国語力をつけることが、子供さんたちの「学ぶ」力を大きく伸ばしていく、ということにお母さん方が「氣」付いて頂くと、子供さんたちの学ぶべき道が見えて来るのではないでしょうか。
幼児さんや小学生をお持ちのお母様方が、自らの学びの来歴を考えられると、幼少期に何をすべきであったかが、ご理解できると思います。お母さん方の母上も悩みながら、子育てをされていた筈です。
年を経て振り返ると、ああすれば良かった、こうすれば良かった、というのが人生でもあります。
さて、「国語力の基本ー素読の効用」の続きです。
「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「脳科学が示す素読の効用~なぜ子供は素読に夢中になるのか?」(http://blog.jog-net.jp/202008/article_2.html)からの引用とご紹介です。
■5.「一人一人の目がかがやき」
3,4歳になると、「聞く、話す」から「読む」段階に進みます。その際に使われる伝統的な教育方法が「素読(そどく)」です。
素読とは「言葉(文章や文、単語)を、意味の理解を伴うことなくその字面を追って、あるいはお手本となる発話者の発音通りに声を出して読むこと」です。冒頭の石井式の漢字カードもこの一種です。「意味の理解を伴うことなく」という点が肝心で、文字を見ながら、意味が分かろうが分かるまいが構わずに、先生の発音を真似て発声します。
ドイツ文学者の安達忠夫・埼玉大学名誉教授は自宅の近所の子供たちを集めて、寺子屋を始めた時の経験をこう書かれています。
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子どもたちは受け身で楽しむより、いっしょに唱えたり、積極的にかるた遊びをしたりするのが大好きです。試みに、わたしの国語体験の原点ともいうべき「いろは」も教えてみました。
一人一人の目がかがやき、愉快そうに笑っている子もいます。数週間平仮名だけの音楽をたっぷり楽しんだあと、こんどはいきなり、漢字まじりの「いろは歌」です。最初、子どもたちはいぶかしげな表情を見せましたが、わたしが唱えていくと、打てば響くような反応がかえってきました。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
・・・当塾でも、武漢ウィルスが収束するまでは、自粛中ですが。
「素読」「音読」は、夏の蝉と同じ様に、塾生の誰かが、大きな声で読みだすと、それに呼応して誰かが大きな声で読み始めます。すると、不思議なもので、あちこちで、ミーン、ミーンとセミが泣くかの如く、唱和し始めます。
声を大きく出すと、何故か元気になるのも不思議です。
■6.意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている
「意味不明のことばなのに、子供たちはなぜ、あんなに生き生き反応するのか?」
この疑問を科学的に追求すべく、安達教授は、脳科学を専門とする東北大学の川嶋隆太教授と共同研究を始めます。
川嶋教授は、「意味のある文章」を黙読している時と、「意味のない文章」を黙読している時の脳活動を比較しました。「意味のない」とは、一つの文章の文字をランダムに並び替えて、「み日地千実比道に湯て口原区は」などとしたものです。
両者の脳活動はほとんど同じでした。これは意味が分かっても、分からなくとも、脳は同じように活動する、ということです。ただ右半球の頭頂葉、書かれた文字の意味の理解をする機能をもっていますが、ここは意味のない文章を読んだ場合の方が活発に動いていました。ランダムに並んだ文字から、なんとか意味を読み取ろう、と努力しているのでしょう。
意味が分からなくとも、脳は一生懸命動いている、ということは、素読によって脳が活発に動き、発達する、という事でしょう。したがって脳を育てるために、素読は効果的だということです。
しかも、意味を問わない分、どんな難しい文章でも、たくさん音読できますから、子供たちは大量の語彙を吸収することができます。しかも、皆で一緒にリズミカルに声を出すという主体的な動きで、模倣と繰り返しの好きな子供たちは楽しみながら、言葉を学ぶことができるのです。
・・・何故か、人も蝉も賑やかで大きな声には、反応し活性化する、みたいな研究ですね。
■7.意味を問わない幼年期、意味を考え始める少年期
「意味を問わない」という点が、近代教育に慣れた我々から見ると、理解しにくい点です。
「意味も分からずに論語の文章を音読できるようになって、何になるのか」と考えてしまいます。
