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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、年齢や学年を超えて同時に学ぶ機会があります。謂わば、子沢山の大家族の中で学ぶようなものです。そうすると、年下の子が年上の子から学び、年上の子は年下の子の手本になろうとする雰囲気が生じてきます。

さて、文部科学省が提唱する「合教科型」の見本のような資料を発見しました。

「史実を世界に発信する会」http://hassin.org が、近現代史に関する有用な日本語文献を英訳し、これをWeb上で無料で公開することを目的に、資料を英訳版と日本語版で公開しています。

その中で、福澤諭吉に関する記述がありましたので引用してご紹介します。

福沢諭吉の『学問のすすめ』と「脱亜論」というコラムの英和対訳です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf

PERSONALITY PROFILE
Fukuzawa Yukichi, Author of An Encouragement of Learning and Leaving Asia
Why did Fukuzawa Yukichi, who once argued that Japan should ally with Korea and Qing China to counter Western expansionism into Asia, later pen the essay Leaving Asia?

人物紹介

福沢諭吉は、学問のすすめと脱亜論の著者。日本・朝鮮・清国の三国が、連帯して西洋のアジア進出に対抗することを主張してきた福澤は、なぜ、のちに「脱亜論」を書くことになったのだろうか。

Independent individuals and national independence

「一身独立して、一国独立する」

Fukuzawa Yukichi was an enlightened thinker active in mid to late-nineteenth century Japan. In 1872 (Meiji 5), he wrote the influential work An Encouragement of Learning, which contained one of his most famous maxims, “National independence cannot be achieved without independent individuals.” What Fukuzawa meant was that Japan could never stand equal with the Western powers and be truly independent until every Japanese citizen became imbued with his own spirit of independence. An independent individual, Fukuzawa pointedly argued, would not be content to simply leave political affairs to the elites and blindly follow their dictates.

“Those who lack an independent spirit feel no shame when they should feel shame, fail to speak out when they should speak out, and meekly stoop before everyone they see. It has been said that these attitudes are acceptable amongst our fellow Japanese, but in our present era of vigorous interaction with foreign countries, they are not merely a loss to the individual, but a loss to the whole country. They are not merely a shame to the individual, but a shame to the whole country.”

福沢諭吉は、幕末から明治30年代にかけて活躍した啓蒙思想家です。福澤は、1872(明治5)年に『学問のすすめ』を発表し、「一身独立して、一国独立する」という名言を残しました。日本人一人ひとりが独立心をもつことが、日本を西洋列強と対等に付き合うことができる、自立した国家にするもとだ、というのです。福澤は、政治はお上がするものとし、そのいう通りにすればよいと考える、独立心のない人々を批判して、こう書きました。「独立の気力なき者は、恥ずべきときに恥じず、論ずべきときに論ぜず、人さえ見ればただ腰を屈する。国内のことならばそれでよいとしても、いま外国と交わるの日においては、一人の損失、一人の恥辱では済まない。それは一刻の損失、一国の恥辱である。

上記は、『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter4 Section3,4の英和対訳部分です。詳細は、上記のサイトをご参照ください。中学校の歴史教科書として、各地で採択されている無味乾燥な歴史教科書と比べ、非常にわかりやすく歴史的事象や人物にも焦点を当てている、大人の読み物としても面白いものです。熟読されると納得がいくと思います。

posted by at 23:38  | 塾長ブログ

中国人留学生によって破壊され続ける学術の殿堂

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、各年代に応じて其々の課題をコツコツとこなしていきます。何年後かには、自らが望む進路へ進むことが出来る様に成る可く。

知っておくべき実態の一端を示す記事がありましたのでご紹介します。

「中国ガン・台湾人医師の処方箋」(林 建良著)(並木書房)

中国人留学生・「本物かどうか」からチェック

 少子化になって、全入になった日本の大学も経営難に陥り、中国人留学生の存在が大学経営の下支えとなっているだけに、どの大学も中国人留学生を積極的に受け入れている。台湾でも同じような事情だ。しかし、中国人留学生が増えれば増えるほど、問題も増えてくる。

最初にぶつかる問題は、まずその留学生が本物かどうか、である。
どの国でも留学申請に必要な書類がいっぱいある。卒業証書から成績証明、住民票、身元保証人の納税証明書、同意書などいろいろある。他国の言語で記された書類だから、現地で発行する英語版の書類を取り寄せるか、日本語に翻訳して裁判所の認証を得なければならない場合も多い。

ところが、中国人留学生の場合はこれらの書類が偽物である可能性が少なくない。少なくないというより、卒業証書をはじめ成績証明書も裁判所の認証さえも偽物だらけと言った方がいいだろう。偽物作りの天才である中国人が作った書類を、大学側が見破るのは至難の業である。

日本人の感覚として、いくら精巧な偽物とはいえ、やはり本物ではないのだから違いはあるはずだと考える。しかし、中国人の発想は違う。偽物とはいえ、発行元は本物と同じ偽物が多いのだ。それはどういうことかいうと、日銀が偽札を刷っているようなもので、中国の大学や高校が本当に作った卒業証書なのだ。ところが、その高校や大学にその学生は在籍していないのである。

ある中国系の報道でも「中国の大都市や地方都市では街中にある壁のいたるところに『ニセ学位売ります』の貼り紙がある。その相場は二百元(約二千八百円)から三百元(約四千二百円)ほど。さらに費用を上乗せすれば成績表や学籍簿まで偽造することができる」と伝えている。

チャイナウォッチャーの宮崎正弘氏は、北京大学、精華大学、上海交通大学といった中国の有名大学まで、偽卒業証書の発行を副業としていると指摘しているが、似たような偽の書類はいくらでもある。市役所から出した偽の出生証明や身分証明書などがあり、一体どのようにして検証すればよいのかと世界各国の大学当局は頭を抱えている。

