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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 9

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、冬期講習を終え、三学期の新しいスタートを切りました。

さて、「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 8の 第5章 近代の日本と世界(Ⅱ) 大正・昭和時代前半 以前の歴史を書き残していたので、相前後しますがご紹介します。

現在の日本では、Chinaの軍備拡張、領海侵犯やNorth Koreaの核開発などの近隣の軍事的緊張もあって憲法改正問題が焦眉の急です。150年前の1868(明治元年)に発布された五箇条の御誓文は、会議を開き、世論に基づいて政治を行うことを国の根本方針として宣言しました。近代化を急ぐ明治の日本では、憲法に関して民間から憲法草案を発表するほど関心が強かったのです。

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ その8-第4章「近代の日本と世界(I)―幕末から明治時代」http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf

Efforts by the government and people to write a constitution

Outside the capital, civic-minded men began to independently form a variety of groups dedicated to conducting research with foreign books and preparing draft constitutions. These private draft constitutions all advocated forms of constitutional monarchy and are testament to the remarkable intellectualism, passion for learning, and strong patriotic feelings of ordinary Japanese citizens during the Meiji period.

Both the Meiji Government and the Freedom and People’s Rights Movement agreed that Japan needed a constitution and national assembly in order to forge a modern nation-state and renegotiate the unequal treaties. However, the Freedom and People’s Rights Movement sought immediate action, whereas the Meiji Government wanted to move forward cautiously. The Meiji Government sent Ito Hirobumi to Europe for the purpose of examining and researching the constitutions of other countries such as Prussia. Upon returning to Japan, he set about preparing the government’s draft constitution together with Inoue Kowashi and other officials. Though Ito consulted the models provided by European constitutions, the draft constitution he drew up was also clearly founded upon Japanese religious and cultural traditions. In 1885 (Meiji 18), Ito established a cabinet system and took office as Japan’s first prime minister.

政府と民間の憲法準備

 地方の志ある人々の中には、自分たちで外国の文献を研究し、憲法草案をつくるグループもあらわれた。これら民間の憲法草案は、すべて立憲君主制を目指す内容で、一般国民の向学心と知的水準の高さを示すとともに、国民の強い愛国心をあらわすものでもあった。

 条約改正と近代国家の建設のために、憲法と国会が必要であると考える点では、政府も自由民権派も違いはなかったが、自由民権派は早急に事を進めようとし、政府は慎重に進めようとしていた。政府は伊藤博文をヨーロッパに派遣して、プロシアなどの憲法を調査・研究させた。帰国した伊藤は、井上毅らとともに憲法草案づくりに取りかかった。伊藤たちは、ヨーロッパの憲法を参考にした上で、日本の伝統的な宗教や文化を土台とする憲法草案をつくった。伊藤博文は、1885(明治18)年には内閣制度を創設し、みずから初代の内閣総理大臣に就任した。

江戸の会読と民権派の憲法草案

立志社 日本憲法見込案

Reading Groups and the Draft Constitutions of the Freedom and People’s Rights Movement

During the early Meiji period, learned societies sprung up throughout Japan and many reading groups, known as kaidoku in Japanese, were convened. Japanese reading groups were public discussions of translations of foreign laws or of Western books on politics and economics, just as was undertaken in private academies and domain schools of the Edo period. During these discussions, people were encouraged, not to submit to the opinion of others, but rather to present their own criticisms and build logic-based arguments. As a result of the reading groups, Japanese people across their country were able to learn about Western ideas of constitutionalism, and they joined together to write a variety of private draft constitutions, which were called “popular constitutions”. The total number of the draft popular constitutions written throughout Japan during this period exceeded 3,000.

