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子供の自発を促すには

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、常々親御さんに子供さんの自律・自立を促すにはどのようにしたら良いかを考えていただきたいと考えています。

就学前でも、小学校就学後でも、学問を勉強するには、段階を経ていく必要があります。

普段よく用いている「勉強しなさい」という言葉は、目的語に当たる言葉が欠落しています。「何を」「強」いて「勉」める(努力する)のか。

親御さんが、子供さんを上手に机に向かせるかは本人の学ぶ「好機」を掴まなければなりません。

一つのヒントになる歴史的な話があります。上智大学名誉教授の故渡辺昇一先生著「人生を創る言葉」(致知出版社)からの引用です。

啐啄同時(そったくどうじ)。早すぎてはいけない、遅すぎてもいけない。熟し切った一瞬の気合いが、人間万事を決する。

二三歳のの家康は岡崎城の城主であった。夙に評判が高かったため、甲斐の武田信玄が家康の家臣酒井左衛門尉(じょう)忠勝に書を送って和睦を求めてきた。酒井はこの書を主君家康に取り次いだ。

その手紙の中に「啐啄」という文字があったが、これがどういう意味か誰にもわからない。散々迷った挙句、岡崎城下に逗留している一人の旅の僧侶がいたことを思い出した、これを呼び出した。

この僧侶は江南和尚という名であった。東国を回る途中というので、汚れた麻の衣、すり減らした草鞋、笠を被り、杖をついて現れた。家康の家臣の石川日向守定成が手紙を持ってきて、この和尚に文字の意味を尋ねた。

「どれどれ」

手紙を手にした老師はにっこり笑って、

「ああ、啐啄か。結構、結構。鳥が卵を破るには節(ふし)があるのじゃ。早すぎれば水で駄目、遅すぎれば腐るという意味じゃ。合点が参ろう。」

と答えた。分かったようなわからないような答えだが、石川わそういう答えをもらって家康に報告した。家康はしばし首を捻っていたが、やがて破顔一笑して、こういった。

「そうか、さすがは信玄だ。これを解釈した老師も老師だ、時節気合いの妙味がこの一語の中に含まれておるわい。武将の第一の心掛けはこれじゃ。」

この「啐啄」の「啐」は上に子をつけて「子啐」、「啄」は上に母をつけて「母啄」ともいう。「子啐」とは雛鳥が卵の内側から卵の殻をつつくことであり、「母啄」とは母鳥が外から殻をつつくことである。そして「啐」と「啄」とが内外で相応して気合い野宿した瞬間に殻が破れて新しい生命が生まれる。どちらか一方早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。啐啄同時とは、うちの雛と、外の親鳥が、殻を一緒に破ることをいっているのである。

家康は『碧眼録』にある提唱を、この言葉を聞いて体得したのであった。そして満面に笑みを湛えながら、、こういうのである。

「啐啄同時じゃ。早すぎてはいけない。遅すぎてもいけない。熟しきった一瞬の気合いが人間万事を決する」

家康の生涯は、啐啄同時の言葉の通り、いつもと軌を一にするかをうまく考えた生涯ではなかっただろうか。家康は生涯の集大成として大阪城を攻めたが、それはまさに啐啄同時の妙を感じさせるものであった。早すぎれば豊臣恩顧の大名が豊臣家に味方する恐れがあった。遅すぎれば自分が歳を取りすぎる。そういうギリギリの時を測って決断を下した。

しかも、豊臣家を初めから潰すとはいわないで、和泉のあたりで六十万石くらいの大名にならないかと、一応勧めている。それは家康としては無茶な提言ではない。というのは、信長の子供を秀吉は岐阜あたりの一城主にしているからである。秀吉が信長の子孫に対してやったのと同じように、家康が秀吉の子供を一大名にするのは筋の通った話であった。しかし、現実にはそれが聞き入れられず、大阪の陣となったのである。

この提案が拒否されることも予測して、家康は頭の中で、いつつつくかということを絶えず考え、その機会を狙っていた感がある。そして「今なら行ける」というときに仕掛けたのである。

