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言葉は知識を刈り入れる道具 カール・ヴィッテの教育法2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の年齢や個性に応じて指導することを心がけています。同じ年齢であっても、横並びで一斉に成長するわけでは無いからです。

漢字教育で著名な石井勲先生の著書「幼児はみんな天才」に紹介されているカール・ヴィッテの教育法には様々示唆に富むことが記されています。

 

そして彼が実践したやり方といふのは、かうでした。赤ん坊のカールの前に指を動かしてみせます。すると、カールは指をつかまうとして手を伸ばします。最初は見当がはづれて、なかなかつかめないのですが、つひには成功し、大喜びで父親の指を口に入れて吸ひ始めます。すると父親はその時、ゆっくりとはっきりとした口調で、「ゆび、ゆび」と何回か言ふのです。

 このやうにして父親は、カールの眼の前に色々なものを出して、その名前をゆっくり、そしてはっきりとした口調で数回発音して聞かせました。するとカールは間もなく、さうした物の名前をはっきりと発音できるやうになりました。

 次には、カールを抱っこして家の内外の物、道具や衣服、草木や花、虫、そして動詞や形容詞などの言葉も、教へました。そして、かういふ物事を教えるときには、皆、カールとの簡単な、しかし楽しい会話の中で教へました。根気よく、しかし、無理矢理に、詰め込まうとするのではなく。

 かうしてカールが少し話を理解するやうになりますと、両親は毎日カールにお話をして聞かせました。そして又、カールにそのお話を繰り返させました。さうしないと、そのお話の効果が十分に上がらないからです。

 この結果、カールは、五、六歳までの間に約三万語の単語をやすやすと覚えることが出来たさうです。そして、これも大事なことですが、カールの父親は、決してカタコトや方言を使ひませんでした。そしてカールが正しく発音した時には「上手だね」と言って頭をなでててほめました。正しく発音できないと妻に「お母さん、カールは何々と言へないよ」などと言ひ、妻の方も「さうですか、そんなことが言へないんですか」などと答へました。すると、幼いながらも、カールは懸命に正しく発音しようと努力して、つひにはそれが出来るやうになったといふことです。かうして、まだ親に抱かれてゐるうちから、カールは言葉を極めて明晰に喋ることが出来たのです。

 又、父親はカールが単純な言ひ回しに満足せず、複雑な言ひ回しを理解したり、自分でも使ったり出来るやうに教育しました。そして、曖昧な言ひ回しをせず、極めてはっきりした言ひ方をするやうに注意しました。これは、頭を明晰にするには、まづ言葉を明瞭にする必要があるとの彼の持論から出た事でした。それで、両親はまづ自分たちが、正しく美しいドイツ語を使ふやうに努力したさうです。

 

 カールが読書を始めたのは三歳半の頃でした。父親のやり方はかうでした。まづ、子供向きの絵本などを買って来ます。そして、それについて、カールに面白く話して聞かせてから「お前が字を読むことが出来れば、こんな事が皆解るんだが」などと言って、好奇心を刺激しました。また、全く話をして聞かせずに「この話はとても面白いのだけれど、とても話してやる暇が無い」などといふこともありました。いづれにせよ、カールとしては何とかして字を読むことを覚えたいといふ気になるわけです。さうなってから、初めて字を教えたといふことが書いてあります。これも非常に大切なことだと思ひます。

 カール・ヴィッテの父親は大変聡明な人でした。そのしつけは厳格ではありましたが、専制的ではありませんでした。子供の判断力を育てることに主眼を置き、叱るときにも一方的に叱ることはせず、なぜそれが悪いのかを納得できるように説明してやりました。         (続く)

子供を抱っこしている段階から、「家の内外の物、道具や衣服、草木や花、虫、そして動詞や形容詞などの言葉も、教へました。そして、かういふ物事を教えるときには、皆、カールとの簡単な、しかし楽しい会話の中で教へました。根気よく、しかし、無理矢理に、詰め込まうとするのではなく。」・・・一日や二日なら誰しも取り組むことはできますが、これを毎日、倦まず弛まずし続けることは並大抵の努力ではできません。

