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論語に学ぶ 学びの里講演会

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室https://rashinjyuku.com/wpでは、長崎くんちの最終日、十月九日に佐賀県多久市で開催された『論語に学ぶ〜論語は美しい言葉と智慧の宝庫』(講師 安岡定子氏)を受講してきました。遠くは沖縄からも参加者があり、多久市の教育にかける力を感じさせるものでした。

講師の安岡先生は、知る人ぞ知る歴代首相の施政方針に朱筆を入れ助言された漢学者、安岡正篤先生のお孫さんです。「銀座・寺子屋こども論語塾」の代表として、『論語』をわかりやすく講義されています。http://www.sadakorongo.com/?p=301

その講義の資料からの引用です。

■孔子はどんな人?(前五五一〜前四七九年)

「人間いかに生きるべきか」を生涯追求した人物。

 二千五百年前、中国の春秋時代に魯の国に生まれた大思想家・学者・教育者です。特に儒学の祖として知られています。始めろの国の下級役人となり、五四歳の時に大司寇(司法と警察を司る長官)になります。魯の国の大改革をしようとしますが、反対派によって失脚させられます。その後の十数年は諸国を遊歴し、諸侯に自分の思想・哲学を説き、理想の政治の実現を目指しました。しかしその思いはなかなか受け入れられず、晩年は故郷の魯に帰り、門人の教育と古典の整理・編纂に力を尽くしました。

 気難しく、堅苦しい道徳や倫理ばかりを述べている人物のように思われていますが、決してそのようなことはなく、かなりの苦労人であり、人間味豊かでユーモアもある人物像は、とても魅力的です。人間にとって一番大切なものは、仁ー思いやりの気持ちーであると語り続けました。

 ■「論語」について

 古典中の古典。人生必読の書。

『論語』は中国の古典、四書五経の一つです。孔子の言行や弟子たちとの問答などを記録した書物です。二〇編約五〇〇章からなり、講師の思想の真髄を伝えるものとして、後世に大きな影響を与えてきました。また孔子の人柄を知る上でも、貴重な書物です。その中心的主張は「仁ー思いやりの心・愛情ー」の重要性です。戦乱の世にあって、理想の人物像・理想の政治の実現に最も大切なものは、「仁」であると孔子は説いています。

 日本では、江戸時代に藩校や寺子屋で盛んに読まれていました。大きな声で元気に繰り返し読んでいるうちに、名文・名句が体に心に染み込んでいきます。成長と共に経験や知識が加わり意味を理解できるようになり、やがてその言葉の魅力に気づきます。

 日本人の豊かな感性、優しい心、清く強い精神力、あるいは困難や悲しみを乗り越える力は、こうしてゆっくり育まれてきました。そして往くべき道に悩んだ時、くじけそうな時、様々な場面で心の拠り所となってきました。実業家・渋澤栄一氏や湯川秀樹博士をはじめとする、多くの実業家や学者、政治家、作家なども影響を受けています。私たち日本人には、とても身近な書物だったのです。