日本国内の名所・旧跡などの観光地には、近年夥しい数の外国人観光客が来ます。読者の皆様も経験されたされたことがあるでしょうが、その中には顰蹙する外国人の集団を目にすることが多々あります。日本人は、歴史的にみても宗教的、人種的な差別意識の少ない民族です。しかしながら、余りの傍若無人振りに閉口して、その場を離れたり、顔を顰めてしまう人もいます。

京都や奈良などの神社・仏閣で、親子連れやカップルが、人目もはばからず行動するのを見ては言葉も出ません。此れに比べると、日本人の振る舞いの良さは際立ちます。

中国人留学生が消える

偽物の留学生だから、本気で勉強するために来日するわけではない。中国人留学生の失踪事件が後を絶たないのは、そのためだ。彼らは大学に籍を置きながら、金稼ぎにいそしんでいる。実際、読売新聞は次のように報じている。

《青森大学(青森市幸畑)が二〇〇八年度から一〇年度にかけ、通学実態のない計百二十二人の留学生を除籍処分にしていたことが、同大への取材でわかった。
大半が中国人だった。同大から報告を受けた仙台入国管理局が調べたところ、約九割が県外に居住し、就労していたことも判明。仙台入管は就労目的の偽装留学とみており、同大は受け入れ態勢の見直しを進めている。》(二〇一一年一月一日付「偽装留学? 青森大が百二十二人除籍 県外就労九割」)

中国人にとって留学とは、日本に入国する手段の一つに過ぎず、密入国の中国人たちと何ら変わりはない。中国人留学生の失踪事件が後を絶たないのはそのためだ。同じような失踪事件は、アメリカ、ヨーロッパなどでも大きな問題になっている。

「名利双収」という中国的欲望

金がすべての中国人だが、例え偽卒業証書でも、留学したのだから、大学に入った以上は金稼ぎだけでなく、学位をもらわなければならないと考える。その中国人的「名利双収」(名誉も利益も手に入れる)の欲望から生じた問題は、世界の大学を悩ませている。それが学位論文盗作問題である。

そもそも、偽書は中国の伝統と言ってよい。そのため、書物が本物か偽物かを検証する学問もできているぐらいである。今でも中華人民共和国新聞出版総署は毎年、偽書を公表している。

また『中国偽書綜考』({ケ瑞全・王冠英 他編、黄山書社、一九九八年 )によると、『周易』、『尚書』、『詩経』、『周礼』、『礼記』、『春秋左氏伝』(春秋公羊伝・春秋穀梁伝)、『論語』、『孟子』、『墨子』、『韓非子』、『山海経』、『孫子』『孔子家語』は全て偽書だという。恐ろしいという他ない。

偽物が当たり前のように存在している中国から出てきて、平気でウソをつく中国人だから、論文の盗作ぐらいはなんとも思っていない。やらない方がバカだと考えるのだ。報道されているだけでも、広島大学や筑波大学では、中国人留学生たちの論文盗作問題で学位を取り消すケースが出ている。もちろんこれは氷山の一角でしかない。

学位論文の次は卒業となるが、ここでも中国人留学生は偽の卒業証明書や単位取得証明書を平気で使う。産経新聞が次のように報じている。
《偽の大学卒業証明書を使い国外でも書類が公的文書と認められる「公印確認」を受けようとしたとして、警視庁麹町署は、偽造有印私文書行使の疑いで、横浜市青葉区松風台、日本経済大学1年の中国籍、李雪謙容疑者(22)を逮捕した。

同署によると、李容疑者はインターネットの在日留学生交流サイトを通じて敬愛大学(千葉市稲毛区)の偽造卒業証明書などを入手。「早く国に帰りたかった。親の期待を裏切りたくなかったので大学を卒業したことにしようと思った」などと容疑を認めている。

逮捕容疑は七日、偽造の卒業証明書や単位取得証明書を外務省領事局に提出し、公印確認を受けようとしたとしている。書式などが微妙に違うため不審に思った同省が敬愛大に確認、犯行が発覚したという。

同署によると、李容疑者は平成二一年年一〇月に来日。語学学校に通った後、今年四月に日本経済大に入学していた。》(二〇一一年十二月九日付「偽の大学卒業証明書で「公的確認」 中国人留学生を逮捕」)

このような事実に鑑みると、日本人の子供達が本来受けるべき高度な教育の場に、本当の教育レベルに達していない外国人が多数紛れ込み、結果として日本人の子供たちの教育レベルを上げることの妨げになっているということになりかねません。

推薦状の九〇%は偽物

アメリカの大学も、中国人留学生の盗作やカンニングなどで悩まされている。
インスティチュート・オブ・インターナショナル・エデュケーションによると、二〇一〇年から二〇一一年にかけて、アメリカに留学した学生の数は七二万三二七七人となっている。実にその二二%の一五万七五五八人が中国人留学生で、断トツの一位だ。そしてインド(十万三八九五人)、韓国(七万三三五一人)、カナダ(二万七五四六人)、台湾(二万四八一八人)と続く。日本は二万一二九〇人と第七位だ。

しかし、日本と同じように「入学時に必要な小論文は仲介業者が代筆したもので、推薦状も偽造のものばかり……。入学した後も規則を破ったり、カンニングをしたりと、教授も米国人学生たちも中国からの留学生に手を焼いている」(二〇一二年一月五日「クーリエ・ジャポンの現場から米国の大学を悩ませる中国人留学生」)という。

さらに、アメリカの中国人留学生の本当の姿を伝える恐るべき報告がある。「ニューヨークタイムズ」の記事を「クーリエ・ジャポン」が紹介している。
《中国人留学生を受け入れるコンサルティングを行っているジンチ・チャイナ社は二〇一〇年、米国への留学が決まった二百五十人の北京の高校生とその両親、そして十二の斡旋業者を対象に行った調査の結果を発表した。

