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教科書に載らない歴史上の人物 20 ラダ・ビノード・パール

我が国の学校教育の中で欠落しているのが近現代史。
問題なのは、これをほとんど教えていないことです。

先の大戦(大東亜戦争、所謂太平洋戦争)、と言っても終戦から七十年以上前のことになります。
ところが、何故起きたのか、結果どの様になったのか、などは教科書にさらっと書いてあるだけで、授業でも歴史の先生は触れもしません。

激動する国際関係の中で日本国がどの様に国の存立を図るか、ということは喫緊の最重要課題です。
しかし、小・中・高校・大学生に歴史をしっかり教えていないと将来を担う若者は簡単には判断することができません。

しかし、「教えない大人」に頼らずに、
現在はインターネット社会ですから、求めさえすれば情報を集め、取捨選択して自ら学ぶことができます。
更に、AIの進化に伴って、生身の先生よりもはるかに正確な情報を得ることができる時代はすぐそこまで来ています。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、幼い時から興味のあることや疑問に思うことを自ら求めていくことができる様になって欲しいと考えています。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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ラダ・ビノード・パール・・・この名前でピンと来る人は、近・現代史に造詣が深い方です。
親日国であるインドの法律家です。

さて、元気のでる歴史人物講座  日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.8.26 )です。

パール 日本を尊敬、祖国に自信

 東京裁判は戦勝国が戦敗国、日本を断罪する不正不当の復讐(ふくしゅう)裁判であった。
この裁判で唯一人、日本の無罪を主張したのがインドのパール判事である。
パールはこの裁判を「儀式化された復讐」と述べている。

 パールが19歳のとき日露戦争が起きた。
日本が勝利したとき、インド中に感激が湧き上がった。
パールは言う。

 「同じ有色人種である日本が北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は我々の心を揺さぶった。
私たちは白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。
先生や同僚とともに毎日のように旗行列や提灯(ちょうちん)行列に参加したことを記憶している。
私は日本に対する憧れと祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いで胸一杯であった。
私はインドの独立について思いを致すようになった」

 日露戦争は世界史の一大分水嶺(ぶんすいれい)であった。
日本の勝利が有色民族、被抑圧民族に民族独立への夢を決定的に与えた。
彼らは希望と勇気の源泉として日本に深い尊敬と親愛の念を抱き続けた。

 大東亜戦争は欧米の数世紀にわたる人種偏見に基づく植民地支配を打ち破り、有色民族の解放と独立を導く最大の契機となった。
インドもそれで独立できた。

「私はこの日本を愛している。この日本に骨を埋めたい」とまで言ったのがパールであった。

  ラダ・ビノード・パール(靖国神社内顕彰碑)

ラダ・ビノード・パールとは

ラダ・ビノード・パール
インドの法学者、裁判官。ベンガル人。国際的な権威を持つ法学者。
大東亜戦争(所謂、太平洋戦争)終戦後、戦勝国米国が主導する極東国際軍事裁判(所謂「東京裁判」)において判事を務め、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」(*)の作成者として知られている。
パール判事は、ヒンドゥー法を専攻し、コルカタ大学の教授であった。

パール判事は、極東国際軍事裁判終了後、国際連合の国際法委員会委員長として就任。

*パール判決書は、講談社学術文庫全2巻に掲載されています。
所謂A級戦犯が全員無罪であるとの格調高い意見とその解説がされています。

一般に「パール判決書」と呼ばれていますが、正確には「判決書」ではありません。
東京裁判では「judgement」には、裁判所が出す「判決」と、その裁判に関わった判事が判決について述べる「意見書」の2種類がありました。
ラダ・ビノード・パール判事が書いたのは、まさに東京裁判所が下した判決に対する「Dissentient *Judgement」つまり「反対意見書」です。
*dissentient=(特に大多数の人と)意見を異にする、異議を唱える、反対する