多くの論語の文言の中から、安岡先生は以下を例示されて子供さん達の導きの手法を講義されました。

学ぶこと・友達を作ること・理想の人を目指すこと。

学んで時に之(之)を習う、亦説(またよろこ)ばしからずや。

朋(とも)有り、遠方より來る、亦(また)楽しからず。

人知らずして慍(いきどお)らず、亦(また)君子ならずや。

昔の人の教えを大切にする。

故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以(も)って師と為(な)るべし。

先のことを考えて行動しよう。

人にして遠き慮(おもんばか)り無ければ、必ず近き憂(うれ)い有り。

良い習慣が大切。

性(せい)、相(あい)近し。習い、相(あい)遠し。

素敵な人からたくさん学ぼう。

教えありて、類(るい)無し。

★志を持つ。

道に志(こころざ)し、徳に拠り、仁に拠り、芸に游ぶ。

よき仲間を持つ。

君子は文(ぶん)を以(もっ)て友を会し、友を以(もっ)て仁を輔(たす)く。

講演会の後、早速孔子を祀る廟である多久聖廟に詣りました。https://www.city.taku.lg.jp/main/5084.html

多久家の四代領主多久茂文(たくしげふみ)は人材育成に重きを置いた人物で、のちに東原庠舎(とうげんしょうしゃ)と呼ばれる学問所を建て、そのシンボルとして宝永5年(1708年)に孔子像、四配(しはい・顔子、曽子、子思子、孟子)を祀る廟として多久聖廟は完成しました。多久は藩よりも小さい「邑(むら)」でしたが、この孔子廟はすばらしいものでした。国内に存在する孔子廟では足利(あしかが)学校(栃木県)、閑谷(しずたに)学校(岡山県)についで古く、またもっとも壮麗な孔子廟だといわれています。

多久市孔子の里発行の「論語カルタ」と「論語日めくり」

このように孔子と論語については、多久市が教育面で大いに力を注いでいるようです。東原庠舎(とうげんしょうしゃ)も見学しましたが、因みに、庠(しょう)は「まなびや、学校、故郷の学校の意」です。

当塾では、古典教育を重視していますので、今回の講演会は筆者にとっても改めて学び直しとなりました。多久市の関係者の方々に感謝申し上げます。

 

 

posted by at 16:09  | 塾長ブログ

勉強プラスα(アルファ)の教育

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、世界や日本の社会にも目を向け、様々な情報を集め、分析し、自らのしっかりした意見を持つ、少年・少女になって欲しいと思います。様々な意見や見解をよく聞き、その上で自らの見解を述べる、という姿勢を持つ。その為には、国語力をしっかり身につける必要があります。母国語である日本語の力がしっかりと身に付けば、英語などの外国語も同様に用いることができます。敢えて言えば、漢字力のある児童・生徒は、英語の単語を覚えることは造作もないと思います。

さて、このような記事が目につきました。

「心の知能指数=EQ」育てる教育が必要だ

 精神科医、国際医療福祉大学教授・和田秀樹

http://www.sankei.com/life/news/171002/lif1710020003-n1.html

統計数字を無視して「学歴エリートは道徳観に乏しい」というような短絡的な考え方が、無責任なコメンテーターなどを通じて社会に流されると、子供の教育に悪影響を与えないか、と危惧するだけだ。

 私が見るところ、日本のエリートに足りないのは、勉強プラスα(アルファ)の教育である。しかし、一般的な道徳知識を教え込むだけの教育では不十分だ。それは、これらの知識が十分すぎるくらいあるはずの山尾氏の言動をみると示唆されることである。

 アメリカでもかつて、ハーバードのビジネススクールのような一流の大学院を出ても、社会で成功できない人間が2割もいることが問題視された。

 日本と異なり、単なるペーパーテストだけでなく、面接もリポートも評価され、また学者による講義的な教育だけでなく、政治家や経営者のような社会の成功者がディスカッションなども行っているのに、むしろ日本の高学歴者より成功確率が低いのである(大成功を収めるものはもちろん日本より多いが)。

 そして、そういう人たちの研究を通じて、彼らに足りない能力があぶり出された。

 それが「心の知能指数」とされるものだ。これをタイム誌がIQ(intelligence quotient=知能指数)に対抗する概念としてEQ(emotional intelligence quotient)と呼んで以来、この呼び方が一般的になった。

≪EQ導入で人材の破滅を防げ≫

 EQ概念を考案したエール大学のピーター・サロベイ氏とニューハンプシャー大学のジョン・メイヤー氏によると、EQの5大要素は以下の通りだ。

 (1)自分の感情を正確に知る、(2)自分の感情をコントロールできる、(3)自己を動機づけられる、(4)相手の感情を知る、(5)社交能力がある-。

(中略)

