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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 13

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日本人として当然のことですが、しっかり挨拶をすることができることを重視しています。子供さん達が長じて社会に出たときに、挨拶、言動・行動にメリハリのある人となってもらいたいと考えるからです。人前で、しっかり声を出すことは元気あることの物指しです。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

Europe’s Industrial Revolution

The dawn of the eighteenth century brought changes to the daily lives of the peoples of Europe. Traditional woollen fabric fell out of favor, and people instead began to wear clothing made of cotton imported from India. Cotton was not only lighter and more durable than wool, but also cheaper and more sanitary. It became so popular that the production of cotton garments, which were hand woven with simple tools, could not keep pace.

In the face of this mounting demand, a variety of new machines were invented in late-eighteenth century Great Britain to quickly mass-produce cotton textiles. There were both spinning machines to create thread and weaving machines to manufacture the garments. To generate the energy needed to run the new machines, more powerful coal-burning steam engines were developed. People clustered in large factories and worked in groups alongside the machines. Productivity rose dramatically, fulfilling the needs of society and even generating new demand. These remarkable advances in the production process are referred to as the Industrial Revolution.3

*3=Great Britain was once an agrarian society with a vast rural countryside traversed only by quiet, horse-drawn carriages. However, the Industrial Revolution transformed Great Britain into an industrial society crisscrossed by iron railway tracks and dotted with great cities filled with smoke-belching factories.

Over the course of the nineteenth century, France, Germany, and the United States experienced their own industrial revolutions. After having undergone both industrial and people’s revolutions, the Western nations sought to expand their power worldwide.

イギリスの産業革命 1840年ごろのシェフィールドの製鉄工業。煙突から出る煙で空がどんより曇っている。

 

 ヨーロッパの産業革命 

18世紀になると、ヨーロッパの人々の生活に変化が起こった。人々は従来の毛織物に変わって、インド産の木綿を原料にした軽くて丈夫な綿織物の衣服を好んで着用するようになった。綿製品は、衛生的で安価なことでも人気があり、簡単な道具を用いた手作業では、生産が間に合わないほどだった。

 このような需要を背景に、18世紀の後半にイギリスでは、綿糸を作る紡績業や、綿糸で布を織る綿織物業の分野で、素早く大量に製品を製造できる機械が次々と発明された。また、石炭を燃料とする蒸気機関も改良され、紡績機や織機など動力として用いられるようになった。人々は大きな工場に集められ、機械のそばで集団で働いた。生産力は飛躍的に増大し、社会の需要を満たすとともに、新しい需要を作り出していった。このような生産方法の大革命を産業革命*3という。

*3=かってのイギリスは、田園が広がり、馬車がのどかに行き交う農業中心の社会だった。しかし、産業革命の結果、黒い煙を吐き出す工場が立ち並ぶ都市が出現し、鉄道も発達して、工業中心の社会に変化していった。

 産業革命は、19世紀にはフランス、ドイツ、アメリカにも広がっていった。市民革命や産業革命を達成した欧米の国々は、世界各地に進出する動きを加速させた。

ランカシャーの織物工場 蒸気機関の導入で様々な生産工程が動力化された。

 

綿織物の輸出額の推移 産業革命とともに、インドからの製品輸出はほとんど消滅している。

 

・・・現在も政治経済分野で時折問題となる国際通商摩擦の起点が「産業革命」にあったのですが、小・中学生の歴史の教科書で「産業革命」を学んでも直ぐには理解できません。子供さん達には、分野を問わず様々な事柄や知識を身につけてほしいものです。多くの知識を得ることは、物事を論理的に考えたり判断する際に、大きな力となります。マス・メディアやインターネット、様々な書物から学ぶことは多々ありますが、比較検討してわが身に取り入れる術を、子供さん達は物心が付いてから学んでいかなければなりません。

 

posted by at 15:14  | 塾長ブログ

小学校英語導入に対するある識者の見解

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、文部科学省の小学校英語の教科化に対する関心の高まりが、一部マスコミや英語教材関連業者や英語教室などの利害関係者の中では顕著ですが、英語に造詣の深い識者などからは、寧ろ英語の小学校導入に批判的であることを興味深く観察しております。