その中で彼は、東京裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法に違反する復讐である、としてその違法性と起訴の非合理性を主張しました。
そして、
「裁判所条例といえども国際法を越えることは許されない」
「戦争は法の圏外にある」
「日本が戦争を起こしたのは、侵略のためではなく、西洋諸国によって挑発されたためである」
「日本は国際法に違反する行為はしていない。国際法上、犯罪行為に当たることをしていない日本は自衛のために武力を行使したのであり、侵攻戦争とても、いまだ国際法上の犯罪とはされていない。東条被告以下、いわゆる『A級戦犯』に指名された者は、無罪として放免すべきである」
「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及*(事後法の禁止)まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復警裁判にすぎない」
などとして、被告人の全員無罪を主張しました。
しかし、この意見は少数意見として祭り去られました。

*行為時に法律上犯罪とされていなかった行為を、後で制定された法律によって処罰することを禁ずる法の大原則。
法律はそれを制定した時点より後に適用されるのが大原則。
後から法律を作って過去に遡って適用して裁くこと許されない(法の不遡及、事後法の禁止、罪刑法定主義の違反)。

posted by at 18:25  | 塾長ブログ

グローバル化に対応した新たな英語教育

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、文部科学省の「教育改革」について、適宜情報を確認しながら、これからの教育の目指すべき道を考えていきます。
さて、
文部科学省のホーム・ページに「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」が掲載されています。
http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/gaikokugo/__icsFiles/afieldfile/2014/01/31/1343704_01.pdf

 「初等中等教育段階からグローバル化に対応した教育環境づくりを進めるため、小学校における英語教育の拡充強化、中・高等 学校における英語教育の高度化など、小・中・高等学校を通じた英語教育全体の抜本的充実を図る。
2020年(平成32年)の東京オリンピック・パラリンピックを見据え、新たな英語教育が本格展開できるように、本計画に基づき体制 整備等を含め2014年度から逐次改革を推進する。」

・・・・とあります。
更に、

 グローバル化に対応した新たな英語教育の在り方

○小学校中学年:活動型・週1~2コマ程度
・コミュニケーション能力の素地を養う
・学級担任を中心に指導

○小学校高学年:教科型・週3コマ程度 (「モジュール授業」も活用)
・初歩的な英語の運用能力を養う
・英語指導力を備えた学級担任に加えて専科教員の積極的活用

○中学校
・身近な話題についての理解や簡単な情報交換、表現ができる能力を養う
・授業を英語で行うことを基本とする

○高等学校
・幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う
・授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)

※小・中・高を通じて一貫した学習到達目標を設定することにより、英語によるコミュニケーション能力を確実に養う
※日本人としてのアイデンティティに関する教育の充実(伝統文化・歴史の重視等) 

・・・所謂「グローバル化」という抽象的な言葉で、我国の教育に英語教育が更に必要だ、として国を挙げて教育改革を推進している様ですが、現実にビジネスの現場にいる人々はどの様に考えているのか、をご紹介します。

グローバル・ビジネス・パーソンに大切なこと

筆者が愛読している「国際派日本人養成講座」の伊勢正臣氏が以下の様に述べています。
http://blog.jog-net.jp/201611/article_3.html

グローバル・ビジネス・パーソンに大切なこと
 —–必要なのは「一に人柄、二に能力、三、四がなくて、五に語学」

○最近、多くの企業で、管理職になるにはTOEIC何点以上必要などという制約を設けるようになったり、さらには社内の公用語を英語とする所まで出てきた。
こういう動きに対して、拙著『世界が称賛する 日本人が知らない日本』では、「国際派日本人にお勧めの英語勉強法」の章で、実は「英語を勉強しなくても済む方法」を説いた。

 そこでの結論は、こうである。

1) 本当の英語力が必要なのは日本人の数パーセント。

2) 本当の英語力をつけるには大学卒業後でも1500時間は必要。毎週2時間では14年もかかってしまう。それなら1冊3時間の本を500冊読んで、人格や専門能力を磨いた方が良い。