その結果は、志願者の九〇%が偽の推薦状を提出し、七〇%が他人に小論文を書いてもらい、五〇%が高校の成績表を改竄し、一〇%が受けていない学業の賞や事実に反する業績を挙げていた。米国への留学生が増えれば「入学願書を偽造する動き」は増えると報告書は予測している。》(二〇一二年一月二十七日「クーリエ・ジャポン論文盗作にカンニング、英語が通じない……米国の大学を悩ませる『中国人留学生』」)
やっぱりというべきだ。

ちなみに、中国でも似たような調査結果がある。湖南省と湖北省の規律委員会の調査によると、修士や研究員の学歴詐称は全体の八〇%、大卒の詐称は五〇%にものぼるという。中国では習近平の博士号の真偽について、様々な憶測が飛び交っている。一般人から国の指導者まで偽物なのだ。

中国人留学生によって破壊され続ける学術の殿堂

このように中国の虚偽体質は、中国人留学生というガン細胞を通じて世界に広げられているから性質(たち)が悪い。

フランス南部の国立トゥーロン大学では、中国人留学生らが金銭を払って学位を不正取得していたことがフランス政府の調査で発覚している。中国人留学生が「元締」となって、大学当局から学位を一件当たり約二千七百ユーロ(約三十五万円)で買い、不正取得は数百件に及んでいた。読売新聞はそれを次のように伝えている。
《司法当局は、不正が過去四~五年にわたって行われたとみて、過去五年分の全中国人留学生の試験の答案を押収した。仏西部ポワティエ、ラロシェル、ポーなどの大学でも捜査が進んでいる。

仏紙ル・モンドによると、トゥーロン大経営管理学校の校長は検察に対し、今年初頭に中国人学生から〝一〇万ユーロ(約一三〇〇万円)で約六十人の中国人学生のための修了証書を買いたい〟持ちかけられたことを認めた。証書は一枚あたり二七〇〇ユーロ(約三五万円)前後で取引された。

同大には約六五〇人の中国人が在籍するが、昨年九月に入学した中国人留学生の多くはフランス語が全く話せず、仏国民教育省が〝中国国内で仏語の能力証明書が偽造された可能性がある〟との警告を全仏の大学学長に発していた。》(二〇〇九年四月十六日付「【フランス】金に物言わせ中国人留学生、国立大学の修了証三五万円で取引か 数百人が不正の疑い」)

これが中国ガンの遠隔移転の留学生版だが、こうして世界中の学術の殿堂が中国人に蝕まれ、破壊されてきた。そして、今も破壊され続けているのだ。

このような実態を把握しているか否かは不明ですが、日本の文部科学省は、積極的にChineseの学生の留学を推進し、更に不必要な学費免除や無償の奨学金まで支給している実態があります。何よりも日本人の若者に就学機会を与え、学ぶ為の経済的な障害を取り除くべきであるにも拘らず、です。

posted by at 23:27  | 塾長ブログ

教科書に乗らない歴史上の事実 4 人種平等の精神を国是とする大日本帝国

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、夏季講習も終了し、処暑(しょしょ)第四二候 禾乃登(こくもの すなわち みのる)となりました。旧暦とともに二十四節氣の意味合いを考えると、日本人の季節感や感性がよく理解できます。

2017年8月13日付の当ブログでご紹介した「デンマーク人の勇気 ナチスからユダヤ系市民を守った物語」 に引き続き、http://lgmi.jp/detail.php?id=2505

教科書に載らない歴史上の事実を、「国際派日本人養成講座」の「大日本帝国のユダヤ難民救出」を引用しつつご紹介します。http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog257.html

大東亜戦争終戦以前の大日本帝国は、1919年第一次世界大戦後のパリ講和会議で、国際連盟規約の中に「人種平等条項」を入れるよう提案しました。この人種差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)は、圧倒的多数の賛成を得ながら、、イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国の上院などが強硬に反対し、議長の米国大統領ウィルソンの策略によって否決されました。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初の国です。

■1.ユダヤ人排斥■

 1933(昭和8)年1月、ヒトラーは首相に就任すると、4月1日にユダヤ人排斥運動声明を行い、ユダヤ人商店のボイコット、ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家・音楽家の締め出し、ニュルンベルク法(1935)によるドイツ市民資格剥奪、と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策が打ち出していった。

 急増するドイツ、オーストリアからのユダヤ人難民を救うために、米国のハル国務長官が1938(昭和13)年3月に国際委員会を組織する提案を行い、その第1回委員会がフランスで開かれた。しかし国際社会はユダヤ人に対して冷たかった。米国の議会は自国の政府提案を拒否。ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジル等は、移民受け入れの余地なしと回答。カナダは協力の意向あるも、収容能力に限度あり。イギリスは、農業移民ならギニア植民地に収容できるかもしれない、といかにも老獪な事実上の拒否。

 同年11月7日にユダヤ系ポーランド人の一少年が、パリのドイツ大使館書記官を暗殺したのを機に、宣伝相ゲッベルスは報復を呼びかけた。その結果、ドイツ全土のほとんどのユダヤ教会堂が焼討ちや打ち壊しにあい、7千5百のユダヤ人商店が破壊された。街路がガラスの破片で覆われて輝いたので、「水晶の夜」とよばれる。ユダヤ人の死者は91人、強制収容所送りは2万6千人に達したという。この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。

そもそもユダヤ人とは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者のことです。旧約聖書にも描かれているように、紀元前から長きにわたり民族的迫害を受け続けています。

フランスでのユダヤ人大量虐殺(1348年)

■2.帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神■

 水晶の夜から1ヶ月も経たない昭和13年12月6日、日本では5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が決定された。これはユダヤ人を「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度に出づるは啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」として、以下の3つの方針を定めたものであった。