脳の成長過程では、二つの臨界期があります。3歳までに脳の7~8割ができあがって、聞いたり話したりできるようになります。この幼年期では、模倣と繰り返しが大好きで、意味を考えることなく、言葉のリズムや響きのみでも楽しめます。ですから、幼年期に楽しみながら、大量の言葉を音と文字の図形だけでも吸収しておくことができるのです。
8~10才を超えた少年期になると、意味を知りたい思いが顕在化してきます。この時期になると、幼年期の素読の時に潜在的記憶の中に蓄積されていた語彙の意味が分かると、ハッとするのです。
たとえば、『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という一節の意味を知っている人はほとんどいないでしょう。意味も分からずに、ただ歌っているのは、ちょうど素読と同じです。
さざれ石とは、石灰質角礫岩と呼ばれる石の一種で、小石が長い年月の間に、セメントで固めたように、互いにくっついて、やがて大きな巌(いわお)となります。まさに一人ひとりの国民が連帯して、大きな「和の国」となっている日本の象徴です。
幼年期には意味も分からずに歌っていた歌詞が、何年かして、こういう意味だと知ったときに、「そうだったのか」という感動とともに、より深く心に刻まれるのです。
このように、幼年期に素読で大量の語彙をその響きとともに、潜在記憶に蓄えておき、少年期以降に自分が出会った際に体験的に意味を理解して、その言葉を我が物とする、というプロセスは、脳の発達のプロセスから言っても、きわめて合理的なやり方なのです。
・・・この感覚は、「国歌」を斉唱するたびに子供時分の筆者も感じていました。
『君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」という箇所は、「さざれ石の岩」「大人となりて」という風に思いながら、長い間歌っていました。
それが、長じて「細石『さざれ)石」の実物を、長崎県千々石町の橘神社で見、謂れを理解した事で長年の疑問が氷解しました。
■8.「意味が分かる」ということの意味
我々は「意味が分かる」という事の意味を考え直さなければなりません。
たとえば、小学生に「情けは人のためならず」の意味を説いて、「人に情けをかけることは、自分のためにもなるんだ」と一応の理解をさせることはできるでしょう。
しかし、小学生では「ふ~ん」と聞いても、頭の中で意味を知的に理解したというだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。
その後、中学生くらいになって、電車の中でお年寄りに席を譲ったら、お礼を言われて、自分自身が爽やかな思いをし、「あ、これも情けは人のためならずだな」と素読で習った事を思い出したら、どうでしょう。
それまでの理知的な理解に対して、実感の籠もった深い理解に達します。物事の意味とは、体験の積み重ねを通じて、理解が深まっていくものです。
とすれば、はじめから言葉の意味を説明して、小中学生の段階で「分かった」と思い込ませてしまうよりも、その時はまだ分からない事として、その後の人生で徐々に自分なりに感じ、考えながら、意味の理解を深めていく、という方が、深い学問につながります。
こう考えると、現代教育で、就学前はあまり「聞く」「話す」の機会を与えず、入学するといきなり、抽象的なひらがなから「読み」「書き」、「意味」まで一気に教える、というのは、いかにも人間の成長過程を無視した「押しつけ」教育に見えます。
だから、小学校の教室では、冒頭に紹介した保育園ほど子供たちは活き活きしていないのでしょう。
3才までは家庭で母親や祖母などから、たっぷり語りかけ、読み聞かせをしてもらって脳を育て、3才以降は素読を中心に、先生の読みを模倣しながら、なるべく多くの言葉の音とリズムをくり返し潜在記憶に蓄える。8~10才からは、勉強と人生経験を積んで、それらの言葉の意味の体験的理解を深めていく。
これが江戸時代までの我が国の子育ての方法でした。
それは脳の成長過程に適した、合理的な教育方法だったのです。
脳の成長過程に合っているからこそ、漢字カードや素読に子供たちは夢中になるのです。日本中の子供たちが、こういう風に活き活きと国語を学んで欲しいものです。
読者の皆さんが小さなお子さんをお持ちでしたら、ぜひ語り聞かせ、読み聞かせを十二分にしてあげて下さい。
保育園幼稚園に入る年頃なら、ぜひ近所で石井式や素読を実施している処を探してみて下さい。定年後に時間の余裕ができた方々なら、自ら寺子屋を開いてはいかがでしょうか。
江戸時代の教育は、こうして家庭や寺子屋が担っていました。
そうして育てられた人々が、明治日本の世界史に残る躍進を実現したのです。
・・・当塾でも、なかなか簡単ではありませんが、同じ思いで日々塾生の成長を願いながら、「素読」、「音読」を繰り返しています。