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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 4

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、日々の学習の確認を送迎されるお母様方といたします。ご家庭で確認して頂くことや、復習すべきことなどをお伝えします。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

大航海時代に世界へ進出したポルトガルやスペイン。日本との最初の接点は、種子島にあります。

Topic 33 – The arrival of the Europeans

What impact did the European imports of firearms and Christianity have on Japanese society?

33 ヨーロッパ人の来航

ヨーロッパ人がもたらした鉄砲とキリスト教は、日本社会にどのような影響を与えたのであろうか。

Christian missionaries and the introduction of firearms

In 1543 (Tenbun 12), a Chinese junk sailing from Siam (modern-day Thailand) with Portuguese merchants on board was struck by a storm and shipwrecked on the southern Japanese island of Tanegashima (in modern-day Kagoshima Prefecture). These were the first Europeans to reach the shores of Japan. The lord who controlled the island, a member of the Tanegashima clan, paid them a hefty sum in exchange for two firearms, which he ordered his swordsmiths to carefully study.

In no time, Japanese swordsmiths were manufacturing their own firearms in various parts of Japan, such as Sakai (modern-day Osaka). The new weapons were highly sought after by the daimyo, and Japan quickly rose to become the world’s largest producer of firearms. The adoption of firearms by the daimyo dramatically changed battlefield tactics and served to hasten the process of national unification.

In 1549, six years after the introduction of firearms, the Jesuit missionary Francis Xavier1 arrived in Kagoshima in Kyushu, Japan, and worked to convert the local people to Christianity. Later, more missionaries came to Japan alongside Portuguese merchants and proselytized aggressively. Christianity spread rapidly, gaining an especially large number of converts in western Japan. The missionaries won the hearts of many Japanese through their charitable deeds such as the building of orphanages, and the daimyo prized the rare imports that Portuguese merchants brought in their wake.

*1=Francis Xavier was one of the founders of the Society of Jesus. He was running a mission in Malacca in the Malay Peninsula when he is said to have met a young Japanese samurai named Yajiro. Surprised by his remarkable intellectual curiosity, Xavier acquired an interest in Japan and became determined to do missionary work there.

鉄砲の伝来とキリスト教の布教

1543(天文12)年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって種子島(鹿児島県)に漂着した。彼らは日本に来た最初のヨーロッパ人だった。領主の種子島氏はポルトガル商人から鉄砲2挺を高額で買い取り、刀鍛冶に研究を命じた。

 やがて、堺(大阪府)など各地で刀鍛冶が鉄砲の生産を始めると、戦国大名たちが新兵器として盛んに買い求め、日本はたちまち世界一の鉄砲生産国となった。さらに戦国大名が鉄砲を採用したことは戦闘の方法を大きく変え、全国統一を早める結果をもたらした。

 鉄砲伝来の6年後の1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(*1)が鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。その後もポルトガル人の商人とともにやって来た宣教師たちは孤児院を作るなどして人々の心を捉えた。戦国大名は、ポルトガル商人がもたらす珍しい舶来品を珍重した。

*1=フランシスコ・ザビエルはイエズス会創立者の一人。マレー半島のマラッカを拠点にして布教活動をしていたが、ヤジローという日本人の青年武士に出会い、その旺盛な知識欲に驚いて日本に興味を持ち、布教する決意を固めたと言われている。

・・・ヤジローという日本人の青年武士との出会いによって、ザビエルは日本での布教を開始しますが、その布教の2年の間に、イエズス会への手紙の中で次のように記していました。

「彼らの大部分は読み書きを知っており,すぐ祈りの言葉を覚える」
「日本人よりすぐれている人々を異教徒の中に見つけることはできない。彼らは親しみやすく,善良であり、そして何より名誉を重んじる。人々の多くは貧しいがそれを不名誉とは思っていない」

そして、ザビエルは日本での布教の成功を期待しましたが、残念ながら「理性的な日本人」は、キリスト教の中に潜む不合理性を見過ごしませんでした。

たとえば、

・デウスが全能というなら、どうして今まで日本人には啓示を与えなかったのか、

・デウスを礼拝しないと地獄に堕ちるというなら、我々の先祖に啓示も与えずに地獄に落とすのは無慈悲ではないか、

と言うのでした。

当時の日本の一般大衆でさえ 、そのような宗教的な疑問を発するのですから、ザビエルや他の宣教師もタジタジになったことでしょう。それだけ日本人は世界的にも教育程度が高く、識字率も高かったのです。

それは、現在の日本人の子孫たちに受け継がれているはずです。

 

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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の体調を把握しながら、学習に取り組ませます。何よりも健康第一。大人も同様ですね。

さて、

『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

そもそも、ヨーロッパの白人国家からすると、遥か彼方にある極東の日本に何故やって来たのかを、説明している部分です。

Topic 32 – Europe’s global expansion

 What led the peoples of Europe to begin to explore the world?