この言葉は、仕事の場でしょっちゅう使う機会があるだろう。とりわけ交渉事においては、早すぎず遅すぎずという絶妙なタイミングが問われるはずである。

 

・・・上記の家康の例は歴史に残る事例ですが、同様に子供の成長を促すことにも応用できます。

自発的に学び出すには、「学び」の時機をみて、子供に促すことは必要です。

待てど暮らせど、自発的に学び出さないということはありません。親御さんの立場では、「その機」を普段から観察していて、ここぞというときに声を掛ける。それに応じて適切に子供さんも動き出す。

・・・啐啄同時は、さまざまな場面で生きる名言です。

posted by at 16:05  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 29-2 出光佐三

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、何故「国語力」を最重要視するのでしょうか。

それは、母国語である日本語で世界各国の文献を翻訳してきた先人達の恩恵を受けることが出来るからです。つまり、自然科学・人文科学のあらゆる分野で必要と思う文献を、先人達が英語であれ、フランス語、スペイン語、ドイツ語等等であれ、相当な数の文献を刻苦勉励して翻訳してくれたからこそ、現在の私達が原語を習得しなくても日本語で読むことが出来る訳です。恐らくその様な文献を母国語で理解できる民族は、日本人だけではないでしょうか。

裏返すと、世界の様々な民族は、母国語で書かれた文献が無いので国際的に共通語である英語を学ばざるを得ない、ということです。

さて、以前 教科書に載らない歴史上の人物 29  出光佐三でご紹介した出光佐三氏の別のエピソードを『国際インテリジェンス機密ファイル』公式ブログから引用します。(https://ameblo.jp/jyoho2040/entry-12454489710.html

◆出光佐三『私の履歴書』を読み解く

※要旨

・私の生まれたところは福岡県宗像郡。
門司との間に城山トンネルがあるが、
そのトンネルを出たところの赤間というところだ。

・私の育った町は特殊な土地柄で、
宗像神社という有名な神社があった。
私はそのご神徳を受けたと考えている。

・そういうことで非常にいい恵みを
受けて育ってきていることは間違いない、
と思っている。

・私はいま神社の復興をやっているが、
神というものを今の人はバカにしている。
私どもにはバカにできない事実がたくさんある。
それは私の会社は災害を一度も被っていない。

・戦時中、あれだけ中国から満州、朝鮮、
台湾、南方とほとんど全域に1000人もの人が
働いていたのに、一つも戦禍を受けていない。

・上海の倉庫の近くに爆弾が落ちたが、
倉庫の外側に落ちて破裂したので
倉庫は助かっている。
そういったことは数え上げれば際限がない。

・理屈はいろいろつくかもしれないが、
社員は神のご加護と信じているんだからしょうがない。
また信じないわけにはいかないだろう。

・古歌に、

「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や護らむ」

とあるが、
私のところでは神様を祀ってあって
私はこれを一応おがむ。

・すると若い社員が入ってきて
どういうわけで神様をおがむのかと
質問する。
それから私は説明してやる。

→「君らは3年か5年大学にいったために
うぬぼれ過ぎている。
そして人間が完成したように思っているが、
人間というものは実は何も力はないのだ」

→「ここの会社に入ったならばまず俺は大学を出た、
卒業したという気持ちと卒業証書を捨てろという」

→「人間社会の人情の複雑な中に飛び込んで、
その中で鍛えて鍛えて鍛え上げていくところに
人間としての偉さが出てくる。
苦労をすればするほど人間は完成に近づくのだ」

→「私は神様をおがむが、
そのときはただ無我の状態に入るのだ。
家庭では神様と仏様を拝むし、
一日に何回か無我無心の状態に入る。
それは非常に尊いことだ」

→「どうぞ金儲けさせてください。
いい思いをさせて下さい、
というようなことを頼んだことはない。
無我無心になる、これだ」

・・・出光佐三氏は、幼少期から宗像大社を崇敬していたそうですが、昭和12(1937)年、宗像大社に参拝に訪れたところ、神社の荒廃した姿を目の当たりにし、心を痛めたそうです。