子供の将来を考え、日々精進する親の姿があればこそ、成長した子供が有為の人物となっていくのです。

五、六歳までの間に約三万語の単語」を覚えたということに近い例は、記録に残されてはいなくても、歴史上数多いるのでは無いかと思います。一つ挑戦してみようと思われる親御さんの登場をお待ちします。

posted by at 17:26  | 塾長ブログ

言葉は知識を刈り入れる道具 カール・ヴィッテの教育法1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、ご縁のある方々には子育てや家庭教育についての有益な情報も伝えて行こうと考えています。

早教育の例として取り上げられるカール・ヴィッテの教育法について述べられたものがあります。漢字教育で著名な石井勲先生の著書「幼児はみんな天才」から引用してご紹介します。長文ですから、数回に分けてのご紹介です。

英語版Wikipediaにはカール・ヴィッテは以下のように記されています。

Johann Heinrich Friedrich Karl Witte (born July 1, 1800 ; died March 6, 1883 i) was a German jurist and scholar of Dante.

Witte was the son of pastor Karl Heinrich Gottfried Witte who encouraged a fairly intense program of learning. When Karl Witte was nine, he spoke German, French, Italian, Latin, and Greek, and on April 10, 1814, at the age of 13, he became a doctor of philosophy at the University of Giessen  in Germany. As a result, Witte was listed in  The Guinness Book of World Record as the “youngest doctorate”, a record that still stands; however, The Guinness Book of World Records lists his age as 12.

ヨハン ハインリッヒ フリードリッヒ カール ヴィッテ(1800年7月1日生れ、1883年3月6日亡)はドイツの法学者でダンテ研究者(学者)。ヴィッテはかなり強烈な学習プログラムを奨励したカール ハインリッヒ ゴットフリード ヴィッテ牧師の息子でした。カール ヴィッテが9歳のとき、独語、仏語、伊語、羅甸(ラテン)語、希臘(ギリシャ)語を話し、1814年4月10日13歳の時、ドイツのギーセン大学の哲学博士になりました。その結果、ヴィッテはギネスの未だもって世界記録であると記されている「最も若い博士号の学位」として列せられています。世界記録ギネス本には彼の年齢は12歳とされている。

カール ヴィッテ

カール・ヴィッテは一八〇〇年、ドイツの小さな村に牧師の子として生まれました。牧師だった父は、非常な卓見の持ち主で、当時としては驚くべき独創的な教育論を持ってゐました。それは一言で言えば「子供の教育は、子供の知力が見え始めたと同時に始めるべきだ」といふものでした。さうすれば、大抵の子供は将来非凡な人間になるといふのです。ただし、彼はその著書の中でこう言ってゐます。「自分は天才を作るつもりで、このやうな教育をわが子に施したのではない。ただ円満な人格の人間を育てようとした結果、このやうになったのだ」と。

 とかく早教育や英才教育は批判の的になります。かういふ教育の結果、偏った人格や病気がちの弱い肉体の持ち主になってしまふといふ心配をする人があります。それにカール・ヴィッテの父親は答へたといふわけです。実際には、カール・ヴィッテは偏った人格とはおよそ程遠い円満な人柄で、健康面でも八十三歳といふ当時としては大変な高齢まで元気で法学者としての仕事を続けてゐましたから、かういふ批判は当たりませんでした。

カール・ヴィッテは、幼児期に既に三万語の語彙を持ち、フランス語、イタリア語、ラテン語、英語、ギリシャ語をマスターし、特に数学では将来を嘱望されるほどの才能を示しました。僅か九歳でライプチッヒ大学に入学を許され、十三歳で哲学博士、十六歳で法学博士になり、ドイツの各大学で法学の講義を行ひました。かたわら、イタリア留学中に興味を抱いたダンテについても、その道の専門家も舌を巻くほどの研究があったといふ多方面にわたる学者でありました。