様々な識者の中で、藤原正彦 お茶の水女子大学名誉教授の書物やエッセイなどに首肯(しゅこう:肯定的に同意すること)することが多々あります。藤原先生は、アメリカ留学記「若き数学者のアメリカ」(1977年)で、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞され、「国家の品格」でベストセラーを取られた数学者。エッセイストとしても活動。身辺雑記からイギリス滞在記や科学エッセイ、数学者の評伝に至るまで様々なジャンルに筆を割かれています。

藤原正彦 お茶の水女子大学名誉教授

父は、「太郎・次郎・三郎」と称される、戦後日本の代表的な小説家「司馬遼太郎・新田次郎・城山三郎」のなかの新田次郎です。

新田次郎

また、母藤原ていは、敗戦後の昭和二十年(1945)、日・ソ不可侵条約を一方的に破り、多くの日本の無辜の民を殺戮したソビエト軍の追撃の中で、子供を抱えながら満州から引き上げ、遺書のつもりで書き上げた体験記「流れる星は生きている」を書かれたベストセラー作家です。

藤原てい

藤原先生の英米を含めた諸外国の体験を踏まえての、小学校英語の導入についての以下のエッセイ「管見妄語」(週刊新潮2月第1週)が目に入りました。そのテーマは、ズバリ「愚かなる小学校英語」。あまりに的確、正論故、引用してご紹介します。

 愚かなる小学校英語

二〇〇二年、国際理解教育の一環として英語が小学校で教えられることになった。二〇一一年に小学校五、六年生の必修となり、二〇二〇年にはいよいよ教科に格上げされる。教科になるということは、教科書が作られ、テストが行われ、通知表に成績がつくということである。さらに三、四年生も必修となる。こうなれば私立中学入試にも英語が入り、英語教育が一気に加熱するだろう。日本の初等教育が一変する。

一九九〇年代から英語教育関係者が中心となり、「世論の高まり」を理由に小学校英語の導入を主張し、それに経済界や文科省が乗ったから、導入、必修化、教科化と三段跳びの格上げがなされたのである。実際、ほとんどの世論調査や意識調査で、約八割の国民が小学校英語を支持してきた。しかし世論の中味を精査した研究によると、英語の不得意な人々が小学校英語の主たる支持層という。また、最近の統計では、国民の九十一%英語を不得意に思っているという。私は、海外で活躍した人々や大学の英文科教授で小学校英語を支持する人に、出会ったことは一度もない。彼らは、国語をまずしっかり身に付けることが先決で、英語は中学校から始めても遅くない。国際人になるには流暢な英語より教養、ということを知っているからだ。発音は早期に始めた方が多少はよくなろうが、英語が国際語となった今日、フランス人は仏語訛り、中国人は、インド人は・・・・・と訛り丸出しで話しているのも知っている。小学校英語支持とは、英語に対する漠然とした憧れ、英語を話せないのは小学校から勉強しなかったからという誤解などの反映といって過言ではないのだろう。日本の将来、子供の将来を深く考えた末での世論とはとても思えない。そもそもAIの専門家たちは、十年足らずでスマホに自動音声翻訳機能がつく、と断言している今日なのだ。世論調査とは、個人的感情や自らにとって有利か不利かの計算によって回答されるものである。その世論を大事にする政治のおかげで、英語は我が国の小学校におけるハイライト教科になるだろう。英語導入の当初から反対していた私は、「小学校五、六年で始めても効果が上がらないからいずれ三、四年からとなる。それでも効果が上がらず一、二年からとなる。それでも話せるようにはならない。」と十数年前に書いた。その通りになりそうだ。

