千里の道も一歩ずつ 二宮翁夜話

武漢ウィルスの蔓延で人混みの中に行くことは自粛することが肝要です。考えてみると、日本人は昔から親から子へと、「人混みは避ける」「人混みの中へ行ったら、帰宅すると嗽(うがい)・手洗い」を伝えていました。

春休み期間中ですが、もう直ぐ小学校一年生になる塾生さん達は、就学前の学びを日々行っています。素読・音読をし、レベルに応じて辞書を引き、意味を書き写していきます。身につけていくべき言葉を一つずつ、一つずつ。まさに「千里の道も一歩から」です。

さて、積み重ねることの大事さを説く二宮翁夜話 巻之一 十四から引用してご紹介します。

翁曰(いわく)、大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし、小積りて大となればなり、凡(およそ)小人の常、大なる事を欲して、小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて、 出来易き事を勤めず、夫故(それゆえ)、 終(つい)に大なる事をなす事あたはず、 夫(それ) 大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり、 譬(タトヘ)ば 百万石の米と雖(イヘド)も、粒の大なるにあらず、万町の田を耕すも、其(その)業(ワザ)は一鍬づゝの功にあり、千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一簣(ひトモツコ)の土よりなる事を明かに弁へて、励精(レイセイ)小さなる事を勤めば、 大なる事必(かならず)なるべし、 小さなる事を忽(ユルガセ)にする者、大なる事は必(カナラズ)出来ぬものなり 

・・・二宮翁が仰るには、大事(物事の根本に関わるような重要なこと。大事業)を為そうと欲するならば、小さなること(重要ではない、小さいこと)を、怠らず(途切れなく、中断することなく)勤む(精を出してつとめる)べきである。

凡そ(おおよそ、大体)小人(器量の無い、人徳の無い人)の常(習い、習わし)は、大きな事を欲して、小さいことを怠り(なまける、手落ちがある)、出来難い(可能性がない、仕上がりにくい)ことを憂いて(心配して)、出来易い(可能性がある、仕上げやすい)ことに努力を傾けない。

それ故、終に(最後に、終わりに)大きいことを成し遂げることが出来ない。それは、大は小を積み重ねていくことによって大になるということを知らないからである。

譬えば(例えば)、百万石(石:穀物などを量る単位。1石は10斗、約180リットル。大名・武士の知行高を表す)の米といえども、粒が大きいわけではない。万町(町:区画した田地)の田を耕すといえども、その業(業績、成し遂げたもの)は、一鍬づつの積み重ねの功績である。

千里の道も一歩ずつの歩みの重ねにより到達が出来る。

山を作るにも、一簣(もっこ:縄を網のように四角に編み、石や土を四隅をまとめるようにして担いで運ぶ道具)の土よりなることを明確に弁えて(道理を承知して)、励精(心を励まし努力すること)して、小さなことから精進すれば、大きなこと(大事業)も必ず成就する。小さなことを忽(ゆるがせ:物事をいい加減にする、なおざりにする)にする者は、大きなこ

と(大事業)は必ず出来るわけがない。

 

・・・毎日毎日、一字、一字、一語彙ずつ。漢字帳や帳面に一行ずつ、一頁ずつ。その積み重ねが、一月、半年、一年となります。そして小学校、中学校へと。

筆者の記憶を振り返ると、小・中・高、更に大学へと続く中で、クラスで一番、学校で一番という同級生は、クラスで、また学校で一番努力を積み重ねてきた人でした。

以下は、報徳博物館(https://www.hotoku.or.jp/sontoku/)からの引用です。

報徳博物館から引用

 二宮翁(二宮金次郎、尊徳)は、足柄平野の栢山村(小田原市)の比較的裕福な農家の長男として誕生。幼少時から教養のある父に教育を受け、一方では優しい母の慈愛を存分に得て幸せに育ちました。
しかし、不幸にして異常天候のため酒匂川の氾濫が度重なり、荒廃した田畑の回復もかなわず、父母は心身疲労で相次いで死去、一家離散という事態に陥りました。

金次郎は伯父万兵衛の家に預けられますが、逆境にもめげず卓越した才能を発揮します。
作業の合間に、稲の捨て苗や菜種を空き地に植えて収穫、毎年その収益を増やして田畑を買い戻し、成人後間もなく家の再興に成功しました。

その手法を生かし近親者の家政再建を行ったほか、奉公に出た小田原藩の家老・服部家で「五常講」という金融互助制度(のちの信用組合のはしり)をはじめ、服部家の立て直しを依頼されるなど、その才覚を表してきました。
やがて、そのすぐれた発想と実践力が小田原藩主・大久保忠真から見込まれ、財政難に苦しむ藩主の身内である旗本の野州(栃木県)桜町領の財政再建を託されます。

金次郎はこれを契機に財政再建・農村復興の仕事(報徳仕法)にまい進することになります。
桜町領再建は苦節10年の難事業でしたが、その成功はたちまち近隣の注目を集め、諸領諸村からの仕法の要請が相次ぎ、復興事業や飢饉救済に多忙を極めます。
晩年には幕臣に取り立てられ、日光神領をはじめ一部幕府領の再建に総力をあげて取り組みますが、かたわらすぐれた弟子たちを介して、諸家、諸領の復興指導も続けました。

安政3年(1856)、70歳でその生涯を終えるまで、報徳仕法の手ほどきを受けた地域は600か村に達したといわれています。

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