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『大学』を素読する17 完

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、素読に実語教を暗誦します。「山高きが故に貴からず 樹有るを以て貴しとす 人肥えたるが故に貴からず 智有るを以て貴しとす」

智が有ることを貴いと明言しています。

さて、『大学』を素読する17です。「大学」全文を17回に渡り現代語訳してきましたが最終回です。

孟獻子(もうけんし)曰く、馬乗(ばじょう)を畜(か)えば、鶏豚(けいとん)を察(さっ)せず。伐冰(ばつぴょう)の家には、牛羊(ぎゅうよう)を畜(か)わず。百乗(ひゃくじょう)の家には、聚斂(しゅうれん)の臣を畜(やしな)わず。其の聚斂(しゅうれん)の臣有らんよりは、寧(むし)ろ盗臣(とうしん)有れと。此(これ)を國は利を以て利と為さず義を以て利と為すと謂うなり。

國家に長として財用(ざいよう)を務むる者は、必ず小人(しょうじん)に自(よ)る。彼(かれ)之(これ)を善くすと為して、小人(しょうじん)をして國家を為(おさめ)使むれば、菑害(さいがい)竝(なら)び至る。善者(ぜんしゃ)有りと雖(いえど)も、亦(また)之を如何(いかん)ともする無し。此(これ)を國は利を以て利と為さず、義を以て利と為すと謂うなり。

(現代語訳) 魯の大夫の孟獻子が下級の大夫となって四頭立ての馬車に乗り、俸禄もそれなりに多くなれば、零細の農家の収入源である鶏や豚を飼うことを思わないようになる。更に夏氷を切って祖廟の御供物の腐敗を防ぐことのできる卿大夫の地位につけば、俸禄も一層多くなるので、牛や羊を飼って収入を大いに増やそうと考えなくなる。百乗を持つことの出来る家老の家では、厳しく税金を取り立てる有能な家臣を用いない。その取り立ての厳しい家臣より、むしろ家の財を横領する家臣のいる方がまだましである。これを国は目先の利を以て利とせず、義を以て真の利とするというのである。

国の責任者として財用を司る者は、必ず才能のすぐれたいわゆるやり手によって事務を処理する。然し、彼がよく出来るからといって、これに高い地位を与えて国政に当たらせると、天災人害が共にやって来る。。たとえ立派な人物が下位にあっても、どうすることもできない。これを国は目先の利を以て利とせず、義(道理に叶った人間の道)を以て真の利とするのである。

・・・「『大学』を素読する」の前書きに、

明の王陽明先生は初学の者に対しては、必ず『大学』を以て教えたと伝えられています。

わが国に於いても、近江聖人と称せられる中江藤樹先生が十一歳の時、大学の

「天子自(よ)り以て庶人に至るまで、壹(いつ)に是れ皆(みな)身を修るを以て本(もと)と為す」

の一句にいたく感動して聖賢の道に志しました。また野の聖人と称せられる二宮尊徳先生が少年の頃、薪を背負いながら常に読み続けたのが大学です。

とあります。

 

posted by at 19:22  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する16

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、素読に実語教を暗誦します。「幼(いとけな)き時、勤め学ばずんば、老いて後、恨み悔ゆると雖も尚(なお)所益有ること無し 故(かるがゆえ)に書を読んで倦むこと勿れ 學文に怠るとき勿れ 眠(ねぶ)理を除いて通夜(よもすがら)誦(じゅ)せよ 飢えを忍んで終日(ひねもす)習え」

さて、『大学』を素読する16です。

唯(ただ)仁人(じんじん)之を放流し、諸(これ)を四夷(しい)にしりぞけて、與(とも)に中國(ちゅうごく)を同じうせず。此(これ)を唯(ただ)仁人(じんじん)能(よ)く人を愛し、能(よ)く人を惡(にく)むを為すと謂う。

賢を見て擧(あ)ぐる能(あた)わず、擧(あ)げて先んずる能(あた)わざるは命なり。不善を見て退くる能わず、退けて遠ざくる能わざるは過ちなり。

人の惡(にく)む所を好み、人の好むところを惡(にく)む。是を人の性に拂(もと)ると謂う。菑(わざわい)必ず夫(そ)の身に逮(およ)ぶ。

是(こ)の故に君子に大道(だいどう)有り。必ず忠信(ちゅうしん)以て之を得(え)、驕泰(きょうたい)以て之を失う。財を生ずるに大道(だいどう)有り。之を生ずる者衆(おお)く之を食する者寡(すく)なく、之を爲(つく)る者疾(はや)く之を用(もち)うる者舒(おもむろ)なれば、即ち財(ざい)恒(つね)に足る。