Some of the most important of these draft constitutions were the following:

Draft Constitution of Japan (proposed by Naito Roichi)
Draft Constitution of Greater Oriental Japan (proposed by Ueki Emori)
Draft Constitution of Japan (proposed by the Self-Help Society)
Constitution of the Empire of Japan – also called the Itsukaichi Constitution (proposed by Chiba Takusaburo)
Iwakura Tomomi Constitution Outline (proposed by Inoue Kowashi)

All the draft constitutions contained provisions stipulating that Japan was to be a constitutional monarchy. For example, the Itsukaichi Constitution contained the following clauses.

“-The figure of the Emperor is sacred and inviolable, and bears no responsibility to any other body.”
“-The Emperor oversees the judicial, executive, and legislative branches of government.”

江戸の解読と民権派の憲法草案

明治前期には各地に学習結社がつくられ会読が行われていた。会読は、江戸時代に私塾や藩校で行われていた方法で、翻訳された法律や政治経済の西洋書物の内容をめぐって討論を行い相互に批判し合うというもの。会読の場では、他人の意見に従うのではなく、道理に従う討論を行うことが求められた。このような会読を通じて西洋の立憲主義の思想を学習し、各地で私擬憲法といわれる民間の憲法草案を作成していった。その総数は全国で3000件にもおよんだ。

民間の主な憲法草案には次のようなものがある。

・日本憲法見込案(内藤魯一)

・東洋大日本国国憲按(植木枝盛)

・日本憲法見込案(立志社)

・日本帝国憲法<五日市憲法>(千葉卓三郎)

・岩倉具視憲法綱領(井上毅)

いずれも日本は立憲民主生の国家であるとの趣旨の規定が盛り込まれていた。

たとえば、五日市憲法草案には次の規定が盛られていた。

■国帝の身体は神聖にして侵すべからず又責任とする所なし(以下略)

■国帝は立法行政司法の三部を総括す

・・・「明治前期には各地に学習結社がつくられ会読が行われていた。会読は、江戸時代に私塾や藩校で行われていた方法で、翻訳された法律や政治経済の西洋書物の内容をめぐって討論を行い相互に批判し合う」などは、150年も前にすでに行われていたわけです。

文部科学省が実施しようとしている「アクティブ・ラーニング」や「ディベイト」などと比べるとなんとレベルの高いことでしょう。明治の人々の知的レベルの高さは、以下の事実からも分かります。

1872(明治5年)に出版された「学問ノススメ」(福沢諭吉著)は、最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったので、実に全国民の10人に1人が買った計算になる程の大ベストセラーでした。江戸から明治維新を経て、新時代を切り開き、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の国民の気概や知的欲求の強さが、「学問ノススメ」を人々の手に取らせたのです。

また、1871(明治4年)刊行の「西国立志編」(中村正直訳)(イギリスのサミュエル・スマイルズの「Self Help(自助論)」(1859)」の翻訳書)は、西洋の歴史上の人物三百数十人の成功談を掲載し、勤勉,忍耐,節約といった美徳を涵養して人生を切り開くことを説きました。。〈天は自ら助くるものを助く〉という言葉が示すように,自助努力の効用に対する楽天観が基本に有り,没落した士族の子弟をはじめとして青少年に多大な感銘と影響を与えました。総発行部数は100万部以上といわれ,「学問ノススメ」同様、明治期を通して広く読まれました。

このように、当時の日本の人口に比して数多の人々が、自らを啓蒙し学ぶことによって、日本のために微力を尽くそうとした姿勢は、現在の私達も見習わなければなりません。

posted by at 16:17  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 8

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、将来の日本の未来を支えていく子供達が、幼児期から小学生、中学生、高校生のそれぞれの時期に、世界の動きや、日本国内の動きなど感覚的にも捉えるだけの力を身につけて欲しいと考えています。筆者の記憶でも、その時代を捉えたニュースフィルムなどの映像は子供心に焼きついています。朝鮮戦争のニュース映像や六十年安保闘争の国会周辺の映像など、テレビで見たという印象もあるのですが、かっては映画館で本編が始まる前に、ニュース映像が流れているのを思い出します。幼くても、感覚的に時代の空気を読むことは出来ます。これは平和なときであれ、動乱期であれ同じです。現在の日本は、お父さんやお母さん方も、祖父母世代も含め、世界史的に見ると稀有なほど平和です。しかし、長い人類の歴史を振り返ると、それは泡沫(うたかた)の夢と言える一瞬の時代でしかありません。