3) 海外で働いたり、生活するなど、本当に英語が必要になったら、受験英語さえやっていれば、現地に行ってからでも間に合う。

(中略)

○アメリカで尊敬されている中卒の日本人駐在員

 外国の職場でどんな日本人駐在員が望まれるのか。

『世界が称賛する 日本人の知らない日本』では、次のような具体例を紹介した。アメリカ現地法人の日本人社長が、日本から派遣された駐在員に関して語ってくれた内容である。

__________
 日本からの駐在員で、TOEICで四百点未満でも、明るくどんどんアメリカ人の中に飛び込んでいくような人は周囲と良いチームワークをつくっている。
仕事での会話と言っても、決まった専門用語と、中学レベルの文法と基本表現を知っていれば、だいたい間に合う。

 一番すごい人は、中卒ながら日本の現場で職長をやっていた人で、アメリカの工場でも、専門用語を並べるだけで、作業者をアゴで使っていた。
それでも、一人一人を一生懸命育てようとしていて、その姿勢はアメリカ人にもすぐ伝わるので、皆、彼の言うことをよく聴いていた。
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 この中卒の職長さんこそ、「一に人柄、二に能力、三、四がなくて、五に語学」の実例と言えよう。

 こう考えると、社員の人柄や能力を脇に置いて、英語力ばかり求めるのは、経営者としてはいかがなものか、と思えてくる。語学教育はほどほどにして、まず社員の人柄と能力を磨くことが、企業としては先決ではないか。

・・・ビジネスの現場で求められるものと、文部科学省の目指す人材教育とのズレがありますね。

ところで、
中学・高校生で、英語に苦しむ生徒に共通するのは、「国語力」の不足です。
つまり、
日本語の語彙力が足らない、
現代文・古典・漢文の文法の力が不足している、
ことです。

母国語の日本語で会話をすることができても、
文章に書く、論ずる、提案資料を作り説明する、
等の力は一朝一夕では身につきません。

況や英語をや、ですね。

posted by at 16:30  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 19 恩田木工

最新の高校受験の傾向と分析のセミナーを受講してきますと、昔も今も変わらないことに気づきます。
一言で言うと、
幼児期から小学高学年に至る時期に、しっかり基礎教育を身につけているかどうか、ということです。
受験が近づいて慌てて準備しようとしても、読解力(語彙や漢字は当然のこと)や正確で早い計算力など、小学校で完璧にこなせて当たり前の訓練ができていないと、受験勉強が「付け焼刃」「砂上の楼閣」となります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、先ずは「読み・書き・算盤」のexpert(熟練者)になるよう指導していきます。
そして、歴史からしっかり学ぶことができる人になって欲しいと考えています。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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東北大震災の復興支援に絡み、消費税などの増税論議がされています。
税の問題で、政権が倒れたり、国が崩壊する例は数多あります。

過去の歴史を紐解いても、施政者は民に税という負担をかけることに非常に気を遣います。
民を納得させるだけの、施政者の覚悟と姿勢が必要です。

さて、元気のでる歴史人物講座  日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.5.13 )です。

■民に難儀かけず藩政改革

 江戸期後半、財政が破綻(はたん)し再建は到底不可能と思われた信州松代(まつしろ)の真田(さなだ)藩を立て直したのが恩田木工(おんだ・もく)である。

 藩政再建の大任を受けた恩田はすぐさま親類を呼び義絶(ぎぜつ)を申し入れ、次いで妻には離縁、子供に勘当(かんどう)、家来に解雇を申し渡した。

 あまりのやり方に一同驚き、訳を聞かせよと詰め寄った。

 「自分は今後、嘘(うそ)を一切言わない覚悟である。
 しかし妻子らが嘘をつけば誰も私を信用しない。
 そうなればとてもこのお役はつとまらない。
 それゆえ妻子と離別し家来を去らせ親類と義絶することにした。