 日本でもEQを紹介する本が翻訳され、大ベストセラーになったことがあるが、IQを否定してそれに代わるもののような紹介のされ方だった。

 しかし、アメリカでは高いIQを持つものにEQ教育を行うことで、その能力を引き出すという考え方で、IQ教育にEQ教育を追加すべきだというのが、提唱者たちの主張である。実際、高校教育や大学院生や社会人のリーダーシップ教育に導入され、大きな成果を挙げているといわれる。

 たとえば感情のコントロールにしても、テクニックを知るだけでは不十分かもしれない。しかし、かつてと比べパワハラで訴えられるリスクが高まり、またいつ録画・録音がされているか分からないのだから、このテクニックを知るだけでもかなりの価値がある。

 少なくともエリート候補の一流大学などに導入されて、有能な人材の破滅を少しでも減らしてもらえればと願う。

・・・なるほどなあと思いながら、上記の「EQの5大要素」と米国の基準を見ると、実は日本人が本来持っている倫理観で説明できるように思います。

EQの5大要素

(1)自分の感情を正確に知る、

内省(ないせい:自分自身の心の働きや状態を顧みること)

(2)自分の感情をコントロールできる、

克己(こっき:自分に打ち勝つこと。心の中に起きる衝動や欲望を自己の意思の力によって押さえつけること。)

(3)自己を動機づけられる、

志(こころざし:心に決めて目指すこと。世の為人の為に、何を為すべきか、何を行うかを心に決めること)

(4)相手の感情を知る、

忖度(そんたく:他人の氣持ちを推し量ること、推察すること。)

(5)社交能力がある

接待(せったい:心を込めて客を持て成すこと)。

「アメリカでは高いIQを持つものにEQ教育を行うことで、その能力を引き出すという考え方」があるようですが、日本古来の教育の理念には、「内省、克己、志、忖度、接待」と、社会的な地位に関わらず、当然の如く幼児期から学んでいました。

従って、欧米流の考え方を推奨されると、それらしく思わせられますが、実は「灯台下暗し」で、古来からの日本の教育の歴史を紐解けば、無理なく理解できます。欧米の思想や理屈をありがたがる風潮は、明治以降の所謂進歩的知識人の通弊(つうへい:一般に共通してみられる弊害)のように思います。

posted by at 23:59  | 塾長ブログ

世界大学ランキング2018

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の個性に応じた将来をイメージしながら、今日為すべきことを指導します。

さて、「世界大学ランキング、日本勢が振るわないのはなぜ?」http://www.sankei.com/life/news/170925/lif1709250027-n1.htmlという記事が産経新聞に掲載されていました。

日本トップの大学である東京大学は前年の39位から順位を落として46位と過去最低となりました。ランキング(1,000位以内)には日本から71校が入っているものの、上位200位以内に入っているのは東京大学の他には京都大学の74位(前年91位)だけです。

なぜ日本の大学の順位は伸びないのでしょうか。

日本の大学には不向きな評価基準

英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)の大学ランキングは、世界的にも権威があり、主要国の有名大学がランキングをめぐってしのぎを削っています。日本政府も大学改革の一環として、2023(平成35)年までに世界ランキング100位以内に日本の大学を10校ランクインさせるという目標を掲げていますが、その目標実現は非常に困難であるのが実情です。

しかし、その理由は日本の大学の実力不足ばかりとは言えません。

そもそも大学をランク付けすること自体に意味がないという意見も大学関係者の間には根強くありますが、グローバル化の時代には何らかの指標は必要でしょう。

ランキングの1位はオックスフォード大学(英国)、2位はケンブリッジ大学(英国)、3位はスタンフォード大学(米国)とカリフォルニア工科大学(米国)で、トップ10はほぼ英米の大学で占められています。

THEのランキングは研究力や国際性などに重点を置いた13指標で決められており、教育に重点を置く日本の大学の評価には不向きです。また、外国人の教員比率、論文の被引用数など国際化の面でも、日本の大学は日本人教員が中心で日本語の研究論文が多いという点が大きなマイナスになっています。

