長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。
学ぶときに、鉛筆の持ち方を正しくすることは基本中の基本です。社会に出て、名前や住所を人前で記す機会がありますが、ペンであれボールペンであれ正しい持ち方で記したいものです。同様に、外食の際に箸で食するときに箸の持ち方は気になるものです。
「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、「箸の上げ下げ」についての論考がありますので、引用してご紹介します。
箸の上げ下げで人生が決まる
「箸の上げ下げでお里が知れる」というが、たかが箸されど箸。箸の扱いひとつで良く見られるのなら、これを身に付けない手はない。「箸の使い方で人生が決まる」といっても過言ではない。私の知る限り、箸が正しく使える人に、おかしな人はいない。
ではなぜ「箸」なのか。食事をするときの箸の使い方は、特に目につきやすい。それでいて、伝統的な日本の家庭教育では、箸の使い方は最も厳しく躾けられた事実がある。つまり、正しく箸を使えば、両親は「伝統を重んじる真っ当な日本人」であることがわかる。だから箸の上げ下げでお里が知れるのである。立ち居振る舞いをこなすには二十年の修行が必要といわれるが、箸の使い方を身に付けるのは、さほど大変ではない。
日本では古くから箸を神事に用いてきた。元々箸は神霊の宿るもの(神の依代:よりしろ)とされ、秋に宮中で行われる新嘗祭(にいなめさい)では、箸は神人共食(しんじんきょうしょく)の祭器とされてきた。例えば、伊勢の神宮では毎日神前にお食事と一緒に箸が供されているように、箸は神聖なものとされてきたのである。
(中略)
なぜ日本人は箸の使い方に美しさを求めるのか。それは、箸はただの食具のみならず、精神的な存在であるからだと思われる。古来、唾液が付く箸には、使った者の魂が宿ると信じられてきた。そのため、箸と茶碗と味噌汁椀などはそれを使う者の分身として大切に扱われてきた。銘々皿や銘々茶碗の文化もその名残である。
(中略)
大和言葉(古代日本語)では「はし」は二つの世界を繋ぐ役割を果たすものを意味した。川の両岸を繋ぐのが「橋」、地面と建物をつなぐのが「階(きざはし)」(階段)、上と下を繋ぐのが「梯(かけはし)、そして、物の隅を「端(はし)」と呼んで次の空間に繋がる部分と観念された。そして「箸」は、神々の息吹を大自然の恵みとして体内に取り込む道具であり、大自然と自己が繋がるものである。つまり、箸は神々と自分を繋ぐ神聖な道具ということになる。そして、その神聖な箸に自分の唾液が付くことで、箸に自分の魂が宿ることになる。
このように、日本人にとって箸はただの食具であるのみならず、特別な意味を持つ神聖な食具であり、したがって箸の使い方には多くの作法がある。正しく箸を使う人はそのような文化の継承者ということになろう。
・・・改めてこのような話に触れると、日常の食事の一回一回が、いかに大事なものであるか、また神聖なものであるかがわかります。「神々の息吹を大自然の恵みとして体内に取り込む」道具が「箸」と肝に銘じて大事に取り扱い、正しい持ち方がいかに重要かを改めて理解できました。
これからの日本の子供達に、しっかりと「箸」の持ち方、また作法を伝えていく役割が両親や大人にはあります。