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失敗の活かし方

東京大学の前期試験の合格発表がありました。女子の合格率が20%を超えたそうです。女子、強し!

小学校・中学校・高校・大学と社会人になるまでに様々な進路選択のための受験の機会がありますが、失敗もあれば成功もあります。本当に大事な場面での失敗をしないためにも、失敗とそこに何を学ぶか、の経験は大事です。

古今東西を問わず、何事か「革新的」なことを成し遂げる人には共通項があります。

それは失敗を恐れないことです。

「ダイソンはなぜ革新的?ジェームス・ダイソンを動かす圧倒的エネルギーの正体」というネットの記事が目に入りましたので、一部引用しつつご紹介します。https://news.yahoo.co.jp/articles/ce76bb7588d817666bd8c41469b73f0452cecc15

1947年、イギリスのノーフォーク州に生まれたダイソン氏は、9歳のときに古典の教師だった父親ががんで亡くなったことをきっかけに、寄宿学校に入れられています。

 父親を亡くしたばかりのダイソン氏にとって家族と離れることはつらいことでしたが、当時のイギリスでは教育がとても重視され、ダイソン氏のような中流家庭の子どもは全寮制の私立学校に入ることが当然のこととされていました。

 当時のダイソン氏は、「自分の歯が立たないことにあえて挑むような頑固で意地っ張りな子どもだった」(『逆風野郎』p34)といいます。

 音楽にはあまり興味がなかったのに学校のオーケストラで「一番難しい楽器」と言われたバスーン(ファゴット)に挑戦したり、自分が足が速いことに気づいて長距離レースに出場したり、ムンク風の絵を描いて美術賞を受賞したりと、さまざまなことに挑戦しています。

 一方で、ケンブリッジ大学の数学者だった祖父を持ち、父親も古典の教師という家に生まれ、将来は古典学者になることを期待されていましたが、ラテン語やギリシャ語が嫌いで学者の道は早々に諦めています。その後も木工に興味を持って製作に励んだり、演劇にも挑みますが、最終的には大好きな美術の道に進むことを決意。1966年にバイアム=ショー美術学校に入学、1年後に王立美術大学(RCA)に進んでいます。

 

・・・サイクロン掃除機や羽根なし扇風機などの独自のスタイリッシュなデザイン家電で支持を集めているイギリスのダイソン社の創業者のジェームズ・ダイソンは、サイクロン掃除機を生み出すまでに5127回もの試作を繰り返したそうです。

 

その熱意と努力は、ダイソンの師匠であるジェレミー・フライから、

「情熱と知性があれば何でもできるし、ある方法でうまくいかなかったら、うまくいくまで他の方法を試すだけ」

という手法を学びます。

「15台目の試作機ができた時には、3人目の子どもが生まれていた。2627台目の試作機の頃、妻と私はまさしくカツカツの生活だった。3727台目の試作機ができた頃、妻は生活費の足しにするため美術教室を開いていた。つらい時期だったが、一つ一つの失敗によって、問題の解決に近づくことができた。苦闘を価値のあるものにしたのは、最終的な試作品ではない。プロセス自体が意味を持っていた。私はただ努力を続けたのだ(『WIRED』2011.4.15)

(中略)

試作を重ね、とうとう「100%の効率を手にした」1982年末には、ダイソン氏は住宅ローンなどを含めて15万ポンド以上の債務を抱えており、「このプロジェクトを成功させるか、破産するしかなかった」(『逆風野郎』p162)というぎりぎりの状態に追い込まれていました。

(中略)

ダイソンに唯一手を差し伸べたのが日本の商社エイペックスです。ダイソンは同社とライセンス契約を結び、1986年3月にサイクロン掃除機「G‐フォース」を日本で製造、発売することができたのです。

 1台20~30万円と高額でしたが、飛ぶように売れたことでダイソン氏はデザイン料約1,500万円と、ライセンス使用料年1,500万円を数年間手にし、その収入などを基に1993年に設立したのがダイソン社です

