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教科書に載らない歴史上の人物15 ブルーノ・タウト

筆者は4月に伊勢神宮に参拝。
限られた時間でしたが、清明な伊勢の森に荘重な社殿が佇み、不思議な思いを持ちつつ参拝しました。

伊勢神宮内宮

外国人が日本文化の素晴らしさを日本人に伝えた例として、ドイツの建築家、都市計画家であったブルーノ・タウトがいます。
数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えたとされています。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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ブルーノ・タウト

「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の産經新聞記事(H.21.1.14)からの引用です。

  ■日本を熱愛した建築家
 日本文化の価値を日本人に目覚めさせた外国人にドイツの世界的建築家、ブルーノ・タウトがいる。

 日本人は日本文化が、これまで世界からいかに高い評価を受けてきたかあまり知らない。
西洋の芸術家にとり日本の文化芸術は常に憧憬(しょうけい)の的であった。

 昭和8年、夫人と共に来日したタウトほどわが国の木造建築を絶賛し、世界的評価を与えた人はいない。
彼は日本建築の最高峰として伊勢神宮をあげ、「世界建築の聖祠」とたたえている。

 もう一つが桂離宮である。
庭園美と不離一体となった桂離宮にタウトは伊勢神宮以上の感銘を受け日本美の極致をみた。
「私たちは今こそ真の日本をよく知り得たと思った。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる。まことに桂離宮はおよそ文化を有する世界に冠絶した唯一の奇蹟である。パルテノンよりもゴシックの大聖堂あるいは伊勢神宮におけるよりも、ここにははるかに著しく“永遠の美”が開顕せられている」

 明治以降、日本人はあまりにも自国の文化、芸術を軽視し、やたら外国のそれを崇拝してきた。
しかし、建築のみならず芸術、文化全般にわたり、わが国ほどすぐれたものを持つ国はどこにもない。
日本を熱愛したタウトは日本文化が今後の世界において重大な貢献をし、世界が日本の文化、文明を渇仰する日が必ず到来することを確信してやまなかった。

神社・仏閣など、長い年月を経て現存している建物には、不思議な魅力があります。
新築時には絢爛豪華であっても、年を経て木と土壁のモノ・トーンの静謐さが人を魅了します。
筆者は学生時代に桂離宮に行きたくてたまりませんでしたが、公開日との日程が合わずにご縁がないまま現在に至っています。是非参観したい建物の筆頭です。

ブルーノ・タウトとは  (さらに…)

posted by at 17:37  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 14 八田與一

高校受験学校説明会(塾対象)を様々巡ると、その高校の目指す方向性がよくわかります。
長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、各高校の先生方の教育に対する熱意や具体的な取り組みなど、質問を交えてお伺いします。

先ずは、長である校長先生を観察(失礼な物言いではありますが)。
その意気込みや姿勢を受けての部下の先生方の様子を拝見。
校舎周りや玄関、廊下、教室、実験室等等、目を配ります。
各高校の先生方はそれぞれ努力されていますが、様々な悩みも抱えているご様子。
如何に生徒の自主性や自立心を養うか。
勉学に対する動機・意義、忍耐心の涵養など、です。
難関大学を目指すには、日々の精進は並大抵ではありません。
その為には、幼児期から小学校低学年までに「学ぶ」姿勢を身につけ、訓練を繰り返す必要があります。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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今なお台湾で最も尊敬されている日本人の一人が八田與一である。

 八田は戦前、台湾総督府の土木技師として嘉南(かなん)平野に「嘉南大圳(●=つちへんに川の字:たいしゅう)」と呼ばれる東洋一の灌漑(かんがい)施設を作った人である。
 台湾最大の嘉南平野は洪水、干魃(かんばつ)、塩害の三重苦に悩まされる不毛の大地だった。
八田はこの地を沃野(よくや)に変えるには巨大な灌漑ダムと給排水路を作る以外になしと思い、この一大事業を企画した。

 2年間の調査を経て大正9年、工事を開始、幾多の苦難を乗り越えて10年後の昭和5年に完成した。
貯水量1億5300万トンの烏山頭(うざんとう)ダムと1万6000キロに及ぶ給排水路による灌漑施設で、総工費は今日で5000億円以上といわれる。世界の土木界を驚嘆させた嘉南大圳は、日本の灌漑土木技術の優秀さを世界に証明した金字塔であった。

 香川県の広さに相当する15万町の嘉南平野は肥沃な緑野に変貌(へんぼう)、台湾最大の穀倉地帯となった。
苦しい生活から脱却できたこの地の60万の農民たちは、八田を「嘉南大圳の父」と仰ぎ敬愛した。

