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母の教えと教訓歌 6 吉田松陰

日本人の美徳の一つは「親孝行」です。
自分がこの世の中に存在し、健康である事に感謝できるのは親あってこそです。
日本の長い歴史の中で、親が子を思い子が親を大事にする人倫の道は世界に誇ることができるものです。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、「長幼の序*」と共に、「親孝行」など人としての在り方も学んで欲しいと考えます。
*「長幼の序*」=年長者と年少者との間にある秩序。子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方。
「五倫」(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の一つ。

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「親孝行したいときには親は無し」

母から耳にタコができるほど聞かされた言葉。
今考えると、子供に言い聞かせるよりも母自らの気持ちを吐露していたように感じます。

「親が達者なうちは、親の苦労や有り難みになかなか気づかない。それに気づく頃には親がこの世を去っている。生きているうちに孝行しておけばよかった、と悔やみ嘆くこと。」

英語では

By the time you’d like to be a good son, your parents are already gone.

(直訳的に;貴方が良き息子であろうと思うときには、貴方の両親は既にこの世を去っている。)

幕末の志士 吉田松陰(長州藩士)。
江戸幕末期、日本各地を巡り様々な交流をしつつ、幕藩体制下での日本の将来を憂え、黒船来航を機に欧米列強による植民地化を危惧する。自らの目で外国の情勢を確かめるために密航を企て、米国軍艦に乗り込もうとしたが失敗。
結局捕まり投獄される。その後免獄され萩の生家に幽閉される。

その間、生家の敷地内で所謂(いわゆる)松下村塾を開き、10畳程の小家屋で、僅か三年弱の期間で八十名ほどの少年らの塾生に教授する。
塾生の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋等、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成しました。

後、幕府の弱腰外交を厳しく糾弾。尊皇攘夷の挙に出るべく行動。
「安政の大獄」によって伝馬町牢屋敷に囚われ、斬首さる。

処刑を前に、家族思いの吉田松陰は家族への手紙に別れの歌を送ります。

「親思う 心にまさる 親ごころ
 今日の音づれ なんと聞くらん」

「子供が親を想う気持ちよりも、親が子を想う気持ちの方が強いという。
その親が、処刑されるという今日の私の身の悲しい報せを、なんと聞くのであろうか。」

子が親より先に死ぬことは、何にも増して辛く悲しいことです。
松陰は処刑される身でありながら、親の気持ちを思いやり、切ないほどの句を詠みました。

因みに、この原文は現在でも萩に残されています。

吉田松陰像

松陰、幼名寅之助  (さらに…)

posted by at 13:31  | 塾長ブログ

母の教えと教訓歌 5  山本五十六

子供の頃を思い出してみれば、「お母さん」の笑顔や優しい言葉ほど力を与えてくれるものはありません。
「良かったね」
「良くできたね」
「お利口さんね」
・・・子供心に前向きな、元気が出る、励ましの言葉を「お母さん」に掛けて貰うことがどんなに嬉しいか。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供さんの力を信じ応援しているお母さん方と協力して、子供さんの能力を高めていきたいと考えています。
今回ご紹介するのは、いつの時代でも教え導く立場にある人の座右とも言える歌です。

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「やってみせて 言って聞かせて やらせてみて
 ほめてやらねば 人は動かじ」

「人を動かすには、自分でやってみせて、言って聞かせ、相手にそれをやらせてみて、
やったことを褒めてやらなければ、誰もが動かない。」

それを実践するのが山本五十六の言葉です。
会社の部下であれ、子供であれ、やる気を出させてくれる上司や「お母さん」は間違いなく尊敬されます。

山本五十六は旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれます。
生まれた時の父親の年齢から「五十六」と名付けられました。
母親も45歳と当時としては高齢での出産です。

五十六は子供の頃から負けず嫌いでした。
小学生時代「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだしたとの逸話も残っています。

