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教科書に載らない歴史上の人物 10 勝海舟

歴史上の人物を後世の人がどの様に評価するか。
業績、評伝や語録などから推測するしかありませんが、歴史を学ぶ面白さでもあります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室のある幼児さんは真田幸村をはじめとして戦国武将が大好きです。
テレビドラマを切っ掛けとして歴史を好きになり、漫画や書物で更に深めていく。
親御さんが適切に本を与えていくのはとても大事なことです。

さて、 教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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今回は、教科書に一行くらいで紹介されている勝海舟です。

「戊辰戦争の最中に、西郷隆盛を相手に江戸城無血開城をなし、江戸を戦火から救った人物」というぐらいでしょうか。

しかし、教科書には記載していない多くのことを為し、素晴らしい業績を残しています。
幕末の混乱期に、江戸幕府を支えたということから、山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれるほどです。

ところで、勝海舟は長崎とも縁(ゆかり)があります。

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。
勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。

その後、長崎の海軍伝習所に入門。
伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たし、足掛け5年間を長崎で過ごす。

・・・このとき、現在も長崎駅近くにある、本蓮寺に滞在していたそうです。そのときに、筆者の曾祖母が茶を出す機会があったそうで、「非常に美男子だった」とのこと。現存する写真の若かりし頃の海舟は、確かに凛々しい顔立ちです。

さて、その海舟。修業時代には大変な苦労をして勉学に励みます。
産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.2.18 )からの引用。

幕末が生んだ一世の巨人・勝海舟は最下級の幕臣で、青年時、困窮生活を送った。
だが海舟はこの境遇に屈せず文武両道に努めた。

 江戸随一の荒修業で有名だった島田虎之助の下で10年間剣道に励み、21の時、免許皆伝を受けた。
これが海舟の人物を鍛え上げた。海舟は単に頭だけの秀才ではなく気力と胆力を十分に備えていた。

 そのあとが10年間の蘭学修業である。これまたすさまじい勉学であった。
蘭学には「ヅーフハルマ」と呼ばれた蘭和辞典が必須だが60両もしてとても買えない。
海舟は1年間10両の損料で借り、昼夜をおかず2部筆写し、1部を売りそれで損料を払った。

 その頃、海舟は貧窮のどん底にあった。
薪を買う金がないから天井など燃やせるものは皆はがして炊事をした。
まことに驚嘆すべき根気と努力であった。

 写し終わって巻末にこう記している。
 「弘化4(1847)年秋業につきて翌仲秋二日終業、予(よ)この時貧(ひん)骨(ほね)に到り、夏夜蚊帳(かや)なく冬衾(ふすま)(布団)なし。唯日夜机によって眠る。しかのみならず大母病床にあり、諸妹幼弱事を解せず。自ら椽(たるき)を破り柱を割って炊ぐ。困難ここに到り又感激を生ず」

 貧窮困難は決して人間を駄目にしない。艱難(かんなん)辛苦が偉大な人間をつくるという見本である。

 「困難ここに到り又感激を生ず」。肺腑(はいふ)の底から吐かれた真男子の一言である。

   勝海舟(1860)

「武士は喰わねど高楊枝」という句がありますが、貧乏を全く恥じず、平然と過ごす心構えがあるのは、「三舟」の一人、山岡鉄舟も同様です。
やはり、安穏とした生活からは、後世に名を残す人は出てきません。

勝海舟とは  (さらに…)

posted by at 16:45  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 9 昭和天皇

我国の二千年以上の統一国家としての連続性は世界に類を見ません。
しかし、その素晴らしさを学校教育の現場では子供達に教えることはありません。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、日本や世界の近現代史についても、事実は事実として教えます。

平成二十八年八月八日、 今上天皇 明仁陛下「お言葉」がありました。
「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。
私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。」
https://www.youtube.com/watch?v=yJemP–pXiY

大東亜戦争後の困難な道を昭和天皇と共に歩まれた今上陛下の「お言葉」の意味合いを考える意味でも、昭和天皇の事績の一端を振り返ってみます。

   昭和天皇即位の礼

教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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昭和の日は、日本国における「国民の祝日」のひとつです。
国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正によって平成19年(2007)に始まった祝日で、昭和天皇の誕生日である4月29日に毎年実施される。同法ではその定義・趣旨を、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。