 八田は大東亜戦争中の昭和17年、乗船が米軍潜水艦に撃沈され56歳で亡くなった。嘉南の人々は八田の功績を称(たた)え、遺徳を永遠に伝えんとしてダムのそばに銅像と墓(夫人も共に)を建立、毎年5月8日の命日、盛大な墓前祭を行っている。

八田與一

八田與一とは

(さらに…)

posted by at 16:53  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 13 村田重治

現在の通知表には学業成績だけでなく、授業態度や学校生活の態度も記されています。
児童・生徒の学校生活における全人格の一端を家庭に知らせる役目があります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、学業成績の評価も確認しますが、寧ろ授業態度や学校生活の態度を重視しています。
何故ならば、心の持ち方の有り様が「態度」に表れているからです。
つまり、将来の「伸び代」(能力を出し切ってはいない場合の、これから先の成長、発展する見込みや余地があること)を確認できると考えています。

さて、教科書に載らない歴史上の人物、長崎県人の巻です(再掲・加筆)。

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一、性質温厚
 二、志操堅固
 三、品行方正
 四、動作沈着
 五、言語明晰

このような性行表(人の性質と行動を評価した)は、現在の学校ではお目にかかることはありません。

長崎県が生んだ素晴らしい武人のご紹介です。

旧制長崎県立島原中学校(現・長崎県立島原高等学校)出身の村田 重治(むらた しげはる)は、明治42年生まれの大日本帝国海軍軍人。
南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死。二階級特進により最終階級は海軍大佐。
雷撃(注)の神様として有名です。
注:雷撃(らいげき)とは、軍艦・航空機などが、魚雷を敵の艦船に向けて放つこと。雷撃を専門に行う軍用機は雷撃機と呼ばれる。

その村田は、優等生であり、且つ、当時の長崎県立島原中学校卒業時の性行表が上述のものです。

幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかった。
どんな時でも笑顔でユーモラスを絶やさず、常に張り詰めた場をもそのくだけたジョークで華やかにし、部下はもとより同期や上官、指揮官までも「ブーツ」とあだ名され信頼された。
しかし、一人のときは寡黙で家族と談笑するよりも一人で愛用の電気蓄音機から流れるポピュラー音楽(特にボレロ)に耳を傾けるほうを好んだ。
その神がかりな雷撃操縦から「雷撃の神様」とも呼ばれるようになった。

真珠湾「赤城」第4中隊第46小隊1番機 AI-311号村田機(1941)

 

真珠湾攻撃  (さらに…)

posted by at 16:53  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 12 栗林 忠道

長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、辞書と同じ様に地図帳を普段から使いこなすことを必須としています。

例えば、「硫黄島」という漢字表記の島は、読み方により位置と歴史的な意味合いが違います。

「いおうじま」は鹿児島県の薩南諸島北部の島です。かつて俊寛が流刑された鬼界ヶ島はこの硫黄島とされ、俊寛ゆかりの史跡も多数見られます。

「いおうとう」は東京の中心部から南方約1,200kmに位置し、東京都小笠原村に属しますが、民間人は居住することができません。

今日のブログのテーマは、「硫黄島(いおうとう)」にまつわる、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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平成17年(2005年)に硫黄島における栗林 忠道に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』が刊行され大きな話題を呼びました。
筆者も感動しながらこの本を読みました。当時栗林 忠道はイラスト付の手紙を子供たちに送り、残されている資料を見ると、分かりやすく慈愛ある文面は涙を誘います。

翌平成18年(2006年)、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が公開され(栗林役を渡辺謙が演じた)、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになりました。

現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.4.15 )から。

栗林忠道 卓越した統率力と人間性 

 アメリカ人にとっての至高の聖地アーリントン国立墓地には25メートルもの彫像「硫黄島記念碑」が立っている。
日米戦で米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦闘が硫黄島(いおうとう)の戦いであり、それはアメリカ人の遺伝子に刻み込まれた永久に忘れがたい激戦であった。
 米国民はこの戦いの名を口にしたとき「強い感動と愛国心ゆえの興奮に満たされる」という。
いかなる国にもそのような歴史があり、それを子々孫々に語り継ぐのである。

 アメリカ人は米軍に甚大な損害を与えた硫黄島指揮官、栗林忠道大将を、
「アメリカを最も苦しめ、それゆえアメリカから最も尊敬された男」
と評した。
自国のために命を捧(ささ)げて戦った強敵を彼らは畏敬(いけい)しているのである。

 栗林は米軍が3、4日で占領するつもりでいた硫黄島を36日間守り抜いた。
雲泥の差の過小な戦力であったが米軍をして「勝利なき死闘」と嘆ぜしめた戦いをした。

 それを可能にしたのが、「予(よ)(私)は常に諸子の先頭に在り」との精神で部下と苦楽をともにした栗林の卓越した統率力と人間性だった。
 「日本国民は諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に涙して黙祷(もくとう)を捧げる日がいつか来るであろう。安んで諸君は国に殉ずべし」
 栗林の最後の訓示である。栗林大将はじめ2万余将兵の死戦死闘がアメリカに深い打撃を与え、日本を亡国から救ったのである。

