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「日本にない危機感『国家的油断』が日本人の学力低下を招く」

大学入試改革のニュースが再三メディアに掲載され高校の先生方もそれに翻弄されながら対応に苦慮されているようです。長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、変化には対応しますが、文部科学省の所謂「加計(かけ)学園の獣医学部新設計画」について衆参両院で閉会中審査(平成二十九年7月10日)が行われた様を見る限り、文部科学省の推進する大学入試改革は大丈夫なのだろうか、と思わざるをえません。

その不安を鋭く指摘している産経新聞「正論」(2017.7.10)の記事があります。http://www.sankei.com/life/news/170710/lif1707100007-n1.html

抜粋し引用します(尚、太字は筆者が入れております)。

「中韓を侮るな!日本にない危機感『国家的油断』が日本人の学力低下を招く」精神科医・国際医療福祉大学教授、和田秀樹

 私がそれ以上に油断していると思うのは、日本人の科学技術や学力について、国がほとんど危機感を持っていないことである。「ゆとり教育」を撤回したので、それで大丈夫だと思っている節がある。

 

■中国にかなわない科学の影響力

 この6月、文部科学省所管の科学技術振興機構の調査結果が発表された。

 他の論文に引用された回数から、影響力で上位10%の論文を発表した学者がどこの国に属するかの調査だが、それによると中国がコンピューター科学・数学、化学、材料科学、工学で世界トップに立ち、主要8分野のうち4分野が中国、残りの4分野はアメリカがトップになっているという。日本はほとんどの分野で5~6位に甘んじている

 中国や韓国が「ひっくり返っても日本に勝てない」という楽観論はいまだに根強くある。経済については「悲観心理」が余計に不況を引き起こす側面があるので、楽観を抱くことにはある程度、意義もあろう。

しかし、研究や教育に関しては「まだ大丈夫だ」という油断がレベルダウンに直結してしまう。

 日本は毎年のようにノーベル賞を取るが、中国は取れないということを根拠に、そういうことを言う人が多い。しかし、ノーベル賞の多くは10年、場合によっては何十年も前の業績を対象にしたものである。その時代の日本の科学技術の水準の高さを示すもので、現在の水準を示すものではない。

 東大卒や東大教授が、受験に受かったときや教授になったときは優秀であるかもしれないが、その10年先、20年先の学力の高さは保証されるものではない。その後、ろくに勉強しなければ、ただの人である(東大教授になってしまえば論文を書かなくても定年までクビにならない)

 

■いまの大学入試は適切か

 かつて日本のスーパーコンピューターの性能が世界1位だったころ、「2位ではいけないのか?」といって科学研究費を削減しようとした民主党のリーダーがいた。現実には2013年から中国が1位になり、日本は2位にすら入っていない。

 中国の研究費は約38兆円で日本の2倍になっているが、国力の維持のために、何をおいても日本はもっと多くのお金をつぎ込むべきだろう。

 また、各種調査で子供の勉強時間が、中国や韓国の子供と比べて、はるかに少ないことが明らかになっている。

 1990年代の半ばに、日本の平均的な中学生の数学力が韓国や台湾に抜かれた。そのとき、「このままでは20年後には、日本がITなどの分野で韓国や台湾に抜かれかねない」と私が主張したら、当時の学者や文部省から一笑に付され、2002年からは逆に「ゆとり教育」が導入された。

 その後、iPhoneを台湾が作り、台湾の会社がシャープを買収し、日本のスマホやパソコンは韓国のサムスンに勝てないという事態が生じている。

 現在の日本人はペーパーテスト学力は高いが、表現力や創造性が足りないという理由で、20年度からは全ての国立大学をAO入試化するような答申が出され、施行の方向に向かっている。

 しかし、私には日本の子供のテスト学力が高いとはとても思えない。少子化や大学定員の増加でむしろ学力は下がり続けている。中国やアメリカをはじめとする欧米諸国では、初等・中等教育はむしろ詰め込み教育にかじを切り、表現力や創造性のトレーニングは大学に入ってから本格的に始める