 さて、カール・ヴィッテの父が息子に早教育を施した直接のきっかけは、教育者と牧師とから成るグループの間の議論から生まれました。まだカールが生まれる前のことでしたが、「子供の能力を決めるのは遺伝か、それとも後天的な教育か」といふ議論が、このグループの中で、交されたのです。カール・ヴィッテの父は、以前から、「遺伝より、教育が大事だ、それも生まれた時から五、六歳までの教育の良し悪しによってきまる」といふ意見を持ってゐましたので、それを主張しました。しかし、この説を支持したのはわづか一人だけで、他の人々は皆こぞって反対したので、「では、もし私に子供が出来たら、その子を私の教育で非凡な人間に育て上げてお目にかけませう」と言ったのださうです。

 その後間も無く、子供が生まれましたが、残念なことに、この子は死んでしまひました。次に生まれたのが、カールでした。父親はこの子を自分の信念に従って、細心の心づかひをもって育てたのです。

 ここで注目したい事はカールは決して生まれつき知能の勝れた子供ではなかった事です。反対に、白痴かと思はれるほど、鈍い子供だったさうです。母親でさへ、「こんな子は教育しても駄目です」と諦めてゐたといひます。しかし、父親の方は、諦めませんでした。

 「我々は子供を社会に送り出すにあたって、出来るだけハンディキャップを少なくしてやる義務がある」と考えてゐた父親は、英知の限りを尽くしてカールを教育しました。

 彼の教育の根本理念はかういふことでした。

「子供の生まれつきの可能性を一〇〇とした時、子供を放りっぱなしで育てれば、その能力は発現を見ることが出来ずにどんどん減ってしまふ。五歳になれば八〇に減り、十歳になれば六〇に減り、十五歳になれば四〇に減るといふ具合に。だから子供を育てるのに大切なことは、時期を失はないうちに、潜在的な能力を発達させることである。それには、早くから子供の能力に働きかけてこれを発達させなければならない。つまり、子供の中に少しでも知力が芽生えたと見えたら、ただちに始めなければならない。では具体的にどうすれば良いのか。それは子供に早くから言葉を教へることである。言葉は知識を刈り入れる道具に他ならないから、言葉を早く、多く教へることによって、知識を獲得する能力は、素晴らしく大きなものになるに違ひない。」

(続く)

凡そ200年以上前に、 「我々は子供を社会に送り出すにあたって、出来るだけハンディキャップを少なくしてやる義務がある」と考えていた父親がいたのですね。当時のドイツでは、国民の識字率は相当に低かったし、教育は一部のエリート層のものだったはずです。父親は牧師で謂わば知識人です。しかし、自らの仮説を断固とした意思に基づき、その時代の常識を覆すほどの教育を実践したことが、現在まで語り継がれている教育法の所以です。

posted by at 14:25  | 塾長ブログ

如何に、相互理解するか。

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生に高く広く俯瞰的な目を持つ日本人になってほしいと考えています。

宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の「ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」と言うように、自分の利害損得を考慮に入れず、客観的に物事を考えることが出来る日本人が、今後の世界から求められる、国際人になっていくのではないでしょうか。

 

外交評論家の加瀬英明氏のコラムが興味深い記事をブログで配信されていましたので、引用してご紹介します。http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

爆破された貴重な仏教遺跡

 10月に東京においてアフガニスタンで2001年に無惨に破壊された、バーミアンの大仏を再建する方策を検討する国際シンポジウムが開かれた。

 私はシンポジウムを取り上げたテレビのニュースを見ながら、西洋のキリスト教の歴史と、今日のイスラム教に思いを巡らせた。

 バーミアンはアフガニスタン中央部の盆地にあって、南北交易路の要衝だったことから、9世紀まで仏教王国として栄えた。

アフガニスタンの地理(wikipediaより)

 山腹に刻まれた巨大な2軀の大仏立像があったが、イスラム過激派のタリバン政権によって爆破された。

 2体とも、世界的に貴重な仏教美術遺産だった。東西2軀のうち西側の大仏は、高さが55メートルもあった。

バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)(wikipediaより)

