長崎市の公立学校では所謂「平和教育」が盛んです。
しかし、戦争反対をお題目の様に唱えても戦争は回避できません。
冷厳な国家間のPower of Balance(パワー オブ バランス)、即ち「力の均衡」を保つ以外に、いつ侵攻されてもおかしくないのが国際社会です。
日本の先人たちが、如何に艱難辛苦して日本を死守しようとしてきたかは、1853年のペリー来航から大東亜戦争に至るまでの正しい近現代史を学べば理解できます。
更に、昭和20(1945)年から昭和27(1952)年の米国による占領統治。
その占領下で日本を解体する様々な占領政策や米国の要求する日本国憲法の押し付けなど、多くの隠されてきた現代史があります。
事実を事実として教え、子供達に比較研究させる教育が必要です。
さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。
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小・中・高校の歴史の授業では、古代から始まり、精々第一次世界大戦まで位しかすすまず、第一次世界大戦以降現在までの歴史を教えていません。
これは、非常に由々しきことだと考えます。
現在につながる大事な過去の日本の近・現代史を教えていないのですから。
筆者は高校卒業後から現在まで、様々な文献をあたりながら、教科書や学校の先生が教えてこなかった歴史を紐解いています。
例えば、先の大戦の呼称は、教科書では「太平洋戦争」となっています。
しかし、日本の正式の呼称は、昭和16年(1941)12月8日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同12月12日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められています。
昭和20年(1945)8月の米国の日本占領後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、「大東亜戦争」の語は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと米国側から判断され、「八紘一宇」(注参照)などの語とともに公文書で使用することが禁止されました。
つまり、米国は検閲などを通し、自国に都合の良い情報統制を行い、本当の歴史を封殺しているというのが実情です。
結果的に、子供たちの教科書は、現在も「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と記載されていることからみて、本当の歴史を記載しているとは言えません。
従って、「大東亜戦争」での日本人の活躍は、子供たちの目に触れることはなかなかありません。
注:「八紘一宇(はっこういちう)」『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇(はっこうをおおいていえとなす)」から作られた言葉で、大意としては 「天の下では全ての民族は平等である。天下を一つの家のようにしようすること。」 八紘は世界、一宇は一つの家という意味。
現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.3.11 )から。
藤原岩市 インド人将校らに示した友愛
インドは世界有数の親日国である。
その理由はインドの独立に日本が絶大な貢献をしたからだ。
大東亜戦争開始後、対インド・マレー工作を担当したのが藤原機関だが、機関長の藤原岩市(いわいち)陸軍少佐は日本軍がマレー半島を進撃中、イギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。
これがインド独立の礎となるのである。
藤原は最初の投降兵との親睦(しんぼく)を図るため、インド料理による機関員とインド人将校との会食を催した。
藤原らは初めて口にする舌のしびれるような辛い料理をインド人にならい手づかみで食べた。
英軍内ではインド人将校は英人将校と同席の会食は許されず、インド料理すら認められなかったから彼らは藤原の誠意ある態度に深く感激した。
将校の代表は
「藤原少佐の敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた温かい催しこそは一昨日来、我々に示されつつある友愛の実践とともに日本のインドに対する誠意の千万言に優る実証」
と述べた。
藤原と肝胆相照らし(注参照)たのが後にインド独立第一の英雄と仰がれるチャンドラ・ボースである。
自由インド仮政府首相となったボースの率いるインド国民軍は昭和19年、日本軍とともにインドのインパールに進撃して敗れた。
しかしこの祖国解放の戦いを敢行したことが結局インドの独立を導いた。
藤原機関は「インド独立の母」とたたえられた。
注:肝胆(かんたん)相照(あいて)らす・・・心の底までさらけ出し、親しく付き合うこと。

藤原中佐
昔から、日本人は肌の色や宗教で差別することの少なかった民族です。
欧米などが、アフリカ・南北アメリカ・中近東・アジアなど世界中ででどのようなことをしてきたか、世界の歴史を遡ればその差は一目瞭然です。
やはり、所謂(いわゆる)理科系・文科系を超えて、等しく歴史(国史・世界史)並びに地理はしっかり学ぶ必要があります。
藤原岩市とは (さらに…)