32 ヨーロッパ人の世界進出 

 ヨーロッパ人は何故世界に進出し始めたのだろうか。

The Christian world and the Muslim world

In the Christian world of medieval Europe, the Catholic Church, led by the Pope in Rome, wielded tremendous power. At the same time, Arab Muslims were embarking on a wave of expansion and by the eighth century extended their control across the Mediterranean region from Western Asia to the Iberian Peninsula. In medieval times, the nations of the Muslim world were considerably more militarily, technologically, and culturally advanced than the Christian world.

Despite this, Christian forces succeeded by the late-fifteenth century in driving the Muslims from the Iberian Peninsula, which was then transformed into the Christian nations of Spain and Portugal.

At the start of the sixteenth century, German priest Martin Luther and others criticized the Catholic Church’s corruption and founded a reformist movement, in that individuals seek God directly through the Bible, without reliance on the Church hierarchy. This was called the Reformation and its supporters were called Protestants.1 The sudden rise of the Protestants shocked the Catholic Church, which launched its own internal reform movement. The Church founded the Society of Jesus,2 whose members were known as Jesuits, and made aggressive efforts to proselytize overseas.

*1=The Church of Rome was called the Catholic Church, meaning “universal church”, while the reformers were dubbed Protestants, meaning “those who protest”.

*2=The Society of Jesus, founded by Spaniard Ignatius of Loyola and six others, was one of the Catholic Church’s male religious orders. After receiving official recognition from the Pope, the Jesuits set up a base in Goa, India, and started missions across Asia.

キリスト教世界とイスラム教世界

中世ヨーロッパのキリスト教世界ではローマ教皇を頂点とするカトリック教会が絶大な権力を持っていた。他方、イスラム教徒のアラビア人も勢力を広げ、8世紀以降は西アジアから地中海を経て、イベリア半島までを支配した。この時代、イスラム教諸国は学問や芸術においても、軍事力においても、キリスト教諸国よりはるかに先進国だった。

しかし、イベリア半島では15世紀末に、キリスト教徒がイスラム勢力を追い出し、スペインとポルトガルが支配するキリスト教圏に戻った。

16世紀初め、ドイツのルターらがカトリック教会の腐敗を批判し、教会に頼らずに個人が聖書を通じて神と直接向かい合うべきだとする改革運動を起こした。これを宗教改革という。彼らはプロテスタント(*1)と呼ばれた。その勃興に危機感を持ったカトリック教会内部からも改革運動が起こり、イエズス会(*2)が創立されるなど海外への布教に積極的に乗り出した。

*1=宗教改革を求めた「プロテスタント(抗議する者)」は新教とも呼ばれ、これに対しローマ教会を総本山とする「カトリック(普遍)」は旧教と呼ばれることもある。

*2=カトリック男子修道会の一つ。創立者はスペイン人のイグナチウス・ロヨラら6人で、ローマ教皇の信任を得てゴア(インド)に基地を築き、アジア布教に乗り出した。イエズス会は「イエスの会」を意味する。

・・・現在の中近東の難民流出やヨーロッパ諸国への難民流入の急増やテロの問題の遠因は、この時代に始まっています。、現在の政治的な混乱や経済的な変動も、歴史を紐解くことによって、分析することが可能になります。

学校で歴史を学ぶ際に、現代との比較において歴史の意味合いや影響を教えてもらうと、子供達も興味を覚えるようになります。

The Age of Discovery

In the late-fifteenth century, Spain and Portugal commenced national efforts to expand overseas. Their desire to import goods from the East had been stymied by the naval might of Muslim countries, such as the Ottoman Empire, which held sway over the Mediterranean Sea. In Europe at that time, spices like pepper were in high demand as seasoning for meat, and though they could be bought from Arab merchants, they came at such a steep price that it was said that a gram of gold could purchase only a gram of pepper. Spain and Portugal wanted new trade routes to India where they could buy pepper directly.

Portugal attempted to find a sea route to India by sailing southwards along the west coast of Africa. By contrast, Spain sent Italian Christopher Columbus on a journey across the Atlantic Ocean as far west as he could go. The Age of Discovery began, and before long the Europeans were actively seeking to colonize Asia itself.

大航海時代

 15世紀末から、ポルトガルとスペインは国を挙げて海外進出を図った。オスマン帝国などイスラム勢力が地中海の制海権を握っていたので、東方への物資の輸入ルートが阻まれていた。当時のヨーロッパで肉料理の必需品は胡椒などの香辛料だった。それらをアラビア人の商人から購入しなければならなかったが、「金1g=胡椒1g」といわれるほど高価だった。両国は胡椒を直接買い付けるため、主要地インドへの新たなルートを求めた。

 ポルトガルはアフリカの西海岸を南下してインドへ向かう航路の発見に乗り出した。これに対してスペインはイタリア人のコロンブスを派遣して、大西洋をどこまでも西へと向かわせた。このようにしてヨーロッパ人がアジアへの植民地を求める大航海時代が始まった。

Spain and Portugal’s plan to partition the world

In 1492, Columbus arrived in the islands of the West Indies. Europe had “discovered” the Americas. Because Columbus was convinced that he had reached India, the indigenous peoples of North America continue to this day to be called “Indians”. Two years later, in 1494, Portugal and Spain, after intercession by Pope Alexander VI, signed the Treaty of Tordesillas, in that Spain and Portugal would divide the world into two hemispheres based on a line running down the middle of the Atlantic Ocean. According to the terms of the treaty, all lands discovered in the Eastern Hemisphere would belong to the King of Portugal, whereas the lands discovered in the Western Hemisphere would belong to the King of Spain.