 しかし、日本は大学教授が審議会の委員を握り、自分たちの保身のため大学教育を変えようとせず、大学入試のほうを変えようとする。本当にこれで大丈夫だと思っているのだろうか。

・・・的確な指摘に、大学改革を提唱する教育審議会のメンバーの方は、どのように応えるのでしょうね(無論、このような意見は歯牙にも掛けないでしょうが)。実際、県立高校の先生方のお話を聞く機会が有りますが、その言葉の端々に基礎学力の無い生徒への対応に苦慮されていることがわかります。

「各種調査で子供の勉強時間が、中国や韓国の子供と比べて、はるかに少ないことが明らかになっている。」ことや「日本の子供のテスト学力が高いとはとても思えない。少子化や大学定員の増加でむしろ学力は下がり続けている。中国やアメリカをはじめとする欧米諸国では、初等・中等教育はむしろ詰め込み教育にかじを切り、表現力や創造性のトレーニングは大学に入ってから本格的に始める。」という指摘には、改めて基礎教育(読み・書き・算盤)について再考するべきでは無いかと考えます。

そもそも、かって「詰め込み教育」の弊害を無くせという非難の嵐の中で現在の「大学入試センター試験」の前身の「共通一次試験」が開始された経緯を知る筆者からすると、四十年余経過しても却って基礎学力の低下を招くという目も当てられない結果しか産んでいないことがわかります。

結局、我が子の教育は親御さんが工夫して力をつけていくしかありません。

posted by at 12:01  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 23 神武天皇以後の人物群像

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、教科書に書かれていないことでも大事なことは教える工夫をしています。知識欲旺盛な子供さんは、学校での学習内容を超えて学んでいきます。

さて、今回は「神武天皇の國家建設」以後の歴史上の人物たちの群像です。

先にご紹介していました「少年日本史」(平泉澄著)。
現在学校で用いられているどの歴史教科書よりも格調高く日本の國史を紐解かれています。その「神武天皇」以後の「皇紀の(上)」をご紹介します。

「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)15頁〜19頁

少年日本史 皇紀(上)

 

「神武天皇が、実に重要な、そして偉大な御事業であったに拘らず、正確に、また詳細に、分からないところがありますのは、その當時の記録がないからです。

何故その當時の記録が無いのか、と云えば、不幸にして其の頃の我が國には、文字が無かったからです。

日本人の中に、文字を發明するものが無く、また外國から、文字を輸入する事も無かったからです。

 支那には、文字が、古い時代に發明せられ、書物が古くから作られていました。

それが朝鮮に傳わり、朝鮮から我が國へ入ってきたのは、應神天皇の御代(みよ)であったと傳られています。

卽ち應神天皇の十五年には阿直岐(あちき)、十六年には王仁(わに)、二十年には阿知使主(あちのおみ)等が帰化して學問を傳えました。

王仁は、漢の高祖の子孫で、西文氏(かわちのふみうじ)の先祖となり、は阿知使主(あちのおみ)は後漢の靈帝(れいてい)の子孫で、東文氏(やまとのふみうじ)の先祖となり、學問を以って、朝廷にお仕えしましたので、それからは記録が出来たでしょうが、それまでは只の言葉で云いつたえて来ただけです。

口傳(いいつたえ)だけとなれば、今日から考えると、非常に頼り無い氣がしますが、それは記録が發達し、文字に賴る事になった爲に、却って記憶力が衰えたからで、文字に賴らない人は、今でも記憶力の非常に強く、むつかしい事を能く覺えているのに驚く事があります。

殊に太古(おおむかし)には、語部(かたりべ)というものがあって、物語を暗唱して傳える事を、本務とし、専門としていましたから、たとえ文字が無いにしても出来事の大筋は、云いつたえられて来たでしょう。

