長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、挨拶・言葉遣い・長幼の序など、人としての礼儀を普段から身につけるよう指導しています。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」(稲が実を熟すほど稲穂が垂れ下がるように、人も学問や徳が深まるにつれ謙虚になる)のように、学力の向上は人格の向上に伴う、と考えるからです。
さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。
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日本人が外国を旅行すると、その謙虚さや清潔感、感謝する心を、諸外国の人々に評価されます。
外国便の飛行機に十数時間搭乗し、ある外国人の席と日本人の席とを比較すると、その汚れ方の差に驚きます。
前者は、膝掛けや雑誌等が散乱し、後者は整理整頓されています。
ホテルでの宿泊にしても、日本人なら「発つ鳥あとを濁さず」で、シーツやタオルなどを片付けたり、シャワールームも綺麗にしてからチェック・アウトします。欧米諸国のホテルマンの日本人客への評価はとても良いようです。
何が諸外国の人と違うのかは、以下の話からも納得できるのではないでしょうか。
「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・
「誠を以て身を修め…」
江戸時代初期、一武士が藩の公金200両を預かり国元へ帰る途中、その金入れを半日雇った馬の鞍(くら)に結びつけ、夕方、旅館に着いたとき、それを取り外すのを忘れてしまった。
気づいたとき馬子(まご)は遠くに去っていた。取り返しのつかぬ失態に武士は遺書を認め死を以て主君におわびせんとした。
夜遅く宿の戸口を強くたたく者がいた。馬子が金入れを持参したのである。
驚喜した武士は涙を浮かべて礼を言い、15両を差し出した。ところが馬子は
「当然のことをしたまでで、それをお受けするわけにはまいりません」
と固辞した。武士はせめて5両だけでも、3両、1両でもと言って取らせようとするが馬子は決して取らない。
武士は何としても謝礼をしないでは気がすまなかった。やむなく馬子は4里の道を歩いてきた草鞋(わらじ)代としてわずかに200文を受け取った。
馬子の行為に心から打たれた武士は
「そなたは何によってそのように無欲で正直な人間になったのか」
と尋ねた。馬子は
「わが小川村(近江国)の中江藤樹という方が、誠を以(もっ)て身を修め、忠孝を重んじ、貧賤を以て行いを枉(ま)ぐる(曲げる)勿(なか)れと教えて下さいました」
と答えた。謙虚に徳を修め完(まった)き人間となることに努めた藤樹は人の師となり世間に名を知られることを求めなかったが、感化は長く後世に及んだ。

中江藤樹
馬子は四里の道を往復するわけですから、現在なら三十二キロメートルにもなります。
速歩で六キロ/毎時としても、五時間余も掛けて往復するわけですから、並大抵のことではありません。
しかし、江戸時代の人たちは、馬子などの一般大衆であっても、「誠」を貫くことは至極当然であったということです。
「近江聖人」中江藤樹とは (さらに…)