 小学校教員で英検準一級以上を持つ者は一%もいないという。三人に一人が過労死ラインを超えている教師に更なる大負担が加わる。先生や生徒が英語にかまけていると、学校の一週間は二十数時間しかないから、肝腎の国語や算数など基礎基本にもしわ寄せが来る。英語塾に通う子も増えるだろうから読書の時間も奪われる。小学校時代とは、童話、物語、偉人伝、詩などをできるだけたくさん読み、感動の涙とともに、惻隠の情、卑怯を憎む心、正義感、勇気、家族愛、郷土愛、祖国愛などを胸に吹き込む時だ。この時期を逃しては取り返しがつかない。このままではやがて、英語の発音が少しばかりよいだけの、無教養で薄っぺらな日本人で溢れることになる。それだけではない。世界中の子供が英語を幼少時から学ぶようになれば、英米文学は世界中で読まれ、日独仏露中などの文学は翻訳でしか読めなくなる。政治経済文化と広範な領域で、英語を母国語とする英米の発信力が飛躍的に高まり、英米文化が覇権を握ることになる。小学校英語はこれに手を貸すのと同じだ。地球は多文化であってこそ美しい。チューリップは美しいが、世界中がチューリップ一色だけの地球なんて爆発してなくなった方が良いのだ。我が国における小学校英語とは、幼い頃から英語を上手に操る人への憧れと劣等感を育み、我が国の欧米崇拝や対米屈従を助長し、日本人を愚民化する、最も適切な方法と言えよう。

・・・我が意を得たり、というエッセイです。

国語をしっかり身につける前に、中途半端な英語への取り組みを始めると、ほんの一部の英語も出来る児童・生徒とほとんどの英語も出来ない児童・生徒の集団に分かれてしまうのではないかと懸念します。「英語も出来ない」ということは、基本の国語や算数は無論、社会科目や理科科目も極めて心配な状態になっている可能性が高い、ということです。そのようにならない為の対策をしっかり親御さんは立てておかなくてはなりません。つまり、英語が始まる前までに、国語の力を十分につけること、です。

posted by at 20:06  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 12

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日本人としてしっかり母国語を学ぶことが、結果として英語や仏蘭西語、西班牙語などの外国語も学ぶことができると考えています。例えば、漢字の練習。小学校へ進学して、どれほどの漢字を練習しているかによって、その後の語彙力の差になって表れてきます。漢字を継続して練習する力は(筆者が考えるに)、そのまま英語の単語力や語彙に直結しているように思います。つまり、小学校高学年の英語や、中学校の英語の授業で、どれほど英単語の練習をしているかを考えると、非常に心もとないのが現状です。それは、英語の授業時間の中で、単語を練習させたくても時間が取れないことや、そもそも筆記体で英単語を書かせないことが原因のように考えます。小学校の時に、ひたすら漢字を練習していた経験からすると、英単語をひたすら練習する機会は圧倒的に少ないと感じておられる親御さんが多いのではないでしょうか。特に、いわゆる「ゆとり世代」の親御さんは、愚直に漢字や、英単語を繰り返した経験が少ない世代のように思います。無論、その時代を過ごした子供達には責任があるわけではなく、その時代の教育を担ってきた立場の人たちの責任、と言えないか、です。

結果、何事も素直に暗記することを習慣付けることができなくなってしまう。

幼い時から、暗記する癖をつけて仕舞えば、覚えようと意識しなくても、何回か音読することで覚えることができます。自然に頭に入って行く経路を作ることが非常に大事です。

漢字にしても、英単語などの外国語の単語にしろ、覚えるのに無理のないシステムを幼児期に構築することが肝要ではないかと考えます。

さて、「英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。

改めて、少し歴史を遡ってみようと思います。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

 

Chapter 4: Modern Japan and the World (Part 1) – From the Final Years of the Edo Shogunate to the End of the Meiji Period

Section 1 – The encroachment of the Western powers in Asia

Topic 47 – Industrial and people’s revolutions

What events led to the birth of Europe’s modern nations?

People’s revolutions

The one hundred years between the late-seventeenth and late-eighteenth centuries saw the transformation of Europe’s political landscape. In Great Britain, the king and the parliament had long squabbled over political and religious issues. When conflict over religious policies intensified in 1688, parliament invited a new king from the Netherlands to take the throne. The new king took power without bloodshed and sent the old king into exile. This event, known as the Glorious Revolution, consolidated the parliamentary system and turned Britain into a constitutional monarchy.1

*1=In a constitutional monarchy, the powers of the monarch are limited by the constitution and representatives chosen by the citizens run the country’s government.

Great Britain’s American colonies increasingly resisted the political repression and heavy taxation imposed by their king, and finally launched an armed rebellion to achieve independence. The rebels released the Declaration of Independence in 1776, and later enacted the Constitution of the United States, establishing a new nation with a political system based on a separation of powers.2

*2=Under a separation of powers, the powers of the government are split into three independent branches: legislative, executive, and judicial.