仁者は財を以て身を發(おこ)し、不仁者は身を以て財を發(おこ)す。

未(いま)だ上(かみ)仁を好みて、下(しも)義を好まざる者は有らざるなり。未(いま)だ義(ぎ)を好みて、其の事終わらざる者は有らざるなり。未だ府庫(ふこ)の財、其の財に非ざる者は有らざるなり。

(現代語訳) ただ仁人であってこういう人物を思い切って追放し、これを外国に退けて国内で共に居ないようにする。これを唯仁人のみが能く人を愛し、能く人を悪むを為すというのである。

智徳兼備の優れた人物、賢人を見ながら挙げ用いることができず、挙げても上位に引き上げて、其の能力を充分発揮させることの出来ないのは君主の怠慢である。不善の人を見ながら退けることができず、退けても遠ざけることのできないのが過である。

人の悪むところ即ち同義にはずれた行為を好み、道義にかなった正しい行為を悪む。これを人の本性にもとるという。そういう者には禍がその身に及んでくるものだ。

そこで君子に歩むべき大道がある。必ず忠信(まこと)の心を以て実践することによって高い地位は得られるが、おごりたかぶり、そしてなまけることによってせっかく得た地位を失うことになる。財を生ずるにも大道がある。生産する者が多く、これを消費する者が少なく、生産を早くして消費をおもむろにすれば財は常に足るのである。

仁者は財を世に施してその身をおこすが、不仁者は身を犠牲にして財をつくる。

まだ上位にある者が仁を好んで、下位にある者が義を好まない者はない。まだ義を好んで、物事が首尾よく終わらない者はない。まだ国庫の財も当然の財として人手に渡ったことはない。

posted by at 19:13  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する15

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、日々の学びの中で語彙を増やす為、「漢字検定」に向けて漢字熟語の意味を辞書で調べてノートに記していきます。

さて、『大学』を素読する15です。

康浩(こうこう 浩の氵を言偏)に曰わく、惟(こ)れ命(めい)常に于(おい)てせずと、善なれば即(すなわ)ち之を得、不善なれば即(すなわ)ち之を失うを道(い)う。

楚書(そしょ)に曰わく、楚國(そこく)は「以て寶(たから)と為す無く、惟(ただ)善以(もっ)て寶(たから)と為すと。

舅犯(きゅうはん)曰わく、亡人(ぼうじん)以(もっ)て寶(たから)と為す無く仁親(じんしん)以(もっ)て寶(たから)と為すと。

(現代語訳) 康浩(こうこう 浩の氵を言偏)に「天命はいつもその人の上にあるとは限らない」とあるのは、善は積み重ねて徳が高くなれば天命は自然に授けられるが、遂に悪行を積み重ねて徳が亡くなると意に反して天命を失うと言うことを言ったものである。

楚書(今の国語の中の楚語)に楚国には特に誇るほどの宝は無いが唯一の宝としているのは善行を積む優れた家臣である。

舅犯(晋の文公の母方の伯父)が文公を戒めて「我々亡命中の者には、宝とすべきものは何もない。ただ親の死に仁の道を以て対することを宝とする」と言っている。

秦誓(しんせい)に曰わく、若(も)し一个(いっか)の臣(しん)有らんに斷斷(だんだん)として他技(たぎ)無く、其の心休休(きゅうきゅう)として、其れ容るる有るが如し。人の技(ぎ)有る、己(おのれ)之(こ)れ有るが若く、人の彦聖(げんせい)なる其の心之を好みし、啻(ただ)に其の口より出ずるが如きのみならず、寔(まこと)に能く之を容(い)流。以(もっ)て能(よ)く我が子孫黎民(れいみん)を保んぜん。尚(こいねが)わくば亦(また)利あらん哉(かな)。

人の技(ぎ)有る。媢疾(ぼうしつ)して以(もっ)て之を惡(にく)み、人の彦聖(げんせい)なる、之に違(たが)いて通(つう)ぜざらしむ。寔(まこと)に容るる能(あた)わず、以(もっ)て我が子孫黎民(れいみん)を保んずる能(あた)わず。亦(また)ここに殆(あやう)い哉(かな)と。

