本 日八月九日は、七十一年目の原爆忌です。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、原爆投下時刻の11時2分、黙祷の時刻に三歳の子供達と大地にたっぷりと水を注いでいました。
あの日熱戦や熱風で焼かれた人々は水を沢山欲したそうです。
被爆二世である筆者も幼い頃から母の数々の原爆にまつわる話を聞いて育ちました。
母方の伯母・叔母と赤子の従兄弟も犠牲者です。
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『長崎の鐘』や『この子を残して』の著者であり、
70年前、長崎で被爆した医学博士・永井隆先生。
「己の如く人を愛せよ」という
『新約聖書』の言葉そのままの人生を送られた先生と
71年前のきょう、同じ時を過ごされたのが
久松シソノさんです。
(久松シソノさんの『致知』2006年11月号 対談の記事がメルマガで配信されたのでご紹介します。)
『致知』2006年11月号 対談
「己の如く人を愛せよ」
久松シソノ
(永井隆記念国際ヒバクシャ
医療センター名誉センター長)
被爆直後の長崎で、
ご自分の身も顧みず被爆者の救護に
あたられた医学博士・永井隆先生。
43年の短いご生涯は、「己の如く人を愛せよ」
と説く新約聖書の
教えそのままの生き方でありました。私が被爆をしましたのは、
長崎医科大学附属医院物理的療法科で
婦長を務めていた22歳の時です。地下で書類の整理をしていたところ、
突然ピカーッと目を射るような閃光が差し、
爆風で吹き飛ばされたかと思うと、
激しく床に叩きつけられていました。瓦礫の山をやっとの思いで這い出すと、
水道の蛇口が爆風で開き、
豪快な音を立てて噴き出しています。
あまりの息苦しさにゴロゴロとうがいをしました。高い薬局の塀を攀(よ)じ登ると、
顔じゅう血まみれになった永井先生が
「まごまごしていると焼け死ぬぞ」と懸命に救出の指揮をとられています。
火の手はすぐそこまで来ていました。「早く逃げましょう!」
そう言った私に、先生は
「一大事とは
今日唯今のことなりーっ」と掠(かす)れた声で
おっしゃるではありませんか。私たちが日頃積んできた厳しい訓練の成果は
いまここで発揮されるのだ、
私にはそうおっしゃっているように思えました。
先生のこめかみはガラス片で奥深く切られ