それが應神天皇の御代から、段々文字に寫されて、記録が出来て来たでしょう。

それを整理して、我が國の歴史をまとめようとされたのは、推古天皇の二十八年に、聖徳太子が、天皇記・國記その他の歴史をお作りになったのが、最初(はじめ)でした。

その天皇記や國記等は、皇極天皇の御代(みよ)に、蘇我氏の亡びた時、蘇我氏の爲に焼かれましたが、一部分だけは、火の中より取り出されて、朝廷へ戻りました。

然し何分にも、それは不完全であったし、また諸家に傳わった記録には、色々誤りがあったので、第四十代天武天皇は、是等を整理し、昔からの口傳(いいつたえ)を秩序立てて、これを稗田阿禮(ひえだのあれ)に記憶せしめられました。

稗田阿禮は、勅命(ちょくめい)を受けた時に、年は二十八、生まれつき聰明(そうめい)で一度見聞した事は、二度と忘れぬ人でした。

然し此の人の壽命にも限りがあるので、第四十三代元明天皇は、漢字漢文の教養の深い太安萬侶(おおのやすまろ)に命じて、稗田阿禮の暗唱する所を、文字に記録させられました。

數箇月かかって、和銅五年(西暦七一二年)正月、それが完成して獻上せられました。

是が有名な古事記で、上中下の三巻に分かれています。

古事記は古い口傳(いいつたえ)を本にしたものですが、是れとは別に、聖徳太子以来の歴史家の努力があって、外國の歴史を参考し、諸家の記録を整理し、之によって口傳(いいつたえ)に缺けていた年月を補い、我が國の歴史を大成する計畫が進められていました。

それが第四十四代元正天皇養老四年(西暦七二〇年)五月に出来上がって、総裁舎人親王(とねりしんのう)より献上せられました。

日本書紀がそれであります。

内容も詳しくなって、全部で三十巻あります。

是れは正史として、非常に重んぜられました。

その後、その續篇がつぎつぎに作られ、續日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(にほんこうき)、續日本後紀(しょくにほんこうき)、文徳實録(もんとくじつろく)、三代實録(さんだいじつろく)とつづき、日本書紀と合わせて、六國史(りっこくし)と呼ばれるようになりました。

 かように我が國の歴史を書いた書物の、一番古いのは古事記であり、それについで古いのは日本書紀ですが、古事記は第四十三代元明天皇の御代に作られ、日本書紀は第四十四代元正天皇の御代に完成したのですから、神武天皇との間に、天皇の御代(ごだい)にして四十數代のへだたりがあり、年月にして一千年前後の間隔があるとしなければなりません。

もっとも應神天皇の御代頃から、漢字を以って記録する事が、段々始まったとし、それが古事記や日本書紀の材料となったとしても、その應神天皇は、第十五代の天皇ですから、神武天皇との間に、十数代のへだたりがあります。

その十数代の間は、記録が無くて、専ら口傳(いいつたえ)に寄ったとしなければなりませんから、建國當時の事、人によって、傳えがまちまちであるのは、仕方の無い所でしょう。

そこで神武天皇の御東征も、安藝(廣島縣)に七年、吉備(岡山縣)に八年、御滞留になったと、古事記は傳えているのに、日本書紀では、前者を七十日ばかりとし、後者を三年とし、非常な相違が出て来るのです。

然し細かい點には、そのような違があっても、道順は同じであり、話の大筋は變っていませんから、大體は前に述べたような事であったとしてよいでしょう。

 只一つ困る事があります。

それは古事記には、御代々の天皇の御名(おんな)と、その御代の出来事が書いてありますが、それが何時の事で、そして次の記事との間に、幾年のへだたりがあるのか、が書いてありません。

つまり古事記は、物語としては、まことに面白いが、年表を書いて、年月順に整理しようとすると、それはできない仕組みになっているのです。

之にひきかえ日本書紀の方は、年月を明記してあって、時の流れと、出来事とが、ハッキリ分かるようになっています。

殊に神武天皇の御卽位を、辛酉(かのととり)の年、春正月朔日(はるしょうがつついたち)と明記し、それを基準にして、二年、三年とかぞえる事にしてあるので、その御卽位の年を、我が國の紀元元年(きげんがんねん)とし、之によって数えるのを、皇紀と云うのです。

