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教科書に載らない歴史上の人物 13 村田重治

現在の通知表には学業成績だけでなく、授業態度や学校生活の態度も記されています。
児童・生徒の学校生活における全人格の一端を家庭に知らせる役目があります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、学業成績の評価も確認しますが、寧ろ授業態度や学校生活の態度を重視しています。
何故ならば、心の持ち方の有り様が「態度」に表れているからです。
つまり、将来の「伸び代」(能力を出し切ってはいない場合の、これから先の成長、発展する見込みや余地があること)を確認できると考えています。

さて、教科書に載らない歴史上の人物、長崎県人の巻です(再掲・加筆)。

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一、性質温厚
 二、志操堅固
 三、品行方正
 四、動作沈着
 五、言語明晰

このような性行表(人の性質と行動を評価した)は、現在の学校ではお目にかかることはありません。

長崎県が生んだ素晴らしい武人のご紹介です。

旧制長崎県立島原中学校(現・長崎県立島原高等学校)出身の村田 重治(むらた しげはる)は、明治42年生まれの大日本帝国海軍軍人。
南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死。二階級特進により最終階級は海軍大佐。
雷撃(注)の神様として有名です。
注:雷撃(らいげき)とは、軍艦・航空機などが、魚雷を敵の艦船に向けて放つこと。雷撃を専門に行う軍用機は雷撃機と呼ばれる。

その村田は、優等生であり、且つ、当時の長崎県立島原中学校卒業時の性行表が上述のものです。

幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかった。
どんな時でも笑顔でユーモラスを絶やさず、常に張り詰めた場をもそのくだけたジョークで華やかにし、部下はもとより同期や上官、指揮官までも「ブーツ」とあだ名され信頼された。
しかし、一人のときは寡黙で家族と談笑するよりも一人で愛用の電気蓄音機から流れるポピュラー音楽(特にボレロ)に耳を傾けるほうを好んだ。
その神がかりな雷撃操縦から「雷撃の神様」とも呼ばれるようになった。

真珠湾「赤城」第4中隊第46小隊1番機 AI-311号村田機(1941)

 

真珠湾攻撃  (さらに…)

posted by at 16:53  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 12 栗林 忠道

長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、辞書と同じ様に地図帳を普段から使いこなすことを必須としています。

例えば、「硫黄島」という漢字表記の島は、読み方により位置と歴史的な意味合いが違います。

「いおうじま」は鹿児島県の薩南諸島北部の島です。かつて俊寛が流刑された鬼界ヶ島はこの硫黄島とされ、俊寛ゆかりの史跡も多数見られます。

「いおうとう」は東京の中心部から南方約1,200kmに位置し、東京都小笠原村に属しますが、民間人は居住することができません。

今日のブログのテーマは、「硫黄島(いおうとう)」にまつわる、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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平成17年(2005年)に硫黄島における栗林 忠道に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』が刊行され大きな話題を呼びました。
筆者も感動しながらこの本を読みました。当時栗林 忠道はイラスト付の手紙を子供たちに送り、残されている資料を見ると、分かりやすく慈愛ある文面は涙を誘います。

翌平成18年(2006年)、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が公開され(栗林役を渡辺謙が演じた)、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになりました。

現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.4.15 )から。

栗林忠道 卓越した統率力と人間性 

 アメリカ人にとっての至高の聖地アーリントン国立墓地には25メートルもの彫像「硫黄島記念碑」が立っている。
日米戦で米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦闘が硫黄島(いおうとう)の戦いであり、それはアメリカ人の遺伝子に刻み込まれた永久に忘れがたい激戦であった。
 米国民はこの戦いの名を口にしたとき「強い感動と愛国心ゆえの興奮に満たされる」という。
いかなる国にもそのような歴史があり、それを子々孫々に語り継ぐのである。

 アメリカ人は米軍に甚大な損害を与えた硫黄島指揮官、栗林忠道大将を、
「アメリカを最も苦しめ、それゆえアメリカから最も尊敬された男」
と評した。
自国のために命を捧(ささ)げて戦った強敵を彼らは畏敬(いけい)しているのである。

 栗林は米軍が3、4日で占領するつもりでいた硫黄島を36日間守り抜いた。
雲泥の差の過小な戦力であったが米軍をして「勝利なき死闘」と嘆ぜしめた戦いをした。

 それを可能にしたのが、「予(よ)(私)は常に諸子の先頭に在り」との精神で部下と苦楽をともにした栗林の卓越した統率力と人間性だった。
 「日本国民は諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に涙して黙祷(もくとう)を捧げる日がいつか来るであろう。安んで諸君は国に殉ずべし」
 栗林の最後の訓示である。栗林大将はじめ2万余将兵の死戦死闘がアメリカに深い打撃を与え、日本を亡国から救ったのである。

硫黄島の栗林中将

なお、写真データは栗林中将のお孫さんである新藤義孝衆議院議員のサイトから引用しました。
http://www.shindo.gr.jp/related/kuribayashi/kuribayashi-image