ただ、同じアジア圏でもシンガポール国立大学や北京大学などは東京大学よりも上位にランクされており、日本の大学がグローバル化に乗り遅れているというのは事実なようです。

 

予算削減など日本の大学政策にも原因が

これに対して文科省は、スーパーグローバル大学創成支援事業を展開し、旧帝大系など13大学を、世界100位以内を目指す「トップ型」に指定して、重点的に予算を配分していますが、あまり大きな成果は得られていないのが現実です。

一方、国立大学の主要財源である国からの運営費交付金は年々削減が続いている他、私立大学への私学助成も実質的に減少しています。大学教育全体の予算を削り、一部の大学に少しだけ財源を上乗せするという現在の政府の大学政策は、必ずしもうまくいっているとは言えません。日本の大学の世界ランキングの低迷は、日本の大学政策にも大きな原因がありそうです。

一方、英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)教育力などに重点を置いて評価した「世界大学ランキング日本版」を作成しています。https://japanuniversityrankings.jp/rankings/

これによると、総合ランキングを「教育リソース(どれだけ充実した教育が行われて可能性があるか)・教育満足度(どれだけ教育への期待が実現されているか)・教育成果(どれだけ卒業生が活躍しているか)・国際性(どれだけ国際的な教育環境になっているか)」の4分野で評価しています。

1  東京大学 88.5

2   東北大学  87.4

3   京都大学 86.8

4   名古屋大学 86.3

4   東京工業大学86.3

6  大阪大学     86.1

7  九州大学  85.1

8  北海道大学   82.8

9 筑波大学  81.7

10 早稲田大学 75.9

11 慶應義塾大学 75.4

12 広島大学  75.2

13 神戸大学  74.4

14 一橋大学  72.4

15 国際基督教大学71.8

16 千葉大学  70.6

17 長岡技術科学大学69.8

18 上智大学  69.1

19 金沢大学  68.6

20 国際教養大学 67.9

以下、150位まで掲載されています。エリア・学問系統・大学名での絞り込み、総合順位・分野別スコアでの並び替えが可能ですので、上記アドレスにアクセスしますと、様々な参照ができます。

子供さんの将来を考えると、現時点でのこのような情報も一つの判断材料にはなります。各大学でも、意欲が高く有能な学生を集めたいわけですから、このようなランキングによって切磋琢磨するのも必要ではないでしょうか。

 

posted by at 09:20  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 5

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、挨拶を大事にしています。物事の始まりと終わりには、剣道に始まる武道の精神と同じく「礼に始まり礼に終わる」ことが大事です。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

織田信長の進取の気性は、所謂バテレンによるキリスト教の布教に寛大でしたが、豊臣秀吉の天下どりの後は、状況が一転します。それについてのコラムがあります。

I WANT TO KNOW MORE ABOUT…

Why Hideyoshi Expelled the Missionaries

もっと知りたい

秀吉はなぜバテレンを追放したか

Takayama Ukon’s refusal to convert

Japan was a polytheistic country since antiquity and was open to new religions from foreign lands. Thanks to the pro-Christian stances of Oda Nobunaga and Toyotomi Hideyoshi, Japan profited greatly from the flourishing trade with Christian nations. In that case, why was it that Hideyoshi promulgated the Priest Expulsion Ordinance?

It has been said that in June of 1587, on the night before Hideyoshi issued the ordinance, the Buddhist priests who had accompanied him to Hakata complained to him about the misconduct of the missionaries and Christian daimyo. They brought to his attention that the missionaries had been instigating the Christian daimyo to forcibly convert their subjects, destroy the shrines and temples within their domains, and banish the Shinto and Buddhist priests.

Enraged to hear of this, Hideyoshi immediately dashed off a message to Takayama Ukon, a Christian daimyo in his encampment. The message read, “Either give up Christianity or give up your domain.” Ukon replied, “I will stay true to my faith and agree to leave my domain”, and Hideyoshi promptly ordered him to be divested of his lands.