そこで宗像大社再興のため、出光佐三氏を中心とした宗像神社復興期成会が結成されます。佐三氏自身も初代会長に就任しました。そして再建のために活動していく中で、政府高官から神社史の作成を勧められたのです。

それを受け、佐三氏達は資料の収集・調査・編纂作業に当たりました。戦争によって、一時的に作業は中断されましたが、昭和36(1961)年に上巻、その後下巻と附巻が完成します。

神社史を編纂していく中で、沖ノ島の学術調査が必要となりました。実はそれまで沖ノ島に関することは、あまり良くわかっていなかったそうです。そこで昭和29(1954)年、初めての調査が行われました。

その調査の結果、4~9世紀のものとみられる祭祀の跡と大量の宝物が発見されます。出光佐三氏が、沖ノ島は“神宿る島”であることを明らかにしたと言っても過言ではないようです。なお、この時発掘された宝物は約8万点、そのほとんどが国宝に指定されました。現在では、宗像大社辺津宮境内にある神宝館で見ることができます。

出光佐三氏が宗像大社再建のために費やしたのは、約30年という歳月と数十億という莫大な私財でした。沖ノ島の調査費用の他にも、辺津宮本殿の修復工事や神宝館の建設などにも援助を行ったといいます。

出光佐三氏は宗像大社に多額の寄進を行ったにもかかわらず、境内にはその名前は残されていません。宗像大社側は名前を残すことをお願いしたそうですが、出光佐三氏は「畏れ多い」との理由で辞退されたと言われています。

境内に名前が刻まれた碑などはありませんが、太鼓橋の前にある燈籠は出光佐三が寄進したものです。また、第二宮・第三宮の手前にある手水鉢に刻まれた「洗心」という文字は、佐三の揮毫(きごう)だといいます。

<出光佐三と宗像大社>(https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/history/idemitsu/founder/movie/mov1.html) 当動画は2015年3月22日にRKB毎日放送で放映された番組「出光佐三と宗像大社」を短縮したものです。(RKB毎日放送提供)

先生の英語がわからないー英語嫌いを増やす英語教育?

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、国立・公立・私立学校を問わず御縁のあった学校で、先ずトップを目指す、という目標を塾生に持たせたいと考えています。その為に、自立・自律した学びを如何に早く身につけることが出来るかが最重要です。

さて、コロナ禍の令和2(2020)年度から実施された小学校学習指導要領によって、外国語が5・6年生で教科化され、読む・書く活動や成績評価も必要になりました。

ところが、文科省の目指す英語教育が、実際の学校の教育現場に大混乱を起こしているという報告が各地で出てきているという由々しき事態になっています。

中学2年で習っていた不定詞なども小学校に下ろされ、600〜700語という語彙ごい(新出単語)も学ぶこととされました。小学校段階で英語の成績が二極分化し、英語嫌いになって中学校に入る子どもが増えつつあります。

その結果、しわ寄せを受けるのが中学校です。英語の時間数は週4時間のまま変わらないのに、語彙が従来の1200語程度から1600〜1800語に増やされ、それに小学校の語彙が加算される。そのため、2021年度から中学生が接する語彙は2200〜2500語にまで増やされ、旧課程の約2倍になっています。

江利川春雄・和歌山大学名誉教授の御見解(President Onlineからの引用記事)をご紹介します。(https://president.jp/articles/-/66423

先生の英語がわからない…英語嫌いを増やすだけの「日本人教師に英語での授業を求める」という中学校の大混乱

(前略)

1年生の教科書が小学校で習ったことを前提に語彙も表現も難しすぎて、教えるのが困難。限られた時間の中で、ゆっくりじっくりと繰り返し定着するまで練習させてやる時間がとれず、英語への苦手意識や英語嫌いがどんどん増えている気がする。次から次へと出てくる新出単語(小学校ですでに習っているとして書かれているものも含めて)を読めない、覚えられない生徒たちをどう指導すればいいのか。

(中略)