・ 現在日本、満洲、支那に居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。
・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
・ ユダヤ人を日本、満洲、支那に積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。(すなわち招致も可)

 この時、日本はドイツ、イタリアとの三国同盟の前身たる防共協定を結んでいた。その同盟国のユダヤ人排斥を「人種平等の精神に合致せざる」と批判し、かつ世界各国が受け入れを拒否した難民にも、入国規則内で公正に対応する、というのである。
(中略)

 有色人種国家として、ただ一国近代化に成功して、世界5大国の一角を占めるようになった日本にとって、長年戦ってきた人種差別に今また苦しめられているユダヤ民族の苦境は、他人事ではなかった。

■3.陸軍随一のユダヤ問題研究家・安江仙弘大佐■

 5相会議での「猶太(ユダヤ)人対策要綱」策定に大きな力となった人物がいた。安江仙弘*1(やすえのりひろ)陸軍大佐である。安江大佐は幼年学校時代からロシア語を学び、シベリア出兵時に武功をたて、その後、陸軍随一のユダヤ問題研究家となった。

 この前年の昭和12(1937)年12月26日、満洲ハルピンにて、第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、ハルピン陸軍特務機関長の樋口季一郎陸軍少将*2が、ドイツのユダヤ人排斥政策を批判し、「ユダヤ人を追放するまえに、彼らに安住の地をあたえよ!」と演説して、聴衆を感激させた。

 この大会のわずか3日前に樋口少将を補佐するために陸軍中央部から派遣されたのが、安江大佐であった。大会後、翌13年1月21日には、安江大佐が中心となって、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を策定し、世界に散在せるユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合するを理想とする」とした。

 「八紘一宇」の八紘とは、四方と四隅、すなわち、世界中のことで、一宇とは「一つ屋根」を意味する。初代・神武天皇が即位された時に、人民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、天の下のすべての人民が一つ屋根のもとで家族のように仲良く暮らすことを、建国の理想とされた。英語では、Universal Brotherhood(世界同胞主義)と訳されている。関東軍はこの八紘一宇の精神をもって、ユダヤ民族を助けるべきである、と安江大佐は主張したのである。

 同時に「施策要領」は「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」とした。ユダヤ難民をあくまで人道的に取り扱うが、ユダヤ資本をあてにするような事はしない、という方針である。

 この後、3月8日から12日にかけて、約2万人(一説には数千人)のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出した。

*1 安江仙弘 松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として秋田県秋田市の平田篤胤の生家で生れる。1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾、樋口季一郎)を卒業。昭和20年8月23日、大連でソ連軍に逮捕され、昭和25年ハバロフスク収容所で病死。安江は、「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ。俺はその責任を取る。ソ連が入って来たら拘引されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」と言い残したそうです。

陸軍大佐 安江 仙弘

*2 樋口季一郎陸軍少将 1888年生まれ。兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。昭和20年(1945)8月18日以降占守島、樺太における対ソビエト軍への戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与え、防衛戦に勝利した。そのため極東軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を戦犯に指名。世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、日本占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した。

北部軍司令官時代の樋口(昭和18年ごろ)

現在の日本の歴史教科書には、このような事実は全く記載されていません。世界の長い歴史の中では、様々な民族の興亡があり、現在の平和な日本に住む私たちから観れば想像を絶する、凄まじい殺戮を繰り返しているのが人間の歴史です。当然絶滅させられた民族もあるわけですから、良い悪いではなく、いかに民族が生き残るかはpower(軍事・経済・資源など)次第であるのが現実です。

(中略)

■7.ゴールデン・ブックへの記載■

昭和16年11月1日、安江大佐に対し、ハルピン市のホテル・モデルンで数百人のユダヤ人列席のもと、世界ユダヤ人会議代表M・ウスイシキン博士署名の「ゴールデン・ブック」への登録証書授与が挙行された。

ゴールデン・ブックは、ユダヤ人の保護・救出で功労のあった人を顕彰するためのものである。この時、吹雪の中で2万人とも言われるユダヤ難民を救出した樋口季一郎少将、および、樋口・安江と力をあわせてきた満洲ユダヤ人社会のリーダー、カウフマン博士もともに記録された。

恐らく同時期であると思われるが、海軍の犬塚惟重大佐*3も、ゴールデン・ブック記載の申し出を受けた。犬塚大佐については、いづれ稿を改めて紹介するが、犬塚機関を作って、安江大佐とも協力しながら、上海のユダヤ人社会を保護した人物である。犬塚大佐は次のように述べて、申し出を辞退したという。

私の哀れなユダヤ難民を助け東亜のユダヤ民族の平和と安全を守る工作は、犬塚個人の工作ではなく、天皇陛下の万民へのご仁慈にしたがって働いているだけである。

私はかつて、東京の軍令部にいた時、広田外相からこんな話を伺ったことがある。広田外相が恒例の国際情勢を陛下に奏上申しあげたうちでナチスのユダヤ虐待にふれたところ、陛下は身を乗り出されて憂い深げにいろいろご下問なさるので、外相は失礼ながら陛下はユダヤ人を日本人と思い間違いあそばしているのではないかと不審に存じ上げたが、陛下は「いやユダヤとわかっているが、哀れなもの」と仰せられて、そのご仁愛のほどに恐懼したというのだ。私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の名を書くように。

■8.もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか■

ユダヤ人を救出して顕彰せられた日本人としては、「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受けた杉原千畝がいる。ポーランドの独ソ分割によって追われたユダヤ難民6千人(推定)に対して、日本へのビザを発行して命を救ったカウナス(バルト3国の一つ、リトアニアの臨時首都)領事代理である。

大量のビザ発行手続きに関しては、外務省訓令を逸脱していており、これをもって杉原の行為を、国策に反した個人的善行と見なす見方があるが、五相会議決定、安江機関、犬塚機関という一連の流れの中で見なければならない。杉原自身はユダヤ人救出の動機を後年、こう述べている。