 

 

 第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代

第1節 欧米諸国のアジア進出

47 市民革命と産業革命

ヨーロッパの近代国民国家はどのようにして生まれたのだろうか。

 市民革命 

 17世紀後半からの約100年間に、ヨーロッパの政治に新しい動きが起こった。イギリスでは、政治や宗教の対立から、国王と議会の間で長い抗争が続いていた。1688年、宗教政策などを巡って対立が激化し、議会はオランダから新しい国王を迎えたが、旧国王は外国に亡命し、流血を見ることはなかった。これを名誉革命という。これによって、議会制度の基礎が固められ、イギリスは立憲君主制*1の国家となった。

*1 憲法によって君主の権限を制限し、国民が選んだ代表が政治を運営する国家の仕組み。

 イギリスの植民地だったアメリカは、本国の国王から課せられた重税と弾圧に抗議して、武器を持って独立戦争を戦った。1776年、アメリカは独立宣言を発表、その後、合衆国憲法を制定し、三権分立*2の国家体制を確立した。

*2 国家の権力を、立法・司法・行政の三つに分け、それぞれ独立させる仕組み。

イギリスの名誉革命 アメリカの独立宣言

In 1789, an angry mob of Parisian citizens, who groaned under oppressively heavy taxes, stormed the Bastille Prison, an incident that sparked numerous rural and urban revolts throughout France against the king and the aristocracy. This was the start of the French Revolution. The revolutionary forces abolished class privileges and drew up the Declaration of the Rights of Man and of the Citizen, enshrining the principles of liberty and equality. The revolutionaries soon turned blood-thirsty and beheaded the king and queen for refusing to abide by their program. It has been estimated that 700,000 people were killed amid the “reign of terror,” as the period of chaos during the French Revolution is called. Fearing the spread of the revolution, France’s neighbors intervened. Napoleon Bonaparte seized control of France to confront this threat and, for a time, he dominated most of continental Europe. As a result, the ideals of the French Revolution spread across Europe. Because these political revolutions gave rise to modern nation-states aspiring to the legal equality of all citizens, they are called people’s revolutions.

イギリスの名誉革命  アメリカ独立宣言

 1789年、重税に苦しむパリ市民がバスチーユ牢獄を襲撃したのがきっかけとなり、国王や貴族に対する都市市民や農民の反乱が各地で起こった。フランス革命の始まりである。革命勢力は、自分たちの主張に従おうとしない国王・王妃を処刑するなど過激化していった。革命の混乱の中で70万人の国民が殺されたと言われている。フランスの周辺諸国は革命の広がりを恐れて干渉した。それに対抗してナポレオンが権力を握り、ヨーロッパ諸国を一次的に支配した。これによってフランス革命の精神がヨーロッパに広がった。これらの政治的改革は、人々が平等な市民(国民)として活動する社会を目指して近代国民国家を生み出したので、市民革命と呼ばれています。

 

・・・筆者は、小・中・高とこの時代の歴史を繰り返し学びながら、なんとなく違和感があったのを覚えています。何故なら、欧米の変革の歴史が「革命」という名の国民を「粛清」する嵐のように思えたからです。つまり、中世の基督教の旧教と新教との長年に渡る、言わば内輪の争いによって膨大な数の民への殺戮を繰り返した歴史のままの様に思えるからです。少なくとも、民族的にも宗教的にも、互いが違和感のない民同士の日本は、長い歴史の中で、自国民による大量殺戮の歴史はありません。二千年を超える歴史を持つ日本は、明らかに世界の国々とは、違う歴史の流れがあるかの様です。

posted by at 15:53  | 塾長ブログ

小学校の英語教育と家庭で注意して欲しい点

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、学習指導要領の改訂により2020年度から従来小学校5・6年生で行われていた「外国語活動」に代わり、正式な教科として「英語」が導入されることについて、懸念を持ちながら注視しています。文科省が掲げる目標はさて置き、現実にこれに対応せざるを得ない小学校の先生方や、海のものとも山のものともわからない教育効果について、不安を抱えることになるであろう子供さんを持つ各ご家庭の不安について、文科省は応えていないからです。