 私は、これから食事は飯と汁だけ、衣服も今後作るものは木綿にする。
 そうなれば妻子らは辛抱できず、じきにうまいものも食べたくなるに違いない」

 すると妻子も家来も決して嘘はいわず言うとおりにしますから、このままおいてくださいと切願した。親類も虚言しないと誓った。

 恩田はこうして自己の姿勢を正したうえ、藩内の庄屋、長百姓(おさびゃくしょう)、町方代表を呼び集めて今後、自分は嘘を一切言わない、役人は贈物・賄賂(わいろ)を一切受けない、従来の悪政を根本から改め民百姓に難儀をかけないと宣言、協力を要請し心血を注いで再建に励んだ。

 恩田の至誠と愛民の至情に基づく政治に民百姓は随喜した。

 恩田は5年後、46歳の若さで急逝した。

 すべての民百姓が泣いた。

「百姓は大切の者なり」の精神を以(もっ)て一身を捧(ささ)げた江戸期の代表的政治家の一人であった。

歴史に残る日本の偉大な先人の事績は、長く語り継いでいかなければなりませんね。

それに比べ、現在の菅政権や政治家達に、私たちを納得させるだけの覚悟や姿勢はあるでしょうか。

  恩田木工(民親)像

恩田木工とは

 

 恩田木工(恩田杢 おんだ もく)
享保2年(1717)宝暦12年(1762)は江戸時代中期の松代藩家老。
藩主真田幸弘により、宝暦7年(1757)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜられ藩政の改革を任されます。
質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組む。
また、宝暦8年(1758)藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励。
恩田木工の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革しました。

恩田木工の藩政改革の事績を記した『日暮硯』には、倹約奨励、綱紀粛正、半知借上廃止、月割貢納制実施、先納年貢分切捨て、未進年貢分免除など、民を愛し誠実に政治を行い藩財政を見事に建て直した姿が描かれています。

信州松代藩は戦国の名将・真田昌幸の家系ですが、後代の藩の財政は逼迫。
六代藩主・真田幸弘がわずか13歳で家督を相続した際に、恩田木工を藩主に代わり会計や事務全般を取り仕切らせたとされています。
その改革は成果をもたらし、幸弘は松代藩中興の名君と称されます。

『日暮硯』の逸話から。

恩田木工は、覚悟の上で公式の場に領内の百姓・町人つまり領民を呼び出し、これから自分は嘘をつかず、いったん決めたことを変更することはない、と約束します。
その上で藩は年貢の未納分を棒引きにし、一方領民側はいままでに前納・前々納の形で前払いしていた年貢を棒引きにする代りに、来月から今年の年貢は規定どおり毎月月割りで納めてくれ、と持ちかけます。
恩田木工の思慮深さは、これらの施策を藩の名において頭ごなしに強制するのではなく、あくまで領民が村などに帰って末端の者たちも含め一人一人と協議の上、申し出を受けるか否かの判断を領民に預けてしまうことにあります。
今年の年貢を納めてもらう代りに、以前は税金滞納の督促の為にそれぞれの村に出していた多数の役人を、以後は出さないと約束するのです。
領民の百姓の立場からすると、督促の役人の接待もしなければならず、その接待費も百姓の負担であったわけですから、以後接待をせず費用の節約になる、と提案されれば受け入れ易くなります。
また、領民の奉仕で賄われていた土木工事なども必要最小限のものを除いてはさせない、と約束します。
恩田木工は、改革を一気に行えばかっての様な騒動に発展しかねない施作を、自らを戒めるのみならず、家族・郎党を戒め、藩の家臣団を引き締め、更に百姓・町人などの領民全体をも引き締めることによって、実を挙げていきます。