In 1498, Portuguese explorer Vasco da Gama opened a new sea route to India by rounding the Cape of Good Hope on the southern tip of Africa and traveling along Africa’s east coast north to India.

ポルトガルとスペインによる地球分割計画

 1492年、コロンブスは西インド諸島に到達した。ヨーロッパ人によるアメリカの「発見」である。彼はそこをインドと信じ込んだため、北米大陸の先住民は今でもインディアンと呼ばれている。2年後の1494年、ローマ教皇は大西洋を東西に分け、東半球で発見されるものは全てポルトガル王に属し、西半球で発見されるものは全てスペイン王に属すると取り決めた。これをトルデシリャス条約という。

 ポルトガルが派遣したバスコ・ダ・ガマは1498年、アフリカ南端の喜望峰を経てアフリカ東岸を北上し、インドに到達する新航路を発見した。

・・・筆者は十代の頃世界史を独習している際に、ローマ教皇が世界を二分割するという傲慢さに憤慨した記憶があります。また、 Europe had “discovered” the Americas.という表現も、アメリカ大陸に従来から住む人々に対し失礼な表現です。時代とはいえ、力を持った者が全てを奪うという図式は、長い間非キリスト教・非白人国家を苦しめています。

トルデシリャス条約のオリジナル

トルデシリャス条約とは地球上に「デマルカシオン」という観念上の縦線、即ち子午線を引き、ヨーロッパ以外の新領土についてはその線(西経46度37分)を境に東側はポルトガル領、西側はスペイン領として分割するという条約です。

トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)の境界線

しかし、実際の地球は平面ではなく球体であり、東西は際限なく繋がっているため、縦線を一本引くだけでは分割は不完全です。もう一本縦線を引かなければ世界は完全には二分されません。実際、トルデシリャス条約では両国どちらの勢力圏内となるのか曖昧になっていた東南アジアでは、その帰属を巡って両国が熾烈な争いを繰り広げました。そのため1529年、地球上にもう一本の縦線(東経144度30分)を引きました。その根拠となったのが、新たに両国間に締結されたサラゴサ条約です。

16世紀の世界は、ヨーロッパや東アジアの日本や支那などを除き、その大半がトルデシリャス条約とサラゴサ条約という二つの条約によってポルトガル・スペイン両国の勢力圏内に置かれました。

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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、塾生が年代に応じた受験に取り組みます。目指すべき方針を決め、日々為すべき課題に自力でコツコツこなしていきます。

さて、『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

16世紀に来日したキリスト教の「宣教師の見た日本人」という外の目から見た日本というコラムです。

JAPAN AS SEEN THROUGH FOREIGN EYES ーHow Missionaries Saw the Japanese People

外の目から見た日本ー宣教師は(その当時の)日本人をどのように見たか。

An “outstanding” people with “fine dispositions”

In the sixteenth century, Christian missionaries who came to Japan were surprised to discover a proud and civilized people living on islands off the coast of East Asia. They were especially impressed by the absence of theft and high literacy even among Japan’s lower classes.

Father Francis Xavier wrote the following in a letter that he sent to a church in Goa, India:

“Of all the peoples I have encountered, the Japanese people are the most outstanding. Among the heathen peoples, I believe that none are greater than the Japanese. The Japanese people generally have fine dispositions. They bear no evil thoughts and are very pleasant to keep company with… Most of them are poor, but none among them, neither the samurai nor the commoners, see poverty as a disgrace.”

「傑出した国民」「良い資質」

 16世紀、日本にやってきたキリスト教の宣教師たちは、極東の島に思いかけず、文明化した誇り高い民族を発見して驚きました。何よりも、下層の日本人でさえ、盗みがないことや、読み書きができることに強い印象を受けました。

 神父ザビエル(筆者注1)は、ゴア(インド)の教会へ送った書簡にこう書いています。

 「日本人は私が遭遇した国民の中では、最も傑出している。異教徒の中で日本人に勝るものはあるまいと考える。彼らは相対的に良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じが良い。」「日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱と思っているものは一人もいない。」

 

Prosperity and sophistication exceeding that of Europe

Head Missionary Cosme de Torres stated that the Japanese led prosperous and self-sufficient lives:

“The prosperity of this country exceeds that of Spain, France, or Italy. Everything that the Christian nations have, so too do the Japanese have. I could not recount all their good qualities without running short of ink and paper.”