過去、学習指導要領に様々な改訂を加えてきている文科省は、その時々の目指すべき目標には薔薇色の夢を語りますが、行ってきたことの検証については一切語りません。

例えば、所謂「ゆとり教育」。

「詰め込み教育」のマイナス点を論(あげつら)って、「ゆとり教育」を導入した結果、基礎学力の無い大学生や社会人を生み出し、「ゆとり教育」を受けた世代に対する文科省の責任の検証はなされていません。掛け算の九九が出来ない大人や、割り算や割合を理解していないことで仕事に差し支えるような社会人を生み出していることは、かっての日本人の親の教育観からすると考えられない状況です。つまり、計算のできない子供を親は放って置くことはしないからです。

然はさりながら、小学校5・6年生で正式な教科として「英語」が導入される点についての記事が目に付きましたのでご紹介します。産経新聞2月2日版http://www.sankei.com/life/news/180202/lif1802020001-n1.htmlからの引用です。

小学校の英語、家庭でできることは?

学習指導要領の改訂により、2020年度から、小学校5・6年生で行われていた「外国語活動」に代わり、正式な教科として「英語」が導入されます。

 中央教育審議会・教育課程部会外国語ワーキンググループのメンバーでもあり、英語カリキュラムの審議に携わってこられた東京外国語大学教授の投野由紀夫先生に小学校の英語教育と、ご家庭で注意して欲しい点について、さらに詳しくうかがいます。

「たくさん聞く」「使ってみる」ことで英語を感覚的に身につける

 耳で聞いた音をまねる力は、年齢が低いほど優れていますが、文法などのルールを学ぶのは、大人のほうが得意だといわれています。今回の学習指導要領改訂により、英語に親しむ外国語活動は3・4年生から始まりますが、耳の良いこの時期は、良質な英語にたくさん触れさせてあげて、音と意味の結びつきを自然に学ぶことが大切です。

 5・6年生の授業も、従来の中高の英語指導のように文法ルールを説明的に教えるのではなく、具体的なコミュニケーションの場面と状況を示してあげて、そこで使えるフレーズを教え、「わかること」「言えること」「できること」を増やしていくスタイルになる見通しです。

 「わかること」「言えること」が増えてから文法ルールを少しずつ学ぶ

 たとえば、初級レベルでは“What fruit do you like?”と聞かれた場合、最低限“Orange!”などと単語で答えられれば会話は成り立ちます。orangeを複数形にして“I like oranges.”などと言えたほうがより正確ですが、まずは細かなルールは問いません。複数と単数、aとtheの違い、三単元のsといった文法の正確さよりも、どんどん英語を使ってみることを目指します。

 特に3年生~5年生の間は、できるだけ英語で聞いてわかる単語やフレーズを増やし、その一部分が言えるようにしてあげることが大事だと思います。文字の書き方を習い始めてから、複数と単数などに注意を払い始め、中学に入ってもう一度それらを復習する中で、少しずつ文法的な正確さを増し、だんだんと形を整えていく。カリキュラムはそのような方針で進めるとよいでしょう。使える単語やフレーズが増え、知識が豊富になったところで文法のルールを学び、再整理ができると表現がより正確になって上達しやすくなると思います。

意味のわかる英語に「耳で慣れる」ことが大切

  言葉を身につける以上、慣れたり、覚えたりしなければならない部分はどうしてもあります。学校の授業だけではなかなか「慣れる」ところまでいかないかもしれません。しかし、英語が「勉強しなければならないもの」「イヤなもの」になってしまっては逆効果です。

 ご家庭では、お子さまが聞いて意味がわかるような英語を聞く機会を増やしてあげることをおすすめします。お子さまの好きな絵本の朗読や英語のアニメーション、ラジオなど、ほんの少しずつでいいので、なるべく毎日接する時間をつくってあげることです。英語を聞き取る素地ができると、しゃべるのも楽になりますし、自信がつくと思います。「慣れ」というのはとても大きいですからね。

 定型のフレーズを使いながら「自分」を表現する経験を

しゃべれるようになるためには、定型のフレーズをある程度繰り返して練習する必要があります。ただし、それだけでは飽きてしまいます。定型の練習と、そのフレーズを使って、あるいは前に習ったことをつけ加えて、自分が言いたいことを表現してみることの両方が大切です。

