学問のすすめ 初編 4

長崎市の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、国語力をつけることがレベルの高い学びの基本だと考えます。

「読み・書き・算盤」と昔の人が言い慣わした通りである、と最近の学力の格差をみるにつけ痛感します。母語である日本語の語彙が豊かでないと、英語ですら習得することに困難を覚える子供達が増えているという現実があるからです。

さて、「学問のすすめ」初編の続きです。

昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民のうちに人物あれば政府の上に採用せらるべき道すでに開けたることなれば、よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。およそ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極みは恥を知らざるに至り、己が無知をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴の及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度を頼みてその身の安全を保ち、その家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。あるいはたまたま身本慥かにして相応の身代ある者も、金銭を貯うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。ついには遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。

昨今(近頃)の有様(状態、様子)をみると、農工商の三民(士農工商の内の三身分)は、徳川の御世(みよ)と比べ百倍ほどの地位に達し、士族と肩を並べるほどの勢いに達し、今日でも農工商の三民の身分でも、(有用の)人物であれば政府の役人として採用されるべき方途(ほうと:手段、方法)は開けているので、その身分を顧みて(その属する地位や役割を気遣って)自らの身分(地位・役目)を重要なものと考えて、卑劣(品性や行動が卑しくて下劣)な所行(なすこと、仕業)があってはならない。

およそ世の中で、無知文盲(知識学問のないこと、字の読めないこと)の民ほど憐れむべきで、また悪む(不快に思う、許し難いと思う)べきものはない。知恵のないことの究極は、恥を知らないところに至り、自分の無知によって貧窮(貧しくて、困ること)に落ち入り、飢寒(飢えと寒さ)に近づいてしまうときは、我が身を罪せず(自分の罪を問わないで)して、みだりに(勝手気ままに)傍ら(かたわら:すぐ近くの、そばの)の富める人を怨み、はなはだしき(程度が普通より超えているとき)は、徒党を結び(不穏なことを行おうと集まった仲間と組み)強訴(掟に反して自己の要求をすること)・一揆(徒党を組んだ武装蜂起)などの乱暴に及ぶことがある。恥を知らないとも言うべき、法を恐れないとも言うべきである。天下の(国の、世の中の)法度(はっと:掟、法律)に依存して、その身の安全を保ちながら、その家族の渡世(社会の中で生きていくこと)をしていきながら、依存するところは依存し、己の私欲のためには、天下の法度を破る。前後不都合の次第(先も後も自分の都合の良し悪し次第)ではないか。あるいは、たまたま身元(生まれや境遇、経歴)が慥か(たしか:事情や経緯がはっきりして、信用のおけるさま)でそれ相応の身代(しんだい:財産)がある者も、金銭を貯えることは知っていても、子孫を教えることを知らない。教えを受けていない子孫であれば、その愚かであることも怪しむ(不思議に思う、変だと思う)ことはない。ついには(最後には)、遊惰(ゆうだ:仕事もせずにぶらぶらと遊んでいること)放蕩(ほうとう:ほしいままに振る舞うこと)に流れ、先祖代々の家屋敷・財産も一朝の煙(僅かな時の煙)となしてしまう者が少なくない。

かかる愚民を支配するにはとても道理をもってさとすべき方便なければ、ただ威をもっておどすのみ。西洋のことわざに「愚民の上にからき政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招くわざわいなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。仮りに人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風におもむくことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法のからきとゆるやかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政をにくむ者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、ひろく事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はそのまつりごとを施すにやすく、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

この様な愚民(愚かな人民)を支配するには、とても道理(人の行うべき正しい道)をもって諭す(事の道理を理解できる様に言い聞かせる)方便(手段、手立て)が無ければ、ただ威(い:人を恐れ従わせる力)をもって畏す(畏れさせて従わせる)のみである。西洋の諺に、「愚民の上に苛き政府あり(愚かな人民を統治するには、苛酷な政治を行う政府がある)」とはこのことである。これは政府が苛酷(思いやりがなく、厳しいこと)なのではなく、愚民が自ら招く災いである。愚民の上に苛酷な政府あれば、良民の上には良い政府があるという理屈になる。故に、今の我が日本国においても、この人民ありてこの政治があることになる。仮に、人民の徳義(人間として踏み行うべき道徳上の義務)が今日よりも衰えてなお、無学文盲(学問知識がなく、字が読めないこと)に沈むことがあれば、政府の法も今まで以上に厳重になるであろうし、もし人民が皆学問に志して、物事の理屈を知って、文明の風(経済状態・文明技術水準が高度化した社会の態度)に赴く(おもむく:向かう)ことがあれば、政府の法も一層寛仁(かんじん:心が広く、思いやりのあること)大度(たいど:度量の大きいこと)の状況になるべきである。法の苛酷であるか寛大であるかは、人民の徳があるか、不徳であるかによって、自ずから加減があるだけである。

人は誰も苛酷な政治を好み、良好な政治を悪む(反対する)者があろうか、誰が自分の国の富強(富んでいて強いこと)を祈らない者があろうか、誰が外国からの侮り(軽蔑)に甘んずる者があろうか、これは人である以上誰しもが持つ情である。この世に生まれ報国(国恩に報いるために尽くすこと)の心がある者は、必ずしも自分の身を苦しめ、心を苦しめ、焦慮(焦って苛立つこと)するほどの心配はいらない。

ただ最も大事なことは、国を思う心に基づいて、まず自分自身の行いを正しくし、強い気持ちで学問を志し、博く(大きく遠くまで見通し)物事を知り、それぞれの身分に応じた智識を備え、政府はその政(政治)を行うに分かり易(やす)く、諸民(国民)は政府の支配を受けて苦しみのない様、互いに(国民も政府も)その役割を果たし、ともに国全体の太平(世の中が平穏で良く治まること)を護ろうとすることが一番大事である。

今、余輩(私)が勧める学問も専ら(もっぱら:主に)この一事をもってその趣旨(言おうとする肝心なこと)とする。

 

・・・以上が、「学問のすすめ」17篇のうちの初編です。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」との文言は人口に膾炙(かいしゃ:人の口の端にのること)していますが、その全体を読み通す人は現在では少ないのではないでしょうか。

初編だけでも四回に分けて、簡単な現代語訳をつけてみましたが、改めて福沢諭吉先生の名調子を味わうことができます。

人は長ずるに従って、学問をすることの意味合いを肝に銘じていくことが、長い人生で学び続ける力の源になるのではないでしょうか。

 

posted by at 18:31  |  塾長ブログ, 国語力ブログ

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