平和な時が続くことは喜ばしいことですが、それは歴史を鑑みると、いつ危機が来ても良い様に、普段から備える工夫が必要です。それは、何より歴史を学ぶことが肝要です。

 

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Section 3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL/Chapter-5-Section-1.pdf

第5章 近代の日本と世界(Ⅱ) 大正・昭和時代前半

Chapter 5: Modern Japan and the World (Part 2)
– The Taisho Period and First Half of the Showa Period

第1節 第一次世界大戦とその影響

67 第一次世界大戦と日本の参戦 第一次世界大戦はどうして起こり、日本はそれにどう関わったのだろうか。

 第一次世界大戦の始まり

日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策を諦め、再びヨーロッパへの進出を図った。ドイツは、すでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいたが、急速に海軍力を拡大して、海外進出に努めた。これを恐れたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907(明治40年)、三国協商が成立してドイツを包囲した。ヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていった。

この頃、バルカン半島では、民族の独立を目指す運動が盛んで、この地域に利害関係を持つ列強は、独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。そのためバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、一触即発の緊張した状態が続いた。ロシアはセルビアなどのスラブ民族を支援し、これらの国々と隣り合うオーストリア*1と対立していた。

1914(大正3年)、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアのサラエボを訪問中に、ロシアに心を寄せるセルビアの一青年に暗殺された(サラエボ事件)。両陣営は同盟や協商に基づき相次いで参戦し、第一次世界大戦が始まった。

*1 オーストリアは中世からドイツ系のハプスブルグ家が支配し、当時はオーストリア・ハンガリー帝国としてヨーロッパ五代列強の一つに数えられていた。その東部、南部には主にスラブ民族など多民族が居住していた。

Section 1 – World War I and its repercussions

Topic 67 – Japan’s participation in World War I   Why did World War I begin and how did Japan become involved in it?

The outbreak of World War I

After the Russo-Japanese War, Russia gave up its ambition of advancing into East Asia and again set its sights on Europe. Germany had already joined the Triple Alliance with Austria and Italy, and soon proceeded to build up its naval strength and expand overseas. Fearing Germany’s growing power, Great Britain drew closer to Russia and France. In 1907 (Meiji 40), Great Britain, Russia, and France concluded the Triple Entente in order to surround Germany. Tensions rose as the nations of Europe divided themselves between these two camps.

During this time, national independence movements gained strength in the Balkan Peninsula. The great powers with interests in the Balkans exploited this situation to increase their influence over the region. Because the Balkan Peninsula was continuously on the brink of war, it came to be known as “the powder keg of Europe”. Russia backed Serbia and the other Slavic nations against their neighboring rival, Austria.*1

*1=Austria, which was then referred to as the Austro-Hungarian Empire, was among five of Europe’s strongest countries. Since medieval times, it was ruled by the German House of Habsburg. Its eastern and southern territories were inhabited by a variety of ethnic groups, mainly Slavs.

