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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 5

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、挨拶を大事にしています。物事の始まりと終わりには、剣道に始まる武道の精神と同じく「礼に始まり礼に終わる」ことが大事です。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

織田信長の進取の気性は、所謂バテレンによるキリスト教の布教に寛大でしたが、豊臣秀吉の天下どりの後は、状況が一転します。それについてのコラムがあります。

I WANT TO KNOW MORE ABOUT…

Why Hideyoshi Expelled the Missionaries

もっと知りたい

秀吉はなぜバテレンを追放したか

Takayama Ukon’s refusal to convert

Japan was a polytheistic country since antiquity and was open to new religions from foreign lands. Thanks to the pro-Christian stances of Oda Nobunaga and Toyotomi Hideyoshi, Japan profited greatly from the flourishing trade with Christian nations. In that case, why was it that Hideyoshi promulgated the Priest Expulsion Ordinance?

It has been said that in June of 1587, on the night before Hideyoshi issued the ordinance, the Buddhist priests who had accompanied him to Hakata complained to him about the misconduct of the missionaries and Christian daimyo. They brought to his attention that the missionaries had been instigating the Christian daimyo to forcibly convert their subjects, destroy the shrines and temples within their domains, and banish the Shinto and Buddhist priests.

Enraged to hear of this, Hideyoshi immediately dashed off a message to Takayama Ukon, a Christian daimyo in his encampment. The message read, “Either give up Christianity or give up your domain.” Ukon replied, “I will stay true to my faith and agree to leave my domain”, and Hideyoshi promptly ordered him to be divested of his lands.

高山右近の棄教拒否

日本は昔から多神教の国であり、異国の新しい宗教に対しても開かれていました。信長も秀吉もキリスト教を優遇したため、南蛮貿易が盛んになり、大きな利益がもたらされたのです。その秀吉が、なぜバテレン追放令を出したのでしょうか。

1587(天正15)年6月、追放令が出される前夜、博多で秀吉に対して、瑞香の僧侶たちがバテレンやキリシタン領主らの所業について訴えたと言われます。バテレンは領主をそそのかして領民を強引に入信させ、領内の神社や寺を壊し、新刊や僧侶を追い出していると訴えました。

それを聞いて激怒した秀吉は、直ちに陣営内にいるキリシタン大名・高山右近に書状を送り、「キリスト教を棄てるか、両国を追放されるか」と迫りました。右近は「信仰を守り、追放を受け入れる」と返答しました。秀吉は即座に右近の領地召し上げと追放を命じました。

・・・因みに、

右近は、摂津国の武将、高山友照の嫡男として生まれました。洗礼を受けダリヨの名を授かった父友照に導かれ、1563年、母と共に受洗、ユスト(ジュスト、「正義の人」の意)の洗礼名を授かったそうです。

父と共に戦国の乱世を武将・大名として生きる中で、揺ぎ無い信仰の人として成長。その人徳による感化は多くの武将・大名を受洗に導きました。また高槻城下の領民の多くがキリスト教徒となりました。

右近は、戦国の世の過酷な軋轢の中も、自らの身をもって宣教師と信徒たちを守りました。本能寺の変の後、安土城と城下が焼失すると、安土のセミナリヨを高槻に移すなどしてキリスト教の保護に尽くしました。

豊臣秀吉のバテレン追放令で、棄教を迫られましたが、地位と領土を捨てることと引き換えに、毅然と自らの信仰を守り抜き、流浪の身となることを選びました。

加賀の前田氏の招きで金沢で暮らしますが、徳川家康のキリシタン追放令を受け、1614年、加賀を出て、徒歩で京都へと向かい、大阪を経て、長崎からマニラに追放されました。現地で盛大な歓迎を受けるも、疲労と不慣れな気候から熱病を得て、到着後44日、63歳で没しました。

The interrogation of Gaspar Coelho

Around the same time, Hideyoshi sent an emissary to speak to the missionary Gaspar Coelho, who had come from Hirado to meet him.

Hideyoshi’s emissary asked Coelho the following questions: (1.) Why do you force Japanese people to convert to Christianity? (2.) Why do you destroy shrines and temples? (3.) Why do you eat the meat of horses and cattle? (4.) Why do the Portuguese buy so many Japanese slaves and take them overseas? Hideyoshi was not persuaded by Coelho’s answers. He gathered the daimyo closest to him and announced that he was reversing his policy of protecting Christianity, emphatically declaring that, “The teachings of the missionaries are those of the devil and will be the death of all that’s good in Japan!” Hideyoshi then drew up and released the Priest Expulsion Ordinance.