大日本帝國海軍軍人で連合艦隊司令長官である山本五十六は、
米国ハーバード大学に国費留学し、駐米武官としての経験から、当時の米国の事情にも精通していました。
従って、
日独伊三国軍事同盟に反対し、日米開戦に大反対しました。
しかし、
ひとたび米国との戦いが決すると、「短期決戦・早期和平」の目標の元作戦計画を立案します。
大東亜戦争(所謂太平洋戦争は米国側からみる呼称)の初期には、真珠湾攻撃など歴史に残る戦果を挙げます。

しかしながら、米国に日本軍の暗号が解読されているのを知らずにミッドウエー海戦を挑んでから、形勢が不利となっていきます。

数多の先人達の粉骨砕身の御蔭で現在の日本や私達があるのですが、歴史の教訓をしっかり学ぶのも私達の責務であると思います。

海軍大将米内光政と山本五十六

 

山本五十六の戦死 (さらに…)

posted by at 14:08  | 塾長ブログ

母の教えと教訓歌 4 上杉治憲(鷹山)

子供達は好奇心が一杯です。

知らない事を知るのには興味津々。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、幼児さんもお兄さんやお姉さん達に交じって勉強しているので、知らず知らずのうちに様々な言葉や知識が耳から入ってきます。

小学校の高学年になると、周りの大人達の言葉やマス・メディア(とくにテレビ番組)の影響でNegative Thinking(ネガティブ シンキング、後ろ向きな考え方、否定的な考え方)になる子供達もいます。

そうではなくPositive Thinking(ポジティブ シンキング、前向きな考え方、肯定的な考え方)で何事にも積極的に取り組む姿勢を、是非身に付けさせたいものです。

物心つき始めた頃から、常に素直に、前向きに考える癖をつけていく事はとても大事です。
「三つ子の魂百まで」は、物事に取り組む姿勢を身につけるのには幼年期が最重要である事を示しています。

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幼い時から繰り返し聞かされた言葉、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も」。
どの様な場面で聞かされたか記憶にはないのですが、子供心に同じ様な言葉の繰り返しと不思議なリズムが印象的でした。

多くの人も励ましや激励の意味で耳にしたことがあるのではないでしょうか。

「為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり」

「どんなことでも、やってみれば達成できる。やらなければ達成できない。達成できないのは、人がやらないからだ。」

江戸時代中期、出羽国(現、山形県)米沢藩 第九代藩主 上杉治憲(はるのり)、後、鷹山(ようざん)の言葉です。
当時の米沢藩は、初代から八代までの累積赤字で財政が逼迫し、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと考えたほど藩財政の立て直しが喫緊の課題でした。
つまり、石高が十五万石でありながら、初代藩主景勝の意向により、移封前の会津百二十万石時代の家臣団六千人を召し放さず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高くなっていたのです。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたうえに飢饉などが重なり、二進も三進もいかなくなっていたのです。

治憲は、多くの軋轢の中でも改革を断行します。
新田開発や河川改修などの開発事業。「大検約令」を発し、藩士・農民への質素倹約の励行。
また、農政を改革し、教育を進め、「織物業」など産業を発展させていきます。
自ら粗衣粗食に耐え、礼節を守り、身分を問わず学問を学ばせることもしました。

     上杉鷹山公

米国の故ケネディ元大統領やクリントン元大統領が日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山の名を挙げています。

伝国の辞

(さらに…)

posted by at 14:10  | 塾長ブログ

「己の如く人を愛せよ」

本 日八月九日は、七十一年目の原爆忌です。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、原爆投下時刻の11時2分、黙祷の時刻に三歳の子供達と大地にたっぷりと水を注いでいました。
あの日熱戦や熱風で焼かれた人々は水を沢山欲したそうです。
被爆二世である筆者も幼い頃から母の数々の原爆にまつわる話を聞いて育ちました。
母方の伯母・叔母と赤子の従兄弟も犠牲者です。

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『長崎の鐘』や『この子を残して』の著者であり、
70年前、長崎で被爆した医学博士・永井隆先生。