(現代語訳) 秦誓(書経周書の篇)に、ここに一人の重臣がある。生真面目ではあるが特に秀でた才能があるわけではないが、その心はおおらかで、全てのものを包み込むようである。人の秀れた才能のあるのを見て、自分があるように喜び、人が大変立派だという評判があると、それを心からよいとして、単に口先で褒めるだけでなく、本心からこれを受け入れる。こうして我が子孫万民を保んずるであろう。まことに心から利があるように願うばかりである。

それとは逆に、人の才能のあるのを悪み、人が秀れて評判が良いのを見て世に通じないようにする。このように本心から包み込むことができない。これでは子孫万民を保んずることはできない。なんと危ういことだなとある。

・・・「善は積み重ねて徳が高くなれば天命は自然に授けられるが、遂に悪行を積み重ねて徳が亡くなると意に反して天命を失う」の例は、所謂(いわゆる)『善因善果 悪因悪果』とも言われます。善行の勧めは四書(大学・中庸・論語・孟子)の中にさまざまな表現と共に繰り返し述べられています。

また、日本の『実語教』にも、「己が身を達せんと欲せば、先ず他人を達しめよ』とあります。「利己ではなく利他」の心を持つことが、結局最後は我が身に返ってくる、と。

 

posted by at 19:26  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する14

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、日々の会話の中でも正しい言葉遣いで話すことを奨励しています。その為にも正しい国語文法を学ぶことが大事です。

さて、『大学』を素読する14です。

詩に云わく、樂只(らくし)の君子は民の父母と。民の好む所之(これ)を好み、民の惡(にく)む所之(これ)を惡(にく)む。此(これ)を之(これ)民の父母と謂(い)う。

詩に云わく、節(せつ)たる彼(か)の南山、維(こ)れ石(いし)巗巗(がんがん)たり。赫赫(かくかく)たる師尹(しいん)、民具(とも)に爾(なんじ)を瞻(み)ると。國(くに)を有(たも)つ者は以て愼(つつし)まざる可(べ)からず。辟(へき)すれば即ち天下の僇(りく)となる。

詩に云わく、殷(いん)の未(いま)だ師(もろもろ)を喪(うしな)わず、克(よ)く上帝(じょうてい)に配す。儀(よろ)しく殷(いん)に監(かんが)みるべし。峻命(しゅんめい)易(やす)からずと。衆を得(う)れば即(すなわ)ち國を得(え)、衆を失えば即(すなわ)ち國を失うを道(い)う。

是(こ)の故に君子は先ず徳を慎む。徳有れば此れ人有り。人有れば此れ土(ど)有り。土(ど)有れば此れ財(ざい)有り。財(ざい)有れば此れ用(よう)有り。

徳は本(もと)なり。財は末なり。

本を外(そと)にして末を内にすれば、民を爭(あらそ)わしめて奪うことを施(ほどこ)す。

是(こ)の故に財(ざい)聚(あつま)れば則(すなわ)ち民(たみ)散じ、財(ざい)散ずれば則(すなわ)民(たみ)聚(あつ)まる。

是(こ)の故に言悖(もと)りて出ずる者は、亦(また)悖(もと)りて入る。貨(か)悖(もと)りて入る者は、亦(また)悖(もと)りて出(い)ず。

(現代語訳)

○詩経(南山有台篇)に、「ゆったりとして楽しげな君主は民の父母」とあるが、民の好む所を好み、民の悪む所を共に悪む。このように民と好悪を共にする君主を民の父母というのである。

○詩経(小雅節南山篇)に、「そそり立つ高いあの南山は、石がいかめしく積み重なって、天下の総ての人が仰ぎ見るように、週の太師である尹氏という人は、地位が優れて高く、民は目を睜(みは)って彼を仰ぎ見詰めている」とある。国を有(たも)つ君主は慎まねばならない。私利我欲に片寄ってわがままになると、身は弑(しい)せられ国は亡されて、大きなはずかしめを受けることになる。

○詩経(大雅文王篇)に、「殷(いん)は善政を施してまた人望を失わず上帝(天)と並んで天子の位にいたが、紂(ちゅう)に至り暴政を施して人望を失い、遂に天位を失ってしまった。そこで殷の変遷を見て、自らを顧みる鑑(かがみ)とせよ。天の大命はそうやすやすと降るものではない」とある。これは衆望(しゅうぼう)を得れば国を得、衆望を失えば国を失うことをいうのである。

