‘ 塾長ブログ ’ カテゴリー

受験は親離れ・子離れの好機2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、今年度も「受験」へ向けての塾生と御家族の様々なドラマがありました。筆者の立場からすると、結果の如何に関わらず良い思い出になるように、との願いはあります。受験の当事者である塾生は、皆それぞれに懸命に努力をしているからです。これから歩む長い人生の最初の挑戦は、必ず「成長の起点」となります。

受験生を見守るご家族は、ハラハラドキドキ。

お父さんやお母さんは、かってのご自身の子供時代を思い起こしたり、我が親の苦労(自分を見守っていた)に思いを致すことでしょう。日本の長い歴史の中で、いつの時代も「子を持って初めてわかる親の恩(子を持って知る親の恩*)」は普遍の真理です。

子を持って知る親の恩、親の恩は子を持って知る・・・自分が親の立場になって初めて子育ての大変さが分かり、親の愛情深さや有難さがわかるということ。

特にお母様の場合は、お腹を痛めた子であるので、愛情の濃度が高いのも事実です。従って、受験には、子供さんと一緒にお母さんが学び直すお気持ちで取り組んで頂くのが良いと考えます。つまり、ご自分が子供さんの年齢だった時に思いを馳せて、子供さんと同じ視点に立ってみるのです。どのようにすると、より良く理解出来るか、どこで壁にぶつかっているか、等々。

受験本番までの時間は有るようで無いのが現実です。その限られた時間を、如何に冷静に有効活用するか。

親子であるからこそ、思いは高まれど、結果が思うように出ず、つい感情的にもなってしまうこともあります。それも母親故。そのような経過を経て、本番。

・・・結果は、「人間万事塞翁ヶ馬*」。長い人生の通過点を無事くぐり抜けても、次の日から新たな舞台へ向けての挑戦が始まります。その時点での結果が思うようなものでなくても、「失敗は成功の母」。次への挑戦の糧に必ずなってきますので、嘆く暇はありません。

受験に挑戦した事が、子供さんの成長に力を与え、お母さんには子供さんを客観視出来る眼力を与えます。

 

* 人間万事塞翁ヶ馬・・・人生では災いがいつ福の因になるかわからず、また福がいつ災いの因になるかわからない。吉凶福禍の転変は測り知れず、禍も悲しむにあたらず、福も喜ぶにたりないことにいう。

「准南子ー人間訓」にある故事による。

 中国、北辺の塞(とりで)に住む老人(塞翁)の持ち馬が胡の地に逃げた。気の毒がる人々に老人は「これがどうして幸いとならないでしょう」と言った。やがてその馬は立派な馬を連れて帰って来た。祝いに駆けつけた人々に老人は「これがどうして災いとなりえないでしょう」と言った。二頭の間に良馬が生まれ、老人の子はその馬から落ちて足を折った。駆けつけた人々に「これがどうして幸いとならないでしょう」と老人は言った。やがて胡の軍勢が侵入し、若者たちは戦って十中九人まで死んだが、足を折った老人の息子は不具のため戦わず、父子共々命永らえたという。

posted by at 19:19  | 塾長ブログ

受験は親離れ・子離れの好機1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、「受験」することの効用を親御さんに伝えます。無論、受験するか否かはご自由です。

先に本ブログ(言葉は知識を刈り入れる道具 カール・ヴィッテの教育法1)でご紹介しましたように、「『子供の教育は、子供の知力が見え始めたと同時に始めるべきだ』。さうすれば、大抵の子供は将来非凡な人間になる。」という考え方は炯眼(けいがん:本質を見抜く鋭い眼力)です。

更に、「遺伝より、教育が大事だ、それも生まれた時から五、六歳までの教育の良し悪しによってきまる」という考え方を一つの物差しとすると、現在の日本の教育環境では小学校受験で、生まれた時から五、六歳までの教育の成果の確認をすることが出来ます。受験の結果、合否の判定が出る訳ですから、これに一喜一憂するのではなく、子供さんの「教育の一里塚」として見ることが出来ます。

また、受験を子供さんの親離れ、親御さんの子離れの好機と捉えると、子供さんの自立、自律心の涵養のはじまりになります。

親御さんが受験することを決めて、子供さんが学び始めるには、いくつものハードルがあります。最初から「知的好奇心」を持つ子供さんは稀です。最初は興味を示さなくても、様々な機会を捉えて、「知的関心」を持たせる工夫が必要になります。子供さんの周りには、様々な切っ掛けが存在しますので、それをどのように活かしていくかが大事です。

posted by at 15:15  | 塾長ブログ

「天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか」

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、小寒、「寒の入り」にまさに積雪となった一月十一日も元気に塾生が挨拶してくれます。

さて、早速ですが「天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか」(竹田恒泰著 PHP新書)のご紹介です。今上陛下が来年ご譲位されるという今、時宜を得た出版です。

「天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか」竹田恒泰著

内容紹介からの引用です。

帝国憲法下で天皇は「万能の主権者」だったのか?