The text of the ordinance was put up on official notice boards throughout the country. The ordinance was primarily intended to remove the Christian missionaries from Japan without prohibiting ordinary citizens from practicing any faith. Because of this, Coelho simply ordered the Jesuit missionaries to stay where they were and go into hiding.

宣教師コエリョへの詰問

 一方、平戸から会いに来た宣教師コエリョにも使者を送り、次のように詰問しました。

①なぜ領民を強引に回収させるのか、②なぜ神社仏閣を破壊するのか、③なぜ牛馬の肉を食うのか、④なぜポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか。

コエリョは、秀吉を納得させる答えを出せませんでした。秀吉は側近の大名たちの前で、これまでのキリシタン保護の姿勢から一転して「バテレンの説く掟は悪魔のものだ。一切の善を破壊するものだ」と激しく批判し、「バテレン追放令」を布告しました。

この布告は高札によって広く全国に伝えられました。秀吉の布告は外国人バテレンの国外追放が主眼であって、一般領民の信仰の自由までは禁じていません。このため、コエリョは司祭たちに、イエズス会院は日本にとどまり、各地に潜伏するように命じました。

The indiscretion of a Spanish captain

In 1596 (Keicho 1), the Spanish ship San Felipe was wrecked off the coast of Tosa Province. A rumor spread that the ship’s captain had threatened a Japanese official, telling him that the Spanish would first bring in missionaries to convert the local people and then bring in an army to conquer them. Fearing the growth of religious orders that would resist central authority like the ikko ikki had, Hideyoshi responded with a renewed crackdown on Christians, even making martyrs of many of them.

スペイン船の不覚

 1596(慶長元)年、土佐沖で難破したスペイン船サン・フェリーぺ号の航海長が奉行に対して「我らはまず宣教師を送り込んで先住民を改宗させ、続いて軍隊が入って多くの王国を征服してきた」と脅したという風説が広まりました。このために秀吉はキリシタン取り締まりを強化したので、殉教者が出るまでになりました。一向一揆のような権力に反抗する宗教勢力の台頭を恐れていたからです。

 

日本二十六聖人殉教記念碑

・・・その後、

1596年10月のサン・フェリペ号事件をきっかけに同年12月8日に再び禁教令を公布、キリシタン弾圧が始まりました。
秀吉は京都奉行の石田三成に京都に住むキリスト信徒全員を捕縛して処刑するよう命じました。三成は、犠牲者を出来るだけ減らそうと努力しましたが、大阪と京都で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛されました。
24名は、1597年1月10日長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を発ち、京都・大阪で引き回しとなり、京都では左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期にもかかわらず歩いて長崎へ向かいました。また、途中でイエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ、2名も捕縛され殉教の列に加わり、その結果26名となりました。
同年2月4日、長崎・時津に到着、舟中で一泊。翌1597年2月5日(慶長元年12月19日)の朝、ひどい霜の中、3里(約12㌔)の浦上街道を歩き午前10時頃西坂の丘に到着。すぐに十字架に掛けられ、槍で両脇を突かれ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。
一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見た、寺沢半三郎は幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるよう言いましたが、ルドビコ茨木はこの申し出を断っています。また、パウロ三木は死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたまま最後の説教を説いたとい言います。
この26人の殉教の出来事は、ヨーロッパその他に広く伝わり、1862年(文久2)6月8日ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、26名の殉教者を聖人に加え、日本26聖人と称せられました。

・・・キリスト教徒側から見れば、秀吉は極悪非道の権力者ですが、当時の世界情勢を見れば、確かにキリスト教の宣教師を先導役として、キリスト教国の白人国家が様々な国を侵略し、植民地にしていった事実があります。

秀吉がバテレンに激怒した大きなポイントは、「④なぜポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか。」という点です。九州各地の多くの女性を奴隷として国外に連れ去ることは、日本人の感情からすると全く許されないものです。

また、秀吉の国際情勢に対する情報収集や分析力は卓越していましたから、1596年10月のサン・フェリペ号事件を契機として、日本の国益を守るためには、秀吉のキリシタン取締り強化は正しい決断と言えます。

 

歴史を評価するには、多角的な視点から見る必要があります。

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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 4

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日々の学習の確認を送迎されるお母様方といたします。ご家庭で確認して頂くことや、復習すべきことなどをお伝えします。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

大航海時代に世界へ進出したポルトガルやスペイン。日本との最初の接点は、種子島にあります。

Topic 33 – The arrival of the Europeans

What impact did the European imports of firearms and Christianity have on Japanese society?