The more that Father Organtino learned of the Japanese people, the higher an opinion he held of them:

“We Europeans see ourselves as a sophisticated people, but compared to the Japanese, I believe that we are utter barbarians. Indeed, I must confess that I learn new things from them every day. There may be no other people in the world with so much innate talent.”

ヨーロッパをしのぐ豊かさと賢明さ

 布教長トルレス(筆者注 2)は、日本人の暮らしが自給自足していて豊かだと言います。

「この国の豊かさはスペイン、フランス、イタリアをしのいでいる。キリスト教国にある一切のものが、この国にある。彼らの長所を数えてゆけば、紙とインクの方が先に尽きてしまうであろう。」

 オルガンチーノ神父(筆者注3) は、日本人を知るにつれて、さらに高い評価をしています。

「私たちヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、日本人と比較すると、甚だ野蛮であると思う。私は本当のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はいないと思う。

 

The differences between Japanese and European culture

Still, not all the missionaries spoke well of the Japanese people. Head Missionary Francisco Cabral was a narrow-minded man who refused to ordain Japanese men into the priesthood or teach them Latin. He made the following callous remark:

“The Japanese converts in our order lead cooperative and obedient lives only because they have no other means of survival.”

However, Alessandro Valignano, a Jesuit Visitor from eastern India, removed Cabral for holding views prejudicial to the propagation of Christianity in Japan. According to Valignano:

“The Japanese are neither ignorant nor apathetic enough to kowtow to foreign domination. We have no option but to entrust the leadership of our churches in Japan to Japanese people.”

Father Luis Frois, author of the book The History of Japan, described a long list of stark cultural contrasts between Japan and the West, expressing particular confusion over the fact that, “Japanese people can cut off the head of a criminal without a second thought, but are astonished that we kill animals.”

For the missionaries, Japan was truly a mysterious country.

ヨーロッパと日本の文化の違い

ただし、誰もが日本人をよく言ったわけではありません。布教長カブラルは、日本人を司祭に登用せず、ラテン語も学ばせまいとした心の狭い人でした。彼は冷淡にこう言っています。

「彼ら日本人教徒が(修道会に入って)共同の、そして従順な生活をしているのは、ほかに生活手段がないからだ」

しかし、東インド管区巡察師ヴァリニャーノ(筆者注4) は、カブラルのような態度は布教の妨げになるとして解任し、こう述べました。

「日本人は、外国人の支配に耐え忍ぶほど無気力でもなければ無知でもない。日本の教会の統括は日本人に委ねるよりほかに考えるべきではない。」

『日本史』を書き残したフロイス神父は、日本と西洋が全く正反対である点を列挙して「日本人は罪人を平然と斬首するが、家畜を殺すと仰天する」と首を傾げています。

彼らにとって日本はやはり「不思議の国」だったのです。

・・・現在の中学生が学ぶ歴史教科書では、この自由社の歴史教科書は全国的にほとんど採択されていません。しかし、多くの中学生が用いているもので、安土桃山時代の近世の歴史を多角的に、且つ興味深い挿話を入れて説明している教科書は、なかなかお目にかかれません。

因みに、日本に来た宣教師たちの人となりや、その後の話など、よほどの歴史の先生でない限り触れることはないでしょう。興味のある方は、下記の筆者注をご覧ください。長崎との関わりなども触れられています。

 

ザビエル

(筆者注1)Francisco Xavier(フランシスコ ザビエル)

1506年4月7日、スペイン バスク地方ナヴァーラ王国、ザビエル城で裕福で敬虔な貴族領主の5人の末子として出生。6才の時父を亡くし兄弟も家を出たため孤独な少年期を過ごす。彼の生涯は孤独と劣等感との闘いであった。彼の篤い信仰と神への信頼は強く困難に立ち向かう精神力は持っていた。情熱と喜びをもって旅を続けることが出来たのは幼少期の経験からきたものである。イエズス会設立者(7人)の内の一人、

(筆者注2) Cosme de Torres(コスメ デ トルレス)

(1510年 ~ 1570年10月2日)スペイン・バレンシア出身、1546年モルッカ諸島でザビエルと出会いインドのゴアへ行き司祭となる。ザビエル や日本人ヤジロウと共に日本へ出立し1549年8月15日鹿児島に到着。都へ向ったザビエルと別れてトルレスは平戸に残り、1551年にザビエルがインドへ向けて日本を去ると布教の責任者になる。ザビエルが去る時後を託されて死ぬまで日本に留まり宣教活動を続けた。琵琶法師であったロレンソ修道士などの協力を受けて山口や九州の各地でキリスト教は広まった。山口では6年にわたり布教し2000人の信徒を得た。1556年山口を去り豊後の府内へ移る。1559年都での布教のためガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。織田信長の支援を受け畿内での宣教は進んだ。1563年には大村純忠に洗礼を授け日本初のキリシタン大名が生まれた。1570年6月に新しくフランシスコ・カブラル神父が派遣されると間もなくトルレスは1570年10月2日天草で死去した。

