。

笛を吹く少年(161 cm × 97 cm)

・・・因みに、オルセー美術館の喫茶室でお茶を飲む至福の時を過ごせたのも楽しい思い出です。

posted by at 19:31  | 塾長ブログ

受験は親離れ・子離れの好機3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、教育相談に御出でになる親御さん方とお話しする際に、いくつかの質問をさせていただきます。その問答の中で、親御さんに御家庭の教育について明確な方針を立てて頂きたいからです。しっかりした方針をお持ちの方も有れば、迷いつつ決めかねている方も、周囲の動きに影響を受けて一歩踏み出そうとされている方、等様々ですが、教育相談の終盤に差し掛かると、ある種の覚悟をお持ちになられる方が殆どです。

基本的に接する時間が圧倒的に多いお母さんが、御家庭で見る子供さんと、幼稚園や保育園、また公共の場での子供さんの様子から、将来の成長した姿を明確に想像することは容易では有りません。しかし、ご自分もそうであったように、目の前の子供さんには多くの可能性があり、様々な選択肢があるのです。親としては、子供さんの成長を如何に助長するか。「這えば立て、立てば歩めの親心*」から、もう一段高い視点に立ち、子供さんが精神的に「自立」し、さらに「自律」した行動が出来る様に導く。その為には、お母さん自身が、子つまり、個人的、私的な、敢えて言えば我がもの(所有する)的な考え方から、如何に早く脱却し、一個の人格を持つ人に育て上げる気概(困難を乗り越えていこうとする強い気性。進取の気性)を持つことではないでしょうか。

「這えば立て、立てば歩めの親心」・・・生まれた子供が這うようになれば、親は早く立たないかと思い、立つようになれば早く歩くようにならないかと願う親の気持ち。

筆者の母から聞いていた子育てに関する経験や筆者自身の子育ての経験からしても、いとけなく可愛らしい時期はあっという間に過ぎ去ります。まるで、初春に芽吹き、青葉からあっという間に成長する稲を見るかの如くです。土作りからはじめ、新芽を時機を違えずに移植し、適切な水温管理、施肥、害虫駆除など様々心配りをして稲を育てていく様は、人の子育てと多くのものが共通しています。干天も有り、長雨もあり、台風もある中で、如何に大地にしっかり根を張り、立派な稲穂をつけるか。そして、「実るほど頭を垂れる稲穂かな*」と称される収穫期を迎えるか、ですね。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」・・・人格者ほど謙虚であるという例え。

posted by at 11:40  | 塾長ブログ
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