33 ヨーロッパ人の来航

ヨーロッパ人がもたらした鉄砲とキリスト教は、日本社会にどのような影響を与えたのであろうか。

Christian missionaries and the introduction of firearms

In 1543 (Tenbun 12), a Chinese junk sailing from Siam (modern-day Thailand) with Portuguese merchants on board was struck by a storm and shipwrecked on the southern Japanese island of Tanegashima (in modern-day Kagoshima Prefecture). These were the first Europeans to reach the shores of Japan. The lord who controlled the island, a member of the Tanegashima clan, paid them a hefty sum in exchange for two firearms, which he ordered his swordsmiths to carefully study.

In no time, Japanese swordsmiths were manufacturing their own firearms in various parts of Japan, such as Sakai (modern-day Osaka). The new weapons were highly sought after by the daimyo, and Japan quickly rose to become the world’s largest producer of firearms. The adoption of firearms by the daimyo dramatically changed battlefield tactics and served to hasten the process of national unification.

In 1549, six years after the introduction of firearms, the Jesuit missionary Francis Xavier1 arrived in Kagoshima in Kyushu, Japan, and worked to convert the local people to Christianity. Later, more missionaries came to Japan alongside Portuguese merchants and proselytized aggressively. Christianity spread rapidly, gaining an especially large number of converts in western Japan. The missionaries won the hearts of many Japanese through their charitable deeds such as the building of orphanages, and the daimyo prized the rare imports that Portuguese merchants brought in their wake.

*1=Francis Xavier was one of the founders of the Society of Jesus. He was running a mission in Malacca in the Malay Peninsula when he is said to have met a young Japanese samurai named Yajiro. Surprised by his remarkable intellectual curiosity, Xavier acquired an interest in Japan and became determined to do missionary work there.

鉄砲の伝来とキリスト教の布教

1543(天文12)年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって種子島(鹿児島県)に漂着した。彼らは日本に来た最初のヨーロッパ人だった。領主の種子島氏はポルトガル商人から鉄砲2挺を高額で買い取り、刀鍛冶に研究を命じた。

 やがて、堺(大阪府)など各地で刀鍛冶が鉄砲の生産を始めると、戦国大名たちが新兵器として盛んに買い求め、日本はたちまち世界一の鉄砲生産国となった。さらに戦国大名が鉄砲を採用したことは戦闘の方法を大きく変え、全国統一を早める結果をもたらした。

 鉄砲伝来の6年後の1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(*1)が鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。その後もポルトガル人の商人とともにやって来た宣教師たちは孤児院を作るなどして人々の心を捉えた。戦国大名は、ポルトガル商人がもたらす珍しい舶来品を珍重した。

*1=フランシスコ・ザビエルはイエズス会創立者の一人。マレー半島のマラッカを拠点にして布教活動をしていたが、ヤジローという日本人の青年武士に出会い、その旺盛な知識欲に驚いて日本に興味を持ち、布教する決意を固めたと言われている。

・・・ヤジローという日本人の青年武士との出会いによって、ザビエルは日本での布教を開始しますが、その布教の2年の間に、イエズス会への手紙の中で次のように記していました。

「彼らの大部分は読み書きを知っており,すぐ祈りの言葉を覚える」
「日本人よりすぐれている人々を異教徒の中に見つけることはできない。彼らは親しみやすく,善良であり、そして何より名誉を重んじる。人々の多くは貧しいがそれを不名誉とは思っていない」

そして、ザビエルは日本での布教の成功を期待しましたが、残念ながら「理性的な日本人」は、キリスト教の中に潜む不合理性を見過ごしませんでした。

たとえば、

・デウスが全能というなら、どうして今まで日本人には啓示を与えなかったのか、

・デウスを礼拝しないと地獄に堕ちるというなら、我々の先祖に啓示も与えずに地獄に落とすのは無慈悲ではないか、

と言うのでした。

当時の日本の一般大衆でさえ 、そのような宗教的な疑問を発するのですから、ザビエルや他の宣教師もタジタジになったことでしょう。それだけ日本人は世界的にも教育程度が高く、識字率も高かったのです。

それは、現在の日本人の子孫たちに受け継がれているはずです。

 

posted by at 23:51  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の体調を把握しながら、学習に取り組ませます。何よりも健康第一。大人も同様ですね。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

そもそも、ヨーロッパの白人国家からすると、遥か彼方にある極東の日本に何故やって来たのかを、説明している部分です。

Topic 32 – Europe’s global expansion

 What led the peoples of Europe to begin to explore the world?

