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『大学』を素読する8

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

幼児、小学低学年、中学年、高学年と、「素読」をし続けると、自ら行う「音読」が明らかに、滑舌良く正確に速くなります。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

曽子曰わく、十目(じゅうもく)の視(み)る所(ところ)、十手(じゅっしゅ)の指さす所、其れ厳なるかな。

富は屋(おく)を潤(うるお)し、徳は身を潤(うるお)す。心廣(ひろ)く體(からだ)ゆたかなり。故に君子は必ずその意(こころばせ)を誠にす。

(現代語訳) (孔子の高弟)曽子が「多くの人が注目するところ、多くの人が指摘するところは厳正だなあ」と言われた。

富は家をうるおし徳は身をうるおす。従って、心は広く、体ものびのびとする。故に君子は、必ず自分の意識や感情を正常にするように努める。 *因みに、富と徳を具有することを両潤(りょうじゅん)と言う。

所謂(いわゆる)身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在りとは、身(み)忿(ふん)ちする所有れば、即ちその正しきを得ず。恐懼(きょうく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。好楽(こうらく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。憂患(ゆうかん)する所有れば、即ちその正しきを得ず。心(こころ)焉(ここ)に在(あ)らざれば、視(み)て見えず、聴きて聞こえず、食いて其の味を知らず。此れを身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在(あ)りと謂(い)う。

(現代語訳) よく言うところの「身を修るには、其の心を正しうするに在り」とは、例えば身(心の存する肉体)に怒を含んでいるときは正しく判断することはできない。恐れを懐いてる時は正しく判断することはできない。片寄って好んだり楽しんだりする所があれば正しく判断できない。甚だ心配する所があれば、正しく判断することはできない。心が散漫して止まる所がなければ、視ても其の真実が見えない。聴いても其の真実が聞こえない。また食べても本当の味がわからないということである。これを身を修るには、其の心を正しくすることにありと言う。

・・・如何に、心を正しく平常に保ち続ける必要があるか、と言うことですね。しかし、これがとても難しい。日々、修行です。

posted by at 16:11  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 7

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

令和七年の冬期講習は4日から再開です。素読も同様に始まります。素読の繰り返しは、読み下し文(*)が自然と身に付きます。

(*)読み下し文:漢文を返点、振り仮名、送り仮名などの訓点に従って、日本語に直訳した文章。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

所謂(いわゆる)其の意(こころばせ)を誠にすとは、自(みずか)ら欺(あざむ)く母(な)きなり。悪臭(あくしゅう)を悪(にく)むが如く、好色(こうしょく)を好むが如し。此(これ)を之(こ)れ自謙(じけん)と謂(い)う。故に君子は、必ず其の獨(ひとり)を慎むなり。

(現代語訳) 「其の意を誠にす」というのは、自分が自分を欺かないことである。それは丁度悪い臭いをかいだら本能的に鼻をすくめ、好きなよい色を見れば、本能的に目を見開いて見ようとするようなものでる。これを自らあきたる「自謙」(謙は慊に通ず*)というのである。そこで君子は必ず自ら自分で一人を慎むのである。

*「謙」:謙(ヘリくだ)る、慎んで人の下につく。「慊」:飽き足りない、心に満足しない。

小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善を為(な)し、至らざる所(ところ)無(な)し。君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、其の不善をおおいて其の善を著(あらわ)す。人の己を視(み)ること、其の肺肝(はいかん)を見るが如く然(しか)り。即ち何の益かあらん。此を中(うち)に誠(まこと)あれば外(そと)に形(あら)わると謂う。故に君子は必ず其の独りをつつしむなり。

(現代語訳) つまらない人間は暇があると善くないことを考えて、何をしでかすかわからない。それでも立派な人物に出会うと良心が目覚めて、自分が嫌になって自分の悪いところを隠して善い方を表そうとする。然し他人がそれを見透かすことは、肺臓肝臓を見通すような物で、何の役にも立たないだろう。これを中に誠があれば自然に外にあらわれ出るものだという。偽りもまた同じである。故に君子は必ず独りを慎むわけである。

・・・「小人閑居為不善、無所不至」はよく聞く文言です。簡単に言うと、小人はつまらない、貧弱な考えしか持たない人、大人は富者、貴人を敬っていうこと。君子は学識・人格共に優れ、徳行の備わった人、です。人の性情・人格は、まさに人それぞれですが、大昔から変わらない人間模様があります。

posted by at 18:42  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 6

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

冬休みなどの長期休暇には、幼児から小学生、中学生、高校生と揃うときがあります。年長者が発語し、それに唱和する。百人一首形式の論語カルタから始まり、更に「修身」「論語」「大学」「孝経」「実語教」などから三十分程度正座で素読します。幼児にとっては、聞いたことも使うこともない言葉が出てきますが、素読を重ねていくと大きな声で年上の塾生に負けじと唱和します。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