(筆者注3) Organtino Gnecchi‐Soldi(オルガンティーノ ニェッキ ソルディ)

(1533 ~ 1609年4月22日)北イタリアのカストで生まれ。22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後日本に派遣された。1570年6月18日天草に上陸後、ルイス・フロイスと共に都での宣教を行った。1577年から30年間都での布教責任者をつとめた。明るく魅力的な人柄から日本人に好かれ布教にも大いに役立った。30年以上日本で衣食住すべて日本人と同じように暮らし日本を深く理解し愛した。オルガンティーノは1576年にともに都に住んでいたフロイスと教会(南蛮寺)を建立。この教会は敷地が狭いため三層にせざるを得ず周囲を見渡すことができるほどの高さで威容を誇った。1580年には安土で織田信長から与えられた土地にセミナリヨを建てた。本能寺の変後安土城は破壊され城下のセミナリオも放棄された。信長の死後1582年未だキリシタンへの対応は寛大で1583年に大阪城に秀吉を訪問すると歓待を受けた。高山右近の城下高槻に新しい土地を得てセミナリオは設置された。1587年に最初の禁教令が出されると、都の南蛮寺は打ち壊された。オルガンティーノは右近とともに 小西行長の領地小豆島に逃れた。翌年 右近が加賀前田家に行くことになると、オルガンティーノは九州に向かった。1591年天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしで再び京都在住をゆるされた。1597年、日本二十六聖人が京都から長崎へ向かう際に拷問を受けた時には、彼らの遺物を受け取っている。その後長崎へ行くが1609年76才で病死する。

(筆者注4)Alessandro Valignano(アレッサンドロ ヴァリニャーノ)

(1539年2月15日 ~ 1606年1月20日)イタリアナポリ王国のキエーティで貴族の家に生まれ、パドヴァ大学で法学を学び1566年にイエズス会に入会した。1570年叙階、1571年から修練院で教える。1573年、東インド管区の巡察師になる。1574年3月21日にリスボンを出発し、同年の9月にゴアに到着、管区全域を視察。インドの視察を終えた後1577年9月にゴアをたち10月19日マラッカに来る。1578年9月、マカオに到着、中国での宣教のためにミケーレ・ルッジェーリ Michele Ruggieri が派遣されて来ると、後を彼に任せて1579年7月日本へ出発した。巡察師としての彼の役目は各地の布教地でのイエズス会の活動を視察し問題があれば会の規約を正すなどして解決する権限を持っていた。1579年7月25日九州の口ノ津に着く。1579年来日後間もなく信長に初めて接見する。1582年まで滞在する間、生活物資は現地調達で賄い、主従関係の厳しい日本の階級社会に合わせて領主や上級武士を信徒にすれば布教は進むことを学んだ。これが「適応主義」と呼ばれる方法でり、自らをその地の文化と風習に適応させるという方法である。1581年、”Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone”「日本布教のための儀典書」を記した。彼は当時の日本では人を身なりや外見で判断することを悟り、日本人たちと同じように振舞うべきだと考えた。城での大名との会見の際は彼らは最上の身なりで従者を従えて歩いた。このことが傲慢で贅沢であるとヨーロッパで非難されることにもなったが、日本人からは歓迎され大いなる信頼を得た。1580年、肥前有馬と近江安土に小神学校(セミナリヨ Seminario)、1581年に豊後府内に大神学校(コレジオ Collegio)、そして1580年に豊後臼杵に入会希望者のための修練院(ノヴィシャド Noviciado)を創設した。1581年夏、織田信長との安土での最後の謁見では、天守は提灯の明かりで照らされるなか迎えられ、贈られた安土城の屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されることになった。1582年、天正遣欧使節を計画しイエズス会員に伴われた 4人の少年たち (伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパへ出発、ヴァリニャーノはゴアまで付き添って行き彼らの帰国する時までゴアに残る。使節団は各地で大歓迎を受け教皇謁見の際にも温かくもてなされた。少年たちは8年にわたりヨーロッパに滞在するうち西欧流の教養を身に着け立派な大人に成長していた。1590年、帰路ゴアに立ち寄った遣欧使節と合流し再び来日、1591年に青年たち遣欧使節と聚楽第で秀吉に謁見した際、西洋の楽器を演奏し太閤も満悦であった。また初めて活版印刷機を持ち込み、「キリシタン版」とよばれる書物を印刷した。この時の訪問は1592年10月まで続き国内を自由に旅することが許された。1598年最後の来日、「適応主義」のイエズス会と従来のヨーロッパ方式であるフランシスコ会、ドミニコ会との間に起きていた対立問題の解消に努めた。1603年日本を去り、3年後にマカオで死去した。

