‘ 塾長ブログ ’ カテゴリー

行脚の人

小雨混じりの早朝、信号を待つ先に佇む人がありました。
横断舗道を渡り終えると、佐世保までの道筋を尋ねられました。
錫杖の長さの杖をつき、リュックを背負い、野母崎の寺から歩いて来たとのこと。
午前七時ですから、西山トンネル口まで何時に出発して来られたことやら。
佐世保まで雨混じりの中を歩いて行くのは並大抵のことではありません。

十五分ほどの立ち話。
曰く、
長野県から徒歩で西日本を行脚中とのこと。
故郷から新潟県に出て、日本海側を徒歩で移動。
鹿児島まで行き、北上して肥前国長崎に(64日目)。

母上の介護と見送りの後に、思い立っての巡礼の旅。
別れ際に、「南無 観世音菩薩」と合掌して頂きました

・・・無事故郷に戻られんことを、と念じつつ後ろ姿を見送りました。

<稔.Y氏>

 

posted by at 11:40  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 8 広瀬淡窓

時代や背景は異なりますが、江戸期に八十年で学んだ入門者が約4,800人に及ぶ私塾があります。
日本人の勉学に勤しむ姿勢は基本的には変わることがありません。
しかし、学ぶ内容は大いに反省すべきことが多いのではないでしょうか。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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大分県日田市に咸宜園(かんぎえん)という旧跡があります。
咸宜園は、広瀬淡窓(ひろせたんそう)が主催した私塾(1805創始)です。

咸宜園は、天領であった豊後国日田郡堀田村に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾です。
「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。
塾生の意志や個性を尊重する理念が込められています。

筆者も、かって咸宜園を訪問。広瀬淡窓の、人として教育者としての徳の高さに感銘を受けました。
本来、「修身」(現在の道徳)又は「国史」(我国の歴史:日本史というのは適切でない科目名です)の授業などで、しっかり子供たちに伝えていくべき偉人です。

産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成22.9.15)からの引用。

 江戸期、全国に私塾が数多くできたが、近世最大の私塾が豊後(ぶんご)国日田(ひた)(大分県日田市)にあった咸宜(かんぎ)園である。
創始者の広瀬淡窓(たんそう)は50年間塾を主宰し、約3千人の人々が学んだ。
塾生が来なかったのは下野(しもつけ)、甲斐(かい)、隠岐(おき)、大隅(おおすみ)の4カ国だけである。

淡窓独特の教育方針が三奪の法と月旦(げったん)評と分職の3つである。

三奪の法とは入門時、年齢、学歴、身分の3つを奪い、同一線に並ばせ、そのあとは塾内における勉学如何(いかん)で優劣が定まるやり方である。

月旦評とは毎月はじめに全塾生の成績を厳正に評価し一覧表にして公表したことである。これにより塾生の努力、やる気を促した。

分職とは全員に塾内の仕事を与え、職務分担をさせることである。淡窓は共同生活を重視して塾生が学問、人格共にすぐれた人物になることを願った。

こうした淡窓の教育のやり方が評判を呼び、全国から人々が駆けつけたのである。

淡窓は学者、教育者、詩人として超一流だったが、何よりもすぐれた人格の持ち主だった。
54歳のとき、日々善事を積み重ね「一万善」を達成する決意をした。

毎日、善(よ)いことを行ったとき、3つならば白丸印を3つつける。
悪いことをした場合、2つならば黒丸印を2つつける。
その差し引きで67歳のとき1万に達した。
そのあと73歳まで続け、さらに「五千善」に及んだ。

生涯かけて内省と修養、積善積徳に努めた江戸期の生んだ偉人であった。

広瀬淡窓

 

広瀬淡窓とは 

(さらに…)

posted by at 06:26  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 7 杉 瀧子

洋の東西を問わず、歴史に名を残すような人物にとって、両親、特に母親の感化する力には大なるものがあります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室の塾生のお母さんも同様です。
歴史上表に出てはこなくても、「女は弱し、されど母は強し」です。
子供を感化教育するのは、何よりもお母さんであることは疑う余地がありません。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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現在の日本史の教科書の面白みの無さは、そこにドラマや人間の匂いを感じさせるものがないことからきていると思います。限られたページ数の中では、事実の列挙に終始せざるを得ない(?)。