高山右近の棄教拒否

日本は昔から多神教の国であり、異国の新しい宗教に対しても開かれていました。信長も秀吉もキリスト教を優遇したため、南蛮貿易が盛んになり、大きな利益がもたらされたのです。その秀吉が、なぜバテレン追放令を出したのでしょうか。

1587(天正15)年6月、追放令が出される前夜、博多で秀吉に対して、瑞香の僧侶たちがバテレンやキリシタン領主らの所業について訴えたと言われます。バテレンは領主をそそのかして領民を強引に入信させ、領内の神社や寺を壊し、新刊や僧侶を追い出していると訴えました。

それを聞いて激怒した秀吉は、直ちに陣営内にいるキリシタン大名・高山右近に書状を送り、「キリスト教を棄てるか、両国を追放されるか」と迫りました。右近は「信仰を守り、追放を受け入れる」と返答しました。秀吉は即座に右近の領地召し上げと追放を命じました。

・・・因みに、

右近は、摂津国の武将、高山友照の嫡男として生まれました。洗礼を受けダリヨの名を授かった父友照に導かれ、1563年、母と共に受洗、ユスト(ジュスト、「正義の人」の意)の洗礼名を授かったそうです。

父と共に戦国の乱世を武将・大名として生きる中で、揺ぎ無い信仰の人として成長。その人徳による感化は多くの武将・大名を受洗に導きました。また高槻城下の領民の多くがキリスト教徒となりました。

右近は、戦国の世の過酷な軋轢の中も、自らの身をもって宣教師と信徒たちを守りました。本能寺の変の後、安土城と城下が焼失すると、安土のセミナリヨを高槻に移すなどしてキリスト教の保護に尽くしました。

豊臣秀吉のバテレン追放令で、棄教を迫られましたが、地位と領土を捨てることと引き換えに、毅然と自らの信仰を守り抜き、流浪の身となることを選びました。

加賀の前田氏の招きで金沢で暮らしますが、徳川家康のキリシタン追放令を受け、1614年、加賀を出て、徒歩で京都へと向かい、大阪を経て、長崎からマニラに追放されました。現地で盛大な歓迎を受けるも、疲労と不慣れな気候から熱病を得て、到着後44日、63歳で没しました。

The interrogation of Gaspar Coelho

Around the same time, Hideyoshi sent an emissary to speak to the missionary Gaspar Coelho, who had come from Hirado to meet him.

Hideyoshi’s emissary asked Coelho the following questions: (1.) Why do you force Japanese people to convert to Christianity? (2.) Why do you destroy shrines and temples? (3.) Why do you eat the meat of horses and cattle? (4.) Why do the Portuguese buy so many Japanese slaves and take them overseas? Hideyoshi was not persuaded by Coelho’s answers. He gathered the daimyo closest to him and announced that he was reversing his policy of protecting Christianity, emphatically declaring that, “The teachings of the missionaries are those of the devil and will be the death of all that’s good in Japan!” Hideyoshi then drew up and released the Priest Expulsion Ordinance.

The text of the ordinance was put up on official notice boards throughout the country. The ordinance was primarily intended to remove the Christian missionaries from Japan without prohibiting ordinary citizens from practicing any faith. Because of this, Coelho simply ordered the Jesuit missionaries to stay where they were and go into hiding.

宣教師コエリョへの詰問

 一方、平戸から会いに来た宣教師コエリョにも使者を送り、次のように詰問しました。

①なぜ領民を強引に回収させるのか、②なぜ神社仏閣を破壊するのか、③なぜ牛馬の肉を食うのか、④なぜポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか。

コエリョは、秀吉を納得させる答えを出せませんでした。秀吉は側近の大名たちの前で、これまでのキリシタン保護の姿勢から一転して「バテレンの説く掟は悪魔のものだ。一切の善を破壊するものだ」と激しく批判し、「バテレン追放令」を布告しました。