 私はタリバンが爆破した瞬間を撮影した映像が、テレビで放映された時も、ヨーロッパの歴史を思った。

破壊後の石仏(wikipediaより)

 シリアではイスラム国(IS)によって、3世紀に遡るローマ時代の多神教の壮麗なパルミュラ遺跡が、イスラム教を冒涜するものとして、破壊されたことはよく知られる。

 私たちは眉を顰めるが、これらの遺跡を破壊するのに当たって、タリバン政権も、イスラム国も神の意志を代って行っていると、固く信じていたはずである。

 イスラム教の2大宗派による抗争

 今日、中東と北アフリカでは、イスラム教の2大宗派であるスンニー派と、シーア派が、アフガニスタン、イラク、シリアから、リビアまで血を血で洗う凄惨な抗争を繰りひろげている。まったく終わりが見えない。

 10月に、クルド族によるシリア民主軍が、イスラム国の“首都”だったラッカを制圧したが、ISが解体したとしても、今後、シリアに平和が甦ることはないだろう。

 宗教戦争が進んでいるのだから、アラビア半島まで混乱が波及して、サウジアラビアをはじめとする、湾岸産油諸国を呑み込む可能性もあろう。

 私たちはイスラム教が寛容をまったく欠いており、暴力を手段とする“変種”の宗教であると、奇異の眼をもってとらえがちだ。しかし、イスラム教はユダヤ・キリスト教を母胎として生まれたが、キリスト教の再来であると考えれば、“変種”ではけつしてない。

 大英博物館を訪れて

 ローマ帝国によって迫害されていたキリスト教が、ローマ帝国の国教として採用されたのは、後に大帝と呼ばれたコンスタンティヌス1世が、312年にキリスト教徒の助けによって、テレベ河の戦いに勝ったのが切っ掛けとなった。キリスト教化すると、異教となった多神教の神殿や、彫像、列柱が、帝国の全域にわたって破壊された。

 キリスト教は偶像崇拝を禁じたから、ギリシアのアテネ、シリアのパルミュラから、エジプトにあった神殿まで、容赦なく破壊された。

 私はロンドンの大英博物館で案内してくれた学芸員から、展示された多くのギリシア・ローマ時代の神像や、彫像が大きく破損しているのは、キリスト教徒の手によるものだと、説明をきかされた。

 大理石の彫像や、列柱が粉々に砕かれて、キリスト教会を建てるために、モルタルとして使用されたということだった。キリスト教徒は、タリバンや、ISの先駆けだったのだ。

 イスラム教は、まだ若い宗教なのだ。キリスト教より600年後に、開祖マホメッドによって生まれた。

 今日、イスラム世界に起っていることは、キリスト教が300年前まで行っていたことだと、考えればよい。ヨーロッパでは、カトリック(旧教)教徒とプロテスタント(新教)教徒が、2世紀にわたって宗教戦争を戦うことによって、大量の人命が奪われ、ヨーロッパ全土を荒廃させた。

 今日でも、先進国イギリスの北アイルランドにおいて、1990年代にカトリックとプロテスタント住民のあいだで停戦合意が行われたものの、いまだに銃撃戦が発生している。

 「宗教」という言葉は明治になって造られた

 中東に戻れば、イスラム国が倒されたとしても、イスラム過激主義というイデオロギーが、消滅することはない。いくら激しい空爆や、砲撃を加えたとしても、理想主義(イデオロギー)を破壊することはできない。

 このところ、ヨーロッパがイスラムによるテロ事件によって悩まされているが、イスラムがヨーロッパを呑み込もうとしており、まだ始まったばかりのところだと、考えるべきだろう。

 イスラム過激主義は、東南アジアにも拡がりつつある。日本に入国する外国人観光客や、人手不足を補うための研修労働者が増えるなかで、不断の警戒を怠ってはならない。

 日本は幸いなことに、明治に入るまで宗教と無縁だったために、国内の安寧が保たれた。

 「宗教」という言葉は、明治に入ってから新しく造語された、おびただしい数にのぼる明治翻訳語の一つである。それまで日本語のなかには、「宗門」「宗旨」「宗派」という言葉しか、存在しなかった。宗門や宗派は争うことなく、共存――共尊していた。