32 ヨーロッパ人の世界進出 

 ヨーロッパ人は何故世界に進出し始めたのだろうか。

The Christian world and the Muslim world

In the Christian world of medieval Europe, the Catholic Church, led by the Pope in Rome, wielded tremendous power. At the same time, Arab Muslims were embarking on a wave of expansion and by the eighth century extended their control across the Mediterranean region from Western Asia to the Iberian Peninsula. In medieval times, the nations of the Muslim world were considerably more militarily, technologically, and culturally advanced than the Christian world.

Despite this, Christian forces succeeded by the late-fifteenth century in driving the Muslims from the Iberian Peninsula, which was then transformed into the Christian nations of Spain and Portugal.

At the start of the sixteenth century, German priest Martin Luther and others criticized the Catholic Church’s corruption and founded a reformist movement, in that individuals seek God directly through the Bible, without reliance on the Church hierarchy. This was called the Reformation and its supporters were called Protestants.1 The sudden rise of the Protestants shocked the Catholic Church, which launched its own internal reform movement. The Church founded the Society of Jesus,2 whose members were known as Jesuits, and made aggressive efforts to proselytize overseas.

*1=The Church of Rome was called the Catholic Church, meaning “universal church”, while the reformers were dubbed Protestants, meaning “those who protest”.

*2=The Society of Jesus, founded by Spaniard Ignatius of Loyola and six others, was one of the Catholic Church’s male religious orders. After receiving official recognition from the Pope, the Jesuits set up a base in Goa, India, and started missions across Asia.

キリスト教世界とイスラム教世界

中世ヨーロッパのキリスト教世界ではローマ教皇を頂点とするカトリック教会が絶大な権力を持っていた。他方、イスラム教徒のアラビア人も勢力を広げ、8世紀以降は西アジアから地中海を経て、イベリア半島までを支配した。この時代、イスラム教諸国は学問や芸術においても、軍事力においても、キリスト教諸国よりはるかに先進国だった。

しかし、イベリア半島では15世紀末に、キリスト教徒がイスラム勢力を追い出し、スペインとポルトガルが支配するキリスト教圏に戻った。

16世紀初め、ドイツのルターらがカトリック教会の腐敗を批判し、教会に頼らずに個人が聖書を通じて神と直接向かい合うべきだとする改革運動を起こした。これを宗教改革という。彼らはプロテスタント(*1)と呼ばれた。その勃興に危機感を持ったカトリック教会内部からも改革運動が起こり、イエズス会(*2)が創立されるなど海外への布教に積極的に乗り出した。

*1=宗教改革を求めた「プロテスタント(抗議する者)」は新教とも呼ばれ、これに対しローマ教会を総本山とする「カトリック(普遍)」は旧教と呼ばれることもある。

*2=カトリック男子修道会の一つ。創立者はスペイン人のイグナチウス・ロヨラら6人で、ローマ教皇の信任を得てゴア(インド)に基地を築き、アジア布教に乗り出した。イエズス会は「イエスの会」を意味する。

・・・現在の中近東の難民流出やヨーロッパ諸国への難民流入の急増やテロの問題の遠因は、この時代に始まっています。、現在の政治的な混乱や経済的な変動も、歴史を紐解くことによって、分析することが可能になります。

学校で歴史を学ぶ際に、現代との比較において歴史の意味合いや影響を教えてもらうと、子供達も興味を覚えるようになります。

The Age of Discovery

In the late-fifteenth century, Spain and Portugal commenced national efforts to expand overseas. Their desire to import goods from the East had been stymied by the naval might of Muslim countries, such as the Ottoman Empire, which held sway over the Mediterranean Sea. In Europe at that time, spices like pepper were in high demand as seasoning for meat, and though they could be bought from Arab merchants, they came at such a steep price that it was said that a gram of gold could purchase only a gram of pepper. Spain and Portugal wanted new trade routes to India where they could buy pepper directly.

Portugal attempted to find a sea route to India by sailing southwards along the west coast of Africa. By contrast, Spain sent Italian Christopher Columbus on a journey across the Atlantic Ocean as far west as he could go. The Age of Discovery began, and before long the Europeans were actively seeking to colonize Asia itself.