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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、年齢や学年を超えて同時に学ぶ機会があります。謂わば、子沢山の大家族の中で学ぶようなものです。そうすると、年下の子が年上の子から学び、年上の子は年下の子の手本になろうとする雰囲気が生じてきます。

さて、文部科学省が提唱する「合教科型」の見本のような資料を発見しました。

「史実を世界に発信する会」http://hassin.org が、近現代史に関する有用な日本語文献を英訳し、これをWeb上で無料で公開することを目的に、資料を英訳版と日本語版で公開しています。

その中で、福澤諭吉に関する記述がありましたので引用してご紹介します。

福沢諭吉の『学問のすすめ』と「脱亜論」というコラムの英和対訳です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%203,%204.pdf

PERSONALITY PROFILE
Fukuzawa Yukichi, Author of An Encouragement of Learning and Leaving Asia
Why did Fukuzawa Yukichi, who once argued that Japan should ally with Korea and Qing China to counter Western expansionism into Asia, later pen the essay Leaving Asia?

人物紹介

福沢諭吉は、学問のすすめと脱亜論の著者。日本・朝鮮・清国の三国が、連帯して西洋のアジア進出に対抗することを主張してきた福澤は、なぜ、のちに「脱亜論」を書くことになったのだろうか。

Independent individuals and national independence

「一身独立して、一国独立する」

Fukuzawa Yukichi was an enlightened thinker active in mid to late-nineteenth century Japan. In 1872 (Meiji 5), he wrote the influential work An Encouragement of Learning, which contained one of his most famous maxims, “National independence cannot be achieved without independent individuals.” What Fukuzawa meant was that Japan could never stand equal with the Western powers and be truly independent until every Japanese citizen became imbued with his own spirit of independence. An independent individual, Fukuzawa pointedly argued, would not be content to simply leave political affairs to the elites and blindly follow their dictates.

“Those who lack an independent spirit feel no shame when they should feel shame, fail to speak out when they should speak out, and meekly stoop before everyone they see. It has been said that these attitudes are acceptable amongst our fellow Japanese, but in our present era of vigorous interaction with foreign countries, they are not merely a loss to the individual, but a loss to the whole country. They are not merely a shame to the individual, but a shame to the whole country.”

福沢諭吉は、幕末から明治30年代にかけて活躍した啓蒙思想家です。福澤は、1872(明治5)年に『学問のすすめ』を発表し、「一身独立して、一国独立する」という名言を残しました。日本人一人ひとりが独立心をもつことが、日本を西洋列強と対等に付き合うことができる、自立した国家にするもとだ、というのです。福澤は、政治はお上がするものとし、そのいう通りにすればよいと考える、独立心のない人々を批判して、こう書きました。「独立の気力なき者は、恥ずべきときに恥じず、論ずべきときに論ぜず、人さえ見ればただ腰を屈する。国内のことならばそれでよいとしても、いま外国と交わるの日においては、一人の損失、一人の恥辱では済まない。それは一刻の損失、一国の恥辱である。

上記は、『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter4 Section3,4の英和対訳部分です。詳細は、上記のサイトをご参照ください。中学校の歴史教科書として、各地で採択されている無味乾燥な歴史教科書と比べ、非常にわかりやすく歴史的事象や人物にも焦点を当てている、大人の読み物としても面白いものです。熟読されると納得がいくと思います。

posted by at 23:38  | 塾長ブログ

中国人留学生によって破壊され続ける学術の殿堂

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、各年代に応じて其々の課題をコツコツとこなしていきます。何年後かには、自らが望む進路へ進むことが出来る様に成る可く。

知っておくべき実態の一端を示す記事がありましたのでご紹介します。

「中国ガン・台湾人医師の処方箋」(林 建良著)(並木書房)

中国人留学生・「本物かどうか」からチェック

 少子化になって、全入になった日本の大学も経営難に陥り、中国人留学生の存在が大学経営の下支えとなっているだけに、どの大学も中国人留学生を積極的に受け入れている。台湾でも同じような事情だ。しかし、中国人留学生が増えれば増えるほど、問題も増えてくる。

最初にぶつかる問題は、まずその留学生が本物かどうか、である。
どの国でも留学申請に必要な書類がいっぱいある。卒業証書から成績証明、住民票、身元保証人の納税証明書、同意書などいろいろある。他国の言語で記された書類だから、現地で発行する英語版の書類を取り寄せるか、日本語に翻訳して裁判所の認証を得なければならない場合も多い。

ところが、中国人留学生の場合はこれらの書類が偽物である可能性が少なくない。少なくないというより、卒業証書をはじめ成績証明書も裁判所の認証さえも偽物だらけと言った方がいいだろう。偽物作りの天才である中国人が作った書類を、大学側が見破るのは至難の業である。