この布告は高札によって広く全国に伝えられました。秀吉の布告は外国人バテレンの国外追放が主眼であって、一般領民の信仰の自由までは禁じていません。このため、コエリョは司祭たちに、イエズス会院は日本にとどまり、各地に潜伏するように命じました。

The indiscretion of a Spanish captain

In 1596 (Keicho 1), the Spanish ship San Felipe was wrecked off the coast of Tosa Province. A rumor spread that the ship’s captain had threatened a Japanese official, telling him that the Spanish would first bring in missionaries to convert the local people and then bring in an army to conquer them. Fearing the growth of religious orders that would resist central authority like the ikko ikki had, Hideyoshi responded with a renewed crackdown on Christians, even making martyrs of many of them.

スペイン船の不覚

 1596(慶長元)年、土佐沖で難破したスペイン船サン・フェリーぺ号の航海長が奉行に対して「我らはまず宣教師を送り込んで先住民を改宗させ、続いて軍隊が入って多くの王国を征服してきた」と脅したという風説が広まりました。このために秀吉はキリシタン取り締まりを強化したので、殉教者が出るまでになりました。一向一揆のような権力に反抗する宗教勢力の台頭を恐れていたからです。

 

日本二十六聖人殉教記念碑

・・・その後、

1596年10月のサン・フェリペ号事件をきっかけに同年12月8日に再び禁教令を公布、キリシタン弾圧が始まりました。
秀吉は京都奉行の石田三成に京都に住むキリスト信徒全員を捕縛して処刑するよう命じました。三成は、犠牲者を出来るだけ減らそうと努力しましたが、大阪と京都で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛されました。
24名は、1597年1月10日長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を発ち、京都・大阪で引き回しとなり、京都では左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期にもかかわらず歩いて長崎へ向かいました。また、途中でイエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ、2名も捕縛され殉教の列に加わり、その結果26名となりました。
同年2月4日、長崎・時津に到着、舟中で一泊。翌1597年2月5日(慶長元年12月19日)の朝、ひどい霜の中、3里(約12㌔)の浦上街道を歩き午前10時頃西坂の丘に到着。すぐに十字架に掛けられ、槍で両脇を突かれ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。
一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見た、寺沢半三郎は幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるよう言いましたが、ルドビコ茨木はこの申し出を断っています。また、パウロ三木は死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたまま最後の説教を説いたとい言います。
この26人の殉教の出来事は、ヨーロッパその他に広く伝わり、1862年(文久2)6月8日ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、26名の殉教者を聖人に加え、日本26聖人と称せられました。

・・・キリスト教徒側から見れば、秀吉は極悪非道の権力者ですが、当時の世界情勢を見れば、確かにキリスト教の宣教師を先導役として、キリスト教国の白人国家が様々な国を侵略し、植民地にしていった事実があります。

秀吉がバテレンに激怒した大きなポイントは、「④なぜポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか。」という点です。九州各地の多くの女性を奴隷として国外に連れ去ることは、日本人の感情からすると全く許されないものです。

また、秀吉の国際情勢に対する情報収集や分析力は卓越していましたから、1596年10月のサン・フェリペ号事件を契機として、日本の国益を守るためには、秀吉のキリシタン取締り強化は正しい決断と言えます。

 

歴史を評価するには、多角的な視点から見る必要があります。

posted by at 00:06  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 4

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日々の学習の確認を送迎されるお母様方といたします。ご家庭で確認して頂くことや、復習すべきことなどをお伝えします。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

大航海時代に世界へ進出したポルトガルやスペイン。日本との最初の接点は、種子島にあります。

Topic 33 – The arrival of the Europeans

What impact did the European imports of firearms and Christianity have on Japanese society?