詩に云わく、於戯(ああ)前王(ぜんのう)忘れられずと。君子はその賢を賢として、其の親(しん)を親(しん)とす。小人(しょうじん)は其の楽しみを楽しみとして、其の利を利とす。此(ここ)を以て世を没(おわ)りて忘れられざるなり。

(現代語訳) 詩経(周公烈文篇)に「ああ前王忘れられずとある。これは後の君主は、前王の尊敬した賢者を同じく賢者として尊敬し、又前王の親愛した人を変わらず親愛した。又一般庶民は前王の遺(のこ)した楽しみを同じく楽しみとして、其の利としたところを利として恩沢を長く享(う)けている。この故に亡くなられてもながく忘れられないのである。

子(し)曰(のたま)わく、訟(うったえ)を聴くこと吾(われ)猶(なお)人のごときなり。必ずや訟(うったえ)無(な)から使(し)めんかと。情(まこと)無き者は、其の辞(ことば)を盡(つく)すを得ず。大いに民の志(こころざし)を畏(おそ)れしむ。此(これ)を本(もと)を知ると謂(い)う。

此(これ)を本(もと)を知ると謂(い)う。此(これ)を知の至(いた)りと謂(い)うなり。

(現代語訳) 孔子が「訟(うったえ)を聴いて判決を下すのは自分も他の裁判官と変わることはない。然し私の窮極の願いは訟(うったえ)の無いような世の中にすることだ」と言われた。真実(まこと)のない虚偽(うそ)の訟(うったえ)は、結局言葉を尽くして言い張ることが出来なくなるものだ。要するに民が自ら省みて、自ら畏れて訟(うったえ)が出来なくさせる。

これを人の道の本を知るというのである。これをまた知の至りともいうのである。

・・・なかなか意義深い言葉です。

素読をする際には、其の言葉の解釈まではしません。「読書百遍意自ずから通ず」即ち、「難しい書物であっても、何度も繰り返して読めば、其の意味は自然にわかってくるものである。それ故、解らないと思ってもすぐに諦めるのではなく何度も読むべきである」とする教え。

筆者は、教科書などを紐解いている際に「分からない」というと、母親から「読書百遍意自ずから通ず」と諭され、其の意味も含めて辛抱して努力することの大事さを繰り返し繰り返し諭されました。

posted by at 18:27  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 5

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。「素読」とは?というお母さん方がほとんどではないでしょうか。「素読」とは、意味を考えないで文字だけを声に出して読むこと。

言葉の意味は年齢にもよりますが、幼児にとっては難関です。親や周りの大人から、繰り返して聞いているうちに理解していきますが、最初は物の名前や人の名から覚え始めていきます。

従って、一見「修身」「論語」などを「素読」するなど荒唐無稽と感じるかもしれませんが、これが不思議な効用をもたらすのです。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

詩に曰わく、穆穆(ぼくぼく)たる文王、於(ああ)緝熈(しゅうき)にして敬止(けいし)すと。人君と為(な)りては仁に止(とど)まり、人臣と為(な)りては敬に止(とど)まり、人子(じんし)と為(な)りては孝(こう)に止(とど)まり、人父(じんぶ)と為(な)りては慈(じ)に止(とど)まり、國人(こくじん)と交(まじわ)りては信に止(とど)まる。

(現代語訳) 詩経(文王篇)に「深淵な風格のある文王は、ああ常に変わらず明るくて、敬み深くゆったりとしている」とある。そのように君主となっては仁政を施し、臣下となっては上を敬い自ら敬しんで業務に精励し、子となっては只管(ひたすら)孝行を励み、父となっては慈愛を旨とし、国人とは互いに信(まこと)を以って交わるべきである。

詩に曰わく、彼(か)の淇(き)の澳(いく)を瞻(み)れば、菉竹(りょくちく)猗猗(いい)たり。斐(ひ)たる君子有(あ)り、切(せっ)するが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し。瑟(しつ)たり僴(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。斐(ひ)たる君子有(あ)り、終(つい)に諠(わす)るべからずと。切(せっ)するが如く磋(さ)するが如しとは、學を道(い)うなり。琢(たく)するが如く磨(ま)するが如しとは、自(みずか)ら修(おさ)むるなり。瑟(しつ)たり僴(かん)たり恂慄(じゅんりつ)なり。赫(かく)たり喧(けん)たりとは、威儀(いぎ)なり。斐(ひ)たる君子有(あ)り、終(つい)に諠(わす)るべからずとは、盛徳至善(せいとくしぜん)、民の忘るる能わざるを道(い)うなり。