それは私が、外務省に仕える役人であっただけではなく、天皇陛下に仕える一臣民であったからです。悲鳴をあげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか、ということでした。陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか。それとも温情をかけられるだろうか。そう考えると、結果ははっきりしていました。私のすべきことは、陛下がなさったであろうことをするだけでした。

もし外務省に(ビザ発給に関する)訓令違反を咎められたら、私が破ったのは訓令であって、日本の道徳律ではないと思えば良いと腹を決めました。

*3 犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年生れ )は、日本海軍軍人、ユダヤ問題研究家。海軍大佐。

犬塚 惟重大佐

日本人の特性として、人類皆兄弟というような差別意識の無さが挙げられます。これは「一木一草」に命が宿ると考える民族であることが基礎にあるように思います。戦前の日本人の凛々しさを示すのが上に掲載する写真の御顔です。やはり、志の高さと躾や教育の大切さを感じさせる写真ですね。

posted by at 22:45  | 塾長ブログ

21世紀を生き抜くには

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、21世紀を生き抜く力の基本を、幼児教育から始まる基礎教育で身につけて欲しいと考えています。

日本を取り巻く安全保障環境の劇的な変化は無論、国内外の変動は、社会・経済面で大きな影響を私達に与えています。しかし、いつの時代も大きな変革の波は、環境の変化によって起きることを歴史は教えています。したがって、これからの時代の先行きが不透明であろうと、前向きに生きていけるように「生き抜く力」を義務教育の間に身に付けておかなくてはなりません。

「21世紀を生きる職業人を取り巻く状況」について、以下の答申が出されていますので、引用してご紹介します。

因みに、厚生労働省の2016(平成28)年簡易生命表によると、現在10歳の男の子の平均余命は71.23年、女の子は77.39歳だそうです。つまり、21世紀一杯をほぼ生き抜いていかなければならない世代ということです。子供達がこれからの激動する時代に柔軟に対応できるだけのものを身につけるには、まずは親御さんに以下の答申をご参照頂きたいものです。

中教審答申「個人の能力と可能性を開花させ、全員参加による課題解決社会を実現するための教育の多様化と質保証の在り方について」(2016年5月)

1 世界的な状況
○ 「知識基盤社会」の時代を迎えた21世紀の経済社会においては、グローバル化の進展と ともに、知識・技術は日進月歩の進化を遂げ、産業の高度化が進んでいる。イノベーションの 波も押し寄せる中、産業構造の転換のスピードはますます速くなり、各企業等は、より流動的 で先行き不透明な状況の中での競争に面している。
○ 新しい産業・職業が次々と生まれる一方、今ある職業の多くが、近い将来、新たな職業に 入れ替わっていくことも想定しなければならなくなっている*1。多くの仕事が機械やコンピュー タに置き換えられ、「人が担う仕事」の領域も変容していくと予測されており*2、人が担う業務 は、より人間的なコミュニケーションを伴う業務等へと移行する*3とともに、「経済のサービス化 ・ソフト化」がより一層進展していくことも予想される。

*1 ニューヨーク市立大学のキャシー・デビッドソン教授は、その著作(“Now You See It” (2011))の中で、「2011年に米国の小 たち学校に入学した子供 達 の65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就くだろう」との予測を採り上げている。

*2 オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授らは、その論文(“The Future of Employment”(2013))で、「米国にお ける仕事の約47%が、今後10年から20年程度で自動化される可能性が高い」と予測している。

*3 産業構造審議会新産業構造部会(平成28年1月15日)では、モノのインターネット(IoT)や人工知能(AI)、ロボット等の出現がもたらす第4次産業革命において増加していく「ミドルスキルの仕事(ボリュームゾーン)」の例として、①IoTを活用したビジネスの企画立案、②データ・サイエンティスト等のハイスキルの仕事のサポート業務、③個人のセンスやアイデアを活かしたマス カスタマイゼーション、④ヒューマン・インタラクションを挙げている。さらに、同部会による「新産業構造ビジョン中間整理」(平成 28年4月27日)では、第4次産業革命により増加する仕事として、ハイスキルの仕事のサポートとしてのミドルスキルの仕事、マ スカスタマイゼーションによるミドルスキルの仕事、安心感が購買の決め手となる商品・サービス等の営業・販売に係る仕事、人 が直接対応することが質・価値の向上につながる高付加価値なサービスに係る仕事等を示している。

2 我が国の状況

○ 我が国の産業・職業をめぐる現状に目を転じれば、世界に類を見ない速さで少子・高齢化 が進行しており、生産年齢人口は、今後減少していくことが確実となっている。とりわけ、地方 においては、若年世代の流出と東京圏への一極集中により、地域経済の縮小や深刻な人手 不足が、既に現実化している。

同時に、様々な産業は世界の市場と直接つながり、グローバル化への対応は、都市・地方 の別を問わず、多くの企業にとっての喫緊の課題となっている。

○ 企業等においては、経済状況等の変化を背景に、新卒一括採用・終身雇用に代表される 日本型の雇用慣行にも変容が生じており、企業内における教育訓練の機会も中長期的に減 少傾向にある。我が国の企業等は、従来、実践的な職業知識・技能の育成は主として企業 等の役割と考え、学校教育に対しては、大学等の入学段階における選抜機能を背景に、基 礎的な素質を持った学生等を送り出す役割により多くを期待し、大学等で何を学んだかは余 り重視しない傾向が強かったが、そうした考え方にも変化が現れてきていると言われる。同質 的と言われる日本の職場集団の有り様にも変化が進み、個々の企業等の中に集積された暗黙知を形式知化して継承することや、さらには、これらを理論化・体系化して、生産性の向上 へとつなげることの重要性が指摘されている。