・・・確かに、従来の電気掃除機は音の大きい割には吸い込む力が不足していたし、吸い込んだゴミを紙パックに貯めて処理する、という手法に筆者も慣らされていた感があります。

その不満を画期的な掃除機作りというエネルギーに変えるという力には驚かされます。

ダイソンの発明哲学と「失敗の活かし方」

1.製図版を眺めていてもアイデアは生まれない
机の前に座っていればアイデアが生まれると思わず、外へ出て色々なものを見よう。そしてアイデアが浮かんだら、それをつかみ、書き留め、うまくいくまでいじくり回そう。

2.日用品は売れる
成熟市場の製品を改良するのは難しいが、成功すれば市場を創出する必要はない。自宅にある製品の気に入らないところをリストアップしてみよう。

3.エジソン流の原則を守る
テストにテストを重ね、ありきたりの手法や他人の意見を取り入れるのでなく、自分の目が捕らえた事実のみを信じること。市場調査は「何が起きたか」を教えてくれるが、「何が起きているか」を教えてはくれない。

4.発明はたえまない変革ありき
どんなこともあらゆる角度、機能から何度もよく考え、改良を重ね、「あらゆる」問題を解決するまで決して満足しないこと。

5.機能が生み出す表現豊かなデザインを
重要なのは内側。外側から考え始めたら、失敗することは目に見えている。

6.スタミナと確信は必須
辛いがこれが真実である。開発に10年?想像できるかい?それから、きわどい交渉、耐乏生活、風前の灯火も?度胸がないとやれないよ。

7.すべてを完全にコントロールする
アイデアを思いついてから、研究開発、テストと試作品の製作、模型作りと設計、金型製造、生産、販売とマーケティング、そして全国の家庭へ。それは最初にビジョンを描いた人が正しく予見していれば、おおかた成功するだろう。

・・・やはり、何より大切なことは「根気強さ」であると述べています。

そして、

「進歩は失敗から学ぶことのみから生まれる。発明への途上では、失敗とは、今後解決されるべき問題に過ぎない」(『WIRED』2011.4.15)

 

・・・「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と、江戸時代後期の米沢藩主上杉鷹山が家臣に教訓として詠み与えた歌を彷彿(ほうふつ)とさせます。

posted by at 15:59  | 塾長ブログ

塾生からのお勧め本

語彙力があり国語の力のある小学校六年生の塾生から、「面白いですよ」と勧められた本があります。

加藤俊徳(医学博士)著「脳の強化書」(アタマがみるみるシャープになる!!)(あさ出版)

加藤俊徳(医学博士)著「脳の強化書」

・・・キャッチ・コピーに曰く

あなたの脳、ちゃんと刺激していますか?

「まだ脳トレをやるような年じゃない」と思っている

考え方が後ろ向きで消極的になりがちだ 

学校の成績は良かったのに、仕事で結果を出せていない 

今までの脳トレではあまり効果が出なかった 

本書はこういう人にこそ読んでほしいのです・・・

更に、

筋肉を鍛えるのと同じように、脳をトレーニングすることはできるのだろうか・・・。

十四歳の時にそんな疑問を持った私は、医学部に進学しました。しかし、大学の医学部では、健康な脳の鍛え方について、期待していた答えは見つかりませんでした。

そこで、卒業後にアメリカに渡った私は、MRI(磁気共鳴画像)という最先端技術を使って脳の研究に取り組んだのです。

・・・とあり、興味を唆られる内容です。

読後、なるほどなあ、と多々感じることがありました。新しい刺激を小学校六年生の塾生に貰いました。

「日々是新(日々是新たなり)」という言葉を改めて噛み締めております。

posted by at 15:21  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

挫折と回復力

米国の2020 年の大統領選挙後の情報をSNSなどで読んでいると、所謂「米国型民主主義」が大きく揺れているようです。

かってW.  A . S. P (ワスプ:White 白人 Anglo-Saxons 英語を国語・公用語とする白人主流派 Protestant 福音主義協会に所属)と呼ばれた米国のエリート層が政治・経済・社会を牽引していると言われたものですが・・・