(現代語訳) 詩経(衛風(き)澳(いく)篇)に「かの淇水(きすい)のほとりを見ると緑の竹がみずみずしく茂っている。そのように教養豊かな君子がいる、それは丁度、骨や象牙を切り、丁寧にやすりをかけてなめらかにし、石や玉を散りばめて砂で磨け上げるようなものである。おうようで、ゆったりとし明るくて朗らかな、教養のある人物は一度会えば生涯忘れることができない。切するが如く磋するが如しというのは厭(あ)くことなく学び続けることであり、琢するが如く磨するが如しというのは、自ら修養して徳を積むということである。瑟(しつ)たり僴(かん)たりというのは、おうようでゆったりとしていながら、人はどことなくおそれを感じる。赫(かく)たり喧(けん)たりとは、どことなく立ち居振る舞いに威厳があっていつまでも忘れられない。徳高く至善に止まる文王武王の風貌を民は長く忘れることができないのを言ったのである。

・・・「切するが如く磋するが如し」にある、「切磋(せっさ)」は角(つの)の細工をするのに骨などを刀で切り、やすりでみがくこと。「琢するが如く磨するが如し」にある、「琢磨(たくま)」とは、宝石を打って形を整え、砥石(といし)などで磨きをかけること。いずれも長い期間をかけて磨き上げ立派な作品にすることを言います。

勉学に例えれば、「切磋」は厭くことなく学び続けること、「琢磨」は自ら修養努力して学問と徳を積むこと(学徳)

子供さん達が幼児期から学び始め、長い人生を歩む際に、学徳(学問と徳行:道徳に適った行為)を重ね「世の為人の為」になる人物になって行くことは、親御さんからすると「子育て冥利」に尽きるのではないでしょうか。

 

posted by at 15:43  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

『大学』を素読する 4

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

素読から始まり、自ら音読をする勉学は、一生続けることができます。長い人生で幼児期に身につける勉学の方法は、いつまでも活かすことができます。学び続けることで、前向きに何事にも取り組むことができます。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

湯の盤の銘に曰く、苟(まこと)に日に新た日々に新たに、また日に新たならんと。

康浩(こうこう 浩の氵を言偏)に曰わく、新たにする民を作(おこ)すと。

詩に曰わく、周は舊邦(きゅうほう)なりと雖(いえど)も、其の命(めい)維(こ)れ新たなりと。

是(こ)の故に、君子は其の極(きょく)を用いざる所無し。

詩に云わく、邦畿千里(ほうきせんり)、維(こ)れ民の止まる所と。

詩に云わく、めん蠻(ばん)たる黄鳥(おうちょう)、丘隅(きゅうぐう)に止まると。子曰(しのたまわ)く、止(とど)まるに於いて其の止まる所を知る。人を以(もっ)て鳥に如(し)かざるべけんや。

(現代語訳) 殷の湯王の洗面器に刻みつけた自戒の銘に、本当に毎日自己を新鮮にして停滞することがないようにとあるが、これは新たにすることの大切さを言ったものである。

康浩(こうこう 浩の氵を言偏:書経の一編)篇には、民がそれぞれの立場に於て、自らから進んで創造性を発揮する。即ちやる気を起こして自主的に活動するよう指導するのが政治の要道であるとある。これらは新たにすることの大切さを言ったものである。

詩経(大雅文王篇)に、周は旧い伝統ある国ではあるが、そのはたらきは日々に新たで止まるところがない。ここから革命に対して維新という言葉が出て来るのである。

詩経(玄鳥篇)に王城の近く千里は文化も進み、生活も比較的豊かなので、民衆が集まり長く止まる所と思うのは当然である。

詩経(めん蛮篇)に「ゆったりとしてのびやかに黄鳥(日本の鶯に似た鳥をいう)が、丘のほとりに止まって鳴き続けている」とある。孔子は「鳥でさえ安んじて止まる所を知っているのに、人として止まるべき至善即ち正しい所を知らないでよかろうか」と言われた。

・・・「苟(まこと)に日に新た日々に新たに、また日に新たならんと」

漢文にする『 苟日新、日日新、又日新』。これは有名な言葉です。殷王朝を作った「湯王」の座右の銘。洗面の器にこの文字を刻み付け、毎朝洗面するたびにその文字を見て、政治に取り組む姿勢を改めたとのこと。

毎日毎日が異なった一日。常に問題意識を持ち、日々自分の成長を念頭に取り組むことが肝要です。毎朝、心掛けるべき言葉を目につくところに記しておくことで日々の生活が惰性に流されないようにする。勉学に必須の言葉です。

posted by at 19:55  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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