 キリスト教という寛容を欠き、他宗を認めることを拒む信仰が入ってくると、それまでの日本語では表現できなかったので、「宗教」という新語を造らねばならなかった。

 福沢諭吉が『西洋事情』のなかで明治訳語について、「西洋の新事物輸入するに」あたり、「恰(あたか)も雪を知らざる印度人に雪の詩を作らしむ用の沙汰なれば(略)新日本の新文字を製造したる其(その)数亦尠(またすく)なからず」と、書いている。「宗教」も、その一つだった。

 心を用いる神道は宗教ではない

 日本の在来信仰である神道は信仰であるが、宗教ではない。人がまだ文字を持つ前に生まれ、開祖も、経典も、聖書も、言葉を多用した煩雑な教えも存在しない。

 宗教では、人が中心になっているのに対して、神道は万物のなかに霊力が宿っていて、自然全般が神々しい存在とされている。

 「レリジョン」(宗教)の語源は、ラテン語の「レリギオ」だが、類語の「レリガーレ」は「固く縛る、束縛する」を意味している。神道を宗教とみなすのは、インド人に雪について詩を書かせるようなことだ。

 神道という言葉も、新しい。それまで名がなかったが、仏教が儒教とともに伝来した時に、仏教と区別するために生まれた。

 宗教は言葉から成り立っている。日本は中国大陸や朝鮮半島と違って、冗舌であったり、言葉によって成り立っている論理を、本能的に嫌った。

 日本では太古の昔から言葉が対立を招いて、和を損ねることを知っていたから、「言挙(ことあ)げしない」といって、言葉を多用することを戒めてきた。また「言霊(ことだま)」といって、言葉を用いる時には、よい言葉を発しなければならないと、信じた。

 宗教が言葉を使って組み立てられているのに対して、神道は心の信仰である。人は心を分かち合えるが、論理はかならず対立をもたらす。

 「指導者」や「独裁者」という言葉も、明治に入るまで日本語に存在しなかった明治翻訳語である。天照大御神は最高神として権威を備えていたが、西洋、中東や、中国、朝鮮の最高神が独裁神であるのと違って、つねに八百万(やおよろず)の神々と合議している。日本には、全能の神という発想がなかった。

 神道こそが世界を救う

 「根回し」「稟議」という言葉は、ヨーロッパ諸語にも、中国語、韓国語にもなく、日本語にしかない独特なものだ。今日でも、日本には論理によって人々の上に立つ「指導者」や、「独裁者」が存在していない。

 自然を尊んで、自然が神々だとする信仰はエコロジーであり、今日の人類にとってもっとも進んだ教えである。

 私は神道が、世界を救うと信じている。この和の信仰を国際化して、全世界にひろめたいと願っている。

・・・「日本の在来信仰である神道は信仰であるが、宗教ではない。人がまだ文字を持つ前に生まれ、開祖も、経典も、聖書も、言葉を多用した煩雑な教えも存在しない。宗教では、人が中心になっているのに対して、神道は万物のなかに霊力が宿っていて、自然全般が神々しい存在とされている。」と加瀬英明氏のご説明されているように、日本人にとっては、、八百万(やおよろずの)の神々が私達の周りに遍満(遍満=あまねく満ちること)していると考えるのが、素敵です。

日本人は、台風や地震に苛(さいな)まされることがあっても、自然の流れの中ですべてを受け入れて、常に前向きに物事を捉えてきた民族です。生きとし生けるものをあるがままに受け入れる、まるで「差別」という概念を持っていないのではないかと思われるほどです。

幼い子供達は、無邪気です。

つまり、邪気がない存在です。それが、マイナスな言葉や想いのある中で翻弄されるうちに、徐々に邪(よこしまー正しくないこと、善くないこと)な世の中に良くも悪くも順応せざるを得なくなってしまいます。