硫黄島の栗林中将

なお、写真データは栗林中将のお孫さんである新藤義孝衆議院議員のサイトから引用しました。
http://www.shindo.gr.jp/related/kuribayashi/kuribayashi-image

栗林忠道とは  (さらに…)

posted by at 17:33  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 11 藤原岩市

長崎市の公立学校では所謂「平和教育」が盛んです。
しかし、戦争反対をお題目の様に唱えても戦争は回避できません。
冷厳な国家間のPower of Balance(パワー オブ バランス)、即ち「力の均衡」を保つ以外に、いつ侵攻されてもおかしくないのが国際社会です。
日本の先人たちが、如何に艱難辛苦して日本を死守しようとしてきたかは、1853年のペリー来航から大東亜戦争に至るまでの正しい近現代史を学べば理解できます。

更に、昭和20(1945)年から昭和27(1952)年の米国による占領統治。
その占領下で日本を解体する様々な占領政策や米国の要求する日本国憲法の押し付けなど、多くの隠されてきた現代史があります。
事実を事実として教え、子供達に比較研究させる教育が必要です。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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小・中・高校の歴史の授業では、古代から始まり、精々第一次世界大戦まで位しかすすまず、第一次世界大戦以降現在までの歴史を教えていません。
これは、非常に由々しきことだと考えます。
現在につながる大事な過去の日本の近・現代史を教えていないのですから。

筆者は高校卒業後から現在まで、様々な文献をあたりながら、教科書や学校の先生が教えてこなかった歴史を紐解いています。
例えば、先の大戦の呼称は、教科書では「太平洋戦争」となっています。
しかし、日本の正式の呼称は、昭和16年(1941)12月8日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同12月12日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められています。

昭和20年(1945)8月の米国の日本占領後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、「大東亜戦争」の語は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと米国側から判断され、「八紘一宇」(注参照)などの語とともに公文書で使用することが禁止されました。
つまり、米国は検閲などを通し、自国に都合の良い情報統制を行い、本当の歴史を封殺しているというのが実情です。

結果的に、子供たちの教科書は、現在も「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と記載されていることからみて、本当の歴史を記載しているとは言えません。

従って、「大東亜戦争」での日本人の活躍は、子供たちの目に触れることはなかなかありません。

注:「八紘一宇(はっこういちう)」『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇(はっこうをおおいていえとなす)」から作られた言葉で、大意としては 「天の下では全ての民族は平等である。天下を一つの家のようにしようすること。」 八紘は世界、一宇は一つの家という意味。

現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.3.11 )から。

 藤原岩市 インド人将校らに示した友愛

 インドは世界有数の親日国である。
その理由はインドの独立に日本が絶大な貢献をしたからだ。

 大東亜戦争開始後、対インド・マレー工作を担当したのが藤原機関だが、機関長の藤原岩市(いわいち)陸軍少佐は日本軍がマレー半島を進撃中、イギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。
これがインド独立の礎となるのである。

 藤原は最初の投降兵との親睦(しんぼく)を図るため、インド料理による機関員とインド人将校との会食を催した。
藤原らは初めて口にする舌のしびれるような辛い料理をインド人にならい手づかみで食べた。

英軍内ではインド人将校は英人将校と同席の会食は許されず、インド料理すら認められなかったから彼らは藤原の誠意ある態度に深く感激した。

 将校の代表は
「藤原少佐の敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた温かい催しこそは一昨日来、我々に示されつつある友愛の実践とともに日本のインドに対する誠意の千万言に優る実証」
と述べた。

 藤原と肝胆相照らし(注参照)たのが後にインド独立第一の英雄と仰がれるチャンドラ・ボースである。
自由インド仮政府首相となったボースの率いるインド国民軍は昭和19年、日本軍とともにインドのインパールに進撃して敗れた。

 しかしこの祖国解放の戦いを敢行したことが結局インドの独立を導いた。
 藤原機関は「インド独立の母」とたたえられた。

注:肝胆(かんたん)相照(あいて)らす・・・心の底までさらけ出し、親しく付き合うこと。

    藤原中佐

昔から、日本人は肌の色や宗教で差別することの少なかった民族です。
欧米などが、アフリカ・南北アメリカ・中近東・アジアなど世界中ででどのようなことをしてきたか、世界の歴史を遡ればその差は一目瞭然です。
やはり、所謂(いわゆる)理科系・文科系を超えて、等しく歴史(国史・世界史)並びに地理はしっかり学ぶ必要があります。

藤原岩市とは  (さらに…)

posted by at 17:58  | 塾長ブログ
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