栗林忠道とは  (さらに…)

posted by at 17:33  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 11 藤原岩市

長崎市の公立学校では所謂「平和教育」が盛んです。
しかし、戦争反対をお題目の様に唱えても戦争は回避できません。
冷厳な国家間のPower of Balance(パワー オブ バランス)、即ち「力の均衡」を保つ以外に、いつ侵攻されてもおかしくないのが国際社会です。
日本の先人たちが、如何に艱難辛苦して日本を死守しようとしてきたかは、1853年のペリー来航から大東亜戦争に至るまでの正しい近現代史を学べば理解できます。

更に、昭和20(1945)年から昭和27(1952)年の米国による占領統治。
その占領下で日本を解体する様々な占領政策や米国の要求する日本国憲法の押し付けなど、多くの隠されてきた現代史があります。
事実を事実として教え、子供達に比較研究させる教育が必要です。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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小・中・高校の歴史の授業では、古代から始まり、精々第一次世界大戦まで位しかすすまず、第一次世界大戦以降現在までの歴史を教えていません。
これは、非常に由々しきことだと考えます。
現在につながる大事な過去の日本の近・現代史を教えていないのですから。

筆者は高校卒業後から現在まで、様々な文献をあたりながら、教科書や学校の先生が教えてこなかった歴史を紐解いています。
例えば、先の大戦の呼称は、教科書では「太平洋戦争」となっています。
しかし、日本の正式の呼称は、昭和16年(1941)12月8日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同12月12日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められています。

昭和20年(1945)8月の米国の日本占領後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、「大東亜戦争」の語は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと米国側から判断され、「八紘一宇」(注参照)などの語とともに公文書で使用することが禁止されました。
つまり、米国は検閲などを通し、自国に都合の良い情報統制を行い、本当の歴史を封殺しているというのが実情です。

結果的に、子供たちの教科書は、現在も「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と記載されていることからみて、本当の歴史を記載しているとは言えません。

従って、「大東亜戦争」での日本人の活躍は、子供たちの目に触れることはなかなかありません。

注:「八紘一宇(はっこういちう)」『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇(はっこうをおおいていえとなす)」から作られた言葉で、大意としては 「天の下では全ての民族は平等である。天下を一つの家のようにしようすること。」 八紘は世界、一宇は一つの家という意味。

現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.3.11 )から。

 藤原岩市 インド人将校らに示した友愛

 インドは世界有数の親日国である。
その理由はインドの独立に日本が絶大な貢献をしたからだ。

 大東亜戦争開始後、対インド・マレー工作を担当したのが藤原機関だが、機関長の藤原岩市(いわいち)陸軍少佐は日本軍がマレー半島を進撃中、イギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。
これがインド独立の礎となるのである。

 藤原は最初の投降兵との親睦(しんぼく)を図るため、インド料理による機関員とインド人将校との会食を催した。
藤原らは初めて口にする舌のしびれるような辛い料理をインド人にならい手づかみで食べた。

英軍内ではインド人将校は英人将校と同席の会食は許されず、インド料理すら認められなかったから彼らは藤原の誠意ある態度に深く感激した。

 将校の代表は
「藤原少佐の敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた温かい催しこそは一昨日来、我々に示されつつある友愛の実践とともに日本のインドに対する誠意の千万言に優る実証」
と述べた。

 藤原と肝胆相照らし(注参照)たのが後にインド独立第一の英雄と仰がれるチャンドラ・ボースである。
自由インド仮政府首相となったボースの率いるインド国民軍は昭和19年、日本軍とともにインドのインパールに進撃して敗れた。

 しかしこの祖国解放の戦いを敢行したことが結局インドの独立を導いた。
 藤原機関は「インド独立の母」とたたえられた。

注:肝胆(かんたん)相照(あいて)らす・・・心の底までさらけ出し、親しく付き合うこと。

    藤原中佐

昔から、日本人は肌の色や宗教で差別することの少なかった民族です。
欧米などが、アフリカ・南北アメリカ・中近東・アジアなど世界中ででどのようなことをしてきたか、世界の歴史を遡ればその差は一目瞭然です。
やはり、所謂(いわゆる)理科系・文科系を超えて、等しく歴史(国史・世界史)並びに地理はしっかり学ぶ必要があります。

藤原岩市とは  (さらに…)

posted by at 17:58  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 10 勝海舟

歴史上の人物を後世の人がどの様に評価するか。
業績、評伝や語録などから推測するしかありませんが、歴史を学ぶ面白さでもあります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室のある幼児さんは真田幸村をはじめとして戦国武将が大好きです。
テレビドラマを切っ掛けとして歴史を好きになり、漫画や書物で更に深めていく。
親御さんが適切に本を与えていくのはとても大事なことです。

さて、 教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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今回は、教科書に一行くらいで紹介されている勝海舟です。

「戊辰戦争の最中に、西郷隆盛を相手に江戸城無血開城をなし、江戸を戦火から救った人物」というぐらいでしょうか。

しかし、教科書には記載していない多くのことを為し、素晴らしい業績を残しています。
幕末の混乱期に、江戸幕府を支えたということから、山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれるほどです。