無邪気な存在のいとけなき子供達を如何に育てていくか、は大人達の生き方に掛かっています。

posted by at 19:25  | 塾長ブログ

「歴史とは何か」

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生が日本人らしい日本人に成長していくことを楽しみにしています。その為には、日本の歴史や伝統をしっかり学ぶことが必要です。

さて、縁あって以下の本を読んでいますと、なるほど!と思わせる記述を目にしました。それを引用します。

黄文雄の「歴史とは何か」

黄文雄の「歴史とは何か」(自由社)<日・中・台・韓>の歴史の差異を巨視的にとらえる

七、意味を読み取るために比較を必要とする理由

(中略)p.37~

日本の歴史教育の欠陥について、まとめて述べておこう。私のような台湾の出身者が、外から見ると、日本の学校で教える歴史教育の欠陥がよく見える。

現在使っている中学校学習指導要領によれば、中学校の日本史の歴史教育の目標「我が国の歴史の大きな流れを世界の歴史を背景に、各時代の特色を踏まえて理解させ、それを通して我が国の伝統と文化の特色を広い視野に立って考えさせるとともに、我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」となっている。自国の歴史教育の目標として極めて適切に規定している。

しかし実際の学習活動の中には、日本の伝統と特色は何なのかを、考えさせるためのあるべき活動がない。それにどのようにして自国の歴史に対して愛情を深めるのか、そのための活動を促す規定がない。学習指導要領全体では、子供の表現力を身につけさせるとか、アクティブ・ラーニング(自主的にして能動的な学習)を強調しながら、歴史教育のこの目標に従って実際に取り組むための活動への促しがない。その結果、歴史上の知識のようなものは身についているが、比較がないのでその特色がつかめず、その結果、実際は自国の真の姿を知るという歴史教育の目的を十分に果たしていないことになる。

海外の子女が他国の子供達とそれぞれお国自慢をしている時、日本の子供だけが何も言えない状況になっているとよく聞くが、歴史教育の失敗の結果である。日本の子供は天皇がどのような役割を果たしているのかについても、一言も話せないのだ。

八、歴史認識から影響を受ける人間の歴史的行動

歴史認識は人々のアイデンティティー(主体性)形成に関わり、人々の歴史的行動に重大な影響を与える。そしてそのことが、その国の歴史の特色を形成する要素となる。このことを理解するために、中国と日本の歴史を比較した具体的な例を一つ示そう。

中世の初め、関白藤原忠通(ただみち)の子で慈円(じえん)という僧侶が、一二二〇年に「愚管抄(ぐかんしょう)」という日本で初めての政治評論書を著した。

慈円は中国の歴史に鑑(かんが)みて、全ての王朝には寿命があり、天皇の率いる朝廷も滅びる可能性があると述べた。しかし日本の朝廷は滅びなかった。

慈円が「愚管抄」を書くきっかけとなったのは、保元、平治の乱である。このうち保元の乱は、五歳で皇位に就いた第七十五代、崇德(すとく)天皇が、二十三歳で無理やり三歳の近衛(このえ)天皇に譲位させられ、この近衛天皇が十七際で亡くなったとき、自分が皇位に復帰するか、子の重仁(しげひと)親王が即位するかを期待していたが、期待は実らず、同母弟の後白河天皇が即位した。不満の昂じた崇徳上皇が通常日本では考えられないことであるが、兵を使ってクーデターを起こした。そしてあえなく失敗して讃岐(さぬき)に流されたのである。この政変の中で平氏と源氏の争いが起こり、源氏による鎌倉幕府が一一九二年開かれる。

そんな時代の流れのなかで、慈円は世の中には「道理」というものがあり、日本の大和朝廷に始まる朝廷も寿命があり、滅びる可能性があると言ったのである。ところが同じころ、承久三年(一二二一年)の承久(じょうきゅう)の乱でどんなことが起こったか。