たとえどんなに教科書が厚くなっても、エピソードやドラマを織り込むようなものであれば、子供たちは自然と引き込まれるはずです。むしろ、常用漢字などにとらわれずに難しい言葉にはルビを振ることで、漢字・熟語、語彙力が増えるような編集の教科書ならば、歴史のみならず、国語力も高めていくことは間違いありません。

「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・

<松陰を育てた母の慈愛> 杉 瀧子

 安政六(1859)年、野山獄にいた吉田松陰は幕府の命令により江戸へ檻送(かんそう)されるとき、獄司のはからいで一晩、わが家に帰された。
 杉家(養子に行く前の実家)では両親兄弟らが待っていた。母の瀧(たき)子は風呂をわかし、松陰の背中を流しつつこう言った。
 「寅次郎(松蔭の幼名)よ、今一度江戸から無事帰って気嫌のよい顔を見せておくれ」
 江戸送りは容易ならぬ事態であったが、母として子の無事帰還を望むのは当然の親心である。
松陰は死出の旅路と思ったものの、こう答えた。
 「母上様、必ず無事に帰ってお目にかかりますから、ご心配ご無用でござります」

 萩から遠く外へ出るとき見送る場所にある松の木は、人々が惜別の涙を流すので涙松といわれた。
松陰がここで詠んだ歌が
「かへらじと思ひ定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
である。

 10月27日、松陰が死刑にされたとき、父の百合之助(ゆりのすけ)と瀧子は病気になった家族の看病疲れで日中うとうと、うたた寝をしていた。
すると父は目を覚まし、
「いま私は首を斬られた夢を見たが誠によい心地であった」
と告げた。
 瀧子は
「私はまた寅次郎が只今江戸から帰った夢を見ましたが非常によい血色でありました」
と言った。

 松陰が斬られたちょうどそのとき、松陰の魂は父母の夢路にあらわれて最後の別れをしたのである。
至孝の人であった松陰は母への約言を守った。

松陰のような人物が出たのは、立派な父とこの慈母、瀧子が存在したからである。

江戸時代は、儒教の考えに基づき「君に忠、親に孝」という心持ちが常識でした。
とくに、「親孝行」は、身分の上下を超えて奨励され、また自然でもありました。その中でも特に「親孝行」な庶民には、藩主自ら褒美を授けて他の模範として表彰するほどです。

江戸時代の文化や教育など、現代の日本人が範とすべきことがたくさんあります。

   杉 瀧子

 

杉 瀧子  (さらに…)

posted by at 14:19  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 6 嘉納治五郎

Rio2016オリンピックも終了し、日本のメダル獲得数も増加。
その躍進の原動力の一つが若き井上康生監督率いる日本柔道。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室でも手に汗を握る試合を観戦しました。
ハラハラドキドキする場面の後の歓声が上がる様は柔道ならではです。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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柔道は、明治15年(1882年)に嘉納治五郎が日本の講道館において創始した武道であり、正式名称を日本伝講道館柔道というそうです。オリンピック種目にもなるほど広く世界各国に普及しています。

「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・

 <柔道通し「日本」伝える> 嘉納治五郎

  柔道の創始者、嘉納治五郎は年少時から虚弱体質だった。
腕白(わんぱく)者にいじめられ悔しかった嘉納は何とかして誰にも負けない強い体になりたいと願い、明治10年東大に入学してから柔術を習い始めた。
 
 学業の傍ら4年間毎日、稽古(けいこ)に励んだ結果、すっかり丈夫な体になった。
心身共に生まれ変わった思いがした嘉納はさらに修行に努め、ついに柔道を創始したのが明治15年、23歳の時である。

 嘉納は柔道の目的を体を鍛え心を練り徳性を磨くことにおいた。
それゆえ柔術の名を使わず「柔道」と称し修行の場を「講道館」と名付けた。
柔道は急速に全国に広まり、やがて欧米に伝わり、今日世界に普及するに至った。

 柔道が始まったころの日本は文明開化のいわゆる鹿鳴館(ろくめいかん)時代、欧化主義全盛の時代である。
何事も西洋一点張りの当時、東大出の若き学士が誰も振り向きもしない日本古来の柔術に打ち込み、柔道を創始したことはまことに一大事業であった。