○ 就業者の状況としては、企業の従業者数の約7割は中小企業従業者が占めており、また、産業別では、戦後一貫して、第3次産業就業者の割合が増え、現在は約7割に至っている。今後の人材需要増が見込まれるのは、専門的・技術的職業従事者、サービス職業従事者等であって、その他の職種は総じて減少が予想されており、一つの企業の中で職務内容を限定されずに働くメンバーシップ型の雇用から、職種の専門性に基づくジョブ型雇用(専門性を活かして企業横断的にキャリアアップを行うなどの働き方)へのシフトが進んでいくことも 予想される。 

  「ミドルスキル」「データ・サイエンティスト等のハイスキルの仕事のサポート業務」「マス カスタマイゼーション」「ヒューマン・インタラクション」など、やたらに英語のカタカナ語が記載されていて、私達からすると読むに耐えない文章が並んでいます。「グローバル化の進展」の為せる技なのかもしれません。しかし、文部科学省の中教審答申自体が、多くの日本人にとって平易に理解できない、というのは問題ではないのか、と言いたいのは私だけでしょうか。
 皮肉な見方をすると、文部科学省の中教審答申をまとめた人たちは、「21世紀一杯をほぼ生き抜いていかなければならない世代」ではない、ということですね。
posted by at 18:18  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 24 支倉常長

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室の塾生さんの中で、歴史好きの子供さんは夏休み最後の楽しみとして8月26日封切りの「関ヶ原」(司馬遼太郎原作)を鑑賞する予定です。本来、歴史には様々な人間模様が根底にありますから、時系列を追って歴史的事実を暗記するだけでは無味乾燥(面白みも風情もない)としたものになります。仮に、entertainment(エンターテイメント:娯楽)としての歴史ドラマや映画であっても、イメージを掴み歴史的興味を覚えることは大事なことです。

関ヶ原の戦いは、安土桃山時代、慶長五年九月十五日(西暦千六百年十月二十一日)のことですが、その十三年後の慶長十八年九月十五日(西暦千六百十三年十月二十八日)に月ノ浦(現・宮城県石巻市)を出帆し、遠路ローマに行った武士がいます。

下記の本は、その武士について書かれたもので、筆者が数年前に読み感動したものです。

支倉常長―武士、ローマを行進す (ミネルヴァ日本評伝選) 田中英道著

筆者が愛読しているブログ「国際派日本人養成講座」http://blog.jog-net.jp/201708/article_4.html からの引用です。少し長いですが、教科書などに書かれていない面白さがありますので、敢えて全文をご紹介します。

 

支倉常長 ~ 伊達政宗がスペイン国王とローマ教皇に送った使節
  常長は7年かけて地球を半周し、メキシコと欧州各地で熱狂的な歓迎を受けた。

■1.ローマでの日本武士たちの行進

 1615(元和元)年10月29日、日本では大坂夏の陣で大阪城が落城した年、ローマでは伊達政宗が送った使節・支倉常長(はせくら・つねなが)の一行の入市式が行われた。一行が仙台藩の月浦港を出てから、太平洋を横断してメキシコに着き、さらに大西洋を渡ってスペインからローマに辿り着くまでに、ちょうど2年と1日を要していた。

 地球のはるか裏側から来た使節団を一目見ようと、道筋にはあらゆる階層の群衆が集まり、建物の窓辺には着飾った貴婦人たちが並んで、それだけでも素晴らしい見世物になった。

 使節団の行進は、近衛騎兵隊50騎、ローマ・フランス・スペインの大使や貴族たち、騎士たちからなる豪勢な行列から始まった。続いて、日本の武士たちが大小の刀を差して歩いた。

 やがて使節の支倉常長が、ローマ教皇の甥と並んで、騎乗して現れた。両側は矛や槍をもった教皇のスイス人衛兵に守られていた。支倉は白地の和服に動物や鳥や草花の図柄が金銀の糸で刺しゅうされた豪華な衣装で人々の目を奪った。頭にはローマ風の帽子を被っていたが、群衆の歓呼に応えて、その帽子をとって楽し気に挨拶をした。

 一行がサンピエトロ大聖堂前の広場を堂々と進むと、教皇はヴァチカン宮殿の窓越しにこれを見て、何と素晴らしいものかと、繰り返し喜びの情を示し、天を仰いで、はるばる遠く異教徒の国から神のお導きでやって来たことを感謝した。

 実は、この4日前の夕刻、一行がローマに到着した際に、教皇の使者が待ち構えていて、常長はすぐに呼び出された。それほど、教皇は一行の到着を待ち焦がれていたのである。

歴史の面白さは、年代を遡り、地理的な広がりを想像しながら、歴史的事象を思い描くことができることです。

■2.メキシコとの交易

 常長一行を乗せた使節船が、仙台の東北東約70キロ、石巻湾に面する月浦港を出発したのは、ほぼ2年前のことだった。藩主・伊達政宗が徳川家康の後ろ盾を得て、自ら船を造り、大勢の商人や荷物を積み込ませて送り出したのだった。

 その主たる狙いはメキシコとの交易であった。家康は頻繁にフィリピン総督と書簡を交換しており、メキシコとの通商のために、スペインとの関係を保とうとしていた。キリスト教は徐々に禁じつつも、貿易は続けたいと考えていたのである。

 1588年にスペインの無敵艦隊が英国艦隊に破れ、1600年頃にオランダ北部7州がスペイン統治から実質的に独立すると、アジアの海においても英蘭がスペイン、ポルトガルの覇権に挑んでいた。家康は貿易の相手国として、従来からのスペイン、ポルトガルと、新興のイギリス、オランダと両天秤にかけていた。