木工の優れたところは、質素倹約を無理に強いるのではなく、悪徳役人を処罰する際にも「これらの者どもは善い指導者が使えば善くなり、悪い指導者が使えば悪くなる」と藩主を説き伏せ、その彼らをも活かし切るという手立てを取ったことにあります。
更に領民に対し「相応に楽しみをせよ。慰みには博打なりとも何にても好みたることをして楽しめ」と、日々の生活が窮屈にならないように配慮します。

慈悲と厳格を平等に適用し、たとえ身分が低い者といえども正直者が馬鹿を見なくて済む政治を実現しようとしました。

・・・いつの時代も変わらない政治の要諦。
国民が進んで国の為に力を尽くそうという善政。
善き人材教育と徳のある指導者の育成。
適材適所。
・・・等等、日本の国柄にあった国づくり、人づくりが求められています。

posted by at 19:02  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 18 沖 周

平成28年11月22日5時59分に福島県沖を震源とする地震がありました。
東日本大震災(平成23年3月11日午後二時46分)の記憶が生々しいので、先の熊本での大地震(平成28年4月16日)同様、自然災害の恐ろしさは身に沁みます。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のが一般の人の心情です。
しかし、災害のニュースを聞くたびに、我が身や家族の安全を如何に守るかを考えておかなければなりません。
災害に対する備えや教育は、家庭でしっかりする必要があります。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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東北大震災から約百日。
国の首相以下の対応の拙劣さと比べ、町・村レベルの住民と直接接する自治体の長の真摯さは、様々な情報から伝わります。現場が一番切実です。

さて、元気のでる歴史人物講座  日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.7.8 )です。

エルトゥールル号遭難、村あげて救助

   明治二三年、トルコの使節が初めてわが国を訪れたが、帰路、エルトゥールル号は暴風雨に遭い、和歌山県串本沖で沈没、
586名のトルコ人が亡くなる大惨事に見舞われた。

このとき69名が必死で海岸にたどり着き、1人が大島の樫野埼灯台に助けを求めた。

 大島は串本のそばの人口3000の小島である。

 知らせを受けた大島村長、沖周(あまね)は直ちに行動を起こし、村民を指揮して救護活動に全力を尽くした。

 ほとんどが重軽傷を負っていたので村の医者がすぐさま治療した。
村人たちは裸同然の人々に衣服を与え、あたたかい食べ物を提供した。

 大島村は半農半漁である。
 遭難した者があれば誰でもどこの国の人でも助けるのが当たり前だった。
決して豊かではない暮らしの中から、人々はできる限りのことをして献身的努力を惜しまず生存者を励ました。

 村をあげての救助活動に彼らはみな涙を流して感謝した。

 また沖村長は海上に漂う遺体の捜索に尽力した。
連日船を出し280体余を回収し手厚く弔い慰霊行事もした。

 生存者はやがて神戸に移され、明治天皇の命により軍艦2隻をもってトルコに無事送り届けられた。

 この大島村の人々の行為がトルコ国民の心を強く打ち、教科書にも載せられた。
以来、トルコは熱烈な親日国となり今日に至っている。

 いま大島には慰霊碑とトルコ記念館がある。

     エルトゥールル号

我が身の困難を顧みず、目の前の被災者をなんとかして助けたいという、大島村長、沖周氏と当時の村民達の慈悲の表れたお話です。
このような素晴らしい人たちの行動が、歴史に残り、真の友好に繋がるということですね。
日本人の徳を示す逸話ですね。

しかし、現在の日本では、東北大震災の行方不明者はまだたくさんおられます。

参考の為に、阪神・淡路大震災(兵庫県警)と東北関東大震災(警察庁)の死者・行方不明者数の推移のグラフを以下に示します。

阪神・淡路大震災(兵庫県警)と東北関東大震災(警察庁)の死者・行方不明者数の推移

 

エルトゥールル号事件の概要

(広報 ぼうさい No.34 2006/7からの引用です。)
(http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou034_16-17.pdf)