大航海時代

 15世紀末から、ポルトガルとスペインは国を挙げて海外進出を図った。オスマン帝国などイスラム勢力が地中海の制海権を握っていたので、東方への物資の輸入ルートが阻まれていた。当時のヨーロッパで肉料理の必需品は胡椒などの香辛料だった。それらをアラビア人の商人から購入しなければならなかったが、「金1g=胡椒1g」といわれるほど高価だった。両国は胡椒を直接買い付けるため、主要地インドへの新たなルートを求めた。

 ポルトガルはアフリカの西海岸を南下してインドへ向かう航路の発見に乗り出した。これに対してスペインはイタリア人のコロンブスを派遣して、大西洋をどこまでも西へと向かわせた。このようにしてヨーロッパ人がアジアへの植民地を求める大航海時代が始まった。

Spain and Portugal’s plan to partition the world

In 1492, Columbus arrived in the islands of the West Indies. Europe had “discovered” the Americas. Because Columbus was convinced that he had reached India, the indigenous peoples of North America continue to this day to be called “Indians”. Two years later, in 1494, Portugal and Spain, after intercession by Pope Alexander VI, signed the Treaty of Tordesillas, in that Spain and Portugal would divide the world into two hemispheres based on a line running down the middle of the Atlantic Ocean. According to the terms of the treaty, all lands discovered in the Eastern Hemisphere would belong to the King of Portugal, whereas the lands discovered in the Western Hemisphere would belong to the King of Spain.

In 1498, Portuguese explorer Vasco da Gama opened a new sea route to India by rounding the Cape of Good Hope on the southern tip of Africa and traveling along Africa’s east coast north to India.

ポルトガルとスペインによる地球分割計画

 1492年、コロンブスは西インド諸島に到達した。ヨーロッパ人によるアメリカの「発見」である。彼はそこをインドと信じ込んだため、北米大陸の先住民は今でもインディアンと呼ばれている。2年後の1494年、ローマ教皇は大西洋を東西に分け、東半球で発見されるものは全てポルトガル王に属し、西半球で発見されるものは全てスペイン王に属すると取り決めた。これをトルデシリャス条約という。

 ポルトガルが派遣したバスコ・ダ・ガマは1498年、アフリカ南端の喜望峰を経てアフリカ東岸を北上し、インドに到達する新航路を発見した。

・・・筆者は十代の頃世界史を独習している際に、ローマ教皇が世界を二分割するという傲慢さに憤慨した記憶があります。また、 Europe had “discovered” the Americas.という表現も、アメリカ大陸に従来から住む人々に対し失礼な表現です。時代とはいえ、力を持った者が全てを奪うという図式は、長い間非キリスト教・非白人国家を苦しめています。

トルデシリャス条約のオリジナル

トルデシリャス条約とは地球上に「デマルカシオン」という観念上の縦線、即ち子午線を引き、ヨーロッパ以外の新領土についてはその線(西経46度37分)を境に東側はポルトガル領、西側はスペイン領として分割するという条約です。

トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)の境界線

しかし、実際の地球は平面ではなく球体であり、東西は際限なく繋がっているため、縦線を一本引くだけでは分割は不完全です。もう一本縦線を引かなければ世界は完全には二分されません。実際、トルデシリャス条約では両国どちらの勢力圏内となるのか曖昧になっていた東南アジアでは、その帰属を巡って両国が熾烈な争いを繰り広げました。そのため1529年、地球上にもう一本の縦線(東経144度30分)を引きました。その根拠となったのが、新たに両国間に締結されたサラゴサ条約です。

16世紀の世界は、ヨーロッパや東アジアの日本や支那などを除き、その大半がトルデシリャス条約とサラゴサ条約という二つの条約によってポルトガル・スペイン両国の勢力圏内に置かれました。

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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、塾生が年代に応じた受験に取り組みます。目指すべき方針を決め、日々為すべき課題に自力でコツコツこなしていきます。

さて、『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

16世紀に来日したキリスト教の「宣教師の見た日本人」という外の目から見た日本というコラムです。

JAPAN AS SEEN THROUGH FOREIGN EYES ーHow Missionaries Saw the Japanese People

外の目から見た日本ー宣教師は(その当時の)日本人をどのように見たか。

An “outstanding” people with “fine dispositions”

In the sixteenth century, Christian missionaries who came to Japan were surprised to discover a proud and civilized people living on islands off the coast of East Asia. They were especially impressed by the absence of theft and high literacy even among Japan’s lower classes.

Father Francis Xavier wrote the following in a letter that he sent to a church in Goa, India:

“Of all the peoples I have encountered, the Japanese people are the most outstanding. Among the heathen peoples, I believe that none are greater than the Japanese. The Japanese people generally have fine dispositions. They bear no evil thoughts and are very pleasant to keep company with… Most of them are poor, but none among them, neither the samurai nor the commoners, see poverty as a disgrace.”