承久の乱というのは、鎌倉幕府の北条義時(よしとき)が横暴であるとして、後鳥羽(ごとば)上皇が、鎌倉幕府打倒のために兵を挙げたのがきっかけである。上皇の兵を迎えた鎌倉幕府は敗けるどころか勝利した。しかし鎌倉幕府側は朝廷を滅ぼさず、幕府は仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃し新しい天皇を立て、そして三人の上皇を遠方の辺鄙(へんぴ)の地に流した。

天皇より征夷大将軍の位を得て天皇の下にある者が、日本の最高の権威である天皇の、さらにその上にある上皇を遠方の地に流したのであるから、それだけでも大変なことで、まさに朝廷は滅亡の危機にあったと言える。しかし時の執権北条義時は朝廷から政治を預かる幕府の、その執権としての立場をわきまえ、朝廷そのものを倒そうとはしなかった、また、たとえ義時が仮に滅ぼそうと思ったとしても、そのために行動を起こせば、どれほどの騒乱が起こるか。朝廷を守ろうとする兵が続々と出てくるであろう。中国や朝鮮のような易姓革命のような動きは日本のどこからも起こらなかった。

この時の両軍の戦い方に日本らしさが十分に出ている。

鎌倉幕府の執権の北条義時は、朝廷からの兵を迎え撃つ兵の総大将としてその子泰時(やすとき)を任じたが、出兵に当たって、義時は泰時からの問いに答えて、もし朝廷の軍が、天皇の御旗を立てて上皇自らが兵を指揮して攻めてきた場合は、兜を脱ぎ捨てて弓の弦を切り、ひとえに畏まって、身は上皇にゆだねよ、もしそうではなく兵だけ押し寄せてきたならば、命を捨てて千人が一人になるまで戦え、と答えた。

日本の歴史を回顧して、そこから出てくる歴史認識から、この歴史的瞬間に、鎌倉幕府の武士は、中国や朝鮮の武将と違って心の底に朝廷を尊ぶ思いを秘めており、このように行動したのである。それが日本の伝統となり、さらに後世の者の行動に影響を与えるのである。

文化風土が長くつづくと、歴史と伝統ができあがり、その結果伝統を変えていくのはとても難しいものになる。

易姓革命の国、中国でも違った意味で伝統は強かった。政治改革を、中国では「変法」と呼ぶ。秦の始皇帝が中国を統一して以来、「変法」は一つも成功したことがない。有名な宋の王安石(おうあんせき)の変法も、清の戊戌(ぼじゅつ)維新も最後は失敗してしまった。

中華帝国が辛亥革命となって終焉(しゅうえん)を迎えても、中華民国は国民国家造りをめざして、逆に史上空前の内戦国家となってしまい、国共内戦後に成立した中華人民共和国も、約二十年後、文化大革命の「十年の動乱」に陥った。

20世紀に入って中国は帝国から民国、そして人民共和国と、国体も政体も二転三転し、手を変え、品を変えても、うまくいかなかった。

天子としての皇帝がいなくなると、中国人は心の中にある神を失ってしまうから、不安になる。だから初代大総統の袁世凱(えんせいがい)が一時的に帝政を復活したり、清朝最後の皇帝の宣統帝が満州国で復辟(ふくへき 退位した君主が再び位に就くこと)することが出てくる。それは中国に限らない。フランス大革命後にも「アンシャンレジーム」(王政復古)の嵐が吹きまくった。習近平が毛沢東主義への復活を目指しているのも、皇帝がいなくなると、中国が不安定になるのではないかという万民の声に応える必要があるからだろうか。

日本は、神代から血の繋がりを持つ天皇が歴史と伝統になっており、いくら藤原家やら源氏、北条、足利、織田信長、徳川家など巨大な権力が出てきても、易姓革命はできない。せいぜい天皇と権威と権力を分割するに止まる。そこが「歴史と伝統」の力であり、万世一系の天皇の国でも重みでもある。

・・・筆者が学んできた日本史の歴史教科書では、小学校・中学校・高校何も、「天皇」に関する記述が極めて最少限度であったように感じます。つまり、単なる歴史の事実として年代、天皇の御名、出来事だけを述べて、「天皇」の歴史的・伝統的・文化的・文学的な意味合いをすべて消去していたかのようです。