基本的に、「活発で、利発で、言語能力に優れ、積極的」これが優秀な「良きアメリカ 人」像だと言われています。

gifted(ギフテッド:天賦の才のある、有能な才能がある)と言われる人々が競い合う厳しい世界が米国の大学にはあります。

最低IQ140以上という難関の超英 才優遇エリート教育を受けるための選考試験。

その担当官が挙げた選考判断には、

語彙の豊富さ、頭の回転の速さ、観察力や分 析力の鋭さ、創造性のある返答、快活さ、旺盛な好奇心、発達した批判精 神、自信がある言動、リーダー的素質など、

だそうです。

歴史的に過酷な国から自由を求めて移民してきた社会で、生き抜くためには強烈に自己主張しなければならない。これが国柄であり国民性とも言えます。

それに比較すると、日本の国柄や国民性は、温厚で争いを基本的に望まない。

良し悪しをいうのではありませんが、日本以外の国では厳しい社会を生き抜くことは相当なストレスがあって当然だと見做されています。まして、エリートとして指導性を発揮するなら尚更です。

ところが、日本では欧米式の人権を過剰に小学校の子供達に押し付けているのではないか。

元公立中学校校長川内先生のメルマガから引用して、ご意見を紹介します。

暴走する人権が生む「悪平等」

 欧米から持ち込んだ人権文化は暴走し、学校現場に「悪平等主義」をもたらしました。
「競争=悪」とする考えが蔓延し、子供を競わせること自体を否定するようになりました。

「ゴール手前でみんな仲良く、お手々繋いでゴールイン」の徒競走は以前よく笑い話として話題になりましたが、今もなくなっていません。

 長女が小学生だった時、足が遅いはずの我が子が徒競走で2着になったと喜んでいたら、何のことはない、
長女は最も足の遅いグループで走った、と言うことでしたからがっかりしました。
何であれこれでは親は自分の子がクラスでどれくらい足が速いのか遅いのか、子供に聞かなければ分かりません。

早い話が今の学校は子供に差をつけることを本能的に否定するのです。
足の遅い子供が傷つくから、差別につながるから、と言うのが理由のようです。

 子供の中には「成績は良くないが足の速さなら負けない」という子供がいます。
そういう子供にとっては運動会は数少ない晴れ舞台であり、親に晴れがましい姿を見せることが出来る数少ないチャンスです。
「お手々繋いでゴールイン」はそんな子供からクラスの英雄になれる機会を奪っているとも言えるのです。

言わずもがなですが、競争のないところに成長はありません。
そして子供は他の子供と競争し比べられることによって、自分の優れている点、劣っている点を自覚できるのです。
言い換えれば自分の個性が理解できるのです。

それを言うとある種の先生達は「足の速い子供ならそれでも良いが、成績も悪く足も遅い子供の気持ちはどうなるのか」と屁理屈を言います。

なんと馬鹿なことを・・・子供の能力は幅が広いのです。絵のうまい子、話し上手な子、力の強い子、字の上手な子、友達に好かれる子、正義感の強い子、リーダーシップのある子・・挙げればきりがありません。

子供はそれぞれ光るものを持っています。それをクラスの中で輝かせて見せてやるのが教師というものです。
子供はみんなそれぞれ違っているのに、ひとまとめにして「みんな同じだ」とするのは平等でも何でもなく、個性の否定です。

こう言えば、ある種の先生は「何の取り得もない子はどうするのだ、傷つくではないか」と、またまた屁理屈です。

私はこんな時「それくらいの傷はあってもいい、かまいません」と言います。
これからの長い人生、傷つくことなしには生きられないのですから少々の傷はむしろプラスになるのです。
現代の子供はすぐに挫折し、回復力が弱いと言われますが、これは子供時代に適度な心の傷を受けてこなかったことが原因ではないでしょうか。

 