33 ヨーロッパ人の来航

ヨーロッパ人がもたらした鉄砲とキリスト教は、日本社会にどのような影響を与えたのであろうか。

Christian missionaries and the introduction of firearms

In 1543 (Tenbun 12), a Chinese junk sailing from Siam (modern-day Thailand) with Portuguese merchants on board was struck by a storm and shipwrecked on the southern Japanese island of Tanegashima (in modern-day Kagoshima Prefecture). These were the first Europeans to reach the shores of Japan. The lord who controlled the island, a member of the Tanegashima clan, paid them a hefty sum in exchange for two firearms, which he ordered his swordsmiths to carefully study.

In no time, Japanese swordsmiths were manufacturing their own firearms in various parts of Japan, such as Sakai (modern-day Osaka). The new weapons were highly sought after by the daimyo, and Japan quickly rose to become the world’s largest producer of firearms. The adoption of firearms by the daimyo dramatically changed battlefield tactics and served to hasten the process of national unification.

In 1549, six years after the introduction of firearms, the Jesuit missionary Francis Xavier1 arrived in Kagoshima in Kyushu, Japan, and worked to convert the local people to Christianity. Later, more missionaries came to Japan alongside Portuguese merchants and proselytized aggressively. Christianity spread rapidly, gaining an especially large number of converts in western Japan. The missionaries won the hearts of many Japanese through their charitable deeds such as the building of orphanages, and the daimyo prized the rare imports that Portuguese merchants brought in their wake.

*1=Francis Xavier was one of the founders of the Society of Jesus. He was running a mission in Malacca in the Malay Peninsula when he is said to have met a young Japanese samurai named Yajiro. Surprised by his remarkable intellectual curiosity, Xavier acquired an interest in Japan and became determined to do missionary work there.

鉄砲の伝来とキリスト教の布教

1543(天文12)年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって種子島(鹿児島県)に漂着した。彼らは日本に来た最初のヨーロッパ人だった。領主の種子島氏はポルトガル商人から鉄砲2挺を高額で買い取り、刀鍛冶に研究を命じた。

 やがて、堺(大阪府)など各地で刀鍛冶が鉄砲の生産を始めると、戦国大名たちが新兵器として盛んに買い求め、日本はたちまち世界一の鉄砲生産国となった。さらに戦国大名が鉄砲を採用したことは戦闘の方法を大きく変え、全国統一を早める結果をもたらした。

 鉄砲伝来の6年後の1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(*1)が鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。その後もポルトガル人の商人とともにやって来た宣教師たちは孤児院を作るなどして人々の心を捉えた。戦国大名は、ポルトガル商人がもたらす珍しい舶来品を珍重した。

*1=フランシスコ・ザビエルはイエズス会創立者の一人。マレー半島のマラッカを拠点にして布教活動をしていたが、ヤジローという日本人の青年武士に出会い、その旺盛な知識欲に驚いて日本に興味を持ち、布教する決意を固めたと言われている。

・・・ヤジローという日本人の青年武士との出会いによって、ザビエルは日本での布教を開始しますが、その布教の2年の間に、イエズス会への手紙の中で次のように記していました。

「彼らの大部分は読み書きを知っており,すぐ祈りの言葉を覚える」
「日本人よりすぐれている人々を異教徒の中に見つけることはできない。彼らは親しみやすく,善良であり、そして何より名誉を重んじる。人々の多くは貧しいがそれを不名誉とは思っていない」

そして、ザビエルは日本での布教の成功を期待しましたが、残念ながら「理性的な日本人」は、キリスト教の中に潜む不合理性を見過ごしませんでした。

たとえば、

・デウスが全能というなら、どうして今まで日本人には啓示を与えなかったのか、

・デウスを礼拝しないと地獄に堕ちるというなら、我々の先祖に啓示も与えずに地獄に落とすのは無慈悲ではないか、

と言うのでした。

当時の日本の一般大衆でさえ 、そのような宗教的な疑問を発するのですから、ザビエルや他の宣教師もタジタジになったことでしょう。それだけ日本人は世界的にも教育程度が高く、識字率も高かったのです。

それは、現在の日本人の子孫たちに受け継がれているはずです。

 

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