その皇紀では、今年昭和四十五年は、二千六百三十年となっています。

 ところが、此の日本書紀の年立(としだて)に、困る事には、無理があるのです。

それは古い時代に、長壽(ちょうじゅ)の人が多いことです。

長壽と云っても、八十、九十ならば信用出来ますが、百数十歳、或いは二百数十歳で活動するとなれば、是れは疑わしいとしなければなりません。

そのような無理は、年立(としだて)を殆んど氣にかけていない古事記にも現れていますから、古事記や日本書紀の作られた時より、かなり前に、年立(としだて)の混乱があって、それが影響したのでしょう。

人によっては、古事記や日本書紀を貴ぶのあまり、その記事を鵜呑に呑込んで信用しようとする人もありますが、それは贔屓の引き倒しで、無理でしょう。

たとえば、神武天皇の御年、古事記には百三十七歳、日本書紀には百二十七歳とあり、第十代崇神天皇の御年、古事記は百六十八歳、日本書紀は百二十歳と記しているのです。

殊に甚だしいのは、第十四代仲哀天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御子でありますが、日本書紀の記事を、そのまま見てゆくと、日本武尊のお崩(かく)れになってより、三十六年後にお誕生になった勘定になるのです。

何としても、是れはあり得ない事ですから、日本書紀の年立てには、大きな無理があり、そしてそれが古事記にも影響を與えている所から判断して、この二つの書物の書きおろされるよりは、ズッと前に、年立ての混亂、或いは無理な年立てが行われたに相違ありません。

・・・このような歴史の経緯は、敗戦後の日本では、子供達に教えられることはありません。何故ならば所謂「唯物史観」を物差しに、偏向した歴史観に基づいた執筆者などによって教科書が記載されているからです。従って、二千年以上にわたり継続した独立国として世界史上稀有な存在である日本の正しい歴史を学ぶ機会を得られないことになっています。

posted by at 19:59  | 塾長ブログ

明治天皇御製   行 

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、良心的且つ啓蒙的なブログなどの記事を時々ご紹介しています。その一つが「一日一首 明治天皇御製」というブログ。http://www.mag2.com/m/0001343375.html?l=yxt059d94b#detailbox

「このメールマガジンは、明治天皇御製を、一日一首づつご紹介し、日々の心の糧としていただこうというものです。  『明治天皇御製』とは、明治天皇が詠まれた『和歌』のことです。明治天皇は、生涯およそ10万首の和歌を詠まれましたが、その中には人々の心の糧となる『やまとごころ』のエッセンスが溢れでています。」との紹介がとても優しいですね。

さて、

明治天皇御製

行   (明治37年 御年53歳)

 世の中の 人の司と なる人の 身のおこなひよ ただしからなむ

ブログ主催者の解説が下記です。

 

■御製を拝して

謹解「世の中の上に立つて人々を指導する人の行ひは正しく
あつて欲しいものである」

 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)といふ言葉があります。
「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務が
あるという、欧米社会における基本的な道徳観。」「ヨーロッパ社会
で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務がある
とする。」といふ意味でフランス語の成句でありますが、古代ローマ
繁栄の源泉として指導層の在り方を評した言葉でもあり、指導的立場
にある人々への戒めの言葉でもあります。

 明治天皇様の御製は、「司」とある所から、主に政府の高官につい
て述べられてゐるものと拝されますが、高位高官にあるものは身を慎
み行いを正しくして世の指標とならねばならない、御心が込められて
ゐるやうに拝されます。
 このことは、単に政府の高官といふだけでなく、広く社会で指導的
立場にある私人であつてもさうでせうし、更に言ふならば公的な責任
を任じる人々にも当てはまると思はれます。それは公務員といふばか
りでなく企業であらうが労働組合であらうが、何であれ人を導く立場
にある人々、といふことは子供を導く最初の教師である親も含まれる
といふことになりますので、殆ど全ての人々について当てはまるので
はないかと思はれます。
 これはほかならぬ教育勅語の「恭倹、己レヲ持シ」に通じるもので
あると思ひ当りました。昭和天皇に倫理学を御進講された杉浦重剛博
士が著された「教育勅語」御進講の為の教科書がありますが、そこに
は「恭倹」の字義について、次のやうに記されてゐます。