 エルトゥールル号事件は約500名の外国人犠牲者を出した日本の海難史上はじめての大規模外国船海難である。

 幕末における開国を経て、明治時代には日本から諸外国への使節派遣や皇族貴顕の外遊が盛んに行われるようになった。
そうしたなか1887(明治20)年に小松宮彰仁親王夫妻のイスタンブル訪問を契機にオスマン朝と日本との間で皇室儀礼関係が創始された。
そして1889(明治22)年、オスマン朝の君主アブデュルハミト2世は天皇に勲章を奉呈するために、軍艦エルトゥールル号を日本へと派遣した。
1890(明治23)年6月にエルトゥールル号は横浜に到着し、公務を遂行すもののコレラ禍の発生のため9月15日に至りようやくと帰路に着いた。
しかしながら紀州沖を航行中に折悪しく北上する台風に巻き込まれて航行不能に陥り、9月16日21時30分頃に和歌山県東牟婁郡大島樫野崎灯台そばにおいて座礁沈没した。
さらに機関が爆発し、約500 名の乗員が死亡し、生存者はわずかに69名のみであった。

 エルトゥールル号の生存者の何人かは漆黒の闇の中、 灯台の灯りを頼りに険しい崖を登って救助を求めた。
灯台に勤務していた2名の逓信省管轄下の雇員は直ち に生存者たちの介護を施すとともに、灯台に最も近い 大島村樫野地区の区長のもとへ事態を急報した。
そして知らせを受けた区長は島の反対側に位置する大島地区の大島村村長の沖周のもとへ使者を送った。
17日朝10時30分に知らせを受けた沖村長は、まず村 の帰属する上位の地方行政機構たる郡役所と県庁に連 絡を取るために使者を派遣し、同時に村居住の3名の医師を手配して11時30分に事故現場に到着すると、直ちに村民を大動員して大々的に生存者探索ならびに負傷者救済の陣頭指揮に立つ。
また無傷の生存者士官から事情聴取をして、オスマン朝の軍艦であることなど 詳細に聞き取って17日夕刻に東京の海軍省ならびに呉 鎮守府に打電し、さらに18日早朝に船でもって村役場 雇員と巡査とで2名の生存者士官を引き連れて外国領事館が林立する神戸へと送り出した。

 和歌山県の南端に位置し、周囲から孤立している大島であったが、こうした沖村長の迅速かつ的確な初期対応によって災害対応が展開していくこととなった。
加えて沖村長は10月1日に至るまでの綿密な記録を 日記として留めている。
1974(昭和49)年に樫野崎に 建立されたトルコ記念館に保存・陳列されている沖村長の日記は、明治時代における日本の海難救助の有り様を今日に伝える第一級の災害教訓資料である。

   大島村村長、沖周の日記

posted by at 15:14  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 17 島田叡

ある幼(いとけな)い五歳の塾生の現在のお楽しみは、大河ドラマの「真田丸」です。
ドラマの登場人物の戦国武将の名がすらすらと出てきます。
ひらがなを覚える練習ノートには、「さなだ ゆきむら」「とよとみ ひでより」など並んでいます。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達の好奇心や興味が学習意欲を高めると考えます。
子供達が歴史に興味を持つと、国語力も上がる良い機会となります。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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日本の歴史について正しい知識を持つことは、未来ある子供たちには必要不可欠です。

新しい教育基本法の下での教科書改訂について参議院予算委員会で質疑が行われていました。
義務教育で学ぶ子供たちにとって、教科書が大事であることは言う迄もありません。
その内容や質は誰がどのように決定しているか、多くの国民は知らないというのが現状です。