○そこで君主は先ず徳を積んで慎む。そうしてそのその高徳の君主をしたって自(おのずか)ら四方から集まってくる。人が集まって来れば、土地が拓ける。土地が拓けると財物が多く生産されるようになる。財物が多く生産されれば、そこからいろいろな働きが活発に起こってくるわけである。

○要するに徳が本で財は末である。

○本である徳をおろそかにして、末である財を重んずれば、遂には民を争わせて奪い合うことを勧めることになるのである。

○そこで税を厳しく取り立てて、国に財が集まりすぎると、民衆は生活が苦しくなって他国へ去って行くようになる。逆に財を活用して民衆の幸福をはかれば、その風を聞いて他国からもどんどん集まってくるようになる。

○これと同じく道理に反した無茶な言葉を吐くとその仕返しとして暴言が返って来る。また財も無理をし入れたものは、やがて意に反して出て行くものだ。

・・・・・「徳が本で財は末である」「税を厳しく取り立てて、国に財が集まりすぎると、民衆は生活が苦しくなって他国へ去って行くようになる」などは、日本の「(経済成長しない)失われた30年」と重なります。税の国民負担率がほぼ50%にもなり、江戸時代の税負担よりも大きくなると、一揆が起きてもおかしくありません。更に、今年の米不足騒動は、大正時代の「米騒動」に匹敵します。

因みに、寛永14(1637)年の島原の乱は、島原藩主松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てが原因です。松倉勝家は、乱平定後一揆を招いた責任を問われ改易処分となり、後に斬首。江戸期に大名が切腹ではなく斬首とされたのはこの件のみです。

 

posted by at 17:19  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する13

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、塾生は先ず5分間目を閉じて正座をします。心を落ち着けて、これから学ぶことについて平穏に臨む態勢をつくる為です。

さて、『大学』を素読する13です。

所謂(いわゆる)天下を平らかにするには、其の國を治むるに在りとは、上老(かみろう)を老として民(たみ)孝に興(おこ)り、上(かみ)長を長として民(たみ)弟(てい)に興(おこ)り、上(かみ)孤(こ)を恤(あわれ)みて民(たみ)倍(そむ)かず。是(ここ)を以(もっ)て君子に絜矩(けつく)の道有るなり。

(現代語訳) 「天下を平らかにするには、其の國を治むるに在り」とあるのは、君主が老人を老人として心から大切にすると、民は自ら自分の親に孝養を励むようになる。君主が年長者を年長者として大事にすると、民は自ら兄や姉に率直に従うようになる。君主が孤児(みなしご)を憐れんでよく面倒を見ると、民は心から従うようになる。そこで君主には君主としてのよるべき尺度(基準)となる道があるわけである。

上(かみ)に悪(にく)む所を以て下(しも)を使う母(なか)れ。下(しも)に悪(にく)む所を以て上に事(つか)うる母(なか)れ。前に悪(にく)む所を以て後に先(さき)んずる母(なか)れ。後ろに悪(にく)む所を以て前に従う母(なか)れ。右に悪(にく)む所を以て左に交わる母(なか)れ。左に悪(にく)む所を以て右に交わる母(なか)れ。此(これ)を之(こ)れ絜矩(けつく)の道と謂う。

(現代語訳) 上位に対して嫌だと思うことを以て下位の者を使ってはならない。下位に対して嫌だと思うことを以て上位に事えてはならない。前に対して嫌だと思うことを後ろに移してはならない。後ろに対して嫌だと思うことを以て前に移してはならない。右に対して嫌だと思うことを以て左に交わってはならない。左に対して嫌だと思うことを以て右に交わってはならない。これを人間交際の尺度(基準)と謂うわけである。

・・・上段の「天下を平らかにするには、其の國を治むるに在り」として君主としてのよるべき尺度(基準)を説いているくだりは、古代の政治も現代の政治も同様である筈です。しかしながら、現代の日本の政治指導者に、古典の素養があるとは思えないのが現状です。政治家を志す以上、聖賢の古典をしっかり心に刻み付けて、国民の為に尽力するのが当然であるべきです。

posted by at 18:47  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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