米国の2020 年の大統領選挙後の情報をSNSなどで読んでいると、所謂「米国型民主主義」が大きく揺れているようです。
かってW. A . S. P (ワスプ:White 白人 Anglo-Saxons 英語を国語・公用語とする白人主流派 Protestant 福音主義協会に所属)と呼ばれた米国のエリート層が政治・経済・社会を牽引していると言われたものですが・・・
基本的に、「活発で、利発で、言語能力に優れ、積極的」これが優秀な「良きアメリカ 人」像だと言われています。
gifted(ギフテッド:天賦の才のある、有能な才能がある)と言われる人々が競い合う厳しい世界が米国の大学にはあります。
最低IQ140以上という難関の超英 才優遇エリート教育を受けるための選考試験。
その担当官が挙げた選考判断には、
語彙の豊富さ、頭の回転の速さ、観察力や分 析力の鋭さ、創造性のある返答、快活さ、旺盛な好奇心、発達した批判精 神、自信がある言動、リーダー的素質など、
だそうです。
歴史的に過酷な国から自由を求めて移民してきた社会で、生き抜くためには強烈に自己主張しなければならない。これが国柄であり国民性とも言えます。
それに比較すると、日本の国柄や国民性は、温厚で争いを基本的に望まない。
良し悪しをいうのではありませんが、日本以外の国では厳しい社会を生き抜くことは相当なストレスがあって当然だと見做されています。まして、エリートとして指導性を発揮するなら尚更です。
ところが、日本では欧米式の人権を過剰に小学校の子供達に押し付けているのではないか。
元公立中学校校長川内先生のメルマガから引用して、ご意見を紹介します。
暴走する人権が生む「悪平等」
欧米から持ち込んだ人権文化は暴走し、学校現場に「悪平等主義」をもたらしました。
「競争=悪」とする考えが蔓延し、子供を競わせること自体を否定するようになりました。「ゴール手前でみんな仲良く、お手々繋いでゴールイン」の徒競走は以前よく笑い話として話題になりましたが、今もなくなっていません。
長女が小学生だった時、足が遅いはずの我が子が徒競走で2着になったと喜んでいたら、何のことはない、
長女は最も足の遅いグループで走った、と言うことでしたからがっかりしました。
何であれこれでは親は自分の子がクラスでどれくらい足が速いのか遅いのか、子供に聞かなければ分かりません。早い話が今の学校は子供に差をつけることを本能的に否定するのです。
足の遅い子供が傷つくから、差別につながるから、と言うのが理由のようです。子供の中には「成績は良くないが足の速さなら負けない」という子供がいます。
そういう子供にとっては運動会は数少ない晴れ舞台であり、親に晴れがましい姿を見せることが出来る数少ないチャンスです。
「お手々繋いでゴールイン」はそんな子供からクラスの英雄になれる機会を奪っているとも言えるのです。言わずもがなですが、競争のないところに成長はありません。
そして子供は他の子供と競争し比べられることによって、自分の優れている点、劣っている点を自覚できるのです。
言い換えれば自分の個性が理解できるのです。それを言うとある種の先生達は「足の速い子供ならそれでも良いが、成績も悪く足も遅い子供の気持ちはどうなるのか」と屁理屈を言います。
なんと馬鹿なことを・・・子供の能力は幅が広いのです。絵のうまい子、話し上手な子、力の強い子、字の上手な子、友達に好かれる子、正義感の強い子、リーダーシップのある子・・挙げればきりがありません。
子供はそれぞれ光るものを持っています。それをクラスの中で輝かせて見せてやるのが教師というものです。
子供はみんなそれぞれ違っているのに、ひとまとめにして「みんな同じだ」とするのは平等でも何でもなく、個性の否定です。こう言えば、ある種の先生は「何の取り得もない子はどうするのだ、傷つくではないか」と、またまた屁理屈です。
私はこんな時「それくらいの傷はあってもいい、かまいません」と言います。
これからの長い人生、傷つくことなしには生きられないのですから少々の傷はむしろプラスになるのです。
現代の子供はすぐに挫折し、回復力が弱いと言われますが、これは子供時代に適度な心の傷を受けてこなかったことが原因ではないでしょうか。
・・・子を持つ親は、子供の将来を考えれば心身共に「強く、逞しい」人に成長して欲しい、と考えるのではないでしょうか。
小学生までは過保護にされても、中学生以上から大人の世界まで、様々な場面で他の人と競うようになるのが現実だからです。
むしろ、
失敗しても、そのことを前向きに考え、更に挑戦する事の大事さを常々説くことが肝要です。