日本人の感覚として、いくら精巧な偽物とはいえ、やはり本物ではないのだから違いはあるはずだと考える。しかし、中国人の発想は違う。偽物とはいえ、発行元は本物と同じ偽物が多いのだ。それはどういうことかいうと、日銀が偽札を刷っているようなもので、中国の大学や高校が本当に作った卒業証書なのだ。ところが、その高校や大学にその学生は在籍していないのである。

ある中国系の報道でも「中国の大都市や地方都市では街中にある壁のいたるところに『ニセ学位売ります』の貼り紙がある。その相場は二百元(約二千八百円)から三百元(約四千二百円)ほど。さらに費用を上乗せすれば成績表や学籍簿まで偽造することができる」と伝えている。

チャイナウォッチャーの宮崎正弘氏は、北京大学、精華大学、上海交通大学といった中国の有名大学まで、偽卒業証書の発行を副業としていると指摘しているが、似たような偽の書類はいくらでもある。市役所から出した偽の出生証明や身分証明書などがあり、一体どのようにして検証すればよいのかと世界各国の大学当局は頭を抱えている。

日本国内の名所・旧跡などの観光地には、近年夥しい数の外国人観光客が来ます。読者の皆様も経験されたされたことがあるでしょうが、その中には顰蹙する外国人の集団を目にすることが多々あります。日本人は、歴史的にみても宗教的、人種的な差別意識の少ない民族です。しかしながら、余りの傍若無人振りに閉口して、その場を離れたり、顔を顰めてしまう人もいます。

京都や奈良などの神社・仏閣で、親子連れやカップルが、人目もはばからず行動するのを見ては言葉も出ません。此れに比べると、日本人の振る舞いの良さは際立ちます。

中国人留学生が消える

偽物の留学生だから、本気で勉強するために来日するわけではない。中国人留学生の失踪事件が後を絶たないのは、そのためだ。彼らは大学に籍を置きながら、金稼ぎにいそしんでいる。実際、読売新聞は次のように報じている。

《青森大学(青森市幸畑)が二〇〇八年度から一〇年度にかけ、通学実態のない計百二十二人の留学生を除籍処分にしていたことが、同大への取材でわかった。
大半が中国人だった。同大から報告を受けた仙台入国管理局が調べたところ、約九割が県外に居住し、就労していたことも判明。仙台入管は就労目的の偽装留学とみており、同大は受け入れ態勢の見直しを進めている。》(二〇一一年一月一日付「偽装留学? 青森大が百二十二人除籍 県外就労九割」)

中国人にとって留学とは、日本に入国する手段の一つに過ぎず、密入国の中国人たちと何ら変わりはない。中国人留学生の失踪事件が後を絶たないのはそのためだ。同じような失踪事件は、アメリカ、ヨーロッパなどでも大きな問題になっている。

「名利双収」という中国的欲望

金がすべての中国人だが、例え偽卒業証書でも、留学したのだから、大学に入った以上は金稼ぎだけでなく、学位をもらわなければならないと考える。その中国人的「名利双収」(名誉も利益も手に入れる)の欲望から生じた問題は、世界の大学を悩ませている。それが学位論文盗作問題である。

そもそも、偽書は中国の伝統と言ってよい。そのため、書物が本物か偽物かを検証する学問もできているぐらいである。今でも中華人民共和国新聞出版総署は毎年、偽書を公表している。

また『中国偽書綜考』({ケ瑞全・王冠英 他編、黄山書社、一九九八年 )によると、『周易』、『尚書』、『詩経』、『周礼』、『礼記』、『春秋左氏伝』(春秋公羊伝・春秋穀梁伝)、『論語』、『孟子』、『墨子』、『韓非子』、『山海経』、『孫子』『孔子家語』は全て偽書だという。恐ろしいという他ない。

偽物が当たり前のように存在している中国から出てきて、平気でウソをつく中国人だから、論文の盗作ぐらいはなんとも思っていない。やらない方がバカだと考えるのだ。報道されているだけでも、広島大学や筑波大学では、中国人留学生たちの論文盗作問題で学位を取り消すケースが出ている。もちろんこれは氷山の一角でしかない。

学位論文の次は卒業となるが、ここでも中国人留学生は偽の卒業証明書や単位取得証明書を平気で使う。産経新聞が次のように報じている。
《偽の大学卒業証明書を使い国外でも書類が公的文書と認められる「公印確認」を受けようとしたとして、警視庁麹町署は、偽造有印私文書行使の疑いで、横浜市青葉区松風台、日本経済大学1年の中国籍、李雪謙容疑者(22)を逮捕した。

同署によると、李容疑者はインターネットの在日留学生交流サイトを通じて敬愛大学(千葉市稲毛区)の偽造卒業証明書などを入手。「早く国に帰りたかった。親の期待を裏切りたくなかったので大学を卒業したことにしようと思った」などと容疑を認めている。