できる子たちにとっては力がつく(難しい読み取りになれたり、難しいリスニングに挑戦してやりがいを感じたり)ような状況ですが、中学の早い段階でつまずいている子には「さっぱりわからない」と感じ、あきらめてしまうという格差が増大したように思います。

・・・・・各種のデータやグラフは当該サイトで直接見ていただけたらと思います。

小学校への英語科目の導入自体が、子供達の学力低下を促進するのではないか、という懸念が現実のものとなってきました。所謂「ゆとり教育」の導入時の学力低下の問題と形態は異なりますが、結果として学力格差を作るという意味で、「一部の出来る子供達」と「多くの出来ない子供達」の二極化が進んでいくことになります。

結論から言うと、子供を守るのは親であるということは、いつの時代も変わりません。国の学習指導要領に惑わされることなく、如何に我が子に良い教育環境をつくるか、です。

 

posted by at 19:32  | 塾長ブログ, 英語力ブログ

二年半、すでに手遅れになっている

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾で、現在一番幼い塾生は二歳半です。本当にいたいけな男の子ですが、言葉を覚えるのも早く、人の話す内容も理解するのに聡いのです。

ところで、

上智大学名誉教授の故渡辺昇一先生著「人生を創る言葉」(致知出版社)から、古今東西の偉人達が残した名言の中にダーウィンのものがあります。引用して御紹介いたします。

ダーウィンはイギリスの自然科学者。六年にわたる大航海、大旅行により世界各地の動植物を研究。『種の起源』によって進化論を唱えた。(1809〜82)

二年半、すでに手遅れになっている

ダーウィンが『種の起源』を著したのは五十歳のときで、それは進化論の研究を始めてから二十二年目のことであった。その後、名声が高くなるにつれて、彼を訪ねてくる人が次第に多くなってきた。その中に一人の若くて美しい婦人がいた。彼女はその両手に可愛らしい子供を抱いていた。
「立派なお坊ちゃんですね。おいくつになったのですか?」
ダーウィンが聞くと、婦人は答えた。
「ちょうど二歳半でございます」
「ほう、それは楽しみですね」
と愛想をいうと、婦人は嬉しそうにいった、
「是非立派な人物に育てあげたいと思っていますの。それについてご相談にあがったんですが・・・・」
「なんのですか?」
「この子の教育は、いつごろから始めたらいいでしょうか?」
するとダーウィンは微笑みをたたえながらこう答えた。
「奥さん、惜しいことに、あなたはもう二年半、手遅れになってしまいました」

 ダーウィンはここで、子供は母親のお腹の中にいるときから教育すべきだ、と言うことを教えている。今ではもう常識として語られているが、人の脳の相当重要な部分は、非常に早い段階にできてしまうともいわれる。小さいときから施設へ預けた子供の中には、その施設にもよるが、知能の発達が遅れてしまう子がいたりする。それは小さい時に母親との交流が足りなかったからだと言う意見もある。
 ダーウィンもそのことに気づいていたのだろう。だから、子供の教育は胎教の時から始めなくてはならないという話をしたのである。
「いつから教育を始めようか」などと言うのはとんでもなく暢気な話で、ある宗教家にいわせると、それこそ男女の交わりのときに、すでに「いい子供が生まれるように」と思わなくてはいけないという。これは極論であるが、教育を始めるのは早ければ早いほうがいいということになるのだろう。

・・・・・200余年前の、偉大な自然科学者ダーウィンのエピソードですが、クスっと笑いたくなるようなお話です。

いつの時代のお母さんも我が子の教育には熱心です。我が子を人かどの成人にするには、適切で正しい教育を施す必要があります。その為には、世の中の多くの情報の中から正確な情報を集め、我が子に向いた教育方法を決定しなければなりません。

そして、母親が倦まず弛まず、正しい良き方向へ導いていかなければなりません。

posted by at 19:42  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の事実 5 刀伊の入寇

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、常々歴史を学ぶことの大切さを塾生に伝えています。

しかし、学校で学ぶ歴史の教科書は、内容も分量も少ないと思います。

例えば、元寇。文永11年(1274)弘安4年(1281)に来襲したので、文永・弘安の役と言われます。これを歴史の教科書では、あたかも日本への初めての外国の侵略として取り上げています。