「己の如く人を愛せよ」という
『新約聖書』の言葉そのままの人生を送られた先生と
71年前のきょう、同じ時を過ごされたのが
久松シソノさんです。
(久松シソノさんの『致知』2006年11月号 対談の記事がメルマガで配信されたのでご紹介します。)
『致知』2006年11月号 対談

  「己の如く人を愛せよ」

 久松シソノ
   (永井隆記念国際ヒバクシャ
    医療センター名誉センター長)
 

 被爆直後の長崎で、
 ご自分の身も顧みず被爆者の救護に
 あたられた医学博士・永井隆先生。
 43年の短いご生涯は、

「己の如く人を愛せよ」
  
 と説く新約聖書の
 教えそのままの生き方でありました。

 私が被爆をしましたのは、
 長崎医科大学附属医院物理的療法科で
 婦長を務めていた22歳の時です。

 地下で書類の整理をしていたところ、
 突然ピカーッと目を射るような閃光が差し、
 爆風で吹き飛ばされたかと思うと、
 激しく床に叩きつけられていました。

 瓦礫の山をやっとの思いで這い出すと、
 水道の蛇口が爆風で開き、
 豪快な音を立てて噴き出しています。
 あまりの息苦しさにゴロゴロとうがいをしました。

 高い薬局の塀を攀(よ)じ登ると、
 顔じゅう血まみれになった永井先生が
 
「まごまごしていると焼け死ぬぞ」

 と懸命に救出の指揮をとられています。
 火の手はすぐそこまで来ていました。

「早く逃げましょう!」

 そう言った私に、先生は

「一大事とは
 今日唯今のことなりーっ」

 と掠(かす)れた声で
 おっしゃるではありませんか。

 私たちが日頃積んできた厳しい訓練の成果は
 いまここで発揮されるのだ、 
 私にはそうおっしゃっているように思えました。

先生のこめかみはガラス片で奥深く切られ

(さらに…)

posted by at 14:08  | 塾長ブログ

暗唱することの素晴らしさ

暗記する力を幼い時から身につけると、覚えようと意識しなくても言葉が自然に口の端にのぼるようになります。
長崎市五島町にある羅針塾学習塾・幼児教室では、リズムが有りメリハリの効いた文章を暗唱できるまで繰り返しています。
それは歴史を紐解くと古今東西を問わず、暗唱する力のある人は、長じてから様々な分野で活躍する事実に着目しているからです。

ブログを再構築しているため、掲載する日時に前後がありますが、改めて掲載しております。
************************

薩摩藩の郷中*(ごじゅう)教育の聖典といえる『島津いろは歌』を先にご紹介しました。
(*郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法。)
幼いときから人のあるべき道を学ぶ際には、難しい理屈は抜きで言葉の響きやリズムがあると、暗唱することが楽しくなります。
洋の東西を問わず偉人と呼ばれる人々には、幼少期からの早期教育と暗唱が人格形成に役立っています。

『なぜ幕末維新の志士たちは20代で大軍を指揮できたのか?』というコラム記事からです。
http://ameblo.jp/jyoho2040/entry-12168635195.html

近年、暗唱の大切さがふたたび見直されている。
一見、無意味に思われてきた、繰り返し文章を音読する勉強法は、今の時代にも十分通用する。
古典や漢籍を意味もわからず暗唱することで脳を鍛えた武士たちは、明治時代になり外国語の習得に大いに役立った。
ドイツ留学組の人々は、ドイツ語の難しい文法を暗記するのに、漢文の素読で養われた記憶力が活用できた。
森林学者の本多静六(*)はドイツ留学において、ドイツ語の難しい財政学の本を丸暗記して、博士号試験に合格している。
これは小さい頃から古典学習が生かされた明治時代の話である。

(*本多静六 日本の林学博士、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる)

<本多 静六>

 

 

 

 

欧州の偉人についても紹介されています。

ドイツの法学者カール・ヴィッテも

(さらに…)

posted by at 13:19  | 塾長ブログ
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