戦前に民主主義はなかったのか?

GHQは日本の政治体制をどう見ていたのか?

戦後、天皇の役割と日本の国のあり方は大きく変わったのか?

日本国憲法は帝国憲法と根本的に異なるのか?

 本書では、帝国憲法を丹念に読み解き、日本国憲法との比較を行いながら、タブー視された「事実」を発掘し、定説を根本から覆そうと試みる。

近代国家の成立以降の150年、明治、大正、昭和、平成にわたり連綿と続く「この国のかたち」を明示する渾身の作。

・・・竹田恒泰先生ご自身は旧皇族・竹田宮家の生まれで明治天皇の玄孫に当たられます。筆者も学生時代様々な「憲法」学の書物を読みましたが、日本国憲法を理解するのに腑に落ちる書籍には巡り合いませんでした。その腑に落ちない点が、大日本帝国憲法から日本国憲法への改正に当たり、所謂「八月革命説」が通説として当然視されていたことです。長年の疑問が解けるのではないかと思いながら紐解いています。

posted by at 09:23  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 9

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、冬期講習を終え、三学期の新しいスタートを切りました。

さて、「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 8の 第5章 近代の日本と世界(Ⅱ) 大正・昭和時代前半 以前の歴史を書き残していたので、相前後しますがご紹介します。

現在の日本では、Chinaの軍備拡張、領海侵犯やNorth Koreaの核開発などの近隣の軍事的緊張もあって憲法改正問題が焦眉の急です。150年前の1868(明治元年)に発布された五箇条の御誓文は、会議を開き、世論に基づいて政治を行うことを国の根本方針として宣言しました。近代化を急ぐ明治の日本では、憲法に関して民間から憲法草案を発表するほど関心が強かったのです。

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ その8-第4章「近代の日本と世界(I)―幕末から明治時代」http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf

Efforts by the government and people to write a constitution

Outside the capital, civic-minded men began to independently form a variety of groups dedicated to conducting research with foreign books and preparing draft constitutions. These private draft constitutions all advocated forms of constitutional monarchy and are testament to the remarkable intellectualism, passion for learning, and strong patriotic feelings of ordinary Japanese citizens during the Meiji period.

Both the Meiji Government and the Freedom and People’s Rights Movement agreed that Japan needed a constitution and national assembly in order to forge a modern nation-state and renegotiate the unequal treaties. However, the Freedom and People’s Rights Movement sought immediate action, whereas the Meiji Government wanted to move forward cautiously. The Meiji Government sent Ito Hirobumi to Europe for the purpose of examining and researching the constitutions of other countries such as Prussia. Upon returning to Japan, he set about preparing the government’s draft constitution together with Inoue Kowashi and other officials. Though Ito consulted the models provided by European constitutions, the draft constitution he drew up was also clearly founded upon Japanese religious and cultural traditions. In 1885 (Meiji 18), Ito established a cabinet system and took office as Japan’s first prime minister.

政府と民間の憲法準備

 地方の志ある人々の中には、自分たちで外国の文献を研究し、憲法草案をつくるグループもあらわれた。これら民間の憲法草案は、すべて立憲君主制を目指す内容で、一般国民の向学心と知的水準の高さを示すとともに、国民の強い愛国心をあらわすものでもあった。

 条約改正と近代国家の建設のために、憲法と国会が必要であると考える点では、政府も自由民権派も違いはなかったが、自由民権派は早急に事を進めようとし、政府は慎重に進めようとしていた。政府は伊藤博文をヨーロッパに派遣して、プロシアなどの憲法を調査・研究させた。帰国した伊藤は、井上毅らとともに憲法草案づくりに取りかかった。伊藤たちは、ヨーロッパの憲法を参考にした上で、日本の伝統的な宗教や文化を土台とする憲法草案をつくった。伊藤博文は、1885(明治18)年には内閣制度を創設し、みずから初代の内閣総理大臣に就任した。