産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.4.29 )からの引用。

  昭和の日を迎えた。
 大東亜戦争の敗戦とアメリカの占領統治という日本民族最大の国難において、昭和天皇はご一身を擲(なげう)たれて終戦の聖断を下され、かつマッカーサーとのご会見に臨まれた。

 天皇のお心は御前会議における「自分はいかになろうとも万人の生命を助けたい」とのお言葉並びに、
「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」
との御製につきている。

この精神を以(もっ)て全責任を負われ、マッカーサーに「私の一身はどうなろうと構わない」とまで述べられたのである。
 陛下のこの高貴なる無私のご姿勢に、マッカーサーは「私は初めて神の如き帝王を見た」と深く感動し心を揺さぶられた。アメリカは皇室の存続は認めるものの、昭和天皇を戦犯として処罰せんとする企図を有していた。だがマッカーサーが強く反対したためアメリカは断念した。

 まことに国家未曾有の危機であったが、昭和天皇の捨て身のご行為により辛くもこれを脱し得たのである。
天皇はそれにつき一言も語られることなく逝かれた。
これほどの帝王がかつて世界に存在しただろうか。
昭和天皇の無私と至誠と慈愛により、国家と国民は救われたのである。
世界に類(たぐい)なき皇室を戴(いただ)くことは日本人としてこの上ない幸せである。

偉大なる昭和天皇  (さらに…)

posted by at 13:33  | 塾長ブログ

行脚の人

小雨混じりの早朝、信号を待つ先に佇む人がありました。
横断舗道を渡り終えると、佐世保までの道筋を尋ねられました。
錫杖の長さの杖をつき、リュックを背負い、野母崎の寺から歩いて来たとのこと。
午前七時ですから、西山トンネル口まで何時に出発して来られたことやら。
佐世保まで雨混じりの中を歩いて行くのは並大抵のことではありません。

十五分ほどの立ち話。
曰く、
長野県から徒歩で西日本を行脚中とのこと。
故郷から新潟県に出て、日本海側を徒歩で移動。
鹿児島まで行き、北上して肥前国長崎に(64日目)。

母上の介護と見送りの後に、思い立っての巡礼の旅。
別れ際に、「南無 観世音菩薩」と合掌して頂きました

・・・無事故郷に戻られんことを、と念じつつ後ろ姿を見送りました。

<稔.Y氏>

 

posted by at 11:40  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 8 広瀬淡窓

時代や背景は異なりますが、江戸期に八十年で学んだ入門者が約4,800人に及ぶ私塾があります。
日本人の勉学に勤しむ姿勢は基本的には変わることがありません。
しかし、学ぶ内容は大いに反省すべきことが多いのではないでしょうか。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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大分県日田市に咸宜園(かんぎえん)という旧跡があります。
咸宜園は、広瀬淡窓(ひろせたんそう)が主催した私塾(1805創始)です。

咸宜園は、天領であった豊後国日田郡堀田村に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾です。
「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。
塾生の意志や個性を尊重する理念が込められています。

筆者も、かって咸宜園を訪問。広瀬淡窓の、人として教育者としての徳の高さに感銘を受けました。
本来、「修身」(現在の道徳)又は「国史」(我国の歴史:日本史というのは適切でない科目名です)の授業などで、しっかり子供たちに伝えていくべき偉人です。

産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成22.9.15)からの引用。

 江戸期、全国に私塾が数多くできたが、近世最大の私塾が豊後(ぶんご)国日田(ひた)(大分県日田市)にあった咸宜(かんぎ)園である。
創始者の広瀬淡窓(たんそう)は50年間塾を主宰し、約3千人の人々が学んだ。
塾生が来なかったのは下野(しもつけ)、甲斐(かい)、隠岐(おき)、大隅(おおすみ)の4カ国だけである。