ところが、それ以前に何度も日本の国土が侵略されているのです。

これについて以下のメルマガが触れていますので引用してご紹介します。

「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和四年(2022)12月22(木曜日)通巻第7561号

**************************************** 

侵攻され、同胞が拉致されたら、古代の貴族でも戦ったのだ
女真族海賊の「刀伊の入寇」撃退の教訓

****************************************

北朝鮮はじゃかすか日本海へ向けてミサイルを発射している。拉致被害者を返還するどころか、生死の調査さえ拒んで、核武装に余念が無い。この現状をみるにつけ筆者が或る歴史上の事件を思い出すのである。

寛仁三年(1019年)、大事件が起きた。「刀伊の入寇」である。
女真族が主体の強盗海賊集団が壱岐・対馬を襲い、北九州に侵攻した(刀伊は高麗語で夷狄を意味する)。海賊船は五十隻、とくに対馬では島民36人が殺害され、346人が拉致された。

北朝鮮の日本人拉致事件を彷彿させるが、藤原政権はこのとき武力で対抗し反撃に出た。
女真族は十二世紀に「金」を建国した。十七世紀には満洲族として後金を、やがて清王朝の中核を形成する。
七世紀に阿倍比羅夫が退治した佐渡、東北から北海道にかけての粛清(みしはせ)も女真族の流れとされる。

当時、女真族の一部が高麗へ朝貢していた事実がある。女真族は部族的な小国家群をなして十一世紀初めから海賊行為を繰り返していた。このため新羅、高麗も襲われ多くが拉致されていたらしい。日本側に捕らわれた捕虜三名は高麗人だった。藤原実資の『小右記』では海賊のなかに新羅人もいたと記している。

壱岐への襲撃では老人子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い尽くした。国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに賊徒征伐に向かうが、大集団に敵わず玉砕した。

壱岐の島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。
さらに海賊団は筑前国の怡土郡、志麻郡、早良郡を襲った。伊都國として魏志倭人伝にでてくる地域で、白村江の海戦に敗れた折に、太宰府の前面に水城を構築し、博多から伊都にかけては長大な防塁を築いていた。

大宰権帥、藤原隆家と前小監の大蔵種材らが奮戦し、海賊団を撃退した。防備の不意を突かれたかたちになった。海賊団は帰路に寄り道した松浦で返り討ちにあった。松浦海賊集団の嚆矢となった荒武者がいたのだ。

海賊集団はなおも、帰路に高麗沿岸を襲撃した。たびたび女真族に襲われていた経験から待ち構えた高麗水軍が撃退し、拉致された日本人およそ三百名が保護され、日本に返された。

ときの政府、最高権力者は藤原道長である。しかし藤原道長は持病を幾つも抱えて、政務を右大将の実資や息子の頼通らに任せ、すっかり仏教に帰依していた。
廟議は武勲のあった藤原隆家らを賞し、位階をあげた。まさに「栄誉で繋げ菊と刀」の時代だった(ただし後世の栄華物語や大鏡では藤原隆家は賞には預かれず、目を病んでいたため唐人医師の治療を希望し自ら太宰府勤務を望んだとする説がある)。

ともかく侵攻されたら戦う、同胞が拉致されたら武力で取り返す。その原則は貫徹されたと言えるだろう。
この刀伊の入寇を現代日本人の殆どが知らない。

・・・・こういった歴史的な事実を、義務教育期間である中学校までに子供達に一律に教えていかない限り、我が国を自分たち自身の手で守り抜くという気概は身に付きません。2022年2月からロシアがウクライナに侵攻して、未だ解決の糸口が見出せませんが、外国軍に国境を超えて侵入されると国民は悲惨な状況に陥ります。この現実を見ていると、普段から歴史に学び、国際情勢に通じることが出来るようしっかりと学ぶ必要があると考えます。

posted by at 18:18  | 塾長ブログ
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