 たとえば“I like~.”というフレーズを使えば、自分の好きなものを表現できる。さらに学習が進めば「犬より猫が好き」「果物の中でいちばん好きなのはイチゴ」など、より複雑な表現もできるようになっていきますね。それを使って自分のことを言うチャンスを増やすようにします。

 間違えてもいいから、楽しみながら会話をしてみる-小学校の英語で大切なのはそのような素地をつくることです。保護者のかたも、お子さまを応援しつつ、一緒に英語を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

・・・保護者のかたも、お子さまを応援しつつ、一緒に英語を楽しんでみてはいかがでしょうか。」と、簡単に結論づけていますが、一緒に英語を楽しむ余裕のある家庭は現実にはどれほどあるでしょうか、と考え込んでしまいます。小学生をお持ちのご家庭では、日々の復習や予習をお子さん達にさせるだけでも大変なことです。この現実をさて置き、更に英語教育を家庭でも「楽しむ」ことを勧めるって、お母さん方には酷のように思うのは筆者だけでしょうか・・・。

posted by at 11:22  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 11

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、インフルエンザが流行していることもあり、塾生の健康管理には普段から気をつけています。より良く学ぶ為には万全の体調を維持する必要があります。

さて、

平成三十年二月九日からKoreaで始まる冬季オリンピックは、北朝鮮の核と長距離弾頭弾の開発がもたらす日・米とChina・南北朝鮮間の緊張のさなかで行われます。百年以上も前に、日本・朝鮮・清(China)との関係を、福澤諭吉が喝破していた通りの展開が現在も進行し、日本の国難は続いています。

そこで、この「英語と歴史を同時に学ぶ」の1で一部ご紹介した福沢諭吉の『学問のすすめ』と「脱亜論」の続きです。

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ その8-第4章「近代の日本と世界(I)―幕末から明治時代」http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf からの引用です。

 

Saving Japan from the “wildfire”

In the same line of thought, Fukuzawa hoped that Japan’s neighbors in Asia, Korea and Qing China, would also assert their independence in order to resist Western imperialism. He believed that all three nations would have to help their people accept enlightened values, quickly modernize their societal structures, and then join forces to defeat the encroachments of the Western powers. Contrary to Fukuzawa’s high expectations, events did not transpire in the way he had desired.

From the Opium War and onwards, China was repeatedly invaded by the Western powers, including Great Britain, France, and Russia, but it hesitated to modernize its political and social structures. Under the tributary system, Korea stagnated under Chinese tutelage and proved unable to institute the reforms needed to modernize its national defenses even as Russian power bore down on the Korean Peninsula from the north. Indeed, some Chinese and Korean leaders scorned Japan’s policy of “civilization and enlightenment” as “aping the West”.

Fukuzawa refused to simply turn a blind eye to the problems of Japan’s Asian neighbors. He explained the situation as follows:

“Europe’s current advance into Asia is just like a spreading wildfire. Japan cannot save itself from the wildfire just by building its own home out of stone. As long as the other homes in the neighborhood are built of cheap wood, Japan will have no chance of escaping the spreading flames.”

Thus, because Japan, Korea, and China were all homes on the same street, Japan would only be safe once it had ensured that the other two homes were also built of stone, if necessary by applying a degree of coercion towards their owners. This was the analogy Fukuzawa chose to illustrate Japan’s urgent need to modernize not only itself, but its neighbors as well.

 

「火事」から日本を守るには

 福沢は、同じ考えのもと、お隣の朝鮮も清(中国)も、外国に侵されない、独立した国になることを望みました。東アジアの3国が、自国の国民を啓蒙するとともに、社会の仕組みを一日も早く近代化し、互いに手を取り合って西洋のアジア進出に対処していかねばならない、と考えたのです。しかし、現実は、福沢の望み通りには進みませんでした。

 アヘン戦争以後の清は、イギリス、フランスロシアなど西洋列強によって国土を侵されてきましたが、政治や社会の仕組みの近代化が立ち遅れていました。朝鮮は、その清を宗主国とする冊封体制にとどまっていました。南下政策をとるロシアが朝鮮半島を狙っていることに対しても、近代的な国防の仕組みを十分につくることができませんでした。また、日本が開化政策をとっていることを、「西洋かぶれ」と反発した勢力もありました。