さて、元気のでる歴史人物講座  日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.1.28 )です。

県民から敬慕「島守の神」 

 戦後長らく「島守の神」として県民から深く敬慕された人が沖縄県知事、島田叡(あきら)である。

 島田は沖縄戦直前の昭和20年1月末に赴任した。
前知事が戦争を恐れ、任務を放棄したため、急遽(きゅうきょ)、島田の任命となった。
内務大臣から打診されたとき即座に承諾したが、その心境をこう語った。

 「おれが行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。おれは死にとうないから、誰か行って死ねとはよう言わん」

「断るわけにはいかんのや。断ったらおれは卑怯(ひきょう)者として外も歩けなくなる」

「牛島(満・沖縄軍司令官)さんから赴任を望まれた。男として名指しされて、断ることはできへんやないか」

 実に立派な覚悟であり決断であった。

着任するや職員を力強く励ました。職員と県民は「この長官は自分たちを捨てて行かない。この人なら最後までついてゆける」と思った。

 牛島と肝胆相照らした島田は、軍に全面協力するとともに、犠牲をできる限り少なくするために、県民の疎開、避難に全力を傾注し、22万の人々を疎開させた。

もし島田が知事でなければ、もっと多くの犠牲が出たといわれる。
しかし、島田は不可抗力とはいえ、県民に多くの犠牲者を出したことを知事の責任として、7月、自決を遂げた。

島田は生涯敬慕した西郷隆盛の「死後慕われる人になれ」という言葉を座右の銘とした。

    島田叡(あきら)    (享年四十三歳)

 

因に、
昭和20(1945)年7月9日、島田の殉職の報に際して、安倍源基内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈りました。

「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑(*)ト謂フベシ」

(*注:亀鑑きかん 行動の基準となるもの。手本。模範。)

内務大臣が一知事に対して賞詞を授与することは、これが最初で最後の出来事です。

昭和26年6月23日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれたそうです。

島田叡の座右の銘。

「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」

島田叡とは

 

 島田叡(あきら)
明治34年(1901)、兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれました。
旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、大正11年(1922)に東京帝国大学法科へ入学。
中学・高校・大学と、野球に熱中し、旧制神戸二中時代に第1回全国中等学校優勝野球大会に出場。
東大時代は野球部のスター選手(外野手)として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであったそうです。
この時、学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された戦没野球人モニュメントには島田の名前が刻まれています。
東大卒業後、大正14年(1925)に内務省に入省。
主に警察畑を歩み、1945年1月の時点では大阪府内務部長を務めていました。

昭和20年(1945)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾。
各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉守紀には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出されました(一説によると、戦火に見舞われること必至の沖縄から逃げ出す為に、運動していたとも言われています)。
その結果、沖縄への米軍上陸が間近とみられ、後任者の人選は難航していました。
沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めましたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛びました。

同年1月31日、島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していきました。
同年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。
翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入されました。

こうした島田の姿勢により、県民は知事に対し深い信頼の念を抱くようになります。
同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めました。
以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を転々としながら指揮を執りました。
軍部とは密接な連携を保ちながらも、謙虚な人物であることから、女子職員が井戸や川から水を汲み洗顔を勧めると「命がけの水汲みの苦労を思えば、あだやおろそかに使えないよ」と、いう逸話も残されています。

島田が敢然と沖縄県知事として現地に赴任するに至った背景には、佐賀県警察部長在任中、旧佐賀城西濠端にある龍泰寺で開かれていた「西濠書院」という勉強会に参加したことがきっかけといわれています。
島田は、その書院を主宰していた住職・佐々木雄堂に出会い、『葉隠*』と『南洲翁遺訓*』について学び、その思想に深く感銘を受けたとされます。
後に、佐々木は沖縄に赴任する島田に対して、葉隠と南洲遺訓の2冊を贈り、島田はこの2冊を携えて「敢然と沖縄に赴任する」旨を佐々木に書き送っているそうです。

*『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。
肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。
全11巻。
*『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)は西郷隆盛の遺訓集である。
遺訓は41条、追加の2条、その他の問答と補遺から成る。

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