江戸の会読と民権派の憲法草案

立志社 日本憲法見込案

Reading Groups and the Draft Constitutions of the Freedom and People’s Rights Movement

During the early Meiji period, learned societies sprung up throughout Japan and many reading groups, known as kaidoku in Japanese, were convened. Japanese reading groups were public discussions of translations of foreign laws or of Western books on politics and economics, just as was undertaken in private academies and domain schools of the Edo period. During these discussions, people were encouraged, not to submit to the opinion of others, but rather to present their own criticisms and build logic-based arguments. As a result of the reading groups, Japanese people across their country were able to learn about Western ideas of constitutionalism, and they joined together to write a variety of private draft constitutions, which were called “popular constitutions”. The total number of the draft popular constitutions written throughout Japan during this period exceeded 3,000.

Some of the most important of these draft constitutions were the following:

Draft Constitution of Japan (proposed by Naito Roichi)
Draft Constitution of Greater Oriental Japan (proposed by Ueki Emori)
Draft Constitution of Japan (proposed by the Self-Help Society)
Constitution of the Empire of Japan – also called the Itsukaichi Constitution (proposed by Chiba Takusaburo)
Iwakura Tomomi Constitution Outline (proposed by Inoue Kowashi)

All the draft constitutions contained provisions stipulating that Japan was to be a constitutional monarchy. For example, the Itsukaichi Constitution contained the following clauses.

“-The figure of the Emperor is sacred and inviolable, and bears no responsibility to any other body.”
“-The Emperor oversees the judicial, executive, and legislative branches of government.”

江戸の解読と民権派の憲法草案

明治前期には各地に学習結社がつくられ会読が行われていた。会読は、江戸時代に私塾や藩校で行われていた方法で、翻訳された法律や政治経済の西洋書物の内容をめぐって討論を行い相互に批判し合うというもの。会読の場では、他人の意見に従うのではなく、道理に従う討論を行うことが求められた。このような会読を通じて西洋の立憲主義の思想を学習し、各地で私擬憲法といわれる民間の憲法草案を作成していった。その総数は全国で3000件にもおよんだ。

民間の主な憲法草案には次のようなものがある。

・日本憲法見込案(内藤魯一)

・東洋大日本国国憲按(植木枝盛)

・日本憲法見込案(立志社)

・日本帝国憲法<五日市憲法>(千葉卓三郎)

・岩倉具視憲法綱領(井上毅)

いずれも日本は立憲民主生の国家であるとの趣旨の規定が盛り込まれていた。

たとえば、五日市憲法草案には次の規定が盛られていた。

■国帝の身体は神聖にして侵すべからず又責任とする所なし(以下略)

■国帝は立法行政司法の三部を総括す

・・・「明治前期には各地に学習結社がつくられ会読が行われていた。会読は、江戸時代に私塾や藩校で行われていた方法で、翻訳された法律や政治経済の西洋書物の内容をめぐって討論を行い相互に批判し合う」などは、150年も前にすでに行われていたわけです。

文部科学省が実施しようとしている「アクティブ・ラーニング」や「ディベイト」などと比べるとなんとレベルの高いことでしょう。明治の人々の知的レベルの高さは、以下の事実からも分かります。

1872(明治5年)に出版された「学問ノススメ」(福沢諭吉著)は、最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったので、実に全国民の10人に1人が買った計算になる程の大ベストセラーでした。江戸から明治維新を経て、新時代を切り開き、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の国民の気概や知的欲求の強さが、「学問ノススメ」を人々の手に取らせたのです。

また、1871(明治4年)刊行の「西国立志編」(中村正直訳)(イギリスのサミュエル・スマイルズの「Self Help(自助論)」(1859)」の翻訳書)は、西洋の歴史上の人物三百数十人の成功談を掲載し、勤勉,忍耐,節約といった美徳を涵養して人生を切り開くことを説きました。。〈天は自ら助くるものを助く〉という言葉が示すように,自助努力の効用に対する楽天観が基本に有り,没落した士族の子弟をはじめとして青少年に多大な感銘と影響を与えました。総発行部数は100万部以上といわれ,「学問ノススメ」同様、明治期を通して広く読まれました。