ところで、勝海舟は長崎とも縁(ゆかり)があります。

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。
勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。

その後、長崎の海軍伝習所に入門。
伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たし、足掛け5年間を長崎で過ごす。

・・・このとき、現在も長崎駅近くにある、本蓮寺に滞在していたそうです。そのときに、筆者の曾祖母が茶を出す機会があったそうで、「非常に美男子だった」とのこと。現存する写真の若かりし頃の海舟は、確かに凛々しい顔立ちです。

さて、その海舟。修業時代には大変な苦労をして勉学に励みます。
産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.2.18 )からの引用。

幕末が生んだ一世の巨人・勝海舟は最下級の幕臣で、青年時、困窮生活を送った。
だが海舟はこの境遇に屈せず文武両道に努めた。

 江戸随一の荒修業で有名だった島田虎之助の下で10年間剣道に励み、21の時、免許皆伝を受けた。
これが海舟の人物を鍛え上げた。海舟は単に頭だけの秀才ではなく気力と胆力を十分に備えていた。

 そのあとが10年間の蘭学修業である。これまたすさまじい勉学であった。
蘭学には「ヅーフハルマ」と呼ばれた蘭和辞典が必須だが60両もしてとても買えない。
海舟は1年間10両の損料で借り、昼夜をおかず2部筆写し、1部を売りそれで損料を払った。

 その頃、海舟は貧窮のどん底にあった。
薪を買う金がないから天井など燃やせるものは皆はがして炊事をした。
まことに驚嘆すべき根気と努力であった。

 写し終わって巻末にこう記している。
 「弘化4(1847)年秋業につきて翌仲秋二日終業、予(よ)この時貧(ひん)骨(ほね)に到り、夏夜蚊帳(かや)なく冬衾(ふすま)(布団)なし。唯日夜机によって眠る。しかのみならず大母病床にあり、諸妹幼弱事を解せず。自ら椽(たるき)を破り柱を割って炊ぐ。困難ここに到り又感激を生ず」

 貧窮困難は決して人間を駄目にしない。艱難(かんなん)辛苦が偉大な人間をつくるという見本である。

 「困難ここに到り又感激を生ず」。肺腑(はいふ)の底から吐かれた真男子の一言である。

   勝海舟(1860)

「武士は喰わねど高楊枝」という句がありますが、貧乏を全く恥じず、平然と過ごす心構えがあるのは、「三舟」の一人、山岡鉄舟も同様です。
やはり、安穏とした生活からは、後世に名を残す人は出てきません。

勝海舟とは  (さらに…)

posted by at 16:45  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 9 昭和天皇

我国の二千年以上の統一国家としての連続性は世界に類を見ません。
しかし、その素晴らしさを学校教育の現場では子供達に教えることはありません。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、日本や世界の近現代史についても、事実は事実として教えます。

平成二十八年八月八日、 今上天皇 明仁陛下「お言葉」がありました。
「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。
私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。」
https://www.youtube.com/watch?v=yJemP–pXiY

大東亜戦争後の困難な道を昭和天皇と共に歩まれた今上陛下の「お言葉」の意味合いを考える意味でも、昭和天皇の事績の一端を振り返ってみます。

   昭和天皇即位の礼

教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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昭和の日は、日本国における「国民の祝日」のひとつです。
国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正によって平成19年(2007)に始まった祝日で、昭和天皇の誕生日である4月29日に毎年実施される。同法ではその定義・趣旨を、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。

産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.4.29 )からの引用。

  昭和の日を迎えた。
 大東亜戦争の敗戦とアメリカの占領統治という日本民族最大の国難において、昭和天皇はご一身を擲(なげう)たれて終戦の聖断を下され、かつマッカーサーとのご会見に臨まれた。

 天皇のお心は御前会議における「自分はいかになろうとも万人の生命を助けたい」とのお言葉並びに、
「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」
との御製につきている。

この精神を以(もっ)て全責任を負われ、マッカーサーに「私の一身はどうなろうと構わない」とまで述べられたのである。
 陛下のこの高貴なる無私のご姿勢に、マッカーサーは「私は初めて神の如き帝王を見た」と深く感動し心を揺さぶられた。アメリカは皇室の存続は認めるものの、昭和天皇を戦犯として処罰せんとする企図を有していた。だがマッカーサーが強く反対したためアメリカは断念した。

 まことに国家未曾有の危機であったが、昭和天皇の捨て身のご行為により辛くもこれを脱し得たのである。
天皇はそれにつき一言も語られることなく逝かれた。
これほどの帝王がかつて世界に存在しただろうか。
昭和天皇の無私と至誠と慈愛により、国家と国民は救われたのである。
世界に類(たぐい)なき皇室を戴(いただ)くことは日本人としてこの上ない幸せである。

偉大なる昭和天皇  (さらに…)

posted by at 13:33  | 塾長ブログ
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