 

・・・現在の世界中の地域紛争は、民族対立や宗教対立が何千年も変わらずに続いていることの証左です。人が混み合うと、まるで満員列車に乗っているかのように、体の身動きすら困難な状況を想像すると実感出来ます。私たちが住む日本は、地勢的に島国であることから、その混雑から幸運にも免れていると言えます。日本に住んでいると、その有難味が分かりませんが、世界の戦乱や混乱が続く国々とは、全く別世界にいるということは理解しておかなければなりません。つまり、電車が空いていて楽チンであることに気付かなければなりません。

 

posted by at 08:31  | 塾長ブログ

謹賀新年 平成三十年元旦

明けましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になりました。本年も宜しくお願い致します。

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、元旦も稼働中です。

さて、

平成三十年 戊戌(つちのえ・いぬ)の歳。

日本の暦には、元号(例えば、昭和、平成など)による年代表記とあわせて、干支が記されます。

干支とは、古代中国の考案で年・日(や方位)を表すシステム。

十干、則ち甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛・壬(じん)・癸(き)と、

十二支、即ち子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)。

これを組み合わせて甲子(きのえ・ね)・乙丑(きのと・うし)等六十種の呼び名を作り、年・日などに当てはめます。

干支の意義について、安岡正篤先生の人間学講話「干支の活学」(プレジデント社)から引用してご紹介します。

 本来の干支は占いではなく、易の俗語でもない。それは、生命あるいはエネルギーの発生・成長・収蔵の循環過程を分類・約説した経験哲学ともいうべきものである。

即ち「干」の方は、もっぱら生命・エネルギーの内外対応の原理、つまりchallengeに対するresponseの原理を十種類に分類したものであり、「支」の方は、生命・細胞の分裂から次第に生体を組織・構成して成長をし、やがて老衰して、ご破算になって、また元の細胞・核に還るーーーこれを十二の範疇に分けたものである。

干支は、この干と支を組み合わせてできる六十の範疇に従って、時局の意義ならびに、これに対処する自覚や覚悟というものを、幾千年の歴史とと体験に微して帰納的に解明・啓示したものである。

・・・安岡先生のお話は、熟読玩味すべき名調子で記されます。ご一読をお勧めします。

posted by at 22:37  | 塾長ブログ

言葉は知識を刈り入れる道具 カール・ヴィッテの教育法4

本日は平成29年の大晦日。「光陰矢の如し」。時の経つのは早いもので、年齢を重ねると、更にその感が強まります。ご縁のある皆様には、本年もお世話になりました。来年もどうぞ宜しく御願い致します。

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、年末年始も冬期講習中です。各人がそれぞれの課題に取り組みます。タイミングが合えば、気分転換の「論語カルタ」(佐賀県多久市 公益財団法人孔子の里発行)で、学年や年齢差のハンディなしのタタカイが始まります。百人一首形式なので、上の句を読むと下の句を自然と覚えてしまいます。

さて、漢字教育で著名な石井勲先生の著書「幼児はみんな天才」に紹介されているカール・ヴィッテの教育法には様々示唆に富むことが記されています。

 また彼は、教育上大切なことは、子供の頭に知識を詰め込むことよりも、見聞を広めさせることだと考へてゐました。そこで彼はカールを散歩に連れ出し、建物や旧蹟などを説明して聞かせかした。また、買物や音楽会、劇場、博物館、美術館、動植物園などにも連れて行きました。他に工場や病院、養老院などにも連れて行ったさうです。そして、家に帰ると、母親に詳しく報告させました。ここが大事な所で、このためにカールはよく注意して物を見、説明を聞くといふ習慣をつけることが出来たのです。小さい時からかういう習慣があるのと無いのとでは大変な違ひが生まれることは読者の皆さんにもよくお解りでせう。

  もう一つ大切な事は、子供を躾ける時、方針を変へないといふことです。良い事はあくまで良いこと、悪い事はあくまで悪いこととして、最初から方針を決めておかなければいけません。いけない事は初めからいけないことと禁じておけば、子供は苦痛を感じないで済みます。それを、まだ小さいのだから許しておかう、もう少し大きくなれば、解るだろう、と考へるのは誤りだといふのです。これも、親がよく陥りさうな誤りです。「この子はまだ小さいのだから、厳しくしては可哀想だ」といふ親心が、かへって仇になるのです。白紙のやうな子供の心にとっては、善悪、寛厳の区別はありません。親のやることは皆当り前の事だと思ってゐます。だから、最初が肝心なのです。いけないことは最初からいけないと言ってやれば、子供は、さうかと思ひます。最初は悪いと思ってゐなかった事が、途中から悪いと言はれれば、子供の頭は混乱します。真に子供の幸せをねがふなら、最初の躾をきちんとすべきです。そして方針を変へないことです。とかく、人はその時の気分で、子供を叱ったり甘やかしたりしがちです。これは躾にとっては一番いけません。子供の方も敏感にそこを見て取って、「いけないと言っても、前には良いと言ったぢゃないか」と思います。すると親の躾が利かなくなります。これは親子双方にとって大変不幸なことです。