このように、当時の日本の人口に比して数多の人々が、自らを啓蒙し学ぶことによって、日本のために微力を尽くそうとした姿勢は、現在の私達も見習わなければなりません。

posted by at 16:17  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 8

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、将来の日本の未来を支えていく子供達が、幼児期から小学生、中学生、高校生のそれぞれの時期に、世界の動きや、日本国内の動きなど感覚的にも捉えるだけの力を身につけて欲しいと考えています。筆者の記憶でも、その時代を捉えたニュースフィルムなどの映像は子供心に焼きついています。朝鮮戦争のニュース映像や六十年安保闘争の国会周辺の映像など、テレビで見たという印象もあるのですが、かっては映画館で本編が始まる前に、ニュース映像が流れているのを思い出します。幼くても、感覚的に時代の空気を読むことは出来ます。これは平和なときであれ、動乱期であれ同じです。現在の日本は、お父さんやお母さん方も、祖父母世代も含め、世界史的に見ると稀有なほど平和です。しかし、長い人類の歴史を振り返ると、それは泡沫(うたかた)の夢と言える一瞬の時代でしかありません。

平和な時が続くことは喜ばしいことですが、それは歴史を鑑みると、いつ危機が来ても良い様に、普段から備える工夫が必要です。それは、何より歴史を学ぶことが肝要です。

 

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Section 3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL/Chapter-5-Section-1.pdf

第5章 近代の日本と世界(Ⅱ) 大正・昭和時代前半

Chapter 5: Modern Japan and the World (Part 2)
– The Taisho Period and First Half of the Showa Period

第1節 第一次世界大戦とその影響

67 第一次世界大戦と日本の参戦 第一次世界大戦はどうして起こり、日本はそれにどう関わったのだろうか。

 第一次世界大戦の始まり

日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策を諦め、再びヨーロッパへの進出を図った。ドイツは、すでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいたが、急速に海軍力を拡大して、海外進出に努めた。これを恐れたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907(明治40年)、三国協商が成立してドイツを包囲した。ヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていった。

この頃、バルカン半島では、民族の独立を目指す運動が盛んで、この地域に利害関係を持つ列強は、独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。そのためバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、一触即発の緊張した状態が続いた。ロシアはセルビアなどのスラブ民族を支援し、これらの国々と隣り合うオーストリア*1と対立していた。

1914(大正3年)、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアのサラエボを訪問中に、ロシアに心を寄せるセルビアの一青年に暗殺された(サラエボ事件)。両陣営は同盟や協商に基づき相次いで参戦し、第一次世界大戦が始まった。

*1 オーストリアは中世からドイツ系のハプスブルグ家が支配し、当時はオーストリア・ハンガリー帝国としてヨーロッパ五代列強の一つに数えられていた。その東部、南部には主にスラブ民族など多民族が居住していた。

Section 1 – World War I and its repercussions

Topic 67 – Japan’s participation in World War I   Why did World War I begin and how did Japan become involved in it?

The outbreak of World War I

After the Russo-Japanese War, Russia gave up its ambition of advancing into East Asia and again set its sights on Europe. Germany had already joined the Triple Alliance with Austria and Italy, and soon proceeded to build up its naval strength and expand overseas. Fearing Germany’s growing power, Great Britain drew closer to Russia and France. In 1907 (Meiji 40), Great Britain, Russia, and France concluded the Triple Entente in order to surround Germany. Tensions rose as the nations of Europe divided themselves between these two camps.

During this time, national independence movements gained strength in the Balkan Peninsula. The great powers with interests in the Balkans exploited this situation to increase their influence over the region. Because the Balkan Peninsula was continuously on the brink of war, it came to be known as “the powder keg of Europe”. Russia backed Serbia and the other Slavic nations against their neighboring rival, Austria.*1

*1=Austria, which was then referred to as the Austro-Hungarian Empire, was among five of Europe’s strongest countries. Since medieval times, it was ruled by the German House of Habsburg. Its eastern and southern territories were inhabited by a variety of ethnic groups, mainly Slavs.

 

・・・現在の世界中の地域紛争は、民族対立や宗教対立が何千年も変わらずに続いていることの証左です。人が混み合うと、まるで満員列車に乗っているかのように、体の身動きすら困難な状況を想像すると実感出来ます。私たちが住む日本は、地勢的に島国であることから、その混雑から幸運にも免れていると言えます。日本に住んでいると、その有難味が分かりませんが、世界の戦乱や混乱が続く国々とは、全く別世界にいるということは理解しておかなければなりません。つまり、電車が空いていて楽チンであることに気付かなければなりません。

 

posted by at 08:31  | 塾長ブログ
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