 一方、スペイン、ポルトガルは同じ国王の下にあったが、両者間にも内部抗争があった。従来はポルトガル系のイエズス会が日本での独占的な布教を許されていた。キリスト教布教と植民地化を並行して進める一派で、わが国では西国大名に取り入って勢力を伸ばした。その脅威を感じた信長、秀吉、家康がキリシタン禁制を進めたのは、イエズス会の活動に対してだった。

 一方、スペイン系のフランシスコ会は、1600年にローマ教皇がイエズス会以外の宗派にも日本布教も容認する勅書を発してから、日本に進出を始めた。フランシスコ会はイエズス会よりははるかに大きく、また活動の軸を布教と貿易としていて、安全な存在だった。

 1603年に来日したフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロは、4ヶ月で日本語を習得し、伊達政宗に近づき、遣欧使節の一人となった。

 この40年ほど前に、フィリピンとメキシコを結ぶ太平洋横断の航路が発見されていた。フィリピンから黒潮に乗って北上し、日本近海で東に吹く貿易風に乗り、一気に太平洋を横断して、カリフォルニア北部に着き、そこからカリフォルニア海流に乗ってアカプルコまで南下する。帰りはアカプルコからフィリピンまで直行する。

 スペイン船がこの航路を活用すれば、仙台藩はフィリピンとメキシコを結ぶ交易の中継点となり、今まで西国が独占していた南蛮貿易に進出できることとなる。フランシスコ会と結んでメキシコ貿易に加わることは、伊達政宗にとって魅力的な経済振興策であった。

■3.国内で作り上げた「黒船」

 驚くべき点は、伊達政宗がメキシコに向かう大船を国内で作り上げたということである。すでに国内の造船技術は高く、フィリピンやタイへ向かう朱印船では400人も乗れる船があった。その造船技術を使って、政宗はスペイン人の指導は受けつつも、自力で太平洋横断可能な大船を建造させたのである。

 政宗からは「黒船」、スペイン側からは「サン・ファン・バウティスタ」号と呼ばれたこの船は、二本の高いマストに横帆がはためく西洋風の船で、船体500トン、長さ35メートル、幅10.8メートルと、ヨーロッパの遠洋航海船と比べても立派なものであった。この船は二度も太平洋を往復し、最後はフィリピンでスペイン艦隊に売られたほどの頑丈な造りであった。

 メキシコまで使節を派遣するにしても、使節をスペインの船に同乗させて貰った方がはるかに容易なはずだが、わざわざ自国で造った船でメキシコまで赴く、という点に、対等の文明国としてスペインと交渉しようという政宗の自負が窺える。

日本の歴史をまるで貶めるかのような記述のある一部の教科書とは異なり、「国際派日本人養成講座」のブログでは、我々のご先祖様たちや先人たちの素晴らしさを紹介しています。

支倉常長行程(wikipediaより)

■4.「忍耐強そうな、気負ったところのない正直な日本の武士」

 ソテロとともに使節として選ばれた支倉常長は伊達政宗に重用されていた家臣で、戦国の争いの中では、敵方への密使を務め、相手方の武将の一人を味方につけて戦局を有利に導くなど、政治力、統率力に優れた武将であったようだ。

 教皇の要望で描かれた常長の肖像画がローマ郊外のボルゲーゼ宮に残っている。美術史の大家・田中英道氏はこう評している。

__________
 何と忍耐強そうな、しかし気負ったところのない、正直な日本人の武士が描かれていることであろう。恐れも蓋恥心もない、まさにありのままの日本人の表情といってよい。それに何と丹念に白い絹地と笹や鹿などの模様が描かれていることか。腰の刀の鍔(つば)にもまた、伊達家の九曜紋がきっちりと描かれている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その忍耐強い、気負ったところのない正直な日本の武士として、常長は7年に渡る地球を半周する主命の旅を完遂したのである。

■5.熱狂的な歓迎

 1613(慶長18)年10月28日に月浦を出た使節船は、ちょうど3ヶ月かけて太平洋を横断し、翌年1月28日にメキシコ・アカプルコ港に入った。メキシコではスペインの副王が、南北アメリカとフィリピンを統治していた。到着の様子をスペイン側の記録はこう記述している。

__________
 王家の紋章を付け、輝くばかりに壮麗な船が、ローマ教皇聖下とカトリックのスペイン国王陛下のもとへ向かう日本からの大使たちを乗せてアカプルコ港に姿を現した時、裁判官や港湾管理長官たちは、使節の肩書に敬意を表して、できるだけ手厚くもてなすことにした。

 船が近付いて和平のしるしにたくさんの号砲を鳴らすと、港でも号砲を盛んに鳴らし、大勢の火縄銃兵も同じことをし始めた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 「王家の紋章」とは使節船の船尾に飾られた伊達家の九曜紋だろう。こうした大歓迎が、これから一行の立ち寄る各都市で繰り返されるのだが、その陰には政宗や常長、ソテロの冷徹な計算があったと思われる。

 まず、スペインやポルトガル両国は、軍事的にも経済的にもイギリス、オランダに追い上げられていた。それはローマ教皇から見れば、カトリックがプロテスタントに負けつつあるという事だった。そんな時に、地球の裏側の、それも大船を自力で作れるほどの文明国が、通商と布教を求めて使節を送り込んできたのである。

 スペイン国王、ローマ教皇、そして貴族階級から一般市民までが熱狂的に常長一行を歓迎したのは当然だろう。冒頭に述べたローマでの歓迎ぶりはその現れであった。

 また、ソテロというフランシスコ会の宣教師をもう一人の使節とした事も優れた手であった。

 日本布教の独占を崩されたイエズス会は「使節は単なる一地方の領主からのものだ」とか、「布教を求めるのは見せかけで、貿易だけが真の狙いだ」などと、スペインやローマで盛んに陰口を叩いたが、対立するフランシスコ会は自派の宣教師ソテロが加わっていただけに、一行を熱心に保護、支援したのである。