 また、父親と母親の方針が一致してゐるといふことも当然大切なことです。カール・ヴィッテの父親はここに注意して、常に妻と協力して教育しました。ここがうまく行かないと、良い結果が得られないことは、言うまでもないことと思います。

・・・どの指摘も、非常に重要です。子供さんは生まれたときは「白紙」です。正に純粋無垢。例えると、その白紙の心に綺麗な色使いで美しいものを描くのは親の躾や教育次第です。

一般的に、幼児からの早期教育に賛成されないのはお父さんの方が多いようです。基本的に、お父さんはご自分の記憶や経験に照らして、子供の教育を考える傾向が強いようです。つまり、幼い頃には、無理に教育しなくても、その内に自然と時期が来る、自分がそうだったから、と。ところが、そのお父さん方を育てたお母様に尋ねると、適切な時期に為すべきことを為しているから、ここまできていることがわかる筈です。ご自分が様々支えられて育ってきたことが指摘されて初めて分かります。

一方、お母さん方は、本能的にその幼児教育の必要性を感じておられるようです。

最後に、早教育を受けた英才が陥りやすい危険について触れたいと思います。

 知能の優れた子供は、とかく自惚れやすく、傲慢になり勝ちなものです。これをどうやって防ぐかが問題になります。自惚れは、人に嫌われるだけでなく、それ以上の進歩向上の妨げになります。

 カール・ヴィッテの父親は、あらかじめこの危険を見抜いてゐました。そして、カールの勉強ぶりや、善い行ひに対しても、決して褒めすぎるといふことをしませんでした。善い行いを認めないといふのとは勿論違ひます。しっかり勉強すれば、ちゃんとそれは認めます。が、褒め過ぎはしないのです。非常に善い行ひをした時は、最大の褒美として、抱き上げて接吻したそうです。かうして、善行は、その行為そのものが楽しみなのだ、といふことを体得させたといふわけです。褒めることによって子供の能力は引き出されてくるのですが、それも様々な場合に応じて様子を見ながら使ひ分けていかなければなりません。

 また、カールの父親は、自分が褒めるのを控えただけでなく、他人からの賞賛も極力避けるやうに努めました。他人がカールを褒めさうな時は、カールを部屋から出してやって、賞賛が耳に入らないやうにしました。そしてカールを褒めないやうに人に頼み、どうしてもそれを聞き入れず、つい褒めてしまふやうな人には家に出入りすることを謝絶したさうです。このために、人情を知らないとか、頑固だとかいふ悪評まで受けたさうです。そんなことはかまはうともしませんでした。人の評判よりは息子の人格を損ふことを恐れたのです。この点でも、カールの父親は意思の強い立派な人でした。

・・・「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、徳のある人ほど、謙虚です。カールの父親は、カール・ヴィッテの幼少時から細心の心配りをして、傲慢さや自惚れのない人にするべく努力しました。

私達も、子供さん達の教育について反省することばかりです。やはり、先人の素晴らしい教育については繰り返し学ばなければなりません。

posted by at 12:16  | 塾長ブログ

言葉は知識を刈り入れる道具 カール・ヴィッテの教育法3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、かって子供だった現在の大人達が、子供達には機会をつくって、世の中のことを教えるべきだとと考えています。これは子供の親御さんだけで無く、先生方、周りにいる大人達それぞれに言えます。世の中の様々なこと。自然や動植物。地域のこと、国のこと。様々な仕事や国の決まりや法律、社会の仕組み、地域や市町村、日本の歴史等など、枚挙に暇はありません。