「傑出した国民」「良い資質」

 16世紀、日本にやってきたキリスト教の宣教師たちは、極東の島に思いかけず、文明化した誇り高い民族を発見して驚きました。何よりも、下層の日本人でさえ、盗みがないことや、読み書きができることに強い印象を受けました。

 神父ザビエル(筆者注1)は、ゴア(インド)の教会へ送った書簡にこう書いています。

 「日本人は私が遭遇した国民の中では、最も傑出している。異教徒の中で日本人に勝るものはあるまいと考える。彼らは相対的に良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じが良い。」「日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱と思っているものは一人もいない。」

 

Prosperity and sophistication exceeding that of Europe

Head Missionary Cosme de Torres stated that the Japanese led prosperous and self-sufficient lives:

“The prosperity of this country exceeds that of Spain, France, or Italy. Everything that the Christian nations have, so too do the Japanese have. I could not recount all their good qualities without running short of ink and paper.”

The more that Father Organtino learned of the Japanese people, the higher an opinion he held of them:

“We Europeans see ourselves as a sophisticated people, but compared to the Japanese, I believe that we are utter barbarians. Indeed, I must confess that I learn new things from them every day. There may be no other people in the world with so much innate talent.”

ヨーロッパをしのぐ豊かさと賢明さ

 布教長トルレス(筆者注 2)は、日本人の暮らしが自給自足していて豊かだと言います。

「この国の豊かさはスペイン、フランス、イタリアをしのいでいる。キリスト教国にある一切のものが、この国にある。彼らの長所を数えてゆけば、紙とインクの方が先に尽きてしまうであろう。」

 オルガンチーノ神父(筆者注3) は、日本人を知るにつれて、さらに高い評価をしています。

「私たちヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、日本人と比較すると、甚だ野蛮であると思う。私は本当のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はいないと思う。

 

The differences between Japanese and European culture

Still, not all the missionaries spoke well of the Japanese people. Head Missionary Francisco Cabral was a narrow-minded man who refused to ordain Japanese men into the priesthood or teach them Latin. He made the following callous remark:

“The Japanese converts in our order lead cooperative and obedient lives only because they have no other means of survival.”

However, Alessandro Valignano, a Jesuit Visitor from eastern India, removed Cabral for holding views prejudicial to the propagation of Christianity in Japan. According to Valignano:

“The Japanese are neither ignorant nor apathetic enough to kowtow to foreign domination. We have no option but to entrust the leadership of our churches in Japan to Japanese people.”

Father Luis Frois, author of the book The History of Japan, described a long list of stark cultural contrasts between Japan and the West, expressing particular confusion over the fact that, “Japanese people can cut off the head of a criminal without a second thought, but are astonished that we kill animals.”

For the missionaries, Japan was truly a mysterious country.

ヨーロッパと日本の文化の違い

ただし、誰もが日本人をよく言ったわけではありません。布教長カブラルは、日本人を司祭に登用せず、ラテン語も学ばせまいとした心の狭い人でした。彼は冷淡にこう言っています。

「彼ら日本人教徒が(修道会に入って)共同の、そして従順な生活をしているのは、ほかに生活手段がないからだ」

しかし、東インド管区巡察師ヴァリニャーノ(筆者注4) は、カブラルのような態度は布教の妨げになるとして解任し、こう述べました。

「日本人は、外国人の支配に耐え忍ぶほど無気力でもなければ無知でもない。日本の教会の統括は日本人に委ねるよりほかに考えるべきではない。」

『日本史』を書き残したフロイス神父は、日本と西洋が全く正反対である点を列挙して「日本人は罪人を平然と斬首するが、家畜を殺すと仰天する」と首を傾げています。

彼らにとって日本はやはり「不思議の国」だったのです。

・・・現在の中学生が学ぶ歴史教科書では、この自由社の歴史教科書は全国的にほとんど採択されていません。しかし、多くの中学生が用いているもので、安土桃山時代の近世の歴史を多角的に、且つ興味深い挿話を入れて説明している教科書は、なかなかお目にかかれません。

因みに、日本に来た宣教師たちの人となりや、その後の話など、よほどの歴史の先生でない限り触れることはないでしょう。興味のある方は、下記の筆者注をご覧ください。長崎との関わりなども触れられています。

 

ザビエル

(筆者注1)Francisco Xavier(フランシスコ ザビエル)

1506年4月7日、スペイン バスク地方ナヴァーラ王国、ザビエル城で裕福で敬虔な貴族領主の5人の末子として出生。6才の時父を亡くし兄弟も家を出たため孤独な少年期を過ごす。彼の生涯は孤独と劣等感との闘いであった。彼の篤い信仰と神への信頼は強く困難に立ち向かう精神力は持っていた。情熱と喜びをもって旅を続けることが出来たのは幼少期の経験からきたものである。イエズス会設立者(7人)の内の一人、