 福沢は、このような隣近所の国々のあり方を見過ごすことができませんでした。彼はその状況を以下のように説明しました。

「いま西洋が東洋に迫るその有様は、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすれば済むというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼は免れないからである。」

 日本・朝鮮・清という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでも我が家に等しい石造りの家を作らせることが必要である。これが福沢の考え方でした。

 

時事新報 1882(明治15)年に福沢諭吉が創刊した新聞。1885年3月16日付に「脱亜論」が掲載された。

 

Korea’s failure to modernize and Leaving Asia

Within the Korean government, some politicians understood the gravity of the crisis their country was facing. One of them was Kim Ok-kyun. Fukuzawa was in contact with Kim Ok-kyun and other members of his Enlightenment Party, and he aided their efforts to have the Korean government pursue a pro-modernization agenda.

Fukuzawa also urged that all Koreans be educated to read and write in hangul, a Korean alphabetic script that was not widely used, despite having been invented by Korea’s ruling Choson dynasty in the fifteenth century.

Nonetheless, there were also many ultraconservative political figures in the Korean government who opposed the Enlightenment Party and sought to thwart their policies of modernization. In addition, China exerted military pressure on Korea to prevent it from breaking free of its tributary status and interfered with Korea’s progress towards modernization. In 1884 (Meiji 17), Kim Ok-kyun and the Enlightenment Party attempted to seize power with Japanese support in the hopes of completing the modernization of their country. This event, known as the Kapsin Coup, proved short-lived when the Chinese government declared its intention to “protect” its tributary and had its armed forces quickly crush Kim’s uprising.

The failure of the rest of East Asia to modernize did much to disillusion Fukuzawa. Immediately after the Kapsin Coup, he penned the essay Leaving Asia, which expressed his new way of thinking that, “Our country can no longer hope to resist the advance of the West by joining forces with Korea and China as they are now. From now on, we will have no choice but to work with the Western countries and play by their rules.” Regardless, Fukuzawa did not adopt an uncompromising stance right away. He continued to insist afterwards in his speeches and writings that China and Korea would experience a great awakening.

 

朝鮮近代化の挫折と「脱亜論」

 朝鮮政府の中には、自国の置かれている危うさに気づいている政治家もいました。その一人が金玉均でした。福沢は、金玉均たち開化派に働き掛け、朝鮮政府が近代化政策を進めるのを支援しました。

 朝鮮王朝によって15世紀に発明されながら十分に普及していなかったハングル文字を、国民教育のために使用することを勧めたのも福沢でした。

 しかし、朝鮮政府の中には、開化派に反感を抱く守旧派の政治家たちもたくさんいて、開化派が進めようとする近代化政策に反対しました。朝鮮を属国と見ている清は、朝鮮に軍事的な圧力をかけ、朝鮮の近代化政策に干渉しました。1884(明治17年)、金玉均たちの開化派は、日本を後ろ盾として、国の近代化を図るためのクーデターを起こしました。清は「属邦保護」を名目に干渉し、軍隊によって鎮圧しました(甲申事変こうしんじへん)。

 近代化が十分に進まない東アジアの状況に対して、福沢はなかば絶望しました。そして、甲申事変のすぐあとに、「脱亜論」という論文を発表し、「我が国は、もはやこのような朝鮮や清と連携して西洋の進出に対抗することはできない。これからは、西洋諸国のやり方に従って、付き合うしかない」と主張しました。しかし、すぐに強硬な姿勢をとったわけではなく、その後も朝鮮や清の覚醒を期待しつつ、粘り強く言論活動を続けました。

・・・「進取の気象」に富む日本の先人達は、困難な状況でも希望を失わず、前向きに物事に取り組んできました。現在の日本を取り巻く状況も、Chinaや北朝鮮、ロシアの「核」の脅威が厳として存在する以上、日本は存亡の危機に瀕しています。七〇年以上の見せかけの「平和」に狎れ、所謂「平和ボケ」から日本人自身がいち早く脱却しなければ、福澤諭吉が危惧していた「脱亜論」で言う所の「支那・朝鮮」と同様の苦しみを、子供達が味わうことにもなりかねません。その為にも、学校で学ばない「近現代の歴史」を学ぶ必要があります。

posted by at 16:14  | 塾長ブログ
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