さて、

漢字教育で著名な石井勲先生の著書「幼児はみんな天才」に紹介されているカール・ヴィッテの教育法には様々示唆に富むことが記されています。

 例へば、こんな例があります。これは、カール・ヴィッテの父や自身が書いた『カール・ヴィッテの教育』(この本は、今はアメリカのハーバード大学に一冊だけ残ってゐまして、これを読んで実際に実施したハーバード大学関係者の子女に英才が何人も出てゐるさうです。皆、心身共に優れた若者で、将来が楽しみだといふことです。)といふ本の中で書いてゐることです。

 「息子が無遠慮なことを言った時は、私は即座に叱ることをせず、『息子は田舎者ですから、こんなことを言ふのです。どうぞ悪く思はないでください。』などと言っておく。すると息子は、これは悪いことだと悟って、必ず後になってからその理由を質問する。その時初めて『お前の言ったことは本当だ。お父さんもそれを認める。しかしそれを、人の前で言ふことはよくない。お前があんなことを言ったものだから、〇〇さんは恥ずかしがって顔を赤くしたではないか。〇〇さんはお前を可愛がってゐるし、お父さんに遠慮をしてゐるから、黙ってゐたけれども、よほど気を悪くしたに違ひない』といふふうに説明して聞かせ、子供の判断力を傷つけないやうに務める

  かういうことが大切なのであって、子供の教育といふものは、ただ知識を詰め込むだけでは何にもなりません。かういう父親に教育されたからこそ、カール・ヴィッテは当時の人々に尊敬される大学者になったのです。皆さんも、お子さん方に、かういうふうな態度で接し、その持ってゐる可能性を最大に発揮できるやう、やってみていただきたいと思ひます。

 他にカール・ヴィッテの教育で重要な点を二、三挙げますと、次のやうなことです。一つは、子供の質問に丁寧に答へること。普通、子供といふものは、二、三歳ごろから、うるさいほどいろいろな事を尋ねるものです。それをたいていの親はいい加減に答へたり、うるさがったりして、子供の好奇心を育ててやろうとはしないものです。そして、そんなことはいまに学校で教へてくれるからよい、と思ったりしてゐるわけです。ところが、これが大きな間違ひで、子供の能力は、こんなふうにしてゐると、全く成長できずに枯れてしまひます。ところが、カール・ヴィッテの父親は、質問を奨励し、またそれに丁寧に答へました。そして決してごまかしの説明をしませんでした。カールにも解るやうな平易な説明を心掛け、また、自分も知らないやうなことは、「それはお父さんも知らない」と正直に答へて、二人で本を読んだり図書館に行ったりして調べるやうにしました。これは忙しい親にとって決してやさしいことではありません。カール・ヴィッテの父には牧師としての忙しい務めがありましたから、彼にとってもこれは努力の要ることだったでせう。しかし、彼は息子のためといふ信念から、あへてこれをやったのです。そして結果は大いに酬われたのでした。

・・・カール・ヴィッテの父は、正に父親の鏡である、と言えます。一般に、仕事に専心しているお父さん程、家庭に帰るとゆっくり寛ぎたい、と思う人が大半でしょう。しかし、カール・ヴィッテの父は、自ら考えた独自の教育論を検証する為にも、子供の成長を楽しみに日々接する自分自身を律していくのです。子供との会話を楽しみつつ、謂わば日々教育の実験をしていると言っても過言ではないでしょう。

「爪の垢を煎じて飲む」気持ちで、改めて子育ての基本に戻ることも大事です。

posted by at 16:29  | 塾長ブログ
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