(筆者注2) Cosme de Torres(コスメ デ トルレス)

(1510年 ~ 1570年10月2日)スペイン・バレンシア出身、1546年モルッカ諸島でザビエルと出会いインドのゴアへ行き司祭となる。ザビエル や日本人ヤジロウと共に日本へ出立し1549年8月15日鹿児島に到着。都へ向ったザビエルと別れてトルレスは平戸に残り、1551年にザビエルがインドへ向けて日本を去ると布教の責任者になる。ザビエルが去る時後を託されて死ぬまで日本に留まり宣教活動を続けた。琵琶法師であったロレンソ修道士などの協力を受けて山口や九州の各地でキリスト教は広まった。山口では6年にわたり布教し2000人の信徒を得た。1556年山口を去り豊後の府内へ移る。1559年都での布教のためガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。織田信長の支援を受け畿内での宣教は進んだ。1563年には大村純忠に洗礼を授け日本初のキリシタン大名が生まれた。1570年6月に新しくフランシスコ・カブラル神父が派遣されると間もなくトルレスは1570年10月2日天草で死去した。

(筆者注3) Organtino Gnecchi‐Soldi(オルガンティーノ ニェッキ ソルディ)

(1533 ~ 1609年4月22日)北イタリアのカストで生まれ。22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後日本に派遣された。1570年6月18日天草に上陸後、ルイス・フロイスと共に都での宣教を行った。1577年から30年間都での布教責任者をつとめた。明るく魅力的な人柄から日本人に好かれ布教にも大いに役立った。30年以上日本で衣食住すべて日本人と同じように暮らし日本を深く理解し愛した。オルガンティーノは1576年にともに都に住んでいたフロイスと教会(南蛮寺)を建立。この教会は敷地が狭いため三層にせざるを得ず周囲を見渡すことができるほどの高さで威容を誇った。1580年には安土で織田信長から与えられた土地にセミナリヨを建てた。本能寺の変後安土城は破壊され城下のセミナリオも放棄された。信長の死後1582年未だキリシタンへの対応は寛大で1583年に大阪城に秀吉を訪問すると歓待を受けた。高山右近の城下高槻に新しい土地を得てセミナリオは設置された。1587年に最初の禁教令が出されると、都の南蛮寺は打ち壊された。オルガンティーノは右近とともに 小西行長の領地小豆島に逃れた。翌年 右近が加賀前田家に行くことになると、オルガンティーノは九州に向かった。1591年天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしで再び京都在住をゆるされた。1597年、日本二十六聖人が京都から長崎へ向かう際に拷問を受けた時には、彼らの遺物を受け取っている。その後長崎へ行くが1609年76才で病死する。

(筆者注4)Alessandro Valignano(アレッサンドロ ヴァリニャーノ)

(1539年2月15日 ~ 1606年1月20日)イタリアナポリ王国のキエーティで貴族の家に生まれ、パドヴァ大学で法学を学び1566年にイエズス会に入会した。1570年叙階、1571年から修練院で教える。1573年、東インド管区の巡察師になる。1574年3月21日にリスボンを出発し、同年の9月にゴアに到着、管区全域を視察。インドの視察を終えた後1577年9月にゴアをたち10月19日マラッカに来る。1578年9月、マカオに到着、中国での宣教のためにミケーレ・ルッジェーリ Michele Ruggieri が派遣されて来ると、後を彼に任せて1579年7月日本へ出発した。巡察師としての彼の役目は各地の布教地でのイエズス会の活動を視察し問題があれば会の規約を正すなどして解決する権限を持っていた。1579年7月25日九州の口ノ津に着く。1579年来日後間もなく信長に初めて接見する。1582年まで滞在する間、生活物資は現地調達で賄い、主従関係の厳しい日本の階級社会に合わせて領主や上級武士を信徒にすれば布教は進むことを学んだ。これが「適応主義」と呼ばれる方法でり、自らをその地の文化と風習に適応させるという方法である。1581年、”Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone”「日本布教のための儀典書」を記した。彼は当時の日本では人を身なりや外見で判断することを悟り、日本人たちと同じように振舞うべきだと考えた。城での大名との会見の際は彼らは最上の身なりで従者を従えて歩いた。このことが傲慢で贅沢であるとヨーロッパで非難されることにもなったが、日本人からは歓迎され大いなる信頼を得た。1580年、肥前有馬と近江安土に小神学校(セミナリヨ Seminario)、1581年に豊後府内に大神学校(コレジオ Collegio)、そして1580年に豊後臼杵に入会希望者のための修練院(ノヴィシャド Noviciado)を創設した。1581年夏、織田信長との安土での最後の謁見では、天守は提灯の明かりで照らされるなか迎えられ、贈られた安土城の屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されることになった。1582年、天正遣欧使節を計画しイエズス会員に伴われた 4人の少年たち (伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパへ出発、ヴァリニャーノはゴアまで付き添って行き彼らの帰国する時までゴアに残る。使節団は各地で大歓迎を受け教皇謁見の際にも温かくもてなされた。少年たちは8年にわたりヨーロッパに滞在するうち西欧流の教養を身に着け立派な大人に成長していた。1590年、帰路ゴアに立ち寄った遣欧使節と合流し再び来日、1591年に青年たち遣欧使節と聚楽第で秀吉に謁見した際、西洋の楽器を演奏し太閤も満悦であった。また初めて活版印刷機を持ち込み、「キリシタン版」とよばれる書物を印刷した。この時の訪問は1592年10月まで続き国内を自由に旅することが許された。1598年最後の来日、「適応主義」のイエズス会と従来のヨーロッパ方式であるフランシスコ会、ドミニコ会との間に起きていた対立問題の解消に努めた。1603年日本を去り、3年後にマカオで死去した。