「恭とは、謹直にして、傲慢ならざるを云ひ、倹とは、節慾にして自己
の行為を制約し、放縦に流れざるを云ふ。財用を節するも、またその一
部なり。英訳文には恭をModesty、倹をModerationと訳せるも、この意
味にほかならず。
 恭倹の二字、ともに礼節の意味を含む。品性の崇高なる人は、何事に
も恭敬、謙譲の態度を以てこれに臨む。故に人をして奥床しき感を与へ、
尊敬の念を起さしむ。「みのるほど首をさげる稲穂かな」とは、恭敬の徳
を詠嘆せるものなり。
 倹の意義は、二様に解せらる。これを広義に説けば節慾、これを狭義に
説けば節倹とて、各自の分に応じて財を節用するを云ふ。」
 この一文を読み浮かぶものは、皇族方の御姿です。明治天皇様の御教へ
は、皇族の方々が体現されてゐると思つて間違ひないでありませう。
 國民は、その姿を拝して、身の行いの鑑として行けば、「恭倹己ヲ持シ」
て日々を送ることが出来るのです。

・・・日本人は、古来指導的な立場にある場合、陰日向なく正しい道を貫くことを目指して日々精進するという心持ちを常に持っていました。

昨今のマス・メディアに喧伝される人々は、本来は司(つかさ=政務を司るもの。役人、官吏)として人の手本となるべき人です。殊に、日本の教育行政を司る重責にある文部科学省の前文部次官の体たらくには愕然とするものがあります。

しかし、然は然り乍ら(それはそうだが)、多くの日本人は誠実に日々努力をし日本の発展に寄与しています。将来を担う子供達のためにも私達自身が努力しなければなりませんね。

posted by at 12:00  | 塾長ブログ

母の教えと教訓歌 13 二宮金治郎(尊徳)

現在の中学3年生以降が受験する平成32(2020)年度からの大学入試改革に関して、現行の大学入試センター試験に替わる「大学入学共通テスト(仮称)」(かつての「大学入学希望者学力評価テスト」)の実施方針や、個別大学の入学者選抜実施要項の予告が、近々正式に発表されるようです。長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、将来の変化にも対応するべく情報は常に収集していきます。

確かに社会の変化やそれにつれての入試制度の変化はいつの時代もあります。しかし、それに一喜一憂することなく、今何をなすべきかの連続が将来の自分を決定します。

当ブログ「母の教えと教訓歌 10 二宮尊徳」でご紹介した二宮金治郎(尊徳)の教訓歌の更なるご紹介です。

 丹精は 誰知らずとも 自ずから 秋の実りの まさる数々

「丹精*(たんせい)を込めて育てていると、誰が見ていなくとも作物は自然に成長し、秋には豊かな実りが得られるものである」 *丹精=物事を心を込めて行うこと。

国の根幹をなす農業や教育には共通項があります。

それは、農業は手入れの積み重ねが素晴らしい収穫を生み、教育は日々の精進や弛まぬ努力が目標を達成することです。共に、日々の努力の積み重ねが結果を生みます。

教育の成果を出すには、学ぶ本人の努力は勿論のこと、それを支える家族、殊に母親の存在とその努力が何より必要です。

二宮金治郎(尊徳)は、江戸時代末期の農政家。相模国(現在の神奈川県)の貧しい農民の子として生を受け、少年期に父母を失い、叔父の家に預けられます。食べることだけで精一杯の厳しい境遇にあって、必死に働き、その合間にも時間を惜しんで智慧を働かせ、叔父に隠れて学問をしました。