昭和二十年八月十五日の大東亜戦争の終結後、米国による日本占領期に、本来の日本の伝統的な皇国史観を消し去られ、所謂マルクス主義歴史観に基づく歴史教育がなされてきた結果、現在の子供達が日本の本当の歴史を知らず、日本の素晴らしさを知らない状況に置かれてしまいました。

これからの日本の未来を担う子供達が、私逹の祖先や先人逹が築いてきた本当の日本の伝統や歴史を知れば、日本の将来に希望や自信を持つことができると考えます。

posted by at 21:24  | 塾長ブログ

「日本語があぶない」

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日頃から塾生に言葉の意味合いを考える癖をつけていきたいと考えています。その意味では、産経新聞の以下の記事が目に留まりました。

産経新聞平成29年11月29日「産経抄」「日本語があぶない」http://www.sankei.com/column/news/171129/clm1711290003-n1.htmlからの引用です。

11月29日「産経抄」

将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が先週、公式戦通算50勝を達成した。そのときのテレビ映像が興味深い。「『せつもく』の数字となりました」。藤井四段のコメントに、報道陣から困惑の声が上がる。「『なにもく』ですか?」。「僥倖(ぎょうこう)」「醍醐味(だいごみ)」など、これまでも中学生らしからぬ言葉遣いが話題になってきた。「節目(ふしめ)」のこんな読み方は、小欄も知らなかった。

▼国語学者の大野晋さんの『日本語練習帳』によると、新聞や雑誌に使われている単語は年間約3万語である。昭和30年代の高校の上級生が、ほぼ同じ数の語彙(ごい)を持っていた。読書家の藤井四段もこのレベルかもしれない。

 ▼ただし「今は大学生でも1万5千から2万くらいに落ちている」。この記述は約20年前のものだから、現在の学生の平均的な国語力はもっと低いはずだ。それにしても、昨日の中高生の読解力についての記事には驚いた。

 ▼「幕府は、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」「ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」。2つの文について、中学生の43%、高校生の28%が同じ意味だと答えたという。

 ▼これでは、新聞はもちろん教科書の記述もほとんど理解できないのではないか。調査では、中高生が1カ月に読んだ本の数やスマートフォンの利用時間と読解力の相関はみられなかった。本当だろうか。

 ▼作家の丸谷才一さんは、あるエッセーで訴えていた。「読書の訓練、作文の訓練は、テレビ時代、さらには携帯電話時代になればなるほど重要なんです」「土曜日を休みにすることを廃止しても日本語教育に力をいれなきゃならない」。エッセーのタイトルはずばり、「日本語があぶない」である。

「『せつもく』の数字となりました」・・・「節目」のことですが、大人でも通常は「ふしめ」と呼びます。節目は木の節(ふし)と木目(もくめ)」の意。将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)にインタビュウした大の大人で、しかも活字を生業としている新聞記者が、「『なにもく』ですか?」と問い直すのが、むしろ滑稽です。

「新聞や雑誌に使われている単語は年間約3万語である。昭和30年代の高校の上級生が、ほぼ同じ数の語彙(ごい)を持っていた。」・・・正に、現代の大人の語彙力が、昭和30年代の高校の上級生と比べても格段に落ちているのではないかと、疑ってしまいます。約20年前に「大学生でも1万5千から2万くらいに落ちている」と言われた語彙力は、現在ではさらに落ちているとの事。

やはり、スマート・フォンやインターネットの世界から離れ、じっくりと読書をし、日記を含め自ら筆を取る機会を作らなければ、語彙力は増えていきません。例えば、読書日記も有効です。読んでいる本の感銘を受けた場面や、納得できる論理構成を書き留める、などです。当然、万年筆など筆記用具を用いるわけですから、書き順であったり、意味合いを辞書で調べるなどの作業も出てきます。そうした一連の流れの中で、自らの知識を蓄えていくことが出来ます。小・中学生以上であれば、すぐ取り組むことが出来ます。

 

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