posted by at 18:52  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、年齢や学年を超えて同時に学ぶ機会があります。謂わば、子沢山の大家族の中で学ぶようなものです。そうすると、年下の子が年上の子から学び、年上の子は年下の子の手本になろうとする雰囲気が生じてきます。

さて、文部科学省が提唱する「合教科型」の見本のような資料を発見しました。

「史実を世界に発信する会」http://hassin.org が、近現代史に関する有用な日本語文献を英訳し、これをWeb上で無料で公開することを目的に、資料を英訳版と日本語版で公開しています。

その中で、福澤諭吉に関する記述がありましたので引用してご紹介します。

福沢諭吉の『学問のすすめ』と「脱亜論」というコラムの英和対訳です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf

PERSONALITY PROFILE
Fukuzawa Yukichi, Author of An Encouragement of Learning and Leaving Asia
Why did Fukuzawa Yukichi, who once argued that Japan should ally with Korea and Qing China to counter Western expansionism into Asia, later pen the essay Leaving Asia?

人物紹介

福沢諭吉は、学問のすすめと脱亜論の著者。日本・朝鮮・清国の三国が、連帯して西洋のアジア進出に対抗することを主張してきた福澤は、なぜ、のちに「脱亜論」を書くことになったのだろうか。

Independent individuals and national independence

「一身独立して、一国独立する」

Fukuzawa Yukichi was an enlightened thinker active in mid to late-nineteenth century Japan. In 1872 (Meiji 5), he wrote the influential work An Encouragement of Learning, which contained one of his most famous maxims, “National independence cannot be achieved without independent individuals.” What Fukuzawa meant was that Japan could never stand equal with the Western powers and be truly independent until every Japanese citizen became imbued with his own spirit of independence. An independent individual, Fukuzawa pointedly argued, would not be content to simply leave political affairs to the elites and blindly follow their dictates.

“Those who lack an independent spirit feel no shame when they should feel shame, fail to speak out when they should speak out, and meekly stoop before everyone they see. It has been said that these attitudes are acceptable amongst our fellow Japanese, but in our present era of vigorous interaction with foreign countries, they are not merely a loss to the individual, but a loss to the whole country. They are not merely a shame to the individual, but a shame to the whole country.”

福沢諭吉は、幕末から明治30年代にかけて活躍した啓蒙思想家です。福澤は、1872(明治5)年に『学問のすすめ』を発表し、「一身独立して、一国独立する」という名言を残しました。日本人一人ひとりが独立心をもつことが、日本を西洋列強と対等に付き合うことができる、自立した国家にするもとだ、というのです。福澤は、政治はお上がするものとし、そのいう通りにすればよいと考える、独立心のない人々を批判して、こう書きました。「独立の気力なき者は、恥ずべきときに恥じず、論ずべきときに論ぜず、人さえ見ればただ腰を屈する。国内のことならばそれでよいとしても、いま外国と交わるの日においては、一人の損失、一人の恥辱では済まない。それは一刻の損失、一国の恥辱である。

上記は、『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter4 Section3,4の英和対訳部分です。詳細は、上記のサイトをご参照ください。中学校の歴史教科書として、各地で採択されている無味乾燥な歴史教科書と比べ、非常にわかりやすく歴史的事象や人物にも焦点を当てている、大人の読み物としても面白いものです。熟読されると納得がいくと思います。

posted by at 23:38  | 塾長ブログ
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