逮捕容疑は七日、偽造の卒業証明書や単位取得証明書を外務省領事局に提出し、公印確認を受けようとしたとしている。書式などが微妙に違うため不審に思った同省が敬愛大に確認、犯行が発覚したという。

同署によると、李容疑者は平成二一年年一〇月に来日。語学学校に通った後、今年四月に日本経済大に入学していた。》(二〇一一年十二月九日付「偽の大学卒業証明書で「公的確認」 中国人留学生を逮捕」)

このような事実に鑑みると、日本人の子供達が本来受けるべき高度な教育の場に、本当の教育レベルに達していない外国人が多数紛れ込み、結果として日本人の子供たちの教育レベルを上げることの妨げになっているということになりかねません。

推薦状の九〇%は偽物

アメリカの大学も、中国人留学生の盗作やカンニングなどで悩まされている。
インスティチュート・オブ・インターナショナル・エデュケーションによると、二〇一〇年から二〇一一年にかけて、アメリカに留学した学生の数は七二万三二七七人となっている。実にその二二%の一五万七五五八人が中国人留学生で、断トツの一位だ。そしてインド(十万三八九五人)、韓国(七万三三五一人)、カナダ(二万七五四六人)、台湾(二万四八一八人)と続く。日本は二万一二九〇人と第七位だ。

しかし、日本と同じように「入学時に必要な小論文は仲介業者が代筆したもので、推薦状も偽造のものばかり……。入学した後も規則を破ったり、カンニングをしたりと、教授も米国人学生たちも中国からの留学生に手を焼いている」(二〇一二年一月五日「クーリエ・ジャポンの現場から米国の大学を悩ませる中国人留学生」)という。

さらに、アメリカの中国人留学生の本当の姿を伝える恐るべき報告がある。「ニューヨークタイムズ」の記事を「クーリエ・ジャポン」が紹介している。
《中国人留学生を受け入れるコンサルティングを行っているジンチ・チャイナ社は二〇一〇年、米国への留学が決まった二百五十人の北京の高校生とその両親、そして十二の斡旋業者を対象に行った調査の結果を発表した。

その結果は、志願者の九〇%が偽の推薦状を提出し、七〇%が他人に小論文を書いてもらい、五〇%が高校の成績表を改竄し、一〇%が受けていない学業の賞や事実に反する業績を挙げていた。米国への留学生が増えれば「入学願書を偽造する動き」は増えると報告書は予測している。》(二〇一二年一月二十七日「クーリエ・ジャポン論文盗作にカンニング、英語が通じない……米国の大学を悩ませる『中国人留学生』」)
やっぱりというべきだ。

ちなみに、中国でも似たような調査結果がある。湖南省と湖北省の規律委員会の調査によると、修士や研究員の学歴詐称は全体の八〇%、大卒の詐称は五〇%にものぼるという。中国では習近平の博士号の真偽について、様々な憶測が飛び交っている。一般人から国の指導者まで偽物なのだ。

中国人留学生によって破壊され続ける学術の殿堂

このように中国の虚偽体質は、中国人留学生というガン細胞を通じて世界に広げられているから性質(たち)が悪い。

フランス南部の国立トゥーロン大学では、中国人留学生らが金銭を払って学位を不正取得していたことがフランス政府の調査で発覚している。中国人留学生が「元締」となって、大学当局から学位を一件当たり約二千七百ユーロ(約三十五万円)で買い、不正取得は数百件に及んでいた。読売新聞はそれを次のように伝えている。
《司法当局は、不正が過去四~五年にわたって行われたとみて、過去五年分の全中国人留学生の試験の答案を押収した。仏西部ポワティエ、ラロシェル、ポーなどの大学でも捜査が進んでいる。

仏紙ル・モンドによると、トゥーロン大経営管理学校の校長は検察に対し、今年初頭に中国人学生から〝一〇万ユーロ(約一三〇〇万円)で約六十人の中国人学生のための修了証書を買いたい〟持ちかけられたことを認めた。証書は一枚あたり二七〇〇ユーロ(約三五万円)前後で取引された。

同大には約六五〇人の中国人が在籍するが、昨年九月に入学した中国人留学生の多くはフランス語が全く話せず、仏国民教育省が〝中国国内で仏語の能力証明書が偽造された可能性がある〟との警告を全仏の大学学長に発していた。》(二〇〇九年四月十六日付「【フランス】金に物言わせ中国人留学生、国立大学の修了証三五万円で取引か 数百人が不正の疑い」)

これが中国ガンの遠隔移転の留学生版だが、こうして世界中の学術の殿堂が中国人に蝕まれ、破壊されてきた。そして、今も破壊され続けているのだ。

このような実態を把握しているか否かは不明ですが、日本の文部科学省は、積極的にChineseの学生の留学を推進し、更に不必要な学費免除や無償の奨学金まで支給している実態があります。何よりも日本人の若者に就学機会を与え、学ぶ為の経済的な障害を取り除くべきであるにも拘らず、です。

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