■6.常長とソテロの交渉ぶり

 メキシコの副王に対して、常長とソテロは今回の使節派遣の目的を次のように説明した。

・メキシコ交易の実現は日本に折衝を強めるオランダ、イギリスの勢力拡大を阻止する効力がある。
・日本側が造船する場合は経費を負担するため、スペイン側の出費の軽減につながる。
・メキシコの産金が必要とする日本産水銀の安価で大量の輸入が可能になる。
・キリスト教禁圧が進行する現在の日本で、この交渉が実を結んだ場合には、フランシスコ会ばかりでない他宗派への厚遇と恩恵の供与が約束される。

 このように貿易面、布教面でのスペイン側のメリットをきわめて実利的、論理的に説いている。これはソテロのスペイン側の実情に関する知識を基に、常長の相手の心理を洞察する鋭さが現れた交渉ぶりだろう。

 その上で、両者がメキシコ副王に誓願しているのは、同地からさらにスペインへ向かう旅の庇護と支援であった。というのは、その地の滞在費と次の目的地までの旅費は、その都度、滞在地の支援に頼らざるを得ないからである。逆に言えば、一行は各地において「庇護と支援」を受けることに成功しつつ、メキシコからスペイン、ローマまで辿り着いたという事になる。

■7.「大使の物腰から自ずと発せられる精神の輝きと思慮深さ」

 常長は、訪れる各地の人々に強烈な印象を残した。その人品への賛美が、そこかしこで語られている。

 たとえば、スペイン国王から「大使はローマに赴くのか」と質問された時に、常長は「その旅に出るために陛下のお許しと命令を待つのみです」と答えた。こんな返事をされて、喜ばない人間はいない。国王は、既に命令は発した旨を返答し、常長は国王の手に感謝の口づけを捧げたのである。

 国王はさらにローマ教皇に書簡を送り、一行は確かな使節であり、自分が便宜を与えたこと、教皇が大いなる慈愛と寛容をもって使節を受け入れていただきたい旨を記していた。

 スペインで国王に次ぐ実力者のレルマ公は「大使の物腰から自ずと発せられる精神の輝きと思慮深さを、絶え間なく看取しており、近年世界最果ての地から使節が訪問するのは、スペイン国王の王冠にとって大きな僥倖である」と再三繰り返した。

 マドリッドを発って、バルセロナへの途上、サラゴサでは同地の副王の宮殿で豪華なもてなしを受けたが、その後の懇談が2時間も続いた。そこでは常長はすべての質問において的確な返答を行ったため、副王は彼の賢明さと優秀さに驚嘆したという。

 ローマで常長を描いた油絵が、「何と忍耐強そうな、しかし気負ったところのない、正直な日本人の武士」として描かれているのは、こうした常長の人格から受けた感銘を表しているのだろう。

元和元年九月十五九月十二日(西暦千六百十五年十一月三日)にはローマ教皇パウルス五世に謁見した際に、支倉常長が鼻をかんだ懐紙がバチカンの人類博物館に展示されていたことがあるそうです。当時、西洋では手鼻かハンカチを使って鼻をかみ、懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられた為とか。日本人の生活習慣の優美さがわかるエピソードですね。また、「白地の和服に動物や鳥や草花の図柄が金銀の糸で刺しゅうされた豪華な衣装」や腰の刀やその鍔(つば)などの工芸品の素晴らしさにも感嘆されています。

「支倉常長像」ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。(Wikipediaより)

■8.地球史的偉業

 類い希な戦略と人品、そして7年をかけて地球を半周する粘り強さで、常長は元和6(1620)年9月に仙台に帰還した。しかし、その使節としての直接的な成果はほとんどなかった。日本では徳川幕府がキリスト教禁制を強めつつある様子が伝えられ、スペイン国王も大手を振って日本との通商を許せる状況ではなくなっていた。

 同時に、スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダを両天秤にかけていた家康が亡くなり、2代将軍秀忠は完全にイギリス・オランダ側についていた。スペイン・ポルトガルの経済も文化も衰退する中で、布教はせずに交易だけを求めるプロテスタント国があれば、日本としては十分であった。

 しかし、イギリスやオランダにも常長一行の情報は届いていた。一行がスペインに上陸した時点で、「大使は国王と教皇に2百万レアル以上に見積もられる豪華な贈り物を携えてきた」と驚く報告が、イギリスの国務大臣に寄せられている。

 さらに、常長らの行程を記録した書物が、その帰国前の1617年にドイツ語訳まで出版されている。日本からの使節到着は、当時のヨーロッパ全体を驚かせていたのである。

 自ら大船を造り、これほどの豪華な贈り物を携えた大使を送り込む日本の国力を、欧州諸国は畏怖の念をもって知ったであろう。オランダは日本との交易を長崎でのみ許されたが、そもそもオランダ船は各地で海賊行為を行い、フィリピンを武力で攻め立てたり、インドネシアで3百年も圧政を続けた事を見れば、オランダが平和的な国であるとは到底、言えない。

 そのオランダですら日本との交易で、大人しく長崎の出島に閉じこもって日本のルールに従っていたという事は、それだけ日本の国力に畏怖の念を持っていたからであろう。その畏怖の形成に、常長の渡欧が与(あずか)っていたことは想像に難くない。

 常長の渡欧は、大航海時代に世界を我が物顔で闊歩していた西洋諸国に対する非西洋諸国からの反抗の最初狼煙(のろし)であった。それは白人世界に対する本格的な反撃となった日露戦争と大東亜戦争の先駆けとも言える地球史的事件であったのである。

以上の日本人の武士の世界史的な偉業が教科書には掲載されていません。支倉常長が伊達政宗の命を受け出帆した簡単な紹介があるくらいです。

posted by at 23:05  | 塾長ブログ
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