「本を読む暇があればその分働け」「学問より働くことが大事」「百姓には学問はいらない」との風潮の中、読書を表立ってすることはできません。それが後世の各地にある薪を背負って読書をする銅像につながります。

二宮金治郎(尊徳)は学問の成果と、彼の創意工夫により、災害で没落した生家を独力で再考します。その力を認められ、各地で家や農村の再建を依頼されます。彼の指導によって、財政再建、土地の復興に目覚しい成果を挙げ、その功績は時の幕府に知られることになり、老中水野忠邦から抜擢されて天領の運営を任せられることになります。

・・・現在の社会では、江戸期に比べると格段に良い生活環境があります。学ぼうと思えば、誰もが学ぶことができます。

しかし、不思議なもので与えられると却って学ぶ意欲が湧かない子供たちや若者がいます。なんでも当たり前に教科書やノートが有り、無い事の不自由さを感じないことがそのようにさせるのでしょう。やはり、知識欲も飢餓感がないと湧かないようです。

豊かさを享受できる日本では「学ぶ」有り難さを如何に子供たちに伝えるか、が大事です。

posted by at 13:08  | 塾長ブログ

集中力を育む

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、塾生の長短を見極めながら、力を伸ばすことに日々腐心しています。プロ最年少棋士 藤井聡太四段(14歳)が、29連勝の新記録を達成し、あらゆる方面に衝撃を与えています。当然、どのような子育てをしてきたのだろうかと、マス・メディアも紹介しています。

その中から、「母が語る14歳の素顔 『好き』究め集中力を育む」(産経新聞2017.6.26)からの引用です。

http://www.sankei.com/life/news/170626/lif1706260049-n1.html

家族らの話によると、藤井聡太四段(14)の快進撃を支えてきたのは、遊びや普段の生活を通して小さい頃から培った集中力だという。

 母親の裕子さん(47)によると、藤井四段は幼い頃から外遊びが大好きな活発な少年だった。「家の庭に生えているクロガネモチの木によく登っていました。友達と鬼ごっこをするのも好きで、足が速いのが自慢でした」。その一方で、幼稚園のときにはすでに九九を習得。小さい頃から世界各国の首都名をあてるクイズ、4つの数字に四則演算を組み合わせて「10」を作るゲーム「メイクテン」などに熱中していた。「問題を解いたり、何かを覚えたりすることが単純に好き、という感じです」(裕子さん)

 5歳で将棋を始めた藤井四段。幼稚園児のとき、難解な詰め将棋に挑んだ際には、「考えすぎて頭が割れそう」と口にした。「好きなことには本当に夢中になる。他のことに注意がいかなくなるぐらい」と裕子さん。小学生の頃は学校にランドセルを忘れたこともあった。

 学校の授業も、その場で理解し覚えていった。愛知県内有数の進学校である名古屋大学教育学部付属中学を受験する際は、塾に通わず競争率8倍の難関を突破した。

 食べ物は麺類が好きで、キノコ類は苦手。「どこにでもいる普通の子供」と裕子さん。だが師匠の杉本昌隆七段(48)は「完成された将棋と言われるが、まだまだ成長する。順調にいけば数年後には他の棋士が手をつけられない存在になる」と予言している。

子供さん達も「十人十色」。

それぞれの子供にあった教育方針が見つかれば簡単ですが、それを見出すのが難しい。親御さんの様々な試行錯誤の上に、大方針を定めることが出来れば最高ですが、ことは簡単ではありません。

「遊びや普段の生活を通して小さい頃から培った集中力」とあるように、興味を引くものや関心を示すものを、上手に活用できれば、集中する習慣がつきます。年齢に応じて興味の対象は変わりますが、高い山に登るための一段一段と考えることができます。その時期に応じた学びが済めば、興味を失い、次の興味へと移っていきます。それらの蓄積が繋がりあって、人格を形成したり、能力を開花させることになります。

posted by at 18:49  | 塾長ブログ
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