淡窓独特の教育方針が三奪の法と月旦(げったん)評と分職の3つである。

三奪の法とは入門時、年齢、学歴、身分の3つを奪い、同一線に並ばせ、そのあとは塾内における勉学如何(いかん)で優劣が定まるやり方である。

月旦評とは毎月はじめに全塾生の成績を厳正に評価し一覧表にして公表したことである。これにより塾生の努力、やる気を促した。

分職とは全員に塾内の仕事を与え、職務分担をさせることである。淡窓は共同生活を重視して塾生が学問、人格共にすぐれた人物になることを願った。

こうした淡窓の教育のやり方が評判を呼び、全国から人々が駆けつけたのである。

淡窓は学者、教育者、詩人として超一流だったが、何よりもすぐれた人格の持ち主だった。
54歳のとき、日々善事を積み重ね「一万善」を達成する決意をした。

毎日、善(よ)いことを行ったとき、3つならば白丸印を3つつける。
悪いことをした場合、2つならば黒丸印を2つつける。
その差し引きで67歳のとき1万に達した。
そのあと73歳まで続け、さらに「五千善」に及んだ。

生涯かけて内省と修養、積善積徳に努めた江戸期の生んだ偉人であった。

広瀬淡窓

 

広瀬淡窓とは 

(さらに…)

posted by at 06:26  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 7 杉 瀧子

洋の東西を問わず、歴史に名を残すような人物にとって、両親、特に母親の感化する力には大なるものがあります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室の塾生のお母さんも同様です。
歴史上表に出てはこなくても、「女は弱し、されど母は強し」です。
子供を感化教育するのは、何よりもお母さんであることは疑う余地がありません。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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現在の日本史の教科書の面白みの無さは、そこにドラマや人間の匂いを感じさせるものがないことからきていると思います。限られたページ数の中では、事実の列挙に終始せざるを得ない(?)。

たとえどんなに教科書が厚くなっても、エピソードやドラマを織り込むようなものであれば、子供たちは自然と引き込まれるはずです。むしろ、常用漢字などにとらわれずに難しい言葉にはルビを振ることで、漢字・熟語、語彙力が増えるような編集の教科書ならば、歴史のみならず、国語力も高めていくことは間違いありません。

「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・

<松陰を育てた母の慈愛> 杉 瀧子

 安政六(1859)年、野山獄にいた吉田松陰は幕府の命令により江戸へ檻送(かんそう)されるとき、獄司のはからいで一晩、わが家に帰された。
 杉家(養子に行く前の実家)では両親兄弟らが待っていた。母の瀧(たき)子は風呂をわかし、松陰の背中を流しつつこう言った。
 「寅次郎(松蔭の幼名)よ、今一度江戸から無事帰って気嫌のよい顔を見せておくれ」
 江戸送りは容易ならぬ事態であったが、母として子の無事帰還を望むのは当然の親心である。
松陰は死出の旅路と思ったものの、こう答えた。
 「母上様、必ず無事に帰ってお目にかかりますから、ご心配ご無用でござります」

 萩から遠く外へ出るとき見送る場所にある松の木は、人々が惜別の涙を流すので涙松といわれた。
松陰がここで詠んだ歌が
「かへらじと思ひ定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
である。

 10月27日、松陰が死刑にされたとき、父の百合之助(ゆりのすけ)と瀧子は病気になった家族の看病疲れで日中うとうと、うたた寝をしていた。
すると父は目を覚まし、
「いま私は首を斬られた夢を見たが誠によい心地であった」
と告げた。
 瀧子は
「私はまた寅次郎が只今江戸から帰った夢を見ましたが非常によい血色でありました」
と言った。

 松陰が斬られたちょうどそのとき、松陰の魂は父母の夢路にあらわれて最後の別れをしたのである。
至孝の人であった松陰は母への約言を守った。

松陰のような人物が出たのは、立派な父とこの慈母、瀧子が存在したからである。

江戸時代は、儒教の考えに基づき「君に忠、親に孝」という心持ちが常識でした。
とくに、「親孝行」は、身分の上下を超えて奨励され、また自然でもありました。その中でも特に「親孝行」な庶民には、藩主自ら褒美を授けて他の模範として表彰するほどです。

江戸時代の文化や教育など、現代の日本人が範とすべきことがたくさんあります。

   杉 瀧子

 

杉 瀧子  (さらに…)

posted by at 14:19  | 塾長ブログ
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