 「日本は今まで世界から種々のことを学んできたから、日本も何かを世界に教えなければならない。柔道は彼にない日本の優れた文化であり、この柔道を教えることによって世界の文化の上に寄与することができるのみならず、日本の世界的発展を助けることができる」
 と述べた嘉納は、日本文明の価値を柔道を通して世界に伝えた偉人である。

西洋発のスポーツは、勝負にこだわります。
しかし、武道系に限らず我国の「道」のつく習い事には、他との優劣・勝ち負けよりも「自己鍛錬」「自己研鑽」という<自らを磨く>という根本的な違いがあります。

講道館師範嘉納治五郎先生遺訓

「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習に由つて身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。さうして是に由つて己を完成し世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。」

嘉納 治五郎(20代) 

 

嘉納治五郎とは  (さらに…)

posted by at 11:03  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物  5  福島安正

現在の社会科目や国語の教科書などに、ワクワクドキドキするような冒険や探検談が掲載されることはありません。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達には想像力をかき立てるような冒険や探検談を是非音読して欲しいと考えています。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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日本人の冒険家は、過去様々歴史に名を残しています。

例えば、
間宮林蔵
19世紀末、19歳から43歳まで蝦夷地(北海道)全土や樺太を命がけで探検。伊能の北海道地図作りに大いに貢献した。 特に樺太の探検と地図作りによって間宮海峡を発見し、樺太が島であることを示した。

白瀬中尉
1912年日本人初の1年7ヶ月にも及ぶ南極探検実施 以後の南極探検への道を開く。

植村直己
1970年日本人初エベレスト登頂
1978年世界初北極点犬ゾリ単独到達
1984年世界初マッキンリー冬季単独登頂。

しかし、まさに歴史や地理の教科書に掲載すべき偉業を達成された方がいます。

「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・

<極寒シベリア単騎で踏破> 福島安正

 明治時代、世界を驚嘆させた日本人の第1号が福島安正である。
明治25~26年、冬期のシベリアを世界で初めて単騎横断した軍人(陸軍中佐)であった。

 明治24年に着工したシベリア鉄道はロシアの極東侵略の最大の戦略的武器とされた。
完成したのが明治35年である。

10年後必ず日本は国家存亡の重大な危機に直面すると洞察した福島は、ロシアの東洋進出の実態を探るため単騎シベリア横断を企図した。

 公然たる情報活動は許されないから、あくまで個人の冒険旅行として、ヨーロッパからアジアを唯一人、騎馬で横断するという形をとった。

氷点下50度の極寒期のシベリアを踏破することは人間の力では不可能とされていたのである。

 福島は明治25年2月、ベルリンをたち、ペテルブルグ、モスクワを経て12月から翌年3月にかけてバイカル湖から黒龍江沿いに進み、満州のチチハル、吉林を通り、6月、ウラジオストクに着いた。
全行程1万4000キロ(東京-稚内の14倍)である。
この間、事故で重傷を負い九死に一生を得た。

 前人未踏の一大快挙の知らせは内外を駆けめぐり、福島の名は世界中に轟(とどろ)き渡った。10年後を見据えた福島の情報活動は日露戦争の勝利を導く上に不可欠であった。

福島が千辛万苦して情報収集に尽力したのはひとえに日本の独立と生存のためであった。

日清戦争勃発は、明治27(1894)年、日露戦争勃発は、明治37(1904)年。
日本の国難を予測し、それに先んじることそれぞれ二年と十二年。
軍事的な諜報活動の一環ですが、冒険という意味でも素晴らしい偉業です。

冬期のシベリアを世界で初めて単騎横断、つまり馬とともに完走したということです。
現在のように、機材や防寒着、また支援体制が整った時代でも、騎馬で完走するのは至難の業です。
それを、馬をいたわりつつ共に進む。まさに艱難辛苦の旅であったことでしょう。

日本人の素晴らしさを後世や子孫に伝える為に、国史(国の歴史 現在の科目名では日本史)はあるべきです。
しかし、憂うべきことながら、戦後の教科書は世界的な偉業である客観的な事実さえ掲載していません。

当然、その事実は子供たちや親にも、知らされていません。

  福島安正陸軍大将

 

福島安正とは  (さらに…)

posted by at 15:43  | 塾長ブログ
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