・・・子を持つ親は、子供の将来を考えれば心身共に「強く、逞しい」人に成長して欲しい、と考えるのではないでしょうか。

小学生までは過保護にされても、中学生以上から大人の世界まで、様々な場面で他の人と競うようになるのが現実だからです。

むしろ、

失敗しても、そのことを前向きに考え、更に挑戦する事の大事さを常々説くことが肝要です。

posted by at 12:22  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 悪者編 2

教科書に載らない歴史上の人物 悪者編の続きです。

平泉澄著「少年日本史」(皇學館大学出版部)P.160〜からの引用でのご紹介。

 

姉の法均、元の名は廣虫(ひろむし)と云う。

弟の清麻呂と共に、早くから孝謙天皇にお仕えして、御信任をいただいて居ました。そして天皇が佛門に入られますと同時に、自分も出家して尼となり、名を法均と改めました。

天平寶字(てんぴょうほうじ)八年に、恵美押勝(えみのおしかつ)の亂があって、死刑に處せられる筈の者が三百七十五人ありました。法均は、固く天皇をお諫め申し上げ、これらの人々の死刑を減じて、流罪や禁固にしました。

その一亂終わった後に、飢(うえ)と病(やまい)とに苦しんで、棄子(すてご)をする者が澤山(たくさん)ありました。法均は、藪の中に棄てられている子供を拾い集めて、自分の養子にして育てました。それが八十三人あったといいます。

そういう人でしたから、重大な問題に就いて神意をうかがう大任を、天皇は法均に命じられたのでしょう。ところが何分女性の身で、九州まで参る事、容易で無く、これを弟に譲ったのです。この姉から見込まれて、代行を命ぜられたのですから、清麻呂の人となりも分かりましょう。

法均と和氣清麻呂(和氣神社HPより)http://wake-jinjya.com

 

宇佐へ向かって出發する時、道鏡から「一寸来る様に」と云われました。行って見ると、「首尾よく大任をはたしたならば、大臣にしてやるぞ」と云いました。その誘惑や強迫をしりぞけて、神勅をありのままに報告し、「我が國は開闢以来君臣の分定まれり、無道の者はこれを排除せよ」と云ったのは、実に偉いと云わねばなりません。道鏡は大いに腹を立て、大隅へ下る清麻呂を、途中で殺させようとしましたが、果たさなかったといいます。

清麻呂は大隅へ流された翌年の八月、稱徳(しょうとく)天皇おかくれになり、光仁(こうにん)天皇御位(みくらい)におつきになりました。天智(てんぢ)天皇の御子(みこ)施基皇子(しきのおうじ)の御子であります。その時には、國を憂うる重臣達が敏活に働いて、道鏡の動きを封じましたが、それには坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が、道鏡の陰謀を知って朝廷へ報告したのが、役に立った様です。

稱徳(しょうとく)天皇がおかくれになってより十七日後には、道鏡は下野國(しもつけのくに:栃木県)の薬師寺に追われ、同時に習宜阿曾麻呂(すきのあそまろ)は島守(しまのかみ)として多褹島(たねがしま)へ使わされました。そして其の翌日には、道鏡の弟であって、大納言を始め、いくつかの顕官要職を兼任していた弓削浄人(ゆげのきよひと)を、その子三人とともに、土佐の國(高知県)ヘ流され、又その翌日には道鏡の陰謀を探知して報告した坂上苅田麻呂に正四位下(しょうしいのげ)を授け、其の十三日後には和氣清麻呂を大隅より、その姉法均を備後より、呼び戻されました。

前(さき)には清寧(せいねい)天皇お隠れの後といい、また武烈天皇おかくれの時といい、皇子ましまさずして、皇室の危機と云って良い時でさえ、國體(こくたい)を乱そうとする者は出なかったのですが、その後、不幸にして蘇我氏の如き、また道鏡の如き、君臣の分をわきまえぬ不埒な者が現れましたのは、いずれも御信任に甘え、身の程を忘れて増長して来たからであります。その蘇我氏を排除せられたのは、てんじ天皇でありましたが、今度道鏡を退けられたのは、天智天皇の御孫(おんまご)光仁天皇でありました。

 

・・・結果として、弓削道鏡の悪巧みは、法均と和氣清麻呂姉弟をはじめ多くの人々の国を思う気持ち、天皇の尊厳を守ろうという気概によって、防ぐことが出来ました。

平泉澄著「少年日本史」は、少年・少女向けとは言え、旧漢字には読み易いようにルビが振られています。また、正しい言葉遣いや敬語の用い方など、現在の教科書では物足らない国語力が補える良書です。

posted by at 18:48  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 悪者編 1

幼児教室・学習塾の羅針塾では、我が国の伝統や歴史をしっかりと学ぶことが、塾生の「志(こころざし)」を醸成(じょうせい:ある気運を次第に作り上げていくこと)し、「学ぶこと」の意義を理解し、刻苦勉励(こっくべんれい:苦労をものともせずに、一所懸命に努力すること)できる人に育てていくと考えます。

宮崎正弘氏の新刊「こう読み直せ!日本の歴史」(WAC)にも取り上げられている和清麻呂(わけのきよまろ)は、二千年以上も継続して存在する日本の国体(国のあり様、国柄)を守った歴史上重要な人物です。

その対極にあるのが、弓削(ゆげ)の道鏡(どうきょう)。

弓削道鏡は、河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶です。孝謙上皇の看病僧として寵愛されました。仏教政治の時流に乗って政界に入った道鏡は、太政大臣禅師、ついで法王の位を授けられて、ついに皇位を望むに至りました。

その後の顛末(てんまつ)は、平泉澄著「少年日本史」(皇學館大学出版部)P.158〜からの引用でご紹介します。

神護景雲(じんごけいうん)三年(西暦769)の正月になると、道鏡は、大臣を始め、朝廷の高官の年賀の挨拶を受けています。時に左大臣は藤原永手(ふじわらのながて)、右大臣は吉備真備(きびのまきび)ですが、それらの大臣豪族、頭を下げて、年頭のご挨拶に行ったのです。

さあ、ここまで来ると、道鏡は間も無く天皇の位を狙うのでは無いか、という疑が出て来ました。

そうと見て、早手廻しにご機嫌を取って置こうとしたのが、九州の太宰府で神事を擔當(たんとう)していた習宜阿曾麻呂(すきのあそまろ)で、「八幡の神のお告げがありました。道教が天皇の位につけば、天下太平との事です。」と言い出しました。

流石に天皇は御心配になり、御信任の深い尼の法均(ほうきん)をやって、八幡の神のお告げ、本当か、どうか確かめたいと思召(おぼしめ)されましたが、夫人の身で九州まで行く事、容易で無い為、その弟の和氣清麻呂(わけのきよまろ)を代わりに派遣せられました。

清麻呂は、この時、近衛将監(このえのしょうげん)でした。将監は、長官・次官・判官・主典の四等官(律令制で諸官司の幹部)のうち、判官に當りますから、かりに云えば、近衛歩兵中尉とか大尉とか云うあたりでしょう。(中略)

清麻呂は、勅命を奉じ、姉に代わって九州へ下向しました。嗚呼(ああ)是の時、日本国の運命は、三十七歳、近衛将監、和氣清麻呂、是の人只ひとりの雙肩(そうけん)にかかったのです。清麻呂は宇佐(大分県)へ参り、八幡の神前にぬかずいて、謹んで神意をうかがいました。

忽然(こつぜん)として、神が出現せられました。仰せられるには、

我國は、開闢(かいびゃく)以来、君臣の分、定まっているのだ。しかるに道鏡、なんたる無道(ぶどう)であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝(なんじ)、帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統を以て継承されよ。無道の者は、早く取り除くがよい。

清麻呂は奈良へ帰り、ありのままに上奏しました。

怒ったのは弓削道鏡、清麻呂を因幡(鳥取県)へ追放しようとしましたが、また處分(しょぶん)を一層きびしく變更(へんこう)して、清麻呂を大隅(鹿児島県)へ、姉の法均を備後(広島県)へ流しました。

→続く

 

・・・旧拾円紙幣には、清麻呂公が印刷されていました。

日本銀行 旧拾圓兌